ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の和佐は星のビーチとみかん畑

2021年02月05日 | 山口県周防大島町

       
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        和佐(わさ)は屋代島の南海岸(外海)東部の入海に面し、砂州上に立地する。沖合に笹島が
       浮かぶ。 
        地名の由来は、当地が南向きの暖かい所なので、夏秋作とも田畑に早生物を植え付けた
       ため、古くから早生(わせ)村といったが、いつの頃からか和佐と呼ぶようになったという。
       (歩行約3.1㎞)

       
        駐車地は集落西端に星のビーチ駐車場がある。小さなビーチは三日月状になって、その
       突端に2つの星形のモニュメントがある。

       
       
        海岸通りの道は埋め立てによってできたもので、それ以前は、この道がメインストリー
       トであったと思われる。

       
        和佐には大きな川はなく、山に降った雨水をスムーズに海へ流し出す水路が設けてある。

       
        通りの海側は短冊状に地割りされている。

       
       
        新しい家の屋根には漆喰補強が見られない。

       
        地内で唯一の商店。

       
        神浦(こうのうら)からの道を横断して次の通りに入る。

       
        なまこ壁の民家は目立つ。

       
       
        建替えか改築された家が多い。

       
        東端に和佐東バス停。

       
       
        高波に対して海岸線に石垣を築くという防御の工夫がなされたが、強固な石垣でも高波
       のために流されることは珍しくなく、石垣だけでなく住宅まで流されてしまうことがあっ
       たようだ。

       
        石垣の内側にすぐ主屋を建てるのではなく、作業場兼納屋を建て、その後ろに建てる形
       式がとられている。

       
        住宅から海に出入りできるように開放部分があるが、高波時には仕切り板で閉じるよう
       な仕組みになっている。

       
        新しくできた堤防
と,その沖に並行して波消しブロック

       
        遠くに見える山々は四国・愛媛だろうか?

       
        中世以前の和佐はどうであったかの文献資料はないとされるが、建武2年(1335)の銘が
       ある宝篋印塔が残っていることから豪族がいたものと思われる。
        慶長年間(1596-1615)平岡氏が給領主として支配し、幕末まで支配下にあったとされる。
       (神浦への道を上がって行く)

       
        平岡氏の陪臣であった家は、和佐には一軒も残っていないそうで、その中で最初に退転
       したのが猪口氏で、百姓もしていたが生活に耐えかねて、武士の株を屋代の者に売って萩
       に出た。
        一人娘がいて家中奉公として住み込みをしていたが、萩の和田家の後妻として嫁いで、
       その長男が木戸孝允という。

       
        県道東和橘線に合わすと和佐公民館前にバス停。JR大畠駅から周防油宇行きバスは3
       便のみである。(復路も同便数)

       
        右手の小高い丘に木造校舎が見えるのが開導小学校の建物。記念碑の最上段に作詞家・
       星野哲郎氏の名が刻まれているが、彼の故郷であり母校であるとのこと。

       
        石段を上がると門柱に表札が残されている。1873(明治6)年開校、建物は1957
       (昭和32)年築のもので、2000(平成12)年3月閉校する。

       
        内部は閉校当時のままの姿をとどめている。

       
        敷地内は猪の運動場となっているが、地元の方が草刈りするなど管理されているようだ。

       
        学校と神社は隣合わせである。

       
        和佐八幡宮の創建年月は不明だが、1603(慶長8)年に再建されたという。神事は旧和
       田村にある筏八幡宮の神官が勤めている。

       
        宝篋印塔への案内に従って山手へ向かう。

       
        和佐共同墓地に建武2年(1335)建立の宝篋印塔がある。基礎部分の左右に「建武二年」
       「六月十八日」と銘があり、塔身の4面は四方仏を彫り、成仏祈願の光明真言が彫られて
       いる。

       
        さらに舗装路を上がって行くと周防大島八十八ヶ所第76番札所がある。ここにはかっ
       て心月院という曹洞宗の寺があり、1648(慶安元)年給領主である平岡氏の菩提寺となる。
       明治の廃仏毀釈を受けて、1870(明治3)年森集落の法明院と合併して廃寺となり、和佐
       には観音堂として存続した。

       
        参道石段から見る和佐集落。正面に笹島が浮かぶ。

       
        六地蔵さんに挨拶を済ませて駐車地へ戻る。


周防大島の小泊は海運業で栄えた地

2021年02月05日 | 山口県周防大島町

       
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        小泊(こどまり)は屋代島の東部南海岸(外浦)に位置し、笹島と大鼻の間に湾入した入海の
       海岸砂州に立地する。
        地名の由来は、上関より松山領津和までの灘中・第1の繋船場で、古くから諸廻船の船
       繋ぎの港であったので、小泊と名付けたという。(歩行約1.9㎞)

       
        小泊バス停傍の駐車地を利用する。

       
        海を埋め立てて屋敷地を確保することが行われた。

       
        この奥に集落の中央を走る古い道があり、この道を境に海側は短冊形に地割りされてい
       る。

       
        石垣を組んで高波対策が行われた名残のようだ。

       
        島内の他集落と同様に、堤防の先に波消しブロックが用意されている。正面の大
       きな島は禿島、その間に小島が浮かぶ。

       
        正覚寺(浄土真宗)は、1632(寛永9)年渡辺源五左衛門というものが出家して神浦に創
       建したが、1684(貞亨元)年寺地を現在地に移転する。

       
       
        小泊神社の鳥居両脇に木の桶を模した高さ約30㎝の水槽が奉納されている。清めの水
       を入れて榊で心身を清めるものに使われたのかなど用途は不明であるが、1907(明治4
         0)
年前後に奉納されている。

       
       
        小泊神社は菅原道真が九州に西下の折、小泊の湊へ船を繋ぎ、上陸された場所へ社を建
       てたと伝える。1873(明治6)年に天満宮から現社号に改称された。

       
       
