ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩の小畑に世界遺産の反射炉と造船所跡

2020年05月28日 | 山口県萩市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         小畑(おばた)は椿東エリア内にあり、萩中心部の北に位置し、海と山に挟まれた細長い域
        内を国道191号が海岸線と並行する。(歩行約4.8㎞)

           
         萩バスセンターから萩まあーるバス東廻りに乗車し、松陰神社前バス停で下車する。

           
         石州街道(仏坂道)の起点は、唐樋の札場(萩バスセンター近く)で松本橋を渡り、松陰神
        社
歴史館の裏で月見川を横切る。三差路で山代街道と分かれて北へ向かっている。(右手に
        明安寺)

           
         その先に椿東(ちんとう)小学校のグランドがあり、この辺りを無田ヶ原という。「御国廻
        行程記」によれば、深山で田もないことからその名が付いたようだ。

           
         今は真っ直ぐな市道が街道の横に新設され、近代的な建物が建ち並び、往時の状況を推
        察することはできない。街道は小学校の外れから左の路地に入る。

           
         車幅ぎりぎりの道に住宅の軒と生垣が迫る。

           
         松本川からの市道に合わすと、そのまま横断して次の路地へ入る。県道と合わす手前に
        地蔵尊があり、台石には三界萬霊、右面に無田ヶ原□□、左面に寛政元己酉□8月14日
        と刻字されている。(□は読めず)
         1872(明治5)年に合併して廃寺となった旧長慶寺の参道入口にあたる場所のようだ。

           
         市道に戻って北に進むと、まつお歯科医院の向い側に小路がある。

           
         城越山の麓を抜けると広い道に合わし、正面に市営住宅を見ると左折する。

           
         街道筋かどうかはっきりしないが、変則四差路は左手の道に入る。
 
           
         左手の石井家は吉見氏家来の末裔で、江戸期は庄屋を務めていたという。 

           
         その先100mほど進むと、白山神社の参道入口がある。

           
         白山神社は、平安期の815(弘仁6)
年に藤原冬嗣家臣の別府義澄・小木広員が加賀の白
        山から
勧請したと伝える。大内氏時代には大内氏の祈祷所であったという。

           
         さらに街道を進むと庄屋川に架かった橋前に出る。ここで街道と分かれて河口へ向かう。

           
         庄屋川河口付近で山陰本線下を潜る。

           
         国道191号を奈古方面へ進むと反射炉の案内がある。

           
         庄屋川の北、上ノ原の丘陵地に萩反射炉がある。萩藩の大砲は青銅で着弾距離が短く、
        実用に適していなかったため、1856(安政3)年海防の必要から当地に反射炉を設ける。

           
         1855(安政2)年萩藩は、反射炉の操業に成功していた佐賀藩に藩士(山田宇右衛門ら)
        を派遣し、鉄製大砲の鋳造法伝授を申し入れるが、拒絶されて反射炉のスケッチのみが許
        される。1856(安政3)年の一時期に試験操業されたという記録のみで、試作的に造
られ
        たものとされる。

           
         この遺構は煙突にあたる部分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部煉瓦積み)は、中
        央部から上部は2つに分かれている。

           
         技術面、費用面で本式の反射炉は築造されなかったが、自力で西洋技術を取り入れよう
        とした遺構である。「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されている。

           
         反射炉から見る小畑の町並み。正面の森が中ノ台で、日本海に接する所に恵美須ヶ鼻造
        船所があった。

           
           
         右手の旧道(中小畑)に入ると、新しい民家が主流を占める。

           
         旧道の中間にある松龍院(浄土宗)は、1639(寛永16)年小畑浦の宇京という漁夫が霊
        夢により、十一面観音を海中で発見して祀ったところ、多くの漁業者が信仰するようにな
        った。1684(貞亨元)年に観音堂が建立されたが、歳月を経て荒廃し妙雲院の弟子が再建
        する。現在は漁協管理しているとか。 

           
         境内に「鱗蟲魚貝諸霊魂塔」が建立されている。

           
         旧道の長さ約380m。 

           
         国道を横断して海岸線に出ると萩漁港。南を鶴江台、北を中ノ台という台地状の半島を
        抱えた天然の良港である。

           
         1853(嘉永6)年幕府はペリー来航により、1609(慶長14)年以来続いた諸藩大船建
        造の禁を解く。萩藩は伊豆でロシアのスクーナーを建造した大工高橋伝蔵を萩に招へいし、
        1856(安政3)年4月この地に軍艦造船所を築造し、12月には最初の洋式軍艦「丙辰丸」
        を進水させる。(造船所跡は発掘調査中)

           
           
         1937(昭和12)年に山口県が刊行した「萩港修築工事誌」によれば、造船所建設時に
        石造防波堤が築造されたと記述がある。 
         一方、当時の萩藩造船所建設計画絵図面に、防波堤や護岸などの施設が既存のもののよ
        うに描かれているとか。

          
         全長51.3mもあり当時としては大規模な防波堤で、本体は柔型構造で船繋を有する
        子持波止である。
         ともあれ、江戸期以来の典型的な防波堤の特徴を今に伝えていることは確かである。

           
         造船所跡横にある恵比須神社。

           
           
         時代は既に蒸気船が主流となり、藩は蒸気船購入することに方針転換して恵美須ヶ鼻造
        船所は役目を終えたが、新しい時代への橋渡しをした史跡の1つでもある。
         時代が挑戦と決断、素早い実行を求めたのは確かではあるが、否応なしに現在のトップ
        と比較してしまうのは酷だろうか。そんな思いを馳せながら漁港前バス停から萩バスセン
        ターに戻る。


この記事についてブログを書く
« 萩市福井下に木喰上人の立木... | トップ | 萩市玉江は橋本川左岸に位置... »