ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

柳井市伊保庄は小瀬上関往還道と旧塩田地

2021年11月17日 | 山口県柳井市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。             
         伊保庄(いほのしょう)は周防灘に突出する室津半島の東部を占め、海岸に沿って南北に長
        く西に大星山などの山塊が迫る。
         地名の由来は、往昔、3足の赤鳥がこの郷に生まれ、里人はこれを志賀の都に献上し、
        これによって当地を鳥王庄(うおのしょう)と呼ぶようになったが、いつの頃からか伊保庄と
        改めた。(歩行約4.1㎞)

        
         JR柳井駅から宇積行きバスがあるが、便数が少なく滞在時間が長くなるので車で訪れ
        る。
小野バス停傍の海岸部に駐車可能な広場がある。

        
         お堂とは思えない中に閻魔大王を中心に十王が並ぶ。江戸期作とされるが全部揃ってい
        るのは珍しいとのこと。地獄において亡者の罪を裁くとされる10人の王のことである。

        
         正覚寺への1本道を進む。 

        
         圃場整備された先に瀬戸内海と周防大島。

        
         正覚寺(真宗)はもと真言宗の寺院であった。室町期の1521(大永元)年に罹災し、古記
        録を残していないという。

        
         川傍に佇む三界萬霊塔。 

        
        
         宗寿院の由緒によると、往古は随願寺あるいは瑞願寺と称した密教の大寺跡に興し、そ
        の名に因んで願行寺としたと伝える。
         1870(明治3)年寺社整理によって、伊保庄の専称寺へ合併されたが、越えて72年、
        徳山・四熊村の宗寿院を引寺して再興したという。

        
         谷筋を1つ越える。

        
         下ってくると青面金剛(しょうめんこんごう)の石像がある。庚申講の本尊として知られ、三
        尸(さんし)を抑える明王である。一身四手、左辺の上手は三叉、下手は棒を握り、右辺の上
        手は掌に一輪を拈し、下手は羂索を握っている。

        
         賀茂神社は平安期の1093(寛治7)年、京都・賀茂神社より勧請して社殿が建立された
        のが始まりとする。

        
         本殿は鎌倉、室町、江戸期を通じて改築や修理が行われたが、現在の拝殿は1841(天
        保12)年、神殿は1899(明治32)年に造営された。

        
         賀茂神社の参道。

        
         往還道は県道から外れて右に迂回しているが、橋を渡れば街道は消滅している。向田川
        に架かるこの石橋は往還道の名残りとされる。

        
         向田川河口に胡社が祀られているが、創建年代は不詳とされる。文化年間(1804-1818)開
        作築立が行われて塩田開作された所であり、胡社もその頃ではないかと考えられる。

        
         向田川河口から間近に見えるのは無人島の烏島で、島の先端に若山牧水の歌碑があると
        のこと。牧水が1925(大正14)年秋、夫人と共に村上酒造宅を訪れた時に詠んだものと
        される。
           「からす島 かげりて黒き 磯のいはに 千鳥こそをれ こぎよれば見ゆ」

        
         河口部から見る大畠、遠崎方面と琴石山。

        
         往還道は道路拡張及び新設により消滅した箇所もあるようだが。概ね県道に沿って左右
        に残されている。多くの家々は更新されていたが、数軒ほど大きな古民家もあった。

        

         手前の森が八幡山で、名のとおり平安期の877(元慶元)年宇佐神宮から勧請された中村
        八幡宮があったが、明治の神社整理(1村1社)で賀茂神社の境内に遷宮された。

         往還道の海岸沿いには揚浜式の塩田があったというが、往還道と同様に昔日の面影はな
        か
ったが、歩きやすい散歩道であった。


柳井市日積は松島詩子、坂本寿一の生誕地

2021年11月17日 | 山口県柳井市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         日積(ひづみ)は由宇川上流に位置し、銭壺山や琴石山などに囲まれた山間盆地に立地する。
         地名の由来は,玖珂郡誌によると「日積ハ日月乃村ト云。日ヲ積デ月ト成ストノ古語也」
        とある。(歩行約4.9㎞) 

        
         JR柳井駅から大里(おおざと)バス停まで路線バスがあったが、10月1日より運行を取
        り止めた旨の情報を得ていたので車で訪れる。(ふれあいどころ437に駐車、🚻あり) 