        泊浜、天神浜、西浜地区は移住者が集まった新開地とされ、造船関係者、旅館、魚屋な
       どの業種が多く、港町のとしての賑わいをみせるようになる。
 
        さらに昭和初期に泊浜が埋め立てられると旅館、遊郭が進出し、トタンカフェと呼ばれ
       た急造のカフェ、玉突場、飲食店など船員相手の遊興施設が立ち並んだとされる。

       
        江戸期は小泊も風待ち、潮待ちの港として栄え、明治以降は九州若松港から石炭を運ぶ
       海運業に携わる者が多く隆盛をきわめた。 
        しかし、第二次大戦中に船は老朽化し追い打ちをかけるように、1948(昭和23)年と
       翌年の大型台風で、沈んだり流されてしまうなどして海運業は衰退する。

       
        集落はずらりと並ぶ波消しブロックで守られている。

           
            
       
        寺横から集落の東西を走る道に入ると、正面に正覚寺の潜り門がある。

       
       
        生活を支えた通りにも空家が目立つ。

       
        住居があったことを示す井戸が各空地に残っている。

       
        和田小学校小泊分校の校舎が残されているので寄り道をする。その入口に第76番奥の
       院小泊大師堂。

       
        道なりに進むと正面に赤い屋根が見えてくる。その手前左手は小泊公民館。

       
        和田小学校小泊分校と和田中学校があった地で、現在は木造校舎を「瀬戸内民俗館とう
       わ」として活用されているが、看板はあるものの施錠されて、見学できるか否かの案内も
       ない。

       
        1873(明治6)年開校の小泊小学校は、和田小学校分教場、小泊国民学校などを経て、
       和田小学校小泊分校として存立していたが、1861(昭和36)年に閉校する。和田中学校
       もあったようだが、1971(昭和46)年に東和中学校へ統合される。 

       
        味噌樽も置かれているが放置状態である。

       
       
        みかん畑に上がってみるが、樹木の生長で展望は芳しくなかった。

       
        東側のメインストリートはわずかな距離で海岸線に合わす。

       
        東端に和泉造船所があったとされ、建物が残されているが、造船所経営の傍ら廻船業も
       手掛けていたとされる。

       
        東端から見る小泊集落。

       
        県道橘東和線の三差路を過ごすと小泊バス停。(建物は民宿こどまり)      


周防大島の内入は毛利家船手組頭・村上武吉終焉の地 

2021年02月05日 | 山口県周防大島町

       
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        内入(うちのにゅう)は屋代島の東部、厨子ヶ鼻に位置し、集落は湾入した海岸砂州に立地
       する。地名の由来は内浦の入海の意によるという。
        1889(明治22)年町村制施行により内入、和田、小泊村が合併して和田村、その後に
       東和町となり,現在は周防大島町大字内入である。(歩行約2.4㎞)
 

       
        小泊への道路脇に駐車して内入バス停を起点とする。

       
        内入は和田集落と接する。

       
        海岸線に石垣を築くことで高波対策が行われてきたが、今ではこの石垣を埋めて海岸道
       路(堤防)を造り、海面上に波消しブロックが並行する形で置かれている。

       
        小泊への道入口に「村上武吉終焉の地」という石柱が建てられている。

       
        この地は山手に成立した郷とよばれる集落と、海岸低地に発達した浜とよばれる集落で
       形成されている。

       
        海岸沿いの集落の屋敷地は、その面積は均一ではないが整然と地割されており、散村的
       な山手の郷とは対照的である。

       
        通りでひときわ目立つ民家。

       
        なまこ壁のある家。

       
        旧東和町時代の親子マンホール蓋は、中央に町章、周りに桜、みかんの花と実、鯛がデ
       ザインされた環境保全型下水道である。

       
        モダンな住宅も見られる。

       
        田向川東側の集落。

       
        この先は和田集落。

       
        田向川まで戻って山手へ向かう。

       
        次の三差路に元正寺(74番札所)への案内がある。

       
        入口にあるバクチノキ。名前の由来は、樹皮が次々に剥がれ落ちるため、博打に負けて
       身ぐるみ剥がされるのにたとえたという。

       
        曹洞宗の元正寺は、往古に了浄院という小庵であったが、慶長年間(1596-1615)に毛利家
       船手組頭村上武吉(たけよし)が、当地の給領主になった時に再興された。

       
        境内から見る内入集落。

       
        村上武吉(1533-1604)は幼少にて父を喪い,23歳にて三島海賊の総大将となる。15
       55(天正24)年10月1日毛利氏を支援して陶晴賢を厳島にて全滅させる。
        その後、毛利氏と提携して生まれ故郷の能島を根拠として海賊から領主的存在となる。
       秀吉の海賊狩りに幾多の抵抗を試みたが、ついに屈服を止むなきに至り、終焉の地を和田
       に定め仏門に帰依する。

       
        境内左手の墓地入口に土塀を巡らす中に宝篋印塔が建ち、慶長9年(1604)の銘があるの
       が村上武吉の墓である。背後には歴代住職と並び、慶長12年(1607)の宝篋印塔は武吉室
       (妻)の塔とされる。

       
        郷の家々は高所を宅地とし、その上の谷に沿って山の田が拓かれている。

       
        内入には山から海に向かって6本の水路が通っている。この溝は山から流れ出る水を灌
       漑用水として用い、また、山からの水をスムーズに海へ流して屋敷を守る役目も果たした。

       
        旧塩田地帯とされる地は屋敷と畑地となっている。

       
        旧道に出て中央部へ引き返す。

       
       
       
        古民家が点々と見ることができるが、どれも無住で崩壊の途にある。


周防大島の和田は島末庄時代の中心地だった地 

2021年01月31日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         和田は屋代島の東部に位置し、逗子ヶ鼻西の入海となった海岸砂州に立地する。
         地名の由来について、当地は大島郡の島端部ではもっとも早く開けた所で、田畑を開い
        
た時に土地が棉(わた)のように軟らかく開きやすかったので「和田」と名付けたという。
         1889(明治22)年の町村制施行により、和田、内入、小泊の3村が合併し、1955
          (昭
和30)年油田、白木、和田村をもって東和町となるが,現在は周防大島町の一部である。
        (歩行約2.6㎞)

