この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
内入(うちのにゅう)は屋代島の東部、厨子ヶ鼻に位置し、集落は湾入した海岸砂州に立地
する。地名の由来は内浦の入海の意によるという。
1889(明治22)年町村制施行により内入、和田、小泊村が合併して和田村、その後に
東和町となり,現在は周防大島町大字内入である。(歩行約2.4㎞)
小泊への道路脇に駐車して内入バス停を起点とする。
内入は和田集落と接する。
海岸線に石垣を築くことで高波対策が行われてきたが、今ではこの石垣を埋めて海岸道
路(堤防)を造り、海面上に波消しブロックが並行する形で置かれている。
小泊への道入口に「村上武吉終焉の地」という石柱が建てられている。
この地は山手に成立した郷とよばれる集落と、海岸低地に発達した浜とよばれる集落で
形成されている。
海岸沿いの集落の屋敷地は、その面積は均一ではないが整然と地割されており、散村的
な山手の郷とは対照的である。
通りでひときわ目立つ民家。
なまこ壁のある家。
旧東和町時代の親子マンホール蓋は、中央に町章、周りに桜、みかんの花と実、鯛がデ
ザインされた環境保全型下水道である。
モダンな住宅も見られる。
田向川東側の集落。
この先は和田集落。
田向川まで戻って山手へ向かう。
次の三差路に元正寺(74番札所)への案内がある。
入口にあるバクチノキ。名前の由来は、樹皮が次々に剥がれ落ちるため、博打に負けて
身ぐるみ剥がされるのにたとえたという。
曹洞宗の元正寺は、往古に了浄院という小庵であったが、慶長年間(1596-1615)に毛利家
船手組頭村上武吉(たけよし)が、当地の給領主になった時に再興された。
境内から見る内入集落。
村上武吉(1533頃-1604)は幼少にて父を喪い,23歳にて三島海賊の総大将となる。15
55(天正24)年10月1日毛利氏を支援して陶晴賢を厳島にて全滅させる。
その後、毛利氏と提携して生まれ故郷の能島を根拠として海賊から領主的存在となる。
秀吉の海賊狩りに幾多の抵抗を試みたが、ついに屈服を止むなきに至り、終焉の地を和田
に定め仏門に帰依する。
境内左手の墓地入口に土塀を巡らす中に宝篋印塔が建ち、慶長9年(1604)の銘があるの
が村上武吉の墓である。背後には歴代住職と並び、慶長12年(1607)の宝篋印塔は武吉室
(妻)の塔とされる。
郷の家々は高所を宅地とし、その上の谷に沿って山の田が拓かれている。
内入には山から海に向かって6本の水路が通っている。この溝は山から流れ出る水を灌
漑用水として用い、また、山からの水をスムーズに海へ流して屋敷を守る役目も果たした。
旧塩田地帯とされる地は屋敷と畑地となっている。
旧道に出て中央部へ引き返す。
古民家が点々と見ることができるが、どれも無住で崩壊の途にある。