ぶらっと散歩

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山陽小野田市の西高泊に周防灘干拓遺跡が現存

2021年01月24日 | 山口県山陽小野田市

        
                           この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         高泊は有帆川右岸に位置し、南は瀬戸内海に臨む。1889(明治22)年町村制施行によ
        り、有帆、西高泊、東高泊、千崎、高畑の各村が合併する。村名は各村の一字(帆・高・千)
        をとって高千帆村となる。(歩行約6.2㎞)

        
         JR小野田駅(10:06)から船鉄バス本山岬行き5分、市民病院入口バス停で下車するが、
        病院までは約500mの距離にある。

        
        
         関ケ原の戦い後、毛利氏は防長2州に押し込められたため、藩財政の立て直しが急務と
        なり、石高を増やすため積極的に土地造成(干拓・開作)が行われる。高泊開作もその1つ
        で、166(寛文8)年船木の代官・楊井三之允の尽力によって完成する。
         この水田に必要な用水を確保するため、江汐湖が造られ主水路として沖中川水路橋が設
        けられた。当初は石を削りつなぎ合わせたものだったが、水漏れのためコンクリートで作
        り直されている。

        
         水路は途中で長田屋川と江川に分かれ、高泊開作の西半分の水田を潤し、浜五挺唐樋の
        所にある遊水地へ入る。(右手の建物は山陽小野田市民病院)

        
         江汐公園のつり橋とミツバツツジがデザインされた旧小野田市のマンホール蓋。

        
         小野田橋から有帆川に沿って、浜の当嶋八幡宮まで直線道である。横土手と呼ばれる約
        1.3㎞の道は、江戸初期の新田開発時に造られた土手である。

                 
         亀甲模様に「山陽小野田市」の文字に市章が記されたマンホール。

        
         同じ道に台形の同心模様と中央に市章のマンホール。

        
         1917(大正6)年横土手の中ほどに開作250年を記念して建てられた汐止記念碑があ
        る。この場所は高泊開作築立に際し、最初に設けられた配水樋門の場所である。
         1668(寛文8)年7月横土手を築き排水門が完成した矢先、一夜の大暴風で樋門は流さ
        れ土手は崩壊する。のちに当嶋八幡宮下に岩盤を利用した樋門が設けられた。

        
         現在の高千帆樋門。

        
         現代は横土手の海側も埋め立てられ、土手に沿って民家や事業所の敷地として利用され
        ている。(正面に当嶋八幡宮)

        
         当嶋八幡宮の参道下にある切抜唐樋は、招き戸が5挺あることから「高泊開作浜5挺唐
        樋」と呼ばれている。(国指定史跡)

        
         自然の干満を利用して開閉する仕組みで、満ち潮時には潮の圧力により招き戸は自動的
        に閉まり、引き潮時には遊水池に溜まった水の圧力によって自然に排水できるようになっ
        ている。

        
         潮が引けば広大な干潟となり、その境界線に土手を築き排水門が設けられたが、当時の
        優れた土木技術を伝える貴重な史跡とされる。これにより高泊開作が築造され、今では官
        公庁、小野田駅、工場群などが立地する土地へと変貌を遂げている。

        
         当嶋八幡宮は有帆川河口の浜木屋港にある当嶋に、平安期の880(元慶4)年宇佐神宮か
        ら勧請されたと伝え、旧高泊村及び旧千崎村西部の鎮守神となる。
         もともと南側が参道であったが、開作築造の後に参道の石段を東に造って正面とし、社
               殿を現在の方向に変更したとされる。

        
         境内から見る樋門と横土手。

        
         南参道を下って右折すると三差路。バス路線に沿って進むと高泊神社の看板が見え、そ
        の先に勘場屋敷への案内がある。

        
        
         1668(寛文8)年開作造成時の臨時代官所(勘場)で、船木代官・楊井三之充が起居した
        役宅とされる。
         その後、開作が完成し代官が引き揚げる時、造成に協力した庄屋・目(のち藩名により作
        花姓)氏が屋敷を拝領する。

        
         施錠されて内部を拝見することはできないが、代官が起居した表8畳の間は、「上段の
        間」と呼ばれる一段高い造りになっているとか。

        
         高泊神社は、萩藩2代藩主・毛利綱広が高泊開作築造に当たって、安芸国厳島神社より
        勧請する。毛利家より社殿などが寄進され、厳島龍王社として高泊開作総鎮守の神社とな
        る。その後、水田が開かれて耕作者が増えると、五穀豊穣を願って京都伏見稲荷社からも
        勧請されて祀られた。