        
         JR大畠駅(8:58)から防長バス周防油宇行き約1時間、周防和田バス停で下車する。

        
         バス停から旧道に向かうと、角に大きな倉庫風の建物がある。地元の人によると、農協
        の建物で精米所などがあったという。

        
         どう歩くべきか思案したが、とりあえず旧道を久賀方面へ歩くことにする。すぐ左手は
        潜り門のある民家。

        
         ほぼ直線的な道。

        
         山に降った雨をスムーズに海へ流し出す水路が設けてあるが、満潮期には海水が入り込
        んでフグが泳いでいる。

        
        
         この地も空家が目立つ。

        
         中央に旧東和町の町章、周囲には町木のサクラ、鯛、みかんの花と実がデザインされた
        マンホール蓋で、特定環境保全下水道として整備されている。

        
         油宇への道に合わすとその先は隣集落の内入(うちのにゅう)。右折すると海岸線沿いの国
        道に出る。

        
         正面に大見山、海に出張った所が厨子ヶ鼻で筏八幡宮がある。社伝によると、
        平安期の貞観年中(8
59-877)に宇佐八幡を山城国岩清水に勧請する時、和田村の沖磯合に神
        光が現れ、暗夜激流の中を無事に通航する。この時、神光を放ったのは筏に乗った厨子入
        りの神鏡で、祀るようにとの神託があり、筏八幡宮として祀ったのが起こりという。
         防波堤にはたくさんの太公望たちが釣り糸を垂れている。

        
         バス停まで戻って最初の道を直進すると、周防大島町東和総合支所和田出張所がある。
        1955(昭和30)年和田村ほか3村が合併して東和町が発足するまで、村役場があった地
        とされる。

        
         屋根に煙突が見える風景に出会える。

        
         正面に淡島神社の看板を見て左折すると、村上水軍史跡を示す案内板がある。

        
        
         史跡案内板と石仏3体のある所から石段を上がると、村上家の墓所がある。
         室町期の1558(永禄元)年村上武吉の次男として生まれた景親は、毛利軍の一員として
        戦いに参加する。関ケ原後は屋代島の内で1,500石を与えられて毛利家御船手組の組頭
        となる。三田尻(現防府市)に役宅、和田には田屋を造ったが、隠居後は和田に住み、16
        10(慶長15)
年この地で亡くなる。

        
         墓所から見る和田集落と、正面に浮島(うかしま)が浮かぶ。

        
         正岩(しょうがん)寺がある地には浄土宗の西浄寺があったが、1871(明治4)年隣村であ
        る油宇の寺と合併して廃寺となる。時の照岩寺住職が境内地と伽藍を譲り受け、域内にあ
        った寺を移転させて正岩寺と改める。

        
         照(正)岩寺は、1606(慶長11)年村上景親が草創となり、都濃郡長穂にある竜文寺(曹
        洞宗)の和尚を講じて開山された。

        
         境内地にある淡島神社は、1781(天明元)年紀州の加太にある淡島神社から勧請したと
        される。婦人病をはじめとして安産・子授けの神として崇敬されている。

        
         溜池の中に建てられた「楽楽亭」は、1972(昭和47)年寄贈とあるが、用途等は知り
        得なかった。

        
         今度は水路に沿って海側へ下る。

        
         旧道との出合いにある古民家。

        
         国道と旧道の間にある路地にも空家が目立つ。

        
         旧道を右折して引き返す。

        
         人にも動物にも会うことはなかったが、約1㎞にわたって町筋が形成されている。

        
        
         この地方の家は比較的新しい家が多いが、要因として強い潮風や波にさらされるため、
        家が傷みやすく耐用年数が短いことにあるという。70~80年で家を建て替えるという
        のが一般的であったようだが、近年は防波堤などが整備されて古民家もそのまま維持され
        ている。

        
         域内には商店らしきものは存在せず、JAふれあい店も平日のみ営業のようである。こ
        の付近に村上水軍田屋(私邸)があったとされるが特定することができなかった。

        
         建物構造をみると旧郵便局舎のようだ。

        
         向かい側に浄土真宗の長専寺。

        
         海を眺めながらのバス旅と洒落込んだが、滞在時間が長いので車の方が得策であった。
        (待合所あり)
                 


周防大島の小松は屋代島の玄関口だった町

2021年01月20日 | 山口県周防大島町

               
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         小松は屋代島の西端部、飯の山を境として、西北部が大畠瀬戸に面し、屋代川河口の低
        地とその周辺部に立地する。
         地名の由来を風土注進案は、人ありて八幡山に松の苗を数本植えたところ、この松が盛
        りに繁ったことによろこび、所名を「小まつ」と云い習わしたという。(小松港バス停ま
        での歩行約4.3㎞)

        
         JR大畠駅(9:48)から防長バス橘病院行き約23分、開作港バス停で下車する。

        
         開作港から見る小松の町並みと、背後の飯の山には山頂まで車道があって、山頂の展望
        台から360度の大パノラマが楽しめるとのこと。

        
         塩釜神社の由緒によると、塩田増築祈願のため安芸国厳島神社と陸奥塩釜神社から勧請
        し、1690(元禄3)年に祭祀されたとある。

        
         粟屋就貞は藩役多年の功績により、小松沖干潟百余町を拝領。製塩の条件に恵まれた地
        であることに着目し、1690(元禄3)年9月神社で鍬入れ式を行い、約6年を歳月を費や
        して古浜が完成する。(境内に粟屋大夫頌徳碑)

        
         玉垣には七代目市川団十郎や各地の豪商が寄付したことを伝えている。

        
         旧三田尻塩務局小松志佐出張所は、1905(明治38)年大島郡の塩業を管理するために
        開設される。後にたばこ販売を主たる業務とする小松タバコ販売所、1949(昭和24)
        専売公社小松出張所として、1973(昭和48)年まで使用された。廃止後は大島町考古資
        料館として利用されたが、現在は空家となっている。

