ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市須々万はこの地方の中心地だった町 

2020年05月08日 | 山口県周南市

                
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         須々万(すすま)は標高200mほどの高原性の小盆地を中心とする地域で、盆地の中央部
                を北西から南東へ旧国道が走る。地名の由来について、風土注進案はわからないとするが、
        ススマのマは「間、処」であろうが、ススは稲積のことのようで、稲積に似た山があった
        ことから地名になったと考えられるという説がある。(歩行約5.8㎞) 


           
         当初はJR徳山駅(11:20)長穂行き防長バスで約22分、桜久保バス停で下車する予定
        であったが、昨今のコロナ事情により車使用とする。スーパーを過ごすと飛龍八幡宮の参
        道。


           
         ミヤマビャクシンの木が覆う二の鳥居。

           
         飛龍八幡宮は須々万(すすま)八幡宮ともいい、社伝によると、南北朝期の頃に周防三宮の
        仁壁神社(山口市)の神主に、男山(石清水)八幡宮の祭神が須々万の地に降臨したいと信託
        があり、1380(康暦2)年に社殿を建立したのが始まりとされる。


           
         拝殿に龍の山車。

                  
         境内南側に聳える大玉スギについて、須々万の守護神を祀る社地の決定をめぐって、新
        庄と本庄の住人が譲らなかったため、2ヶ所にスギを植え、よく成長し
た方を社殿地にす
        ることとし、大きく成長した新庄の現在地に社殿を建てたと言
い伝えられている。遠くか
        ら見ると枝張りの姿が玉の形に見えることからその名
がある。(案内板より)

          
         須々万南部に須々万バイパス(国道375号)が、2012(平成24)年に開通したため市
        街地の交通量は減少したようだ。


           
         須々万川(小辻川)に架かる橋は、古くは花岡や野上(現・徳山中心地)の南部と都濃北部
        に通ずる交通の分岐点に位置し、社寺参詣や市が開かれるなど人々の生
活と文化の交流の
        橋であったとされる。


           
         小辻橋の袂にある道標は、周防北道の要衝であった当時の繁栄ぶりを示すただ一つの証
        とのこと。道標正面には「西 徳山道」右側面に「南 花岡道」と刻ま
れている。

           
         小辻橋の案内板を読んでいると、高齢女性が「この道が古道で、木炭バスなどが走り賑
        やかな通りだった」と、嫁いで来た頃の話をしてくれる。地域のことが
聞けるのも散策の
        楽しみの1つでもある。


           
         旧国道に合わす所に一体の地蔵尊。

           
         須々万の地は、江戸期には萩藩領で上納米倉庫が置かれた。1875(明治8)
年に番屋を
        修築して煤間(すすま)小学が移転する。


           
         徳山百樹とされるメタセコイア(和名はイチイヒノキ、アケボノスギ)

           
         旧街道は道路経路案内板の手前を左に入る。

           
         青岸渡寺より三十三観音を勧請して十五夜行事を始めたという。月を鑑賞するだけでな
        く収穫を感謝し、月への感謝をする行事(旧暦8月15日)が今日も受け継がれている
光明
        寺。残念ながら山門が閉ざされて境内に入ることができず。


           
         石州瓦と漆喰壁が調和する古民家。

           
         その向かい側に「須々万市 開市の碑」がある。1680(延宝8)年百姓有志の願い出に
        より、1682(天和2)年4の日に三斎市が開設されたが、当時
の家数は60軒程度であっ
        た。祠は龍王大明神を祀る。


           
         須々万市に残る商家。

           
         「何事にも打ち勝つ開運の神」、商売繁昌、家内安全の守り神として崇敬される宮地嶽
        神社が祀られている。


           
         宮地嶽神社参道の向かい側に鎮座する地蔵尊。
 
           
         この先で街道と分かれる。

           
         山裾から見る須々万の町並み。

           
         室町後期の1555(弘治元)年10月1日安芸の厳島の戦いにおいて陶晴賢を破った毛利
        元就は、破竹の勢いで周防の国に入る。
1557(弘治3)年2月29日沼城への総攻撃が開
        始されたが、城は沼で三方を囲ま
れていたため沼に編み竹を投げ入れ、この上に筵を敷い
        て押し渡り、3月3日に
落城する。城主であった山崎伊豆守興盛父子は自刃し、ここ通玄
        庵に埋葬された。墓碑は
後の村人が建立したとされる。
    
        

         徳山市の市章入りマンホール。

           
         保福寺前には「沼城主の菩提寺」とあり、参道には「沼城主山崎一族」と刻まれた燈籠、
        煤間小学開校の地を示す石柱がある。


           
         1873(明治6)年に保禅寺と福聚寺が合併して保福寺となる。保禅寺の創建年代は不明
        で、当初は兼元にあって林慶庵と称していたが、その後、当地に移り
保禅寺と改める。

           
         寺背後の城跡に上がると、クワハウス周南温泉などが建てられて城の遺構は残っていな
        いが、周囲には石仏がずらりと並んでいる。室町期に築かれたとされる
が築城者は定かで
        ないとのこと。


           
         城主墓と城址碑。

           
         寺から徳山高校徳山北分校前を西進すると、山手側に唐破風の向拝を持つ徳善寺がある。

           
           
         徳善寺より南進すると神具岩という巨岩があるが、この岩に龍の形をした光が飛来した
        とされ、この岩に宿る神霊を遷座させて祀ったのが飛龍八幡宮と伝えら
れている。

           
         長閑な中心部への道。

           
         当初は高樋口バス停より徳山駅へ戻る予定であった。