ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市錦見‥岩国往来から錦見七町

2024年09月26日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         錦見(にしみ)は錦川の左岸、岩国山の南麓に位置する。かつては当地の大半が入江であっ
        たが、徐々に沖積扇状地として発達してきた。
         関ヶ原の戦い後、吉川氏が岩国に入封すると、城下町建設のため錦川の川筋を西方に大
        きく迂回させ、旧川床や洲を埋め立て、町地や武家地として造成する。(歩行約4.7㎞) 

        
         JR岩国駅(10:35)から天神町経由のバスに乗車し、東錦見バス停で下車する。

        
         1929(昭和4)年4月5日に岩国駅として開業した西岩国駅は、1934(昭和9)年に
        岩徳線が全通して山陽本線となるが、その頃が当駅の全盛時代であった。
         駅舎前には木炭自動車が展示されているが、外観も車内も、使われていた当時と同じ造
        りで復元されたという。

        
         1942(昭和17)年に西岩国駅と改称し、1979(昭和54)年に駅舎は永久保存される
        なった。(国の登録有形文化財) 

        
         錦川河口の今津(船着場)と旧本郷村を結ぶ約30㎞が岩国往来とされ、その一部が錦見
        の中を通っていた。関ヶ原の戦い後、吉川広家が出雲国から岩国往来を利用して岩国の地
        に入ったとされる。

        
         1600年代初頭に錦見中心部の町割りが行われた後、今津へと続く地区東部が市街地
        に拡張されていった。新小路は名のとおり、錦見七町よりやや遅れてできた町である。

        
         新小路にある西光寺(真宗)は、1626(寛永3)年錦見の中村に創建され、1729(享保
          14)
年現在地に移転する。 

        
         男性用洋品店は洒落た造りの看板建築。

        
         浄福寺(真宗)は室町末期の創建と伝え、1604(慶長9)年寺地を拝領したという。

        
         寺前から鍵の手になっていたと思われるが、この先から新町までが善教寺小路とされる。

        
         1925(大正14)年に建てられた旧岩国税務署庁舎は、木造2階建ての左右が張り出す
        ルネサンス様式である。現在は美術教室の看板が掲示されている。(国登録有形文化財)

        
        
         岩国錬武道場は、陸軍元帥・長谷川好道の邸宅跡に建ち、寄棟造桟瓦葺、妻入で正面中
        央に唐破風造の玄関を付けている。外部は下見板張とし、内部は演技場の東面に師範台、
        南面に観覧席と支度室を下屋で設ける。
         長谷川家から生誕地を当時の岩国町に寄付され、有志の寄付によって、1927(昭和2)
        年に記念道場が落成する。(国登録有形文化財)

        
         善福寺(真宗)は、1617(元和3)年に善教寺脇に小庵を建立したが、5世の時に小庵を
        たたんで善教寺内に居住。1801(享和元)年に善教寺北隣に寺地を拝領したが、のち善教
        に移ったとされる。

        
         現岩国小学校隣にある岩国学校入口には、藤岡市助が発明したアーク灯(複製)が設置さ
        れている。

        
         校舎は、1872(明治5)年の学制発布に先がけて、1870(明治3)年12月に「錦見
        小学」として建てられた。(国登録有形文化財)

        
         1階が教室、2階が教員詰所で、3階の搭屋は、1872(明治5)年に増築され、寺の鐘
        を移して時を告げたとのこと。

        
         宇野千代も学んだ校舎に、現在は電気工学者の藤岡市助コーナーなどが設けられている。

        
         元祖岩国寿司と銘うった三原屋附近が日光寺跡で、1909(明治42)年に開業した岩国
        電気軌道の終起点駅があった地でもある。
         岩国寿司の由来は、岩国藩主に命じられて考案された保存食という説や、藩主への献上
        品といった説などがある。
 
        
         百十銀行は、1878(明治11)年11月に百十番目の国立銀行として設立され、191
        5(大正4)年岩国支店が塩町に開業する。1934(昭和9)年に現在地へ新築移転したが、
        その後、合併新立により山口銀行岩国支店を経て錦帯橋支店となる。
         箱型のポロポーション、直線的なパラペット、四角な窓と4本のイオニア式柱を中心に
        まとめられている。

                
         北の筋を本町通りと称し、錦帯橋から玖珂町、柳井町、米屋町、塩町が設けられた、南
        の筋は裏町で、材木町、魚町、豆腐町に分け、俗に錦見7町と称した。

        
         塩町は塩・塩合物(塩魚・塩干物)を扱った塩座があったことによるものと思われる。塩
        町東端に元禄年間(1688-1704)の頃まで木戸門があったが、町と地方(じかた)を区分するた
        め新小路町に移設された。