        
         洒落たデザインの洋風建物は、中央の主屋内に事務室と所長室、主屋左側に少し張り出
        して妻を向ける玄関が接続する。右側は検査室でアーケードによる通路を設けている。

        
         倉庫は赤煉瓦造、基礎部分には白い御影石、窓は鉄製の庇がついていたようだが、屋根
        は崩落して無残な姿となっている。(入口は海とは反対側の山側)

        
         塩・石炭の輸送水路だった入川と正面に頂海山。

             
         1966(昭和41)年新浜塩田跡地は大島商船高等専門学校の敷地に転用される。

        
         日毎に塩買い船や石炭船が出入りし、新しく開かれた町には多くの人々が集まり、料亭
        や船問屋、多数の小店が軒を並べたとのこと。

        
         途上には、1961(昭和36)年開校した田布施農高大島分校があったが、2010(平成
        22)年閉校する。
         その北側にあった明新小学校の講堂は、1923(大正12)年卒業生のうち移民してアメ
        リカ・ハワイで働いている人や移民で帰国した人たち、村民の寄付で建てられた。201
        3(平成25)年頃老朽化によるものか解体され、移民の手による遺産が消滅した。その先、
        屋代川に架かる橋を渡ると屋代口である。

        
         通りには小店が並ぶが、その多くはシャッターで閉じられている。安村百貨店だった看
        板には花札、トランプ、百人一首と懐かしい名が残る。

        
         浄蓮寺は小松の賀屋清蔵が真宗に帰依して出家し、1624(寛永元)年に開いたとされる。

        
         看板建築の家具店。

        
         通りに面する志駄岸八幡宮参道には大灯籠があり、台石には大坂問屋や備中笠岡など他
        国の問屋名が刻まれている。

        
         二ノ鳥居の説明によると、1637(寛永14)年に建立されたもので、上部の笠木と島木
        は一枚石、柱は真円でなく丸く角張ったのが特徴とされる。大きな神輿が通行するため、
        柱脚は露出した形になっているとのこと。

        
         神社入口左手には、1884(明治17)年創業の川村酒造場。

        
         奈良期の772(宝亀3)
年宇佐神宮から勧請されるが、1890(明治23)年に造営された
        現在の本殿は、江戸期の神社様式に権現造りを加えた豪華な造りとなっている。

        
         本殿前からは笠佐島と大島商船高等専門学校の建物が見える。大島商専は、1897(明
        治30)年大島郡立大島海員学校として創設され、県立商船学校を経て文部省、逓信省、運
        輸通信省、運輸省と所管が転々とする。文部省に再移管されたが、現在は独法国立高等専
        門学校機構の所管である。(境内に🚻あり)

        
         大島宮の下バス停前に玉垣に囲まれた御旅所がある。

        
         妙善寺(浄土真宗)は、1700(元禄13)年真言宗の光照寺跡に建てられた。入口の案内
        には「三国貫嶺は同寺の3男として生まれ、幕長戦争大島口の戦いでは高杉晋作が乗り込
        んだ丙寅丸の燃料や総本陣(西蓮寺)への食糧確保に尽力するなど裏方である輜重(しちょう)
          
役を担った」とある。

        
         山門横にはお墓参りの心得がある。「まず本堂、正月・彼岸・盆、祥月命日、誕生日、
        祝い事、夢を見たら、迷いがおきれば、嘆きがあれば、感謝と報恩、近くに来たら」と記 
 
        されている。

        
         三差路の角に浄土宗の称念寺には、本堂前に周防大島八十八ヶ所第37番札所がある。
        詠歌「み仏の み名を称うる 称念寺 参り拝めば すぐに極楽」とある。(寺から海への
        両
側は元新浜塩田跡である)

        
         海岸線の主要県道に出ると大畠瀬戸。正面に柳井の琴石山、瀬戸に浮かぶ船は高専練習
        船「大島丸(228トン)」

        
         板塀に囲まれたK家。

        
         海側に主要県道が新設されたため、こちら側の道は静かな通りとなっている。

        
         スリップ止めを兼ねたマンホール蓋の中央には、周防の「S」と大島の「O」をモチー
        フした町章が小さくデザインされている。

        
        
         路地に入ると大島八十八ヶ所第38番札所の四福寺。

        
        
         古民家は空家が目立つ。

        
         大島病院付近で休憩を入れて大島大橋を目指す。

               
             小松港バス停(病院前)からJR大畠駅までの距離は約3.2㎞。

        
         やや上りの道だが歩道もあって歩くには支障がない。

        
         大島大橋の歩道は右側にあるため地下道が設置してある。

        
         1976(昭和51)年7月に開通した大島大橋は、3径間トラス橋で橋長1,020mで
        ある。歩車道とともに島民にとって不可欠な光ケーブル、送水管が設けてある。

        
         バス乗車時には気が付かなかったが、歩くと道は山形となっている。

        
         眼下を船が行き交う。

        
         頂上部付近が柳井市と周防大島町の境界のようだ。2018(平成30)年10月22日に
        ドイツの貨物船が橋桁に衝突するという事故が起こった。

        
         山陽本線を真下に見ると橋を渡り終える。鉄道ファンにとっては絶好の撮影スポットの
        ようだ。

        
         観光センターを過ごすと右に急坂の道がある。

        
         2つの函渠を潜り、突き当りを左折すると国道に出る。

        
         鯛と大島大橋が描かれた旧大畠町のマンホール。

        
         国道を右折するとJR大畠駅。


周防大島の安下庄は大島みかん栽培発祥地 

2020年12月12日 | 山口県周防大島町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         安下庄(あげのしょう)は屋代島の中央山地にある嵩山の南東に位置し、安下庄湾の海岸砂
        州に立地する。 
         1889(明治22)年町村制施行により、東安下庄村と西安下庄村が合併して安下庄村と
        なる。1955(昭和30)年に日良居村と合併して橘町となるが、現在は周防大島町東安下
        庄と西安下庄である。(歩行約5.2㎞)

