ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩市椿にはレトロな駅舎と大照院

2020年05月23日 | 山口県萩市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         椿は北部に日本海へ注ぐ阿武川とその支流の橋本川左岸の沖積地、南部は橋本川に注ぎ
        込む大屋川流域に立地する。地名の由来は、昔、この地に毎夜光を放つ椿の
大木があった
        ことによるという。大椿山歓喜寺(現大照院)の縁起にちなんだとい
う。
         また、一説には津牧と称していたが椿になったとも伝える。(歩行約9㎞)

           
         1925(大正14)年開業したJR萩駅は、一部補強改修されているが開業当時の姿を残
        している。


           
         駅前から市街地に向けて萩往還道を北上する。

           
         金谷神社は城下の南出入口にあたる地で、かっては傍らに大木戸が設けられていた。

           
         社伝によれば祭神は菅原道真で、鎌倉期の1186(文治2)年に長門守護職佐々木高綱が、
        太
宰府天満宮から現在地よりやや東方の奥金谷に勧請する。1720(享保5)年現在地へ遷
        座したという。


           
         明治の神仏分離令により別当だった正燈院が、1870(明治3)年に廃寺となり、鐘楼・
        庫裡は解体され、仁王門は隋神門に変わり本堂などは他寺に移され
た。

           
         椿町バス停手前を右折して、2つ目の路地を左折する。

           
         川上弥一(弥市)は8月8日の政変で帰国し、滝弥太郎と奇兵隊総督に任じられるが、失
        地回復を企て沢宣嘉を擁して脱走し、但馬国(現兵庫県)の生野で挙兵するが幕府追討軍

        敗れ自決する。門前に旧宅地碑がある。

    
           
         市民体育館より大屋川に沿う。

           
         県道64号線(萩三隅線)と山陰本線大照院踏切を横断すると、前方に山門が見えてくる。

           
         大照院の山門は三間一戸の重層門で、かなり変な門でじっと眺めていると、上段に目が
        あって鼻と髭、アーチ型の通路が口で顔のように見えてくる。


           
         古くは観音寺と称していたが、南北朝期の1334(建武元)年に歓喜寺と改められ、天
        宗から臨済宗に改宗される。

         その後の変遷はつまびやかでないが、戦乱の世を経て荒れ果てる。1651(慶安4)年に
        毛利秀就が没し、その菩提所とするため大照院と改号して伽藍が新造
される。

           
         1747(延亨4)年火災に遭い、1759(寛延3)年に再興されたのが現在の本堂である。
        方丈風の一重入母屋造、屋根は錣(しころ)屋根となっている。


           
         池の正面にある書院は濡れ縁を廻している。

           
         池には「コウホネ(河骨)」が、水中から花茎を伸ばして5cmほどの黄色い花を咲かせて
        いる。


           
         初代毛利秀就をはじめとする7藩主と正室およびその一族の墓があり、秀就に殉死した
        墓もある。


           
         大照院には初代秀就と2代からは偶数代藩主と正室、東光寺(椿東)には奇数藩主と正室
        の墓がある。


           
         萩往還道傍にある国登録有形文化財の鹿背(かせ)隧道、涙松と椿、桜がデザインされた椿
        南農業集落用マンホール。


           
         青海集落付近から見る椿南一帯。

           
         次の集落に入ると八幡宮の鳥居。

           
         茶臼山の北東麓に鎮座する椿八幡宮の社伝によると、鎌倉期の1188(文治4)鶴岡八
        幡宮より川上村に勧請されたのが始まりとされ、約70年後に現在地へ
移したとされる。

           
         境内から遠くに萩のシンボル指月山。

           
         鳥居の先が馬場跡とされる。

           
         左手の水路に逆サイフォン式水路があるとのことだったが、見つけることができず。

           
         県道を横断して中国電力の鉄塔を目指すと、萩往還道(萩から防府への街道)に合わす。

           
         大屋川の手前に地元では萩の乱供養碑と伝えられている石碑がある。この一帯は前原一
        誠が、1876(明治9)年不平士族とともに起こした萩の乱の激戦
地だった。

           
         大屋川に沿う。

           
         観音橋の道標「左 山口・小郡道 右 河内・木間道」とあり。

           
         大屋の町筋を見て南明寺橋まで引き返す。

           
         南明寺橋で萩往還道と分かれて下木部集落に入る。

           
         夏みかんの花。

           
         やや左カーブする右手に大屋窯があり、和泉寺(わせんじ)跡と小倉四賢墓所への道には登
        り窯がある。


           
         小倉四賢(尚斉、鹿門、南皋、遜斉)墓所は、元和泉寺の地にあったとされ、今は小高い
        夏み
かん畑の
西側に位置する。四賢は藩校明倫館の教育に尽力する。

           
         南明寺は南明寺山の北側中腹に位置し、寺伝によると毛利氏萩入城のとき、
山口の氷上
        にある興隆寺
の脇坊であった仏乗坊の源康法印という僧が招かれる、1606(慶長11)
        住職が任じられ、天台宗寺院として中興した
とされる。
         参道入口にあるイトザクラは、早く咲いてすぐに散ってしまうことから見に行くタイミ
        ングが難しいそうだ。


           
         「賓頭盧(びんずる)」とは釈迦の弟子で、特別の神通力を持ち合わせ、その神通力を世の
        人々に自由自在に誇示して見せたので、釈迦の怒りを受ける。「この
世にとどまって仏法
        を守り、人間の病を癒し、多くの衆生を救え」と、今に至っ
ても人々を救う仏さまである。
         自分の病める箇所と賓頭盧像の同じ箇所を撫でることによって、回復を祈る撫仏として
        信仰されている。


           
         鋳造方は、1860(万延元)年郡司千左衛門の指導によって開設された。この地は鉄砲鍛
        冶だった荒地清蔵が萩藩から賜わったもので、ここでゲベール銃を製造
した。現在は遺構
        が残されていないが、沖原バス停前に碑がある。


           
         国道を西進すると山陰本線に接する付近で右折する。1879(明治12)年の町村編制法
        によりこの一帯は椿郷西分村となったが、1910(明治43)年椿
村に改称し、1923(大
          正12)
年萩町と合併する。


           
         この先、人のみが横断できる踏切があり、国道をくぐるとJR萩駅である