ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市東須恵の広い域内は丘陵地 

2021年11月27日 | 山口県宇部市

                          
                          この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         東須恵は宇部市と山陽小野田市の市境をなす丘陵が、瀬戸内海に向けて突出して本山半
        島を形成している。今では干拓されて半島とは思えないが、その東側に位置し、厚東川右
        岸にあって南北に長く、ほぼ中央部分に日本一の私道である宇部興産専用道路が敷設され
        ている。域内は広いため南側の小野田線、国道周辺部をぐるりと一周してみる。(歩行約
        6.4㎞)

        
         JR妻崎駅は、1929(昭和4)年宇部電気鉄道の沖ノ山旧鉱駅(のち宇部港駅)ー新沖山
        駅(のち廃駅)開通と同時に開業した駅で、後に小野田線扱いの駅となる。

        
         原ふれあいセンターの入口には、「原尋常小学校跡」を示す標柱がある。1901(明治
          34)年に厚南小学校分教場として開校し、1908(明治41)年厚南尋常小学校原分教場と
        改称する。 

        
         ドラえもんが立つ横断歩道で山手側へ向かう。

        
         辻に地蔵尊。

        
         その反対側に庚申塚。碑には文政7申歳(1824)立とある。

        
         庚申塚からは下り道。

        
        
         下り坂に2つのマンホール蓋。上段は常盤公園で放し飼いにされていたモモイロペリカ
                ン「カッタくん」に子供がぶら下がり、周囲は市花「サルビア」がデザインされている。
        下段は常磐公園の「花菖蒲」と周囲は市花「サルビア」、市木「くすのき」である。

               
         坂を下ると国道190号に合わし、地下道で反対側に移動する。

        
         丘陵地のため坂道が多い。

        
         大きな屋根を持つ人家。

        
         坂道を登り終えると庚申塚があるが、刻まれた文字は読めず。

        
                 岡田屋公会堂先の広場が岡田屋百手(ももて)祭の祭地である。室町期の1468(応仁2)
        年頃、この地に疫病が流行して多くの死者が出たため、松江八幡・八大龍王・大歳の三神
        に祈願し、鬼に見立てた的に矢を射たところ疫病が治まったという。以来、感謝と厄除け、
        五穀豊穣を祈念して神事が行われているとのこと。

        
         国道190号と高天原浄水場を過ごし、丘陵地を越えるとJR長門長沢駅前に出る。妻
        崎駅同様に宇部電気鉄道の沖ノ山旧鉱駅ー新沖山間開通と同時に設置された。

        
         水神社の創建年代は不明だそうだが、原地区の農業水利のため、小野田の堂島神社より
        勧請して祀ったという伝承が残されている。

        
         住宅地を抜けると梅田川沿いに出る。左岸は1860(万延元)年に開作された妻崎開作。

        
         厚南南部はそのほとんどが開作地帯のため、土地の守り神または水の守り神として、猿
        田彦大神や庚申塚が建立された。

        
         かっては漁船が出入りし、上流には魚市場があったとされる。

        
        
         庚申塚には注連縄もあって大切に祀られている。

        
         梅田川妻崎開作の樋門があった所で、1979(昭和54)年下流に新しい水門が作られて
        廃止された。

        
         幕末の萩藩は産業振興のため、撫育方を設置して石炭の量産に努めた。1868(明治元)
        年には石炭局が設置され、妻崎には庄屋の屋敷に石炭会所(支所)が置かれ,積み出し及び
        販売を管理した。

        
         梅田川から寺への坂道。

        
         西宝寺(真宗)の開基は俗性・縄田八左衛門といい、室町期の1475(文明7)年に当寺を
        建立したという。 

        
         原小学校玄関前に「南部懇話会之碑」が立っている。原地区は厚南村南端にあって農・
        漁業をしていたが、生活は苦しく文化にも恵まれなかった。地元の有志がこの現状を憂い、
        南部懇話会を結成し、地域の発展には教育の普及が急務であるとし、1901(明治34)
        用地や資金を出し合って厚南小学校原分教場を創立したと記す。

        
        
         土地勘がないため道を踏み外し、いくつかの史跡を見落とすことになる。妻崎駅に戻る
        と、人家に咲く皇帝ひまわりや皇帝ダリアを眺めて、15時48分の小野田駅行きに乗車
        する。 


宇部市の藤曲は保育園から大学まである地 

2021年11月27日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         藤山(ふじやま)は厚東川河口部に近い左岸および宇部丘陵に位置する。1889(明治22)
        年町村制施行により、藤曲と中山の2ヶ村の区域をもって発足し、村名はそれぞれから1
        字をとって藤山村とする。
         藤曲の地名は、昔、藤が「く」の字に曲がっていたことに由来する。(歩行約6.4㎞)

        
         JR居能駅は、1929(昭和4)年宇部電気鉄道の駅として開業。現在は宇部線と小野田
        線が乗り入れ、相対式2面2線を有する。

        
         1687(貞亨4)年阿川毛利氏が居能開作築立の守護神として八大竜王を祀ったことから
        竜神社といい、通称は水神社といわれた。しかし萩藩の御根帳入りの神社でなかったため、
        1842(天保13)年淫祠として社殿が解体される。
         その旧地に、1855(安政2)年周防国生見村(現岩国市美和町)から大山祇神を勧請、そ
        の際に中山村にあった八大竜王も合祀して三島神社とした。


        
         
神社に向かって左奥に「藤曲浦網代碑」がある。江戸期から藤曲浦は妻崎から床波まで
        網代権(漁業権)を持ち、浦石といって税も納めていた。1887(明治20)年頃から新川や
        岬辺りで漁をする人達が出始め、紛争が起こるようになる。
         裁判所が仲介して、網代権を取り決めたことを記念して、1897(明治30)年に建立さ
        れた。