        
         塔屋を持つ文具の勉強堂さん。

        
         景観法に基づく建造物指定の細田写真館。木造2階建ての建物は、前面が擬洋風の看板
        建築物である。

        
         大明小路は,錦帯橋の橋元から日光寺(現在の新町ロータリー)北角まで3町56間(約4
        29m)。
         名の由来は、日光寺の西隣にあった諦明院(だいみょういん)に山伏が居住していた。毎年大
        峯へ御代参していたが、この者が居る小路故に諦明小路というようになったとか。世間は
        これを誤って大明小路にしたという。

        
         椎尾八幡宮の緑地内に火伏地蔵尊。

        
         岩国レンコンを用いた岩国寿司とハスのさんばい、大平(おおひら)が岩国三大郷土料理と
        される。
         「さんばい」は、れんこんとにんじん、白身魚を酢で和えた料理で、由来は「三杯酢」
        からという説と、「田の神様」を「さんばい」と呼んでいたことに関係する説がある。
         大平は鶏肉、里芋、人参、牛蒡といった根菜や、こんにゃくなどの具材を使った煮物で
        ある。平たく大きな器に盛られるため、この名があるとか。汁が多く味付けは薄かったの
        で、煮物ではあるが汁ごと食することができる。

        
         椎尾(しいのお)八幡宮の参道。

        
         参道から錦見(岩国1丁目)と城山、踊り場に稲荷社。

        
         正面に中横町から臥龍橋へ至る道。

        
         1626(寛永3)年に領主・吉川広正が、吉川家歴代の守護神である駿河八幡宮の分霊を
        勧請したのが始まりという。その際、瀬田村の椎尾にあった猿田彦神(椎尾社)が祀られて
        いたのを合祀して椎尾八幡宮と称した。
         社殿は三間流造りで平入り、屋根は切妻造りで、正面には唐破風屋根が付いている。(景
        観法に基づく建物指定)

        
         拝殿に向かって左手には、天神社、厳島神社、祇園社、春日社,恵美須社などの摂社が
        ある。 

        
         大明小路に戻って錦帯橋を目指す。 

        
         藤重家は薬医門と小屋根付き板塀で囲まれている。(景観法に基づく建造物)

        
         山本家も薬医門を構え、小屋根付き白壁造りの高い塀に囲まれている。(景観法に基づ
        く建造物)

        
         通りには武家屋敷であった割烹旅館・半月庵がある。宇野千代の小説「おはん」の舞台
        にもなった旅館である。
         入口には「幸福は遠くにあるものでも、人が運んでくれるものでもない。自分の心の中
        にある。宇野千代」とある。

        
         朝枝家も薬医門を構え、塀は小屋根付きの白壁造りである。(景観法に基づく建造物)

        
         新上家も薬医門を構え、敷地境界は塀と庭木で高くされている。(景観法に基づく建造物)

        
         大明小路は岩国往来で両側が武家屋敷地であった。ここにも宇野千代の一節が紹介され
        ているが、「人の顔つきも習慣である 笑顔が習慣になれば しめたものである」とある。

        
         佐伯家も薬医門と土塀によって囲まれ、武家地らしい佇まいをみせる。(景観法に基づく
        建造物)

        
         錦帯橋の東詰にある「しろたい食堂」と「お土産処あきもと」は、木道2階建てで一対
        のようにみえる。道路沿いの棟は切妻造りで、2階は錦川を眺めるための腰窓が設けてあ
        る。(景観法に基づく建造物)

        
         大明小路の突き当りが錦帯橋。

        
         土手町筋に威風堂々とした木造3階建ての旅館「白為」がある。建物は桟瓦葺き、入母
        屋造で錦帯橋側に開口部を設けている。(景観法に基づく建造物)

        
         土手町筋。

        
        
         松原家住宅の中土手側は平入りの町家造りであるが、川土手側から見ると大屋根の一部
        に3階が増築されている。(景観法に基づく建造物)

        
         杉平家は松原家と山根家の間にあって、平入りの町家住宅である。手前の山根家住宅は、
        厨子2階の平入りである。(景観法に基づく建造物) 

        
         本町通りの玖珂町、玖珂本郷の商人を移住させて開いた町。

        
         国安家住宅は、江戸期に鬢付油製造販売業を営んでいた「松金屋」によって、1850
        (嘉永3)年頃に建てられたとされる。1935(昭和10)年に国安家の所有となり、現在は市
        所有で「本家・松がね」として観光交流施設になっている。(国登録有形文化財) 

        
         国安家住宅の向い側にある桝本家住宅は、切妻造平入りの木造2階建て、間口の大きな
        大店であった。

        
         国安家住宅と並びに建つU家住宅。

        
         上横町との四差路を過ごすと柳井町。柳井津の商人を移して構成した町。(Ⅿ家住宅附近) 

        
         柳井町(岩国1丁目15)にあるH家住宅。

        
         商品名によって命名された米屋町。中期以降は鍛冶屋の人々が居住し、鍛冶屋町の名が
        ある由縁である。

        
         景観法に基づく建造物指定の柳原喜輪商会。建物は切妻造平入りの木造2階建てで、間
        口が狭く、奥に長い屋敷割りの土地に建つ典型的な町家である。この先は塩町であるが、
        下横町筋を右折する。