        
         JR大畠駅から防長バス町立橘病院行き約40分、橘庁舎前で下車する。

        
         湾に浮かぶ嵩山。

        
         往古は天台宗の安楽寺と称していたが。室町期の1548(天文17)年に泉州の吉村宗次
        の嫡子・吉村清三郎が得度して,宗信と号し浄土真宗に改宗する。

        
         往古には正受院と称した快念寺(浄土宗)は、
1606(慶長11)年安下庄の正分・庄領主
        吉井元武が堂宇を再建し、元武の法名(快念居士)をとって快念寺と改称する。
         1866(慶応2)年6月7日幕府軍艦長崎丸が安下庄を砲撃し、第二次幕長戦争が開戦す
        る。15日には松山藩軍が安下庄に上陸して戦闘後に占領する。それから数日間、当寺(本
        陣)、安楽寺などを陣所にする。
(周防大島八十八ヶ所1番札所あり)

        
         古川沿いを川下へ向かう。

        
         長尾八幡宮は、平安期の977(貞元2)年宇佐八幡宮より勧請し、安下庄大畠の地(現在
        地の後方)に創建される。後に白窪の地に移され、更に現在地へ遷座する。

        
         慶長年間(1596-1615)に災禍があったが、1916(大正5)年に再建された現在の社は、入
        母屋造に唐破風の拝殿と、流造に千鳥破風を備えた神殿である。

        
         宮川に架かる宮橋。

        
        
         往還筋の建物は近現代のものがほとんどである。

        
         円錐な秀峰・嵩山は別名「大島富士」と呼ばれ、標高619mで裾野にはみかん園と集
        落が広がっている。

        
         1866(慶長2)年6月16日三手に分かれて屋代に向けて進軍した松山藩軍は、長州軍
        と嘉納山などの山上3ヶ所で激突した。この戦いは長州軍の勝利で終わり、安下庄の占領
        はわずか5日間で幕を閉じる。
         戦場の1つであった源明山頂上に「四境之役大島口戦跡碑」が建立されている。

        
         西安下庄に山口銀行の支店があるが、2017(平成29)年11月営業窓口が停止された
                よ
うだ。郵便局やガソリンスタンド、病院など日常生活に係わるものは整っている。

        
         旧安下庄郵便局は道路一段高く構えた2階建ての洋風建物である。1931(昭和6)年広
        島逓信局建築部局舎係で作成された局舎図面集に則って建築されたものである。外部は下
        見板張りの壁と上げ下げの窓、玄関は中央からやや右に寄せて設けている。

        
         日蓮宗妙法寺。

        
         旧橘町のマンホール蓋は、特産のみかん、砂浜、奇勝立岩、空海山が描かれているが、
        特定環境保全公共下水(市街化区域以外で設置される下水道)だそうだ。 

        
         県道大島環状線に出会うが、この先も民家が続いているが、同じような光景と思われる
        ので海岸通りを引き返す。

        
         地元の方による北風を受けず、久賀よりも2~3度暖かいという。バスは小松港経由大
        畠駅行きとなるので、橘庁舎前まで戻らなければならない。

        
         海岸線に恵比須神社。

        
         狭い路地を抜けるが、どこを歩いても綺麗な町筋だった。
      


周防大島の久賀は屋代島の中心だった町 

2020年12月10日 | 山口県周防大島町

        
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         久賀(くか)は北を安芸灘に面し、沖合5㎞には属島の前島がある。南は山麓で大部分が急
        傾斜で山地が56%を占め、湾に沿った平地に民家が集中する。
         湾岸堤防に沿って東西を国道437号が一直線に走り、山手側に旧道が並行する。(歩行
        約5㎞)

        
         JR大畠駅(10:30)から防長バス町立橘医院行き20分、総合庁舎前バス停で下車する。

        
         バス停向い側の維新百年記念公園は第二次幕長戦争の古戦場で、この戦役において
活躍
        した人々の功績をたたえた記念碑
「精忠不朽之碑」(右)、倉敷代官所及び総社浅尾藩陣屋
        を襲撃した事
件で斬首された隊士の碑(中央)、大坂で憤死した勤王庄屋伊藤惣兵衛(1814-
        
65)の「贈従五位伊藤君の碑」(左)の碑がある。

        
         旧道を大橋側に戻ると左手の山口県大島総合庁舎前には、楢崎剛十郎(諱は義綱)顕彰碑
        がある。楢崎は大野毛利家の家臣で第二奇兵隊の参謀を務めたが、1866(慶応2)年4月
        4日石城山に駐屯する同隊が暴発した際、制止しようとしたため暗殺される。碑文に
は「
        不攘金剛 第二奇兵隊参謀楢崎義綱君碑銘」とある。

        
         1866(慶長2)年6月第二次幕長戦争の際に、町は幕府軍の攻撃を受けて焼失してしま
        う。

        
         旧道筋は近現在に建てられた家が並ぶ。 

        
         寺の案内はないが「南無妙法蓮華経」のお題目があるので妙法寺と思われる。

        
         寺の向い側に追原(おいばら)社・天満宮がある。詳細不明だが天正年中(1573-1591)以前
        より道免にあったという。

        
         1651(慶安4)年大島宰判の勘場が久賀に置かれた。215年間続いたが第二次幕長戦
        争で町とともに建物が焼失する。その後、勘場に充てる家もなく屋代に移ったが、189
        6(明治29)年勘場跡に郡役所が設置された。(農協の敷地付近)

        
         町の中心だった大通りはシャッターが目立つ。(東天満町より古町方面)

        
         覚法寺(真宗)の開基は伊予国河野氏の家臣であった藤木信茂の第2子信雄という。山門
        左手には大洲鉄燃の生誕地を示す石柱あり。

        
         1834(天保5)年鉄燃は覚法寺住職の次男として生まれ、第一幕長戦争の際は、大島の
        同志たちと真武隊(のち第二奇兵隊に発展)を組織し、第二次では護国隊を率いて勇戦した。
         1888(明治21)年本願寺執行長となったが、老衰を理由に職を辞し、郷里に帰り19
        02(明治35)年4月入寂す。