        
         神社から東へ細い道を辿ると、ホームセンター・ナフコ裏に出る。1914(大正3)年宇
        部~新川間に宇部鉄道が敷設され、藤山駅(山口銀行藤山支店付近)が開設される。その後、
        同駅はナフコ付近に移転し、藤曲駅と改称するが痕跡は残されていない。

        
         伏谷食料品店先に「香川裁縫塾跡」の碑がある。1903(明治36)年香川昌子は岡田家
        を借りて裁縫塾を創設。その後、香川裁縫女学校、香川実科女学校、香川高等女学校など
        を経て、宇部フロンティア大学付属香川高等学校へと名称変更する。

        
         1872(明治5)年郵便制度が発足し、1874(明治7)年7月国広宅を郵便局とする。
        1900(明治33)年郵便局は宇部村の島に移転したが、藤曲には郵便取扱所として残され
        た。

        
         名和田作兵衛旧宅跡で、1645(正保2)年7月27日長崎奉行を乗せた船が、藤曲浦の
        沖で難破しかけた時、村人総出で助けた。その時に陣頭指揮をした庄屋とのこと。 

        
         この筋が当時の中心地だったようだ。

        
         善福寺(真宗)の寺前は、元禄年間(1688-1704)に江ノ内開作ができるまでは海であったと
        いう。
         風土注進案によれば、俗名金益太郎左衛門尉安善という上方の浪人で、当国へ弟左仲と
        ともに下ってきて毛利家の家臣となる。島原の乱で弟が戦死したので、その菩提を弔うた
        め豊前国の法光寺のもとで剃髪、
慶長年間(1596-1615)に一宇を建立したのに始まるとい
        う。
         
        
         1931(昭和6)年宇部市に編入されるまで当地に村役場があった。

        
         西宮八幡宮は鎌倉期の文治年間(1185-1190)安芸の厳島神社より勧請して厳島社と称して
        いたが、1708(宝永5)年琴崎八幡宮の三神を勧請して現社号とする。 

        
         1894(明治27)年船木区裁判所藤曲出張所が開設されたが、廃止された年月は不明と
        される。

        
         道路は小さなS字を描いて西へ向かう。(右手が小学校跡)

        
        
         1872(明治5)年学制発布により、善福寺の庫裡を借りて藤曲小学校が開設されたが、
        1875(明治8)年茅葺きの小学校1棟が建築されて当地に移る。
         建設時に造られた石垣の中に、瓢箪と盃が彫ってある扇状の石があるが、この石は扇石
        と呼ばれ、石垣を築いた記念に石工が残したものと思われる。1899(明治32)年学校は
        再び移転する。

        
        
         現在の藤山小学校には、1902(明治35)年青木周蔵がドイツより持ち帰り寄贈したプ
        ラタナスの木が現存する。
         1844(弘化元)年周蔵は三浦玄仲の長男として生まれ、1849(嘉永2)年厚狭郡生田
        村より藤曲村に移り少年期を過ごす。(山陽小野田市埴生に生家跡あり)
         1865(慶応元)年毛利家の侍医(じい)青木周弼の弟研蔵の養子となり、周弼の次女テル
        と結婚して周蔵と改名する。明治期に外相を3回務めた。

        
         藤山中学校の角を右折して、次の三叉路は左折する。

        
         宇部軽便鉄道を通す工事で山を削った際に発見された茶臼山古墳跡。

        
         岩鼻駅への道。

        
         平原神社(秋葉社)は火除け、荒神の神として崇敬されている。

        
         右手の溜池を巻くように進むと、東平原第二公園前に出る。

        
         宇部は丘陵地で坂が多い。

        
         智光院(真言宗東寺派)は住宅街の小高い丘にあり、明治初期に観音の霊験を得た智光尼
        が草庵を建てたことに始まるとされるが、以前から祠はあったようである。 

        
         中国楽寿三十三観音18番札所で、中国三十三観音霊場とは別である。

        
         山号を由利野山といい、厚東氏滅亡の折に姫君がこの山に逃げ込んだが殺害された。姫
        の名が百合野であったことから百合野(由利野)山と呼ばれるようになったとか。以前から
        あったとされる祠は、姫の菩提を弔うため建立されたと伝わる。(本堂)  

        
         文京台を下ると右手に浜田自治会館があり、その先の四叉路を左折する。

        
         宇部市のマンホール蓋は、「白鳥」や「カッタ君」、常磐公園の「花菖蒲」がデザイン
        されたものが多いが、この地区は亀甲模様の中央に市章がデザインされたマンホール蓋で
        ある。

        
         この先で厚東川河口に出る。

        
         浜田水神社は、1699(元禄12)年浜田開作の築造が完成したが、その工事中に中山村
        開作竜神社として建立された。 

        
         旧厚東川鉄橋跡より20m上流付近に「松崎の渡し」の船着場があったとされる。

        
         1913(大正2)年12月宇部軽便鉄道厚東川橋梁が完成したが、1963(昭和38)年新
        鉄橋が完成すると役目を終えて鉄橋跡のみが残されている。

        
        
        
         岩鼻公園への第4種踏切を渡る。

        
        
         丘陵地から見る市街地。 

        
         こちら側からは駅へ行くことができない。

        
         JR岩鼻駅は軽便鉄道が開業した1914(大正3)年に開設される。居能駅(10:13)から
        約4時間の散歩だったが、ここから山陽本線の宇部駅に出る。