ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市玖珂町の玖珂 <旧山陽道の宿場町>

2020年05月12日 | 山口県岩国市

                      
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         島田川の支流笹見川が形成した扇状地上に広がった町で、町内を旧山陽道、国道、岩徳
        線が東西に走っている。古くから山陽道の宿駅・市場町として発達する。(ルート約4.5
        ㎞)
 

           
         公共交通機関の場合、JR徳山駅(11:13)から岩徳線岩国駅行き約50分、JR玖珂駅
        下車。当駅は1934(昭和9)年12月に開業したが、駅舎は当時のままのようだ。
        車の場合、観光用駐車場がないため、玖珂こどもの館駐車場を利用する以外に手立てが
        ない。 

           
         駅前から左手の道を進むと岩徳線架道橋下に出る。(右手の道は旧山陽道) 

           
         岩隈八幡宮参道の門柱と常夜燈。旧山陽道からの参道をJR岩徳線が寸断してしまった
        ようだ。

           
         参道は国道2号によっても寸断されている。

           
         往古は熊毛宮と呼ばれていたが、奈良期の714年、宇佐神宮より勧請し岩熊八幡宮と
        改称し、さらに現在の岩隈八幡宮に改めたとされる。
         もとは下祖生の岩隈山(旧周東町祖生)にあったが、1691(元禄4)年に岩国領主の吉
        川広紀が当宮を参詣し、社の荒廃を見て現在地へ遷座させる。


           
         架道橋まで戻って旧山陽道を南下すると、右手に枝道がある。(歩いて来た道)

          
         1855(安政2)年に田坂市良右衛門は代官の悪政を改めるように進言して幽閉された
        が、屈せず、村民は岩国領家老・吉田菜女に訴えて4年2ヶ月の刑が解かれた。無罪とな
        って積年の弊害も取り除かれたとされるが、1869(明治2)年40歳で死去する。(自然
        石に義民田坂市良右衛門頌徳碑とある)

           
         右折する角が市頭で、左手は周防大島への道。

           
         この地より本郷(本町)に入る。本郷は玖珂三市(本郷、新町、阿山)の1つで月2回市が
        開かれていた。

           
         中央に玖珂町時代の町章、周りに町の花だったツツジがデザインされたマンホール。

           
         市頭から西へ50mほどの所に蓮光寺があるが、毛利の家臣・千代延喜代輔の開基で1
        661(寛文元)年創建とされる。

           
         蓮光寺すぐ西北に祥雲寺(曹洞宗)がある。もとは玖珂町谷津にあったが室町後期の15
        55年、毛利元就に攻められた鞍掛合戦で焼失する。後に野口の地に再興されたが、17
        01(元禄14)年に現在地に移転された。昭和期に鐘楼門、本堂が老朽化し解体され、薬
        師堂が建立される。

           
         境内には江戸期の1717年、1743年、1750年と連続して大火に遭ったことか
        ら、防火の神である静岡県の秋葉神社から分霊を勧請して祀ったとされる。

           
         同寺は鞍掛城主・杉家の菩提寺であったので、鞍掛合戦で戦死した杉隆泰・父宗珊(そう
          さん)
の墓がある。

           
         JR玖珂駅前交差点。狭い旧街道は車が行き交う。

           
         本町下辺りに明覚寺(浄土真宗)があり、その一角に市恵比寿がある。

           
         脇本陣を務めた建林家とされる。

           
         岩国市玖珂総合支所(旧玖珂町役場)付近には代官所、御茶屋などがあった。

           
         旧町役場前から柳井への道が南へ走っているが、1889(明治22)年に設けられた新
        道である。荷馬車で朝早く出て、柳井の問屋から衣類、食料、荒物などの生活物資を持ち
        帰った。

           
         左折する道は柳井までの新道路ができる前の柳井小路で、小路の西側に玖珂こども館。
        (この先が新町)

           
         大福寺(浄土真宗)は鞍掛城主・杉隆泰の家老であった児玉佐渡守が出家して、亦了(えき
          りょう)
と改め建立したとされる。

           
         境内にある自然石碑の正面には「柳門四世栗陰軒貞六翁之塔九十四歳」右脇に「花にく
        らし日に あかして楽しみや 心のこらずきよい雪の世」とある。側面には嘉永4年(185
        1)辛亥12月15日とあり、門人が建立したもので「柳門」とは狂歌の結社である。

           
         古風な文房具屋さんだったが、売却の案内が出ている。

           
         新町下にある浄土宗の浄光寺で、玖の玉(黒岩の玉)、珂の玉(瑠璃潔白)を磨いたされ、
        町名の由来ともなっている。

           
         新町の西端である水無川の袂にある高村酒場。以前は杉玉があったが取り除かれている。

           
         新町と阿山の境が水無川で、長さ10mほどの橋が渡されていたとのこと。

           
         水無川を渡り阿山市に入ると、T家西側の玄関先に共同井戸がある。

           
         阿山市の市恵比寿は萬久寺入口にある。

           
         萬久寺(浄土真宗)は鞍掛城主・杉家の家老であった宇野筑後守正常の次子・西念が創設
        する。

           
         吉川元光(吉川家一族)の篆額による岩国藩士・江木俊敬の奉公碑。高杉晋作挙兵の際、
        藩命で萩藩の内情や萩藩主の本意と徳山藩の動向を探り、役目を終えて帰途の際に間諜と
        間違えられて重傷を負い、萬久寺で自刃する。死後、書状により徳山藩の動向が明らかに
        なり、岩国藩の態度決定に寄与したという。

           
         宇野泰信上人(萬久寺住職であった人)は、明治期に塾を開いて子弟の教育に尽くした。
        「学んで厭(いと)わず 教えて倦(う)まず ああこの人 これ徳の人なり」の銘あり。

           
         
田中家は江戸期には豪商として、岩国藩の専売品であった玖珂(岩国)ちぢみ、茶等を販
        売、明治期には呉服、金物、油などを販売した。建物には格子戸などがあったようだが改
        修されている。

           
         桝永家は明治期には米穀商を営む。建物は本郷村から1899(明治32)年に移築され
        たもので、江戸末期か明治初期の建物である。

           
         醤油醸造元には「ミフヂ醤油」と書かれた古風な看板が歴史を感じさせる。

           
         改修された呉服屋さん。

           
         菅原神社は本郷の大庄屋で杉氏の末裔である岡氏が、防府天満宮より勧請し邸内に祀っ
        ていたが、その後、岩隈八幡宮の境内を経て、1880(明治13)年11月に現在地へ遷
        座する。

           
         菅原神社を過ごすと、街道を隔てて北側(進行方向右手)が旧玖珂町千束、南側が旧周東
        町千束と町境となっている。藩政時代は北側が岩国領で南側が萩藩領であったことによる。

           
         ここで散策を終えてバスを期待したが乗車できるバスはなく、駅まで歩く羽目になる。

           
         旧山陽道と岩徳線の間の路地裏歩きをしてJR玖珂駅に戻る。(駅通り)