        
         境内の「贈正五位大洲鉄燃師碑」には、
                孤島に身を起こし 護国の大義を防長に唱え
                仏法を修めて国を護り み仏の威光を広く知らしめ
                ここに天子の恩賞を浴せしは 永久不滅の名誉なり
                           (大正8年 陸軍大将寺内正毅撰文)

        
         人通りもなく同じ町並みが続く。(古町界隈)

        
         1866(慶応2)年阿弥陀寺は幕長戦争の兵火により焼失したが、当時の建物は総檜材を
        用いて荘厳を極めたものであったという。創建は天文年間(1532-1555)とされるが、由緒未
        詳である。

        
         玉神社は浦方の鎮守神で、漁人・商人によって祀られてきた。久賀市はいつ頃始まった
        かは明らかでないが、市は年2回開かれ、玉神社前の広場を中心に行われたという。

        
         旧道を中心として左右に路地が走る。

        
         津原川と宮崎川に挟まれた地は三角州となっている。

        
         「柳井地域広域水道」の「送水管空気弁」の文字がある。地図には金魚の形をした旧周
        防大島の4町のほかに、柳井市、旧大畠町、旧由宇町、田布施町、平生町、上関町が描か
        れている。

        
         御旅所風な場所に「記念物 幸松 昭和2年3月建設」の石碑があるが詳細不明である。

        
         宮崎川左岸を川上に向かい正面の森を目指す。(奥の山は嵩山)

        
         宮崎川に架かる石造7.2mの太鼓橋を渡り、八田(やあた)八幡宮の参道に入る。

        
         第2鳥居を潜ると247段の石段は、途中で左に折れてL字型となっている。

        
         石段を上がった所が見晴台とされるが、木の生長で展望を得ることはできない。反対側
        に明治以来2,734柱が祀られる護国神社がある。

        
         神社裏の維新墓地には、伊藤惣兵衛や楢崎、世良のほか、第二次幕長戦争や戊辰戦争で
        散った大島出身者23名の霊標が、玉垣に囲まれた中に並ぶ。

        
         「幸の石垣」といわれ、石垣の中にある5つの扇型を石を見つけて幸せになろうとあ
        る。(右手は手水舎)

        
         八田八幡宮は、貞観年間(859-876)山城国男山八幡宮(現岩清水八幡宮)より勧請したとさ
        れるが明らかでない。社殿の周囲には回廊が設けてある。

        
         平安期の1180(治承4)年南都焼討によって焼失した東大寺再建の大勧進に任命された
        俊乗坊重源は、用材を求めるため国司として周防国へ下る。用材を求める一方、国土の平
        定と布教活動のため領内を巡回する。この地へ立ち寄った際、諸病に悩む民衆のために石
        風呂を創建したと伝える。(説明板より)

        
         花崗岩と粘土で築造された石積式蒸風呂で、史料で存在が確認できるものとして日本最
        古のものとされる。(国重要有形民俗文化財)

        
         薬師堂(石風呂薬師堂)境内から見る久賀歴史民俗資料館。周防大島出身の民俗学者・故
        宮本常一氏の指導を受け、農耕・漁労・瓦の制作・日常生活の用具とハワイ移民資料が保
        存展示されている。(諸職用具は国重要有形民俗文化財)

        
         老いた人たちが「老いても嫁の手を煩わすことなく、健康で幸せな生涯を全うできる」
        という霊験から嫁不要(よめいらず)の観音様と呼ばれるようになったとか。ここには嫁いら
        ず観音とぼけ封じ観音の2体が祀られている。

        
         この地域の地形は北向きで、8月頃から3月頃まで北からの風を受ける。荒天のときは
        船で海岸に近づけず築港は長い間、地域の課題とされたが、江戸末期と明治初期に2つの
        波止が築造された。

        
         1826(文政9)年庄屋の伊藤惣左衛門は、久賀の漁業・海運業の発展を考え、家財を傾
        けて波止の築造に乗り出す。しかし、当時の技術的制約から立地上やむを得ず、村里から
        離れた道もない大崎鼻に築造される。

        
         約半年をかけて造られた総延長90m、築上(高さ)5.2mの堤防は、地元で「古波止」
        と呼ばれている。船繋、船荷の積降ろし用に用いられた施設であった。

        
         古波止から見る久賀の遠景。

        
         古波止は村外れにあって十分に機能していなかったが、当時、幕末の幕府軍攻撃で覚法
        寺が焼失したため、再建の話が持ち上がったが、住職大洲鉄燃はこれを断り、久賀の発展
        のため新しく波止を築造することを説いた。着工から約4年の工事の末、1879(明治1
        2)年3月に新波止は竣工した。
         
        
         碑文を刻み後世に伝えることと、築港事業を斡旋・発起した人々の名を刻み顕彰する久
        賀築港碑が建立されている。


周防大島の森・平野に星野哲郎・宮本常一記念舘 

2019年11月30日 | 山口県周防大島町

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         森・平野は屋代島の北海岸(内浦)中部の入海東端に位置し、人家は海岸付近に密集し、
        山麓部にも集落が発達し農業地域(みかん栽培)となっている。

         1889(明治22)年町村制の施行により、神浦、和佐、森、平野村が合併し、村名は合
        併時の中心であった森、平野の1字をとって「森野村」とし、1955(昭和30)年油田、
        和田、森野、白木村が合併し、東和町となったが町行政の中心地であった。(歩行約4㎞)


           
         伊保田港バス停から森野小学校バス停で下車し、次のバス時間(16:04)を確認して町図書
        館へ向かう。

           
         星野哲郎記念館や民俗学者・宮本常一記念館があり、歩いた後のバス待ち時間にと思っ
        ていたが、旧森野村役場跡の場所を教えていただいた地元女性との長話で見学することが
        できなかった。

           
         平野は、1974(昭和49)年埋立てによって完成した国道437号線と、その山手側に
        並行して2本の旧道がある。中間の道も埋立てによってできた道だが、
賑やかな時代もあ
        ったと思われるが、今は静かな通りとなっている。

