ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市小野は湖の片隅に山間集落 

2020年05月05日 | 山口県宇部市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         小野は厚東川と太田川が合流する山間地域で、地内に小野湖がある。平安期の800(延
           暦19)
年頃は斧村といい、小野という名になったのは室町期から後のことである。(歩行
        約5.5㎞)
 

        
         当初はJR嘉川駅前から公共交通機関を利用する予定であったが、コロナ感染防止の立
        場から車使用とする。


        
         市民センター内にある碑については詳細不明。

        
         センター隣の民家は商家風造り。

        
         交差点にある志賀文明堂は食料品だったようだ。

        
         阿武瀬への道入口に「毛利秀就公生誕地2㎞」の看板あり。(右手はスーパー大和小野
        店)

        
        
         商店、割烹旅館などが往時の姿を見せる。

        
         町村制施行まで5ヶ村に分かれていたが、1889(明治22)年に合併して厚狭郡小野村
        となる。1954(昭和29)年に宇部市小野となるが、それまでこの地に村役場が置かれた。

        
         旧村役場付近が中心地だったようだ。

        
         小野湖側に新道ができたため通りはひっそりとしている。

        
         中央に厚東川ダムと蛍、周囲に市花・サルビアがモチーフされた集落排水用マンホール
        蓋。

        
         高台にある宝林寺(真宗)本堂と山門。

        
         寺を過ごすと中心部から離れて民家は点在する。

        
         下小野バス停から約540mで国道490号線に合わす。

        
         下小野橋付近で釣りを楽しむ人たち。

        
         厚東川ダムは、1950(昭和25)年県営多目的ダムとして完成し、宇部小野田地域の飲
        料水や工業用水などに利用されている。(総貯水量2378.8万㎥)

        
         誕生したダム湖は小野湖と呼ばれ、地区民の方々は美しい湖であり続けられるようにと、
        水源の涵養に努力されている。記念碑の後には山王権現社(広矛神社)の鳥居だけが残され
        ている。

        
         水産大学校小野臨湖実験実習場の魚類飼育施設。

        
         周回して中心部に戻る。

        
         緩やかな峠を越えるが、人間界はコロナウイルスで右往左往しているが、自然界は何も
        なかったかのように季節になると花を咲かせる。(藤の花)

        
         東阿武瀬集落に入る。

        
         周(かな)姫(後の二の丸殿)は初め杉元宣の妻であったが、夫は殺されて実家は痛ましい
        制裁を受けたため、不本意ながらも毛利輝元の側室となって広島城二の丸に住むことにな
        った。
         懐妊すると正室である南の大方の嫉妬と確執の怯え、広島城に住むことができず、通説
        では広島城で秀就を生んだとされるが、輝元は戝間就久に託し、船で厚東川を上がり館に
        連れ帰る。1591(天正19)年毛利秀就はこの地で生まれたという。

        
         財満氏の氏神「阿武瀬天満宮」も裏山から移設し、ゴルフ場建設時撤去された鳥居も新
        たに建設されている。 

        
         毛利氏が中国地方を領していた頃、輝元の家臣・戝間就久は小野村を給領地とし、この
        地に居を構えた。墓はゴルフ場内にあったとされ、初代の忠久は福岡県の立花城攻めのと
        きに矢玉を受けて戦死する。2代目が就久・3代目元久の墓が移設されている。

        
         関ケ原の戦い後、毛利家は周防長門の2ヶ国に転封となり萩城を本拠としたが、二の丸
        殿は正室が入城を拒んだため、現山口市糸米にあった覚皇寺に移る。

        
         
この燈籠は二の丸殿が病に倒れ、1604(慶長9)年8月1日32歳の若さで他界する。
        山口市古熊の西方寺が菩提寺とされ、法名(清泰院殿栄誉周慶大姉)から周慶寺と改められ
        る。その墓の一角を灯していた燈籠は、1874(明治7)年に毛利家墓所(山口市香山公園)
        の裏に移されたためお役御免となり移設された。周慶寺は明治期に廃寺となり、その跡地
        は浄土宗の善生寺となり現在に至っている。

        
        
         この先は私有地で不在のため許可を得ることができず、他の史跡を見ることができなか
        った。(以降の写真は2018年撮影分)
         案内に沿って山道を150mほど登ると、緊急時に二人を隠すとされた穴蔵が存在する。

        
         幼い頃の秀就は、この台石の上から馬の鞍に乗せてもらい、乗馬を楽しんでいたと考え
        られる。その後、この石は縄や草履などを作る時の「藁打ち台」用いられる。(説明版より)

        
         この池は出産に用いられて「産湯の池」とされ、裏山に4~50mの横穴が掘ってあり、
        湧水が池に注いでいる。

        
        敷地内に秀就の御胞衣を祀るとされる若宮神社。