この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
福井下は旧福栄村の南西にあって四方を山に囲まれ,大井川の支流である福井川の流域
に位置する。
萩から白坂、福井下を経て、津和野に至る石州街道白坂筋があった。(歩行約6㎞)
萩バスセンター(10:23)から防長バス吉部行き20分、堀割バス停で下車する。
県道11号線(萩篠生線)を萩方向へ引き返す。
石州瓦の民家が並ぶ。
戸数にして15軒ほどが県道に沿う。
西宗集落より福井下の中心部を見ながら県道10号線(山口福栄須佐線)を横断する。
福井川に架かる希望(のぞみ)橋から桜並木に入ると、鳥たちにとってさくらんぼの実が食
べ頃のようだ。
福栄小中学校をぐるりと巡ると校門前に出る。(見るべきものなし)
山裾に大きな家が並ぶ東宗集落。
長閑な田園風景が広がる。(右上に願行寺)
県道に出ると願行寺まで600m、立木薬師如来像がある旨の案内がされている。最初
は緩やかな道だったが、寺前はしんどい坂道である。(参道入口を見つけられず)
願行寺(浄土宗)は、安土桃山期の1592(文禄元)年僧願誉が黒川村の手水川上流の山中
に仏堂を建て、1610(慶長15)年に福井村にあった安全庵を移して願行寺と改めた。1
682(天和2)年大破したので現在地に移建したとされる。
1797(寛政9)年12月翌年の2月まで、木喰五行上人が当寺に逗留する。滞在中に彫
った3体の像が現存するが、1体は本堂前にある榧(かや)の大木に薬師如来立像が刻まれて
いる。
県道に戻って幅の狭い歩道を中心部へ向かうと、1928(昭和3)年創業で木桶仕込みの
醤油を製造されているフジノ醤油屋さん。昔ながらの佇まいと醤油瓶と思われる瓶が積み
重ねてある。
石州街道白坂筋の福井市。
1947(昭和22)年創業の鍛冶屋さんは、「くわ・かま・柄」の看板が残る。建物は昔、
木賃宿だったとか。
鍛冶工場の向かいにある重厚な民家は無住のようだ。
少し趣の違う建物がある。江戸期にはこの付近に高札場があり、脇に田畑春定札、目代
(もくだい)所・駅があったとされる。
福井市には「梅の友」という銘柄の岡酒場があったが、1938(昭和13)年に当主の岡
十郎没後、未亡人のムツさんの手に移ったが企業整備に遭い廃業となる。現在は白神酒店
となっている。
福井市は毎月末に市が立ち、人や物資が集散する在郷町として発展したが、昭和の中頃
から衰退の途をたどる。
金石山八幡宮参道下にあるF商店さん。
金石山八幡宮は福井下の北、鎌浦台のほぼ北麓に鎮座する。平安期の1014(長和3)年
石清水八幡宮より勧請されたという。
八幡宮参道下にあるたばこ店。
石仏に手を合わせて県道を西進する。
福井下と旧川上村の境にある扇子落滝(おうぎおとしのたき)と魚2匹がデザインされた旧福
栄村のマンホール。
「徳蔵寺観音堂」の案内を見て左折すると、途中に防獣フェンスがあって路傍に忘れら
れた石仏が迎えてくれる。
徳蔵院の開山などは不明だそうだが、平安期の794(延暦13)年に一宇が建立されたと
いう。
その後、寺が大破したため正保年中(1644-1648)に四面2間2尺の一宇が建立されるが、
1869(明治2)年の廃仏毀釈により同地区内の禅昌院に合併される。(観音堂として現存)
正面に体育館を見て萩市総合事務所前に出る。1889(明治22)年の町村制施行により
福井上村、福井下村、黒川村が合併して福川村となるが、昭和の大合併で紫福村と合併し
て福栄村、平成の大合併で萩市の大字となる。
道の駅ハピネスふくえで昼食を済ませて、萩市福栄総合事務所前バス停から5分、吉田
入口バス停で下車する。
次のバスまで1時間以上あるが、バス路線上にある国指定重要文化財の森田家住宅を見
ておきたいと立ち寄る。
18世紀中期頃の農家住宅で、森田家は慶安年間(1648-1652)に黒川村一帯を開墾し、
その功で庄屋を務めたという。
主屋、塀重門、貫木門、舟板塀、蔵などが残されており、当時の庄屋屋敷を伺い知るこ
とができる。
萩藩主が鷹狩りの折、当家が本陣や休息所に使われ、「殿様御成間」が残されていると
いう。
貫木門の先から私有地のため車庫前でバス待ちしていると、当家に顔なじみの植木屋さ
んが来訪する。声掛けをしていただいて主屋まで案内していただく。
主屋は桁行8間(14.4m)の大きさで、土間の隣には式台付きの玄関を備え、玄関と庭
は板塀で仕切られて塀重門が設けてある。
吉田松陰の養母・久満さんの実家でもあり、時折この家に訪れたという。
長い滞在時間となったが、萩バスセンター行きのバスに乗車して萩に戻る。