        
         中間の道に郵便局、駐在所、JA、公民館などがあり、学校や図書館、行政機関は海辺
        の埋め立て地に移転している。(村井酒店)

           
         200mほど歩くと片添ヶ浜への道に合わす。

           
         三叉路を左折すると正面に白木山。

           
         3本目の道に入る

           
           
         古くからの道のようで山手側に古民家が点在するが、道沿いは空家と空地が目立つ。

           
         森地区との境にある八坂神社。平野地区民は下田八幡宮の氏子で、八坂神社はその末社
        として位置づけられている。

           
         八坂神社正面には旧小学校校舎が図書館に引き継がれたが、現在は空家のまま放置され
        ている。

           
         1955(昭和30)年合併により東和町が発足すると、森野村役場があった地に町役場が
        置かれた。町名は郡の東部にあって4ヶ村が「和」していくことを祈念したとされる。(
        されているのは旧東和町教育委員会)

           
         反対側には塀に囲まれた大きな民家。

           
         「桜・みかん・鯛・みかんの花」がデザインされた旧東和町のマンホール蓋。

           
         湾と三方を山に挟まれた平野地区。

           
         1696(元禄9)年建立の神山神社の石鳥居は、森集落の有力者であった岡本仁兵衛が寄
        進したとされる。
(周防大島町指定文化財)

           
         伊予国の弓削神社から勧請して森村の神山(こうのやま)に祀ったのが始まりとされるが、
        創建年などは不明とのこと。その大破したので現在地に遷座し、1871(明治4)年現社号
        に改称されたが、五穀豊穣と家内安全の神として崇敬されている。

           
         周防大島はみかんの産地。至る所にみかん畑が広がる。

           
         往古は法寿院・法明院という禅宗が2ヶ所あったが法寿院は断絶し、法明院は神山神社
        の社僧寺として栄えたが衰退する。慶安年間(1648-1651)に再建され、1870(明治3)
        に和佐村の心月院と合併し、寺号を法心寺(曹洞宗)と改めた。

           
           
         森の一部に古民家が残る。

           
         山手の路地歩きを終えて、下車したバス停からJR大畠駅に戻る。


周防大島町の情島は山口県最東端の地 

2019年11月30日 | 山口県周防大島町

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         情島(なさけじま)は周防大島町の最東端の瀬戸ヶ鼻から北方750mの海上にあり、島の
        北は広島・山口・愛媛の三県の境界水域である。伊保田港から北東へ3.1㎞の位置にあり、
        1日4往復の町営渡船が就航している。(歩行約2.8㎞)

        
         JR大畠駅(8:58)防長バス周防油宇行き約1時間10分、伊保田港バス停で下車する。

        
         桟橋から目指す情島が見える。

        
         町営の渡船に乗船する。(11:00)

        
         “せと丸”は定員23名の小さな船であるが、何といっても操舵室と客室が一緒なのが
        特徴である。町営のためか運賃は290円と安価で、船長に直接支払うシステムになって
        いる。
        
         今日はシケでデッキに出ることはできないが、釣り客と片道15分の船旅である。島の
        東側に廻り込むと航路から仏の浦集落が見えてくる。

        
         本浦渡船場に到着すると、防波堤は太公望たちにとって釣り場のようで、多くの人たち
        が釣りを楽しんでいる。

        
         桟橋を渡ると本浦集落。

        
         港に祀られている恵比寿さん。

        
         車の通行がないので気ままに歩くことができる。

        
         本浦集落の端にある情島神社。

        
         島の氏神とされる情島神社は、かつて村上水軍の大将であった村上武吉が、1601(慶
          長6)年に創建したと伝えられている。(旧社号は荒神社)

        
         境内から見る本浦の町並み。

        
         さらに進むと本浦集落の目の前に無人島の諸(もろ)島。

        
         1976(昭和51)年7月2日情島沖合で宮崎から広島港に向かうフェリー「ふたば」と、
        パナマ船籍の貨物船が衝突してフェリーは沈没するが、情島の住民の献身的な救助活動に
        より犠牲者の数を最小限に食い止めることができた。
         その海難事故による犠牲者(33名)の慰霊碑が、諸島海峡を望む位置に建てられている。

        
         海岸沿いの道を進む。(前を歩く人は釣り人)

        
         情島小中学校は、1888(明治21)年和田村立油田小学校分教場として創立される。1
        959(昭和34)年には生徒数122名いたそうだが、2006(平成18)年には島にあった
        児童福祉施設「あけのぼ寮」で暮らす子供たちだけとなる。寮が岩国市に移転した201
        7(平成29)年3月に休校となる。「山口県のあけぼのをはじめに仰ぐ東の海~」と大島出
        身の星野哲郎作詞の校歌が、島内に響き渡ることはないのであろうか。

        
         1951(昭和26)年に開設された「あけぼの寮」の感謝碑。

        
         大畑(おばた)集落は無住だそうだ。

        
         伊の浦集落へは峠越えとなる。

        
         下って行くと伊の浦港が見えてくるが、ここも太公望にとってはよい釣り場のようだ。

        
         本浦から海沿いの道を20分ほど歩くと終端の伊の浦集落。

        
         情報によると半分以上が空家だとか‥。

        
         猫の額ほどの狭い空間に十数軒が軒を並べる。

        
        
         愛媛県と広島県に浮かぶ島々を眺めながら本浦に戻る。

        
         右手に「たばこ酒類店」と表示され島唯一の店があったようだ。以前はトップカーで移
        動販売されていたようだが、現在はどのようにされているか詳細不明である。

