ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市王喜は町中と畑集落の鏝絵

2021年01月14日 | 山口県下関市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         王喜(おうき)は周防灘に注ぐ木屋川最下流域のに位置する。1665(慶長5)年から3年か
                けて海岸部の干拓を行った際、安全祈願のため龍神を祭る祠を作った。完成年に大干ばつ
        に見舞われ、大明神として新築した。王喜は「竜王歓喜」の意味から取られ、新田名を王
        喜新田と改める。
         1889(明治22)年の町村制施行により、宇津井村と松屋村が合併した際、村名も「竜
        王歓喜」から王喜村としたが、昭和の大合併で下関市に編入される。(歩行約6.5㎞)

        
         JR小月駅(10:13)からサンデン交通宇部中央行き5分、宇津井バス停で下車する。進行
        方向の横断歩道で県道下関美祢線を横断する。

        
         萩藩は開作地耕作のため、53戸の農民をこの地に移住させたので新町と呼ばれたが、
        木屋川の氾濫で町は消滅したとされる。

        
         白崎神社縁起によると、1668(寛文8)年この地の開拓を進めるために龍神を祀ったこ 
        とが創始で、本殿は白崎にあり、ここは御旅所(御休殿)である。

        
         木屋川方向へ進むと山陽本線が並行する。

        
         1901(明治34)年5月山陽鉄道が厚狭駅~馬関駅(現下関駅)間まで延伸されたが、敷
        設された側の架道橋内部は煉瓦造となっている。

        
         橋がなかった頃は、ここから対岸へは船で往来していたとされる。今は河川改修工事で
        往時の渡場風情は失われたとのこと。

        
         3本の石柱は、1885(明治18)年道路法が施行されて、同年、宇津井渡場に豊厚橋(木
        橋)が架けられた。
         しかし、老朽化と時代の要請になじまず、1927(昭和2)年上流に新たな橋が完成する。
        橋脚だった石柱は後世に語り継ぐ記憶遺産としてこの地に建てられた。

        
         途中の山陽本線、旧国道は橋桁下を潜るようになっている。

        
         川があるので水害慰霊碑と思ったら違っていた。碑は村境の豊厚橋で万感の思いで故郷
        を振り返り、再び故郷に帰還できなかった英霊に「帰りなさいふるさとでゆっくりお休み
        ください」との念いで建立されたとある。

        
         木屋川ラブリバーパーク沿いにある遊歩道で、桜並木が約500mも続く。ラブリバー
        (ラブリバー制度)とは国土交通省の事業で、ボランティア活動で
堤防の草刈り等を行って
        いる住民に対し、河川敷を住民の植栽や花壇としての利用を開放するというものである。
         1993(平成5)年に整備された木屋川ラブリバーパークは、テニスコートなどスポーツ
        広場に利用されている。

        
         車の往来を避けるため新幹線下の農道を歩く。(左前方の集落が畑集落)

        
         昔はこの道まで木屋川の河口が広がり、ここは津として使われ、その際に船の艫綱(とも
          づな)
を繋ぐ石の柱「立石」が立っていた。
         その後、萩藩が開作を推し進め広々とした水田になったが、船着場は無くなり、無用と
        なった立石は埋もれてしまった。残っているこの立石は、この場所から南東30m、現在
        の道路下に埋もれていた上半分をここに移したと案内されている。

        
         宇津井八幡宮入口には八幡宮と天満宮の鳥居が重ねて建てられている。
        
        
         八幡宮の由緒によると、平安期の860(貞観)年京都岩清水八幡宮より勧請。八幡宮の
        東側には天満宮と王垂乳(おおたらし)神社が合祀された社がある。

        
        
         宇津井八幡宮を引き返して旧道を吉田方面へ向かうと、「畑の鏝絵」が見られる。会館
        先の左手に「鶴」と思われる鏝絵。(S邸)

        
        
         先へ進むと左手に狭い道があり、上がって行くと右手の民家に「鶴と波」の鏝絵。

        
        
        
        
 さらに奥へ進むと白塀のある家に2つの鏝絵。(ここもS邸)

        
        
         県道左手の民家にある「松」の鏝絵。

        
         畑バス停先の右手にある鏝絵。もっと数はあると思われるが、5軒だけ探し当てること
        
ができた。
         JR小月駅(10:10)から東行庵経由のバスを利用して、畑バス停で下車してラブリバー
        パーク、宇津井バス停から小月駅に戻るのも一考であった。(バス便は少ない)

        
         引き返して新幹線下から南へ進む。

        
         この石垣上の水田が実祭寺跡とされるが、地下(じげ)上申によると、実祭寺村に実祭寺が
        あったが、元禄年中(1688-1704)頃に萩へ寺号とご本尊共に取り上げられたと案内されてい
        る。

        
         道路左手に鳥居があり、石段を上がると王垂乳神社跡。天保風土記によると、応神天皇
        の乳母の墓と伝えるが、昔から乳神様として母乳の出が悪い母の信仰が厚かったとされる。
        (現在は宇津井八幡宮境内に天満宮と合祀されている)

        
         「ほたるの里清水川」の標柱を見て、川に沿うと水神社がある。創建時期は不明だが江
        戸期に大庄屋伯野家が建立。農耕の豊穣と同家の副業であった酒造業の守護神として祀っ
        たとのこと。

        
         ここも引き返して小学校への道に入る。

        
         下関市のシンボルマークとなっている「ふく」と下関市の頭文字の「し」、造形化した
        「波」がデザインされたマンホール蓋。

        
         王喜本町は石州瓦住宅と近代的な住宅が混在する地域である。

        
         この付近は「宇津井の皿山」といわれ、1886(明治元)年に豊田製陶所が家庭用品を作
        ったことに始まる。1930(昭和5)年本工場が移転すると、一門である川原正一が引き継
        いで川原製陶所を起こし、硫酸瓶の製造を行うがポリ容器の出現で需要は減少。川原は1
        955(昭和30)年、豊田も1962(昭和37)年閉鎖する。

        
         王喜小学校裏を巡るが薬師堂を見落とす。

        
         1912(明治45)年この地で生まれた林伊佐緒は、大学入学まで過ごす。明治大学中に
        「旅の宿」で歌手デビューする。
         1936(昭和11)年キングレコードに専属入社。以来55年余り歌手・作曲家として1
        500曲を歌唱・作曲するなど活躍するが、1995(平成7)年に逝去。

        
         王喜小学校脇を下る。

        
         中原町公民館傍に地蔵尊と庚申塚。

        
         王喜小学校校門前に林伊佐緒顕彰碑と校歌碑がある。

        
         王喜支所前バス停(13:52)からJR小月駅に戻る。


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