ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩市の古萩に萩藩の中・下級武家屋敷と町家

2020年05月22日 | 山口県萩市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである、(承認番号 令元情複 第546号)
         古萩は萩市街地の北東部に位置し、住宅、商店、旅館などが混在する地域である。地名
        の
由来は、毛利氏が萩を城地と定めた時、当地のみに町並みが少々あり萩村と呼ばれてい
        
たのだが、のちに城域全体を萩と呼ばれるようになったため、もとの萩村の地を古萩と
        いうようになったと伝える。(歩行約4.6㎞)
 

           
         JR新山口駅(9:40)から防長バス東萩駅行き65分、萩バスセンター下車する。裏路地
        を利用して萩市役所を目指す。

           
         1849(嘉永2)年新明倫館聖廟の前門として建てられた前門(観徳門)で、木造瓦棒銅板
        葺きで左右に唐破
風を備えた平唐門である。本願寺萩別院に移築されて客殿門となってい
        たが、1980(昭和55)年不審火により本堂を焼失して再建されなかったため、2年後に
        旧明倫小学校敷地内へ移された


           
         剣槍稽古場・他国修業者引請剣槍術場(有備館)は、旧明倫館内の剣術場と槍術場を合体
        させて当地に移転された。藩士の練武のほか、他国からの剣槍術の修業者との試合場でも
        あり、1862(文久2)年1月萩を訪れた土佐の坂本龍馬も、ここで剣術の試合をしたとい
        われている。
         有備館の名は大正年間に命名され、江戸桜田の藩邸内にあった文武講習所の名にちなむ
        という。 

           
         建物の北半分は板の間の剣術場、南半分は土間の槍術場とし、各西側を藩主の上覧場(家
        
老などの検分含む)とした。

           
         萩藩校明倫館は、1719(享保4)年堀内追廻し筋に創建されたが、1849(嘉永2)
        に現在地へ移転する。約5万㎡の敷地(旧館の15倍)に学舎や武芸修練場、練兵場などが
        あった。

           
         最初の明倫小学校校舎は、現在の旧明倫小学校の西側にあって現在の校舎地はグランド
        だった。1935(昭和10)年グランドがあった地に旧校舎が建設され、2014(平成26)
        年に旧萩商業高校跡地に移転するまで現役の木造校舎として使用
された。現在は萩の観光
                起点「萩・明倫学舎」として活用されている。 


           
         校舎前に明倫館碑2基が建立されているが、左が旧明倫館について書かれ、1741(元
        文6)年に建立されたので「元文碑」と呼ばれる。
右は現在地に建て替えられた時のことが
        書かれ、1849(嘉永2)年に建立
されたので「嘉永重建碑」と呼ばれる。

           
         1848(弘化5)年新明倫館の正門として建てられたもので、明倫館の南側に位置するた
        め南門と名付けられ、藩主が聖廟を拝する時のみ開かれた。明治以降に本願寺萩別院の表
        門として移築されたが、2004(平成16)年元の位置に戻される。


           
         新堀川に架かる慶安橋を渡れば萩城下町である。

           
         江戸屋横町。

           
         円政寺は大内氏の祈願所として、今の山口市円政寺町に創建されたが、大内氏滅亡後、
        毛利氏が萩へ築城すると塩屋町に移建する。1870(明治3)年この
地にあった法光院と合
        併して現在に至る。


           
         境内には金比羅社が祀られ、神仏習合を色濃く残している。幕末頃の住職は林利助(の
        ちの伊藤博文)の母方の親戚で、小僧として預けられて読み書きを習った
という。

           
         拝殿の欄間に赤い大きな天狗の面が飾られているが、高杉晋作が物怖じしないように見
        せ付けられたと云われている。


           
         本堂前には、1858(安政5)年製作の大燈籠があり、他にも石仏などが所狭しと置かれ
        ている。


           
         青木周弼(しゅうすけ)は大坂や江戸、長崎で蘭学を学び藩医となり、藩校明倫館に西洋医
        学所を設けて後進を育成する。全国に名声が広がると訪れる者が多くな
ったため、宅は1
        859(安政6)年に新築される。
弟の研蔵も医者だったが海難事故で没し、研蔵の養子であ
        る周蔵は外務大臣を務め
た。

           
         外堀の東側が旧城下町、碁盤の目状に区画された町筋に、中・下級の武家屋敷や町家が
        軒を連ねる。白壁と黒い板塀のコントラストは、落ち着いた佇まいを見
せてくれる。

           
         木戸孝允(桂小五郎)は西郷、大久保とともに「維新の三傑」と云われた。和田昌景の長
        男に生まれ、8歳で大組士・桂家の養子になるが、当主が病没したため
実家に引き取られ
        て育つ。


           
         藩医だった実父の屋敷で、生まれてから江戸に出るまで約20年間をここで過ごした。

           
         吉田松陰の門下生となり、藩の要職に就き国事に奔走する。1863(文久3)年藩命によ
        り「木戸」と改め、薩長同盟を結び明治維新に尽力するが、西南の役の途中
で病没する。
        (享年45歳) 


           
         参勤交代時に藩主が通った御成道に出る。

           
         菊屋家は毛利輝元の萩入国に従い山口から萩に移り、萩の町造りに尽力する。萩藩の御
        用商人となり屋敷を拝領し、長大な敷地に白壁の主屋やなまこ壁の土蔵
が並ぶ。