        
         開作が藩直営事業であったことから、本殿は萩で木組みが行われ船で用材が運ばれたと
        され、神紋には毛利家の家紋である一文字三星が使用されている。1917(大正6)年高泊
        神社と改号し、現在に至っている。

        
         珍しい子連れ狛犬だが、狛犬ファンにとって必見のようだ。

        
         境内には高泊開作開墾碑(1872年)と楊井三之允の頌徳碑(1924年)がある。頌徳
        碑の碑文には「‥業半ばに及び風浪至り堤防決潰、計画水泡に帰す‥再び風雨に遭い土砂
        崩壊、海水氾濫なす所を知らず‥寝食を廃して工を督す‥」とある。

        
         須賀神社前から見る高泊神社。当時、高泊湾内唯一の岩島に本殿がある。

        
         高泊神社西の山寄りに須賀神社と恵比須社がある。須賀神社の創建は不明だが、古くは
        疫神社と呼ばれていたが、1871(明治4)年に改称したとされる。
         昔より風邪回復の神として崇敬され、湯茶をもって参拝する風習が残っているようだ。
        須賀神社の右隣に恵比須社が並んでいる。

        
         周辺には新しい住宅が点在する。

        
         高畑・高泊循環線の郷バス停(土日祝は5便)地点から北上するが、その前に西福寺へ寄
        り道をする。

        
         西福寺(浄土宗)の寺伝によると、南北朝期の1355年創建とされ、本堂は1784(天
           明4)
年に建立されたもので中間の柱をできるだけ省略し虹梁(こうりょう)を多用している。
         このため、内部の建具はなく空間を形作っている堂宇となっているようだが、拝見する
        ことができなかった。

        
         案山子の頭に稲穂を加えた鳥がとまり、外周に稲穂がデザインされた集落排水用マンホ
        
ール蓋。 

        
         左手に高泊小学校を見ながら信号機のある交差点を直進する。(横断してきた道を見返
        る)

        
         やがて左手に烏帽子岩神社が見えてくる。

        
         烏帽子岩神社の祭神は神功皇后とその子・応神天皇とされる。伝説によると、皇后が三
        韓出兵の時に海上の風波が高く、軍船は高泊湾に繋泊して波の鎮まるのを待った。
         早朝になって風波はますます激しくなり、皇后は自ら岩上に立って風鎮の祈願をされた
        が、その時にかぶっていた烏帽子を海浜の岩に掛けたという。
         このことからこの地を烏帽子岩といい、里人は祠を建てて神功皇后社と敬称する。19
        44(昭和19)年現神社名とする。

        
         境内から見る小野田の町並み。

        
         烏帽子岩神社の北にある法蓮寺(浄土真宗)は、大内氏の家臣であった藤村政俊が、大内
        義隆自刃後に得度して現美祢市伊佐に草庵を結ぶ。
         その後、旧楠町吉部に移り、一宇建立して本願寺から法蓮寺の寺号を免許されるが、火
        災で焼失する。1679(延宝7)年藩命により現在地に移り、開作新住民の檀那寺となった。

        
         本堂の軒先に懸かっている梵鐘は、開作住民の要請もあって時を告げる鐘であると同時
        に、災害の警鐘として鋳造された。太平洋戦争中の金属回収令に際し、いざという時の警
        鐘であることを理由に、やっとのことで供出を免れたという。
         この鐘は開作工事の折に使い残した古銅14貫百匁(約53㎏)は地金に供与されたとさ
        れる。

        
         国道190号を横断して県道に入る。

        
         1668(寛文8)年楊井三之允によって高泊開作が築造され、数年後には水の神である高
        須弁財天が創建される。1871(明治4)年厳島神社に改称された。

        
         境内には「来嶋又兵衛誕生地碑」がある。又兵衛は1817(文化14)年喜多村家の次男
        として生まれ、少年期はこの地で過ごす。20歳で来嶋家の聟(むこ)養子となるが、186
        4(元治元)年禁門の変で戦死し、48年の生涯を閉じた。
         喜多村家は神社の北150mにあったが、宅地跡は田んぼとなっている。同家は187
        2(明治5)年現宇部市の平原に転出するが、政府の旧士族の授産事業に応募し、一家を挙げ
        て北海道に移住したが、その後の消息は不明とされる。
 

        
         県道を東進してJR小野田駅に戻る。