この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
錦見(にしみ)は錦川の左岸、岩国山の南麓に位置する。かつては当地の大半が入江であっ
たが、徐々に沖積扇状地として発達してきた。
関ヶ原の戦い後、吉川氏が岩国に入封すると、城下町建設のため錦川の川筋を西方に大
きく迂回させ、旧川床や洲を埋め立て、町地や武家地として造成する。(歩行約4.7㎞)
JR岩国駅(10:35)から天神町経由のバスに乗車し、東錦見バス停で下車する。
1929(昭和4)年4月5日に岩国駅として開業した西岩国駅は、1934(昭和9)年に
岩徳線が全通して山陽本線となるが、その頃が当駅の全盛時代であった。
駅舎前には木炭自動車が展示されているが、外観も車内も、使われていた当時と同じ造
りで復元されたという。
1942(昭和17)年に西岩国駅と改称し、1979(昭和54)年に駅舎は永久保存される
なった。(国の登録有形文化財)
錦川河口の今津(船着場)と旧本郷村を結ぶ約30㎞が岩国往来とされ、その一部が錦見
の中を通っていた。関ヶ原の戦い後、吉川広家が出雲国から岩国往来を利用して岩国の地
に入ったとされる。
1600年代初頭に錦見中心部の町割りが行われた後、今津へと続く地区東部が市街地
に拡張されていった。新小路は名のとおり、錦見七町よりやや遅れてできた町である。
新小路にある西光寺(真宗)は、1626(寛永3)年錦見の中村に創建され、1729(享保
14)年現在地に移転する。
男性用洋品店は洒落た造りの看板建築。
浄福寺(真宗)は室町末期の創建と伝え、1604(慶長9)年寺地を拝領したという。
寺前から鍵の手になっていたと思われるが、この先から新町までが善教寺小路とされる。
1925(大正14)年に建てられた旧岩国税務署庁舎は、木造2階建ての左右が張り出す
ルネサンス様式である。現在は美術教室の看板が掲示されている。(国登録有形文化財)
岩国錬武道場は、陸軍元帥・長谷川好道の邸宅跡に建ち、寄棟造桟瓦葺、妻入で正面中
央に唐破風造の玄関を付けている。外部は下見板張とし、内部は演技場の東面に師範台、
南面に観覧席と支度室を下屋で設ける。
長谷川家から生誕地を当時の岩国町に寄付され、有志の寄付によって、1927(昭和2)
年に記念道場が落成する。(国登録有形文化財)
善福寺(真宗)は、1617(元和3)年に善教寺脇に小庵を建立したが、5世の時に小庵を
たたんで善教寺内に居住。1801(享和元)年に善教寺北隣に寺地を拝領したが、のち善教
に移ったとされる。
現岩国小学校隣にある岩国学校入口には、藤岡市助が発明したアーク灯(複製)が設置さ
れている。
校舎は、1872(明治5)年の学制発布に先がけて、1870(明治3)年12月に「錦見
小学」として建てられた。(国登録有形文化財)
1階が教室、2階が教員詰所で、3階の搭屋は、1872(明治5)年に増築され、寺の鐘
を移して時を告げたとのこと。
宇野千代も学んだ校舎に、現在は電気工学者の藤岡市助コーナーなどが設けられている。
元祖岩国寿司と銘うった三原屋附近が日光寺跡で、1909(明治42)年に開業した岩国
電気軌道の終起点駅があった地でもある。
岩国寿司の由来は、岩国藩主に命じられて考案された保存食という説や、藩主への献上
品といった説などがある。
百十銀行は、1878(明治11)年11月に百十番目の国立銀行として設立され、191
5(大正4)年岩国支店が塩町に開業する。1934(昭和9)年に現在地へ新築移転したが、
その後、合併新立により山口銀行岩国支店を経て錦帯橋支店となる。
箱型のポロポーション、直線的なパラペット、四角な窓と4本のイオニア式柱を中心に
まとめられている。
北の筋を本町通りと称し、錦帯橋から玖珂町、柳井町、米屋町、塩町が設けられた、南
の筋は裏町で、材木町、魚町、豆腐町に分け、俗に錦見7町と称した。
塩町は塩・塩合物(塩魚・塩干物)を扱った塩座があったことによるものと思われる。塩
町東端に元禄年間(1688-1704)の頃まで木戸門があったが、町と地方(じかた)を区分するた
め新小路町に移設された。
塔屋を持つ文具の勉強堂さん。
景観法に基づく建造物指定の細田写真館。木造2階建ての建物は、前面が擬洋風の看板
建築物である。
大明小路は,錦帯橋の橋元から日光寺(現在の新町ロータリー)北角まで3町56間(約4
29m)。
名の由来は、日光寺の西隣にあった諦明院(だいみょういん)に山伏が居住していた。毎年大
峯へ御代参していたが、この者が居る小路故に諦明小路というようになったとか。世間は
これを誤って大明小路にしたという。
椎尾八幡宮の緑地内に火伏地蔵尊。
岩国レンコンを用いた岩国寿司とハスのさんばい、大平(おおひら)が岩国三大郷土料理と
される。
「さんばい」は、れんこんとにんじん、白身魚を酢で和えた料理で、由来は「三杯酢」
からという説と、「田の神様」を「さんばい」と呼んでいたことに関係する説がある。
大平は鶏肉、里芋、人参、牛蒡といった根菜や、こんにゃくなどの具材を使った煮物で