        
         本浦は島で一番大きな集落だが、島には郵便局もなく港の所にポストが置かれている。

        
         渡船が入出港するので他の集落とは表情に違いをみる。

        
         山の斜面に民家が建ち並び、その間を階段でつないでいる。

        
         会えたのは島民でなく猫たちだけだった。

        
        本浦港。

        
         本浦集落の端には、地域づくりの拠点を担う保健福祉館がある。ここを過ごすとトンネ
        ルが見えてくる。

        
         仏の浦集落はトンネルの先にある。

        
         本浦以外の集落と同様に7~8軒だけのこじんまりした集落。

        
         この島にも悲しい出来事がある。1945(昭和20)年代に島民が戦災孤児などの少年た
        ちを集め、船の舵とりとして児童労働させていたとされる「舵子事件」が問題となった。
         1958(昭和33年)に「怒りの孤島」として映画化されたが、児童虐待したという事実
        と同時に、その引き金となった戦災孤児を生んだ歴史も忘れてはならない。

        
         わずか1時間ちょっとの滞在であったが、多島海の景観を楽しむことができた。最後に
        情島神社を拝んで12時20分の定期船で島を離れる。

        
         伊保田港は防予フェリーが寄港し、本土と四国を結んでいるが、その片隅に町営の渡船
        場がある。(13時13分の大畠駅行きのバスに乗車)


周防大島の伊保田・油宇に戦艦陸奥記念館となぎさ水族館 

2019年10月31日 | 山口県周防大島町

           
           この地図は、国土地理院長の承認を得て、2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)            
         伊保田(いほた)と油宇(ゆう)は、屋代島の東端に位置し、北海岸(内浦)の沖に情島など諸島
        が、南海岸(外浦)には片島が浮かび、両地区を狭隘な県道60号線(橘東和線)が結ぶ。
                 1889(明治22)年町村制の施行により、双方が合併して各1字をとって油田村として存
        立していたが、昭和の大合併で東和町となり、現在は周防大島町の一部区域である。(歩行
        
約6.5㎞)


           
         JR大畠駅から防長バス周防油宇行き(8:58)に乗車、瀬戸内海を眺めながら約1時間1
                5分のバス旅を楽しむと、終点のバス停には10時10分に到着する。(復路は13時)

           
         バス停から海側へ向かい三差路を左折して通りを歩く。

           
         海へは1m幅の路地で結ばれている。

           
         周防大島八十八ヶ所第71番札所へは左の狭い道に入る。

           
         階段を上がって行くと家並みが見えてくる。

           
         札所とされる薬師堂。
 


           
         通りは湾に沿って緩やかに湾曲している。国勢調査によると油宇の人口は299人・1
        68世帯とされ、空家と住宅地跡が目立つ。

           
         東の港前で海岸通りと合わす。

           
         海岸通りにも隙間なく家が建っていたようだが、今では空地が目立つ。

           
         三叉路に灯籠があり、左道の奥には鳥居が見える。

           
         約550mの海岸通りを歩くと県道に合わす。

           
         この付近は塀が並ぶが海岸沿いであったのであろう。

           
         油宇は東に保木鼻、西に西の鼻が南に突き出て、凪の時は海上が油を流したようになる
        ので名付けられたと云われる。

           
         西港の灯台。

           
         大きな山門の下は石段で、山門には天井絵が全70枚あるとか。

           
         山門は檀家の大工と住職が工夫しながら建てたと云われる。

           
         元は真言宗であったが江戸時代初期に浄土宗となり、明治初期に和田の西浄寺と合併し
        て浄西寺となる。

           
         浄西寺石塔婆(浄西寺三尊碑)は、鎌倉期の1202(建仁2)年造立で、在銘石塔物として
        は瀬戸内海地方最古の石塔とされる。当初は、阿弥陀、観世音、勢至の三尊碑であったが、
        勢至碑が失われて二基だけ残っている。右の阿弥陀碑は上部が欠けているが、左の観世音
        碑はほぼ完全な状態である。

           
         境内から見る油宇集落。1866(慶応2)年の四境の役大島口の戦いで、幕府軍艦・富士
        丸と大江丸が油宇を攻撃する。寺の石垣に被弾跡が残されていたようだが見落とす。

           
         新宮神社の鳥居と油宇公民館。

           
         神社の創建年月は不詳だが、1648(慶安元)年に再建される。参拝を終えてバス停に
        戻る。

           
         伊保田バス停に降り立ち、旧油田村役場の位置を確認すると、油田小学校下で現在は民
                地になっているとのこと。

           
         バス路線を引き返して小学校下に辿り着くと、既に周囲には民家が建って痕跡は残され
        ていない。

           
         門構えの家も存在する。

            
         海側が玄関のようだ。 

           
         通りには平入りの民家が並ぶ。

           
         遊ぶ子供がいないのか草ぼうぼうの児童公園。

           
         深広寺(真宗)の門には、猪が境内に入るので夜間は門扉を閉める旨の貼り紙あり。

           
         旧道の東端で県道351号線(油田港線)に合流する。

           
         海岸線を見ながら引き返す。

           
         伊保田港にはJR柳井港駅までの防予フェリーがあるが、1日4便と少なく柳井港駅ま
        で約1時間20分を要す。情島への離島航路も発着する。

               
         海岸線を歩くこと15分(約1㎞)で陸奥記念公園。沈没現場の海を望む丘には、海底よ
        り引き上げた船体の一部が展示してある。(副砲)

        
         1947(昭和22)年に引き上げが試みられたが、作業は困難を極め中断する。1970
        (
昭和45)年に作業が再開され、8年に及ぶ作業の末、船体の75%が引き上げられる。(
        舷艦首) 

        
        
         1921(大正10)年に完成した戦艦「陸奥」は、連合艦隊の旗艦として活躍していたが、
        1943(昭和18)年6月9日伊保田沖で謎の大爆発を起こし沈没する。(副砲とスクリュー)

        
        
         丘には沈没した方位が示されている。右手の柱島で荼毘に付されたため、洲鼻と呼ばれ
        る浜には「陸奥英霊の墓」が、沈没地点の方角に建立されている。

           
         陸奥記念館の入口には主錨が置かれている。

           
           
         陸奥記念館には海底から引き揚げた船体の一部や、将兵の身の回り品。それに遺族から
        提供された手紙や資料が展示されている。


           
         向かい側には日本一小さい「なぎさ水族館」があるが、バス時間の関係で入館を残念し
        て
記念館前バス停からJR大畠駅に引き返す。