ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の屋代にハワイ移民資料館 

2021年11月29日 | 山口県周防大島町

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         屋代(やしろ)は屋代島の西部、屋代川流域に位置する。東は嘉納山と源明山の分水嶺で、
        北は飯の山と文珠山の山地で、南は頂海山と馬の背の分水嶺で区切られる。屋代島内の集
        落で海に面していないのは当地だけである。(歩行約6.5㎞、🚻資料館) 

        
         JR大畠駅から防長バス(沖浦経由)町立橘病院行き約17分、大島庁舎前で下車。路線
        バスは屋代を経由しないのでこの先は歩きとなる。

        
        
         県道大島橘線を進むと農協倉庫があり、左折すると
前方に文珠山・嘉納山が聳える。

        
         得蔵寺(真宗)

        
                
仙洞院は公門山を少し登った所にあるが、室町中期の頃に山伏姿の修験者が、はるばる
        四国から櫓船で伊予灘を渡り、椋野の文珠堂に籠り天下泰平を祈祷する。
ここで神仏の御
        加護を島の人々に伝えるため、公門山の峠道にてお布施でいただいたものと栗、谷水で混
        ぜて食べると空腹が癒されると栗をつかんでちぎり取ってしまう。

         その時に百姓が居合わせて、このことを役人に告げると盗みに入ったと捕らえて、審議
        をしないまま村人の前で梟首(きょうしゅ=打ち首をさらす)の罪にする。
その時に「仙洞院と
        いう修験者で、百姓の大事なものを盗んだお詫びに霊神となって願えことをかなえてあげ
        よう」といったといい、村人は遺体をこの公門山に埋め、自然石に文明17年(1485)仙洞
        院と刻み弔う。「1つの願いごと」を申して拝めば、霊験あらたかとされる。(他説もあり)

        
         農道の途中で左折して山裾を辿る。

        
         等覚院(浄土宗)は、何時の頃からか浄土宗の浄尾寺と称していたが、1873(明治6)
        村内の西蓮寺へ合併したため、玖珂郡御庄村の等覚院を引寺したという。

        
         境内から見る集落の先に琴石山。

        
         龍心寺(曹洞宗)は、創建時には安養寺と称していたようで、村上武吉により祖父の法号
        に因み大龍寺と改める。江戸期に入ると毛利家に随順し、屋代に移り永く村上家の菩提寺
        とし、明治期に現寺号としたという。

        
         屋代の村上家家老・大野氏の次男に友之丞という人物がいた。友之丞は京都に上がって
        御所に入り、北面の武士に取り立てられた。その後、巡見使として九州に下る途次、三田
        尻(防府)の毛利家に立ち寄り、朝廷を笠に着て大いに見返したまではよかったが、同家を
        辞する時に大いに乱暴をはたらいて帰ることを止められた。
         一夜脱走して郷里の屋代に帰ったが、一族は禍が及ぶことを恐れて喜んで迎えてくれな
        いため、祝島に渡るが毛利家の知るところとなる。1799(寛政11)年斬罪となるが、そ
        の際、「自分を信じて祈る者があるなら、首から上の病は癒してやる」と伝えられ、大友
        大権現として祀られている。(説明板より)

        
        
         菅原神社は領主・村上氏の願出によって、1805(文化2)年当地の京免に勧請されたが、
        1875(明治8)年現在地に遷座する。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、東屋代村と西屋代村の区域をもって屋代村が
        発足するが、1952(昭和27)年小松町と合併する。(砂田地区付近)

        
         砂田の地蔵堂(延命地蔵)と御旅所。

        
         何の目的で「臼」が集められたのかは不明だが、以前は各家庭にとって必要不可欠なも
        のだった。

        
         1885(明治18)年山泉小学校として創立された屋代小学校は、いくつかの校名変更を
        経て、1947(昭和22)年現校名となる。
         1953(昭和28)年屋代中学校だった地に移転するが、児童の減少に伴い、2010(平
          成22)
年近くの明新小学校に統合される。

        
         屋代川で集落は二分されている。 

        
         1925(大正14)年12月に屋代信用購買販売組合が設立される。その後、農業会と改
        称し、 1948(昭和23)年屋代農業協同組合へと引き継がれる。建物は1932(昭和7)
        年に組合事務所として建築され、名称変更を伴ったが各事務所として活用された。一時期
        住宅として利用されたようだが、今は空家となっている。

        
         中保育園付近から先は、民家が点在するので屋代川左岸を下る。
 
        
         民地のため入るのを遠慮したが、大樽に立派な屋根を載せて観音開き戸が設けてある。

        
        
         郵便局前に「大島商船学校発祥之地」の碑と道標がある。碑文によると、大島郡役所が
        久賀村に移転したため、跡地に1897(明治30)年郡立大島海員学校が創設された。
         ただし、設備等は貧弱で長くこの地に留まることはできない状態だった。幸いに190
        1(明治34)年県立に移管され、県立大島商船学校と改称し、小松志佐村に移転したと記す。

        
         左岸は車の通行もないのでてくてく歩きができる。

        
         ハワイ移民資料館は、1926(大正15)年に事業家の福元長右衛門が自宅として建てた
        ものである。氏は1897(明治30)年16歳でサンフランシスコに渡り、貿易事業で成功
        して1924(大正13)年に帰国する。

        
         主屋は近代和風邸宅で、1995(平成7)年旧大島町に寄贈されて、現在は「日本ハワイ
        移民資料館」として活用されている。(毎週月曜日が休館日) 

        
         表の間は「ハワイとの交流」コーナーとなっている。

        
         大島郡は人口増加により限られた土地では生活できず、大工や船乗りなどの出稼ぎが盛
        んだった。ハワイ移民の話が持ち上がった頃、全国的な不況や自然災害などで島の人々は
        餓死寸前まで追い込まれた。
         1885(明治18)年1回目の官約移民では、大島郡出身者が1/3を占め、官約移民時
        代に大島郡からは3,913名がハワイに渡る。

        
        
         アメリカから持ち帰った台所の設備、衛生設備などが備えられ、和洋折衷の生活様式と
        なっている。

        
         主屋をはじめとする建造物が国登録有形文化財に指定される。(裏の西側は鉱滓煉瓦塀)

        
         周防大島が「移民の島」と呼ばれた所以を学ぶ
有意義な訪問であった。この先、屋代川
        沿いを歩いて大島庁舎に戻る。(敷地内に図書館あり)