ある。平たく大きな器に盛られるため、この名があるとか。汁が多く味付けは薄かったの
で、煮物ではあるが汁ごと食することができる。
椎尾(しいのお)八幡宮の参道。
参道から錦見(岩国1丁目)と城山、踊り場に稲荷社。
正面に中横町から臥龍橋へ至る道。
1626(寛永3)年に領主・吉川広正が、吉川家歴代の守護神である駿河八幡宮の分霊を
勧請したのが始まりという。その際、瀬田村の椎尾にあった猿田彦神(椎尾社)が祀られて
いたのを合祀して椎尾八幡宮と称した。
社殿は三間流造りで平入り、屋根は切妻造りで、正面には唐破風屋根が付いている。(景
観法に基づく建物指定)
拝殿に向かって左手には、天神社、厳島神社、祇園社、春日社,恵美須社などの摂社が
ある。
大明小路に戻って錦帯橋を目指す。
藤重家は薬医門と小屋根付き板塀で囲まれている。(景観法に基づく建造物)
山本家も薬医門を構え、小屋根付き白壁造りの高い塀に囲まれている。(景観法に基づ
く建造物)
通りには武家屋敷であった割烹旅館・半月庵がある。宇野千代の小説「おはん」の舞台
にもなった旅館である。
入口には「幸福は遠くにあるものでも、人が運んでくれるものでもない。自分の心の中
にある。宇野千代」とある。
朝枝家も薬医門を構え、塀は小屋根付きの白壁造りである。(景観法に基づく建造物)
新上家も薬医門を構え、敷地境界は塀と庭木で高くされている。(景観法に基づく建造物)
大明小路は岩国往来で両側が武家屋敷地であった。ここにも宇野千代の一節が紹介され
ているが、「人の顔つきも習慣である 笑顔が習慣になれば しめたものである」とある。
佐伯家も薬医門と土塀によって囲まれ、武家地らしい佇まいをみせる。(景観法に基づく
建造物)
錦帯橋の東詰にある「しろたい食堂」と「お土産処あきもと」は、木道2階建てで一対
のようにみえる。道路沿いの棟は切妻造りで、2階は錦川を眺めるための腰窓が設けてあ
る。(景観法に基づく建造物)
大明小路の突き当りが錦帯橋。
土手町筋に威風堂々とした木造3階建ての旅館「白為」がある。建物は桟瓦葺き、入母
屋造で錦帯橋側に開口部を設けている。(景観法に基づく建造物)
土手町筋。
松原家住宅の中土手側は平入りの町家造りであるが、川土手側から見ると大屋根の一部
に3階が増築されている。(景観法に基づく建造物)
杉平家は松原家と山根家の間にあって、平入りの町家住宅である。手前の山根家住宅は、
厨子2階の平入りである。(景観法に基づく建造物)
本町通りの玖珂町、玖珂本郷の商人を移住させて開いた町。
国安家住宅は、江戸期に鬢付油製造販売業を営んでいた「松金屋」によって、1850
(嘉永3)年頃に建てられたとされる。1935(昭和10)年に国安家の所有となり、現在は市
所有で「本家・松がね」として観光交流施設になっている。(国登録有形文化財)
国安家住宅の向い側にある桝本家住宅は、切妻造平入りの木造2階建て、間口の大きな
大店であった。
国安家住宅と並びに建つU家住宅。
上横町との四差路を過ごすと柳井町。柳井津の商人を移して構成した町。(Ⅿ家住宅附近)
柳井町(岩国1丁目15)にあるH家住宅。
商品名によって命名された米屋町。中期以降は鍛冶屋の人々が居住し、鍛冶屋町の名が
ある由縁である。
景観法に基づく建造物指定の柳原喜輪商会。建物は切妻造平入りの木造2階建てで、間
口が狭く、奥に長い屋敷割りの土地に建つ典型的な町家である。この先は塩町であるが、
下横町筋を右折する。
明覚寺(真宗)は、1616(元和2)年創建と伝える。山門脇には日本の整体指導者で野口
整体の創始者・野口晴哉(はるちか・1911-1976)の言葉が掲げてある。
次の四差路を右折すると登富町。1853(嘉永6)年当時は不景気で、豆腐町の改称を願
い出たが許されず、字替えを許されて登富町に改めたという。
登富町商店街の一角にある厨子2階のK家住宅。
魚町は臭気その他の点において、本町に置かず裏町に置かれた。
「うまもん」の表札が掛けられた商家がある。建物は木造の切妻造の平入り、桟瓦葺き
の中2階建てである。うまもんの看板は「カワウソ」が支えている。外観は3,4軒が並
ぶように見えるが、内部は一帯の建物とのこと。
300年続いた醤油製造(千歳醤油)であったが、1958(昭和33)年に漬物製造販売を
始められたとのこと。
大正期に改築された際、展望用に3階が設けられた。
三差路を過ごすと材木町又は木町と称した筋である。
瑞相寺小路(寺町通り)は工事中。
法眞寺(浄土宗)は、1601(慶長6)年に横山村より当地に移転したという。
岩国城、錦帯橋と錦川の鵜飼、中央に岩国市章がデザインされたマンホール蓋。
瑞相寺(浄土宗)は、1605(慶長10)年柳井の端相寺の本尊を引いて創建されたという。
西福寺(真宗)は慶長移封の時、祖生村(周東町)に小庵を創建して法明寺と称した。16
04(慶長9)年に川西に移し、元和年間(1615-1624)に当地に移転したという。
川土手(県道錦帯橋線)に出て、錦川対岸の横山や錦帯橋、岩国城などを眺めながら錦帯
橋バス停に出る。