この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
和佐(わさ)は屋代島の南海岸(外海)東部の入海に面し、砂州上に立地する。沖合に笹島が
浮かぶ。
地名の由来は、当地が南向きの暖かい所なので、夏秋作とも田畑に早生物を植え付けた
ため、古くから早生(わせ)村といったが、いつの頃からか和佐と呼ぶようになったという。
(歩行約3.1㎞)
駐車地は集落西端に星のビーチ駐車場がある。小さなビーチは三日月状になって、その
突端に2つの星形のモニュメントがある。
海岸通りの道は埋め立てによってできたもので、それ以前は、この道がメインストリー
トであったと思われる。
和佐には大きな川はなく、山に降った雨水をスムーズに海へ流し出す水路が設けてある。
通りの海側は短冊状に地割りされている。
新しい家の屋根には漆喰補強が見られない。
地内で唯一の商店。
神浦(こうのうら)からの道を横断して次の通りに入る。
なまこ壁の民家は目立つ。
建替えか改築された家が多い。
東端に和佐東バス停。
高波に対して海岸線に石垣を築くという防御の工夫がなされたが、強固な石垣でも高波
のために流されることは珍しくなく、石垣だけでなく住宅まで流されてしまうことがあっ
たようだ。
石垣の内側にすぐ主屋を建てるのではなく、作業場兼納屋を建て、その後ろに建てる形
式がとられている。
住宅から海に出入りできるように開放部分があるが、高波時には仕切り板で閉じるよう
な仕組みになっている。
新しくできた堤防と,その沖に並行して波消しブロック。
遠くに見える山々は四国・愛媛だろうか?
中世以前の和佐はどうであったかの文献資料はないとされるが、建武2年(1335)の銘が
ある宝篋印塔が残っていることから豪族がいたものと思われる。
慶長年間(1596-1615)平岡氏が給領主として支配し、幕末まで支配下にあったとされる。
(神浦への道を上がって行く)
平岡氏の陪臣であった家は、和佐には一軒も残っていないそうで、その中で最初に退転
したのが猪口氏で、百姓もしていたが生活に耐えかねて、武士の株を屋代の者に売って萩
に出た。
一人娘がいて家中奉公として住み込みをしていたが、萩の和田家の後妻として嫁いで、
その長男が木戸孝允という。
県道東和橘線に合わすと和佐公民館前にバス停。JR大畠駅から周防油宇行きバスは3
便のみである。(復路も同便数)
右手の小高い丘に木造校舎が見えるのが開導小学校の建物。記念碑の最上段に作詞家・
星野哲郎氏の名が刻まれているが、彼の故郷であり母校であるとのこと。
石段を上がると門柱に表札が残されている。1873(明治6)年開校、建物は1957
(昭和32)年築のもので、2000(平成12)年3月閉校する。
内部は閉校当時のままの姿をとどめている。
敷地内は猪の運動場となっているが、地元の方が草刈りするなど管理されているようだ。
学校と神社は隣合わせである。
和佐八幡宮の創建年月は不明だが、1603(慶長8)年に再建されたという。神事は旧和
田村にある筏八幡宮の神官が勤めている。
宝篋印塔への案内に従って山手へ向かう。
和佐共同墓地に建武2年(1335)建立の宝篋印塔がある。基礎部分の左右に「建武二年」
「六月十八日」と銘があり、塔身の4面は四方仏を彫り、成仏祈願の光明真言が彫られて
いる。
さらに舗装路を上がって行くと周防大島八十八ヶ所第76番札所がある。ここにはかっ
て心月院という曹洞宗の寺があり、1648(慶安元)年給領主である平岡氏の菩提寺となる。
明治の廃仏毀釈を受けて、1870(明治3)年森集落の法明院と合併して廃寺となり、和佐
には観音堂として存続した。
参道石段から見る和佐集落。正面に笹島が浮かぶ。
六地蔵さんに挨拶を済ませて駐車地へ戻る。