           
         菊ヶ浜が近くにあったことから菊屋としたとか。

           
         萩に現存する町家では最古とされる建物である。江戸から来る幕府役人の宿として本陣
        にもなった。


           
           
         菊屋家の向かい側に呉服商・酒造業を営んでいた久保田家がある。建物は江戸後期とさ
        れ、主屋は屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、
建築年代の古い菊
        屋家より立ちが高くなっている。


           
         堂々とした町家が向かい合う。 

           
         菊屋家住宅の角を左折すると、「日本の道百選」とされる菊屋横町。

           
         菊屋家の白壁となまこ壁が連なる。

           
         その先に凹んだ一角が田中義一誕生地である。萩藩士の三男として生まれたが、3歳の
        時に平安古に移り住む。後に陸軍大学校を経て、陸軍大臣、1927(昭
和2)年には内閣総
        理大臣となる。


           
         少し行った右手に高杉晋作誕生地がある。1839(天保10)年萩藩士の長男として生ま
        れ、倒幕運動の急先鋒として活躍した。松下村塾で学び久坂玄瑞と
ともに松門の双璧と称
        されたが、倒幕運動の道半ばで肺結核のため、27歳7ヶ月
という若さでこの世を去る。

           
         高杉家は藩庁移転に伴い、萩を引き払い山口の茶臼山に居を構える。もとは500坪近
        くあった屋敷地
は、半分以下に縮小されており、当時の屋敷地の南東部が旧宅跡として公
        開されている。 


           
         夏みかんと土塀がデザインされたマンホール蓋。 

           
         御成道に面して豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、横町にはそれぞ
        れの名が残されている。呉服商伊勢屋があった通りで、この道は観光客
用の店舗もなく、
        何気のない通りだが土塀が昔そのままに残っている。


           
         菊屋家東門。樹木が庭園は春と秋に特別公開されている。

           
         1840(天保11)年萩藩の医学校が、萩八丁の南園内に設けられたが、その後に変遷を
        重ね、名も好生館、好生堂と変わる。1861(文久元)年碑のある地(現在の玉木病院)に新
        築移転したが、1866(慶応2)年藩の拠点が山
口に移ると共に移った。
         明治政府は、1874(明治7)年医制を布告すると、山口県は山口好生堂を山口県立山
        口医院とし、さらに同年三田尻(現防府市)に移して山口県立華浦病院へと引き継がれる。 


           
         地元では法華寺(ほっけいじ)と呼ぶ。寺伝によると、西国教化のため広島に下って毛利輝
        元の帰依を受け、萩築城の際に萩に一宇を建立した。
         1658(明暦4)年渡辺宣の父親が山村松庵と囲碁を打って争い、負傷後死亡したため、
        宣が父親の17回忌に当寺の門前で仇討ちを果たす。これにより西向きの本堂は縁起が悪
        いと寺地を広め南面に再建されたが、1903(明治36)年本堂と庫裡を全焼するが、その
        後再建される。

           
         7代藩主・重就、8代藩主・冶親の侍医を務めた栗山孝庵旧宅跡。日本で2番目のなる
        男性の腑分けを行い、翌年の1759(宝暦9)年には女性の腑分けも行
う。

           
         金子重輔は紫福村で生まれたが、父がこの地に移り染物屋を営む。他家を継いで足軽と
        なり、江戸藩邸の雑役を勤め、吉田松陰と師弟を結ぶ。1854(安政
元)年に松陰と共にア
        メリカ密航を企てるが失敗して岩倉獄で病死する。(享年25歳) 


           
         町人地に残る土塀。

           
         菅原道真を祭神とする多越(たお)神社の創建は明らかでないが、もともと山口市円政寺町
        にあった円政寺の鎮守だったが、毛利輝元萩入城後、円政寺とともに現
在地に移築された。 

           
           
         長寿寺(浄土宗)は毛利輝元が萩入城に際して、山口の長寿寺住職が当地に一宇を建立し、
        隠居所としたことに始まるという。


           
         海蔵寺(曹洞宗)の寺伝によれば、応永年間(1394-1428)島根県温泉津に創建されて海蔵寺
        と称した。のち毛利氏の萩移封に際し、1604(慶長9)年椿東の
安養寺(現広厳寺)に仮堂
        を設け、1614年現在地へ移転したとする。


           
         1874(明治7)年に山門と蔵を残して焼失したが、1875年に藩校明倫館の聖廟を買
        収・移築して本堂とする。山門も豪華な造りで風格がある。


           
         ○一酒造は大正の初め頃より酒造りを始められたが、萩の町には煙突らしきものが見ら
        れず、高さ20mほどだが煉瓦造煙突が目を引く。


           
         常念寺(浄土宗)は京都・聚楽第の裏門だったという表門を構える寺。毛利輝元が萩城築
        城時に宿舎とした寺で、豊臣秀吉から門を与えられ伏見の毛利邸に移し、
その後、163
        3(寛永10)年に寺へ寄進したと伝わる。


           
         彫りは左甚五郎作と地元の人が教えてくれる。(事実不詳)
         また、当寺近くにある野山獄の囚人が斬罪に処せられる時は必ず本堂入口に座し、住職
      
  から十念を授けられた後、刑場に引き立てられるのが慣例となっていたとか。

           
         常念寺から南下すると、御成道の一部である田町商店街。

           
         アーケードを過ごすと萩往還道(三田尻街道)の起点で、ここに唐樋札場(復元)があった
        とされる。通りを山口方向へ進むと萩バスセンターがある。