        
         ふれあいどころ437は旧大里小学校跡で、その傍に大帯媛(おおたらしひめ)八幡宮の参
        道がある。

        
         平地は農地で山裾に民家を配している。 

        
         長い石段を上がると本殿があると思ったが、その先にも長い参道がのびる。途中に大里
        小学校跡を示す標柱がある。1893(明治26)年から1955(昭和30)年までの62年間、
        2教室と教員室などの木造平屋校舎と運動場があったとされる。 

        
         旧日積村の氏神として奈良期の758(天平宝字2)年宇佐神宮より勧請される。当社を大
        帯媛八幡宮と呼び始めた因由は明白でないが、古くは日積八幡宮あるいは日積宮とも称し
        た。日積の八朔踊りは五穀豊穣を祈願する風鎮祭で、9月1日直前の土曜日に境内で開催
        される。

        
         日積神代往還道を北上すると、明教寺(真宗)は西善寺の隠居所として建てられたという。
        (寺前を西へ向かう)

        
         文珠堂には大きな銀杏の木があって鮮やかな色合いを見せる。大智寺(真言宗)跡に文珠
        堂ありとされるが創建年代は不詳。文珠菩薩を本尊とするのは珍しく「周防三文珠」の一
        つとされる。

        
         西善寺(真宗)とひづみ幼稚園を過ごし、関鳥橋を渡ると折坂バス停前(ここも廃止)に出
        る。

        
         日本航空界の草分け的存在とされる坂本寿一(1890-1976)の生家があるとのことで立ち寄
        る。室積にあった県立工業学校卒業後、渡米してロサンゼルス工業カレッジ自動車科に学
        び、フォード自動車工場で働く。のちに米国パイロット免許を取得し、1914(大正3)
        帰国すると、全国各地で公開飛行を行うなどし、大阪で開かれた第1回競技大会で滞空時
        間部門で1位となる。(手前が生家?)

        
         丸山橋を渡ると山側に小瀬上関往還道一里塚跡を示す標柱がある。「安芸境小瀬より7
        里 上ノ関より8里」の地には旅籠屋や居酒屋があっ
たとされる。

        
         道路筋の家々は更新されている。

        
         左手に街道を示す看板あり。

        
         1920(大正9)年周防鉄道㈱が設立され、由宇村から日積村、伊陸(いかち)村を経由して
        玖珂村に至る鉄道が計画され、日積停車場がここ大原地区に設置される予定であった。
         しかし、着工目前に岩徳線の敷設決定や関東大震災の影響もあって幻の鉄道路線となる。

        
         途中から山手に上がると細い道が往還道である。

        
         小瀬上関往還道の中で数少ない原形を留めている区間とされ、3尺道(約90㎝)は多く
        の人が往来したのであろう。

        
         祠に2体の石仏(馬頭観音)が鎮座するが、昔、荷物運搬中に倒れた馬を祀ったとされる。

        
         昭和の歌謡界を代表する松島詩子(本名;内海シマ)は、1905(明治38)年この日積で
        生まれる。教員生活を過ごした後、流行歌手になることを決心して歌手生活の道に入る。

        
         広い道を横断すると街道標示板の先に「火伏神狩野岩」がある。狩野派の画家が絵に描
        いたと伝えられ、いつの時代か埋没してしまったが、村人が掘り出して火伏の石神様とし
        て祀っているという。

        
         この一帯は奥迫川の扇状地で、縄文時代の集落跡とされる。 

        
         小瀬川2期工業用水の空気弁蓋。水道事業は柳井地域の都市用水を確保する目的で、1
        991(平成3)年から8年の歳月をかけて完成する。弥栄ダムから取水した水は、管路約4
        0㎞で送水されているが、ダムから日積浄水場までは柳井広域水道事業団(柳井市、周防大
        島町、上関町、田布施町、平生町)との共同施工である。

        
         石神様の盃状穴は、人が何らかの目的で石などの道具を使って彫った盃状の穴で、女性
        を表現し、最初は再生を願って墓に彫ったが、のちに子宝、安産、豊作を願うものに変わ
        ったという土俗信仰である。
         石の前に石神様があったが、祠のみ南側の路傍に移設されたとのこと。 

         
         日積大原地区から日積神代往還を南下し、国道437号線を山越えして出発地に戻る。