ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市柱島ートンボロ現象がみられる島

2021年11月13日 | 山口県岩国市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         柱島(はしらじま)は岩国市柱島に属し、安芸灘に浮かぶ柱島群島の本島である。面積は3.
        1㎢で起伏状山地の沈水島で、ほぼ中央に標高290mの金蔵山が聳え、その周囲を多く
        の浸食谷が放射状に発達する。
         島名の由来について、島内に多くの神様が祀られ、御柱が多いことから柱島となったと
        伝える。(歩行約7km、🚻待合所のみ) 

        
         土日祝日は利用しやすい10時の便があり、岩国駅からいわくにバス和木駅行き6分、
        新港バス停で下車する。車だと岩国港には十分な駐車スペースが設けてある。

        
         高速艇「すいせい」に乗船すれば柱島まで約60分の船旅である。

        
         船室は一段下がっているので、航行中に島々を眺めるには難がある。

        
         窓には海水が被りうっすらと見える程度だった。

        
         2021(令和3)年現在、人口113人・89世帯が暮らす島には、商店、旅館、郵便局
        や市出張所などがあって島とは感じさせない。上陸すれば右手にトイレ付き柱島港待合所、
        左手は商店、正面には金蔵山が聳える。

        
         郵便局前の通り。

        
         赤根武人生家跡へは金蔵山登山道を上がる。(柱島漁港)

        
         上がって行くと背後に安芸灘が広がる。赤根武人の生家跡は、最初の人家横を抜けると
        旧郵便局前に出る。

        
         1838(天保9)年赤根武人は柱島の医師・松崎三宅の次男として生まれ、15歳の時に
        妙円寺の海僧・月性に学び、浦家の家老・赤根雅平の養子となる。

        
         柱島小中学校、藤原穂智之墓、旧海軍指揮所跡は金蔵山登山道の傍にある。

        
         高台にある柱島小中学校の校舎が見えてくる。

        
         小学校は2008(平成20)年休校、中学校は2008年に再開されたが2010(平成
          2)
年に再休校となっている。 

        
         グランドの先に牧地区と海に浮かぶ小柱島。

        
         学校の玄関横に丸型ポストが門番のように立っているが、展示品で使用不可とのこと。

        
         地元の方によると、学校先に案内板があって約25~30分で山頂に立つことができる
        が、登山道を整備するも猪が多くて荒らされるとのこと。登山靴でなくても登れるし、距
        離を示す案内も設置しているのとのことだったので挑戦する。 

        
         切り開かれた尾根を越えると左手に柱島城跡がある。かって忽那(くつな)水軍の勢力下に
        あった七島の1つが柱島であった。
         しかし、城といっても見張所のようなものであったと思われる。 

        
         この島を統治していた柱島氏の祖とされる藤原穂智(やすとも)の墓で、平安期の1070
        (延久2)年3月26日没とされる。

        
         途中の展望地から牧地区と松田港、その沖に小柱島。          

        
         柱島の中心地である来見地区。柱島水軍という海賊集団が、敵船が来るかどうか見張り
        に行っていたのが地名の由来とか。

        
         呉軍港に向けて進入する敵機を発見するため、周辺の島々に多くの照聴所が設置された。
        柱島には1943(昭和18)年には探照灯、指揮所などが設けられた。
         
一帯は薮化して入り込むことはできなかったが、3層式水槽付近のみ笹刈りされて見る
        ことができる。

        
         水槽から頂上へ向かう途中に煉瓦造の指揮所が残っている。 

        
         内部にタワー状の建物がある。

        
         背後からの指揮所。 

        
         山頂にも関連施設があったようだが、薮化して歩ける状態ではなかった。三角点に行け
        ば展望が開けるようだが立ち寄らずに下山する。

        
         集落に下ってくると観音様の祠が見える。

        
         観音堂は江戸中期頃に創建されたといわれ、お堂の中に4体の観音像が祀られている。

        
         最上部の民家と小中学校。

        
         漁港側に民家が密集する。

        
         善立寺(真宗)は柳井の誓光寺の末寺で、1626(寛永3)年創建と伝わる。武人の姉が嫁
        いでおり、1865(慶応元)年柱島に潜伏した際に隠れていた場所の1ヶ所と伝えられる。
         
        
         平地が少ないため階段状に民家が並ぶ。

        
         赤根武人の墓がある西栄寺への案内板。

        
         西栄寺は屋代島の西方寺末寺で、もとは禅宗であったが近世に入り、生業が農と漁に変
        わると宗旨も浄土真宗になる。
         寺は時の豪族・中冨氏によって建立され、寺の周辺は柱島水軍の城跡と伝えられる。

        
         高杉晋作らとともに奇兵隊を結成し、3代目総督になった赤根武人は、後に藩内の俗論
        派と攘夷派との調停を図ったことが同志に二重スパイと疑わる。さらに、高杉晋作らが武
        力により藩論の統一を図ると内戦を危惧したため高杉と対立する。
         その後、出奔して上方へ赴き、幕府の長州尋問一行に随行するが、工作は成功せず生誕
        地の柱島に潜伏したが、1865(慶応元)年裏切り者として処刑されるという悲運の志士で
        ある。
         墓は養子先の柳井市阿月の赤根家に埋葬されていたが、1902(明治35)年に武人の娘
        リウの夫・中冨信次郎の要請により分骨された。 

        
         加茂神社手前に井戸が現存する。

        
         加茂神社の創立年代は不明であるが、平安期の1177(治承元)年平判官康頼と丹波少将
        成経が、俊寛僧都と共に当島に配流されて来た後、両名が信仰していた加茂神社を勧請し
        たと伝えられている。
         島の産土神で境内には13社があり、柱島には末社として八幡社、稲荷社、岬社がある。

        
         今の社殿は神託により宮の峠に移されたとされ、小さな島には不似合いなほど立派な神
        社である。

        
         下ってくると北迫八幡宮。小さな本殿の手前にある鳥居は途中から折れたままとなって
        いる。

        
         浦庄の浜に下ると畑地が広がる。

        
         明治後半から大正期にかけて石灰を生産していた炉が残るという新宮の鼻。干潮期にだ
        け海の中から現れる砂の道「トンボロ現象」が見られる。

        
         約1㎞にわたる美しい白砂の浜だが、「陸奥」沈没後には多くの遺体が流れ着いたとい
        われる。遺体は目の前の続島で、極秘のうちに荼毘されたという。

        
         昭和の時代に海水浴客を直接船で運んでいた桟橋の橋桁が残る。

        
         1943(昭和18)年6月8日軍艦「陸奥」は広島湾沖の柱島泊地に停泊中、不慮の爆沈
        により1,122名が犠牲となる。
         柱島の人々によって、続島で荼毘に付した遺骨を集め、続島と柱島泊地が見えるこの地
        に「英霊の墓」として埋葬された。

        
         戦艦「陸奥」は柱島から南西2㎞沖の海底に沈む。 

        
         加茂神社から海岸部へ下って、つわぶきの花が咲く道を歩くと漁港に出る。

        
         14時15分の便に乗船するが、デッキから島々が見られる季節に、島内の他地区に足
        を運んでみたいものだ。(牧地区)