        
         明覚寺(真宗)は、1616(元和2)年創建と伝える。山門脇には日本の整体指導者で野口
        整体の創始者・野口晴哉(はるちか・1911-1976)の言葉が掲げてある。

        
         次の四差路を右折すると登富町。1853(嘉永6)年当時は不景気で、豆腐町の改称を願
        い出たが許されず、字替えを許されて登富町に改めたという。

        
         登富町商店街の一角にある厨子2階のK家住宅。

        
         魚町は臭気その他の点において、本町に置かず裏町に置かれた。

              
         「うまもん」の表札が掛けられた商家がある。建物は木造の切妻造の平入り、桟瓦葺き
        の中2階建てである。うまもんの看板は「カワウソ」が支えている。外観は3,4軒が並
        ぶように見えるが、内部は一帯の建物とのこと。

        
         300年続いた醤油製造(千歳醤油)であったが、1958(昭和33)年に漬物製造販売を
        始められたとのこと。

        
         大正期に改築された際、展望用に3階が設けられた。 

        
         三差路を過ごすと材木町又は木町と称した筋である。

        
         瑞相寺小路(寺町通り)は工事中。

        
         法眞寺(浄土宗)は、1601(慶長6)年に横山村より当地に移転したという。

        
         岩国城、錦帯橋と錦川の鵜飼、中央に岩国市章がデザインされたマンホール蓋。

         
         瑞相寺(浄土宗)は、1605(慶長10)年柳井の端相寺の本尊を引いて創建されたという。

        
         西福寺(真宗)は慶長移封の時、祖生村(周東町)に小庵を創建して法明寺と称した。16
        04(慶長9)年に川西に移し、元和年間(1615-1624)に当地に移転したという。 

        
         川土手(県道錦帯橋線)に出て、錦川対岸の横山や錦帯橋、岩国城などを眺めながら錦帯
        橋バス停に出る。


防府市久兼‥山間の地は石仏巡り

2024年09月15日 | 山口県防府市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         久兼は佐波川中流の左岸、大平山北麓より流れ出る
久兼川流域の細長い山間に位置する。
         地名の由来について地下上申は、往古、金山が久しく繁盛したので久金といい、久兼と
        書き誤り伝えたという。
         風土注進案は、大内氏の一族・鷲頭近江守が江州・日坂の領主であったが、招かれて当
        地に来住して日坂根と唱えたが、いつ頃か久兼の文字を用いるようになったという。(歩行
        8.0㎞) 

        
         JR防府駅から防長バス堀行き(10:40)約20分、上和字バス停で下車する。

        
         約390m先の佐波川上流に久兼入口がある。

        
         八十八ヶ所の札所が始まる。

        
         久兼川に沿う地区入口にバス停があるが、久兼行きのバスはJR防府駅から1日2往復
        のみである。

        
         六地蔵とされているが、前列左の石仏は子安観音坐像で、他はお大師さんのようである。
        (バス停付近)

        
         赤山口バス停付近の墓地入口に、日清戦争(1904-1905)において戦死した「石川輿一郎
        君」の石碑が立つ。域内では最初の戦没者だったようだ。

        
         墓地入口にある六地蔵は。地蔵菩薩が6つの世界に赴くために姿を変えたものとされる。
        命あるものは死後に6つの世界(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)のどこかに生まれる
        と伝えられ、それぞれの世界で地蔵菩薩が人々を守護するとされる。

         
         信仰の里であるかのように石仏が多い。

        
        
         墓地の一画には覆屋の中に尾叩の石風呂があるが、築造年代など詳細はわからなかった。
        1935(昭和10)年代まで使用されたとのことだが、炊き跡が新しいようでイベントなど
        に活用されているのだろうか。

        
         1つの集落にみえるが、最奥部は奥畑地区エリアで、山角橋の先に「車両は通り抜けで
        きません」と表示されている。

        
        
         黄金色に染まった田んぼは秋の収穫が始まり、
彼岸入り頃には満開を迎える彼岸花(曼珠
        沙華)は、気候の異変によるものか日陰のみに見ることができる。

        
         西組公会堂の地は寺跡のようで、久兼・琢成小学開学の地とされる。1875(明治8)年
        西河内僧坊に開校するが、中村に日坂小学が開校すると琢成小学に校名変更する。

        
        
         西河内に創設された久兼小学は、1886(明治18)年に松潤小学校(現小野小学校)の分
        校、簡易小学校、分校を経て尋常小学校となる。1909(明治42)年一ノ谷に移転したが、
        分校生(1~3年生)の教育水準の均等化を図る目的で、1966(昭和41)年に廃止されて
        スクールバス運行が開始された。

        
         55番札所脇にわずかながら彼岸花が咲いていたが、この先は見ることができなかった。

        
         久兼川に架かる第一瀬戸橋の先が中村集落。

        
        
         久兼上・中の児童が久兼小学への通学が大変なため、1880(明治13)年日坂小学が中
        村集落に開校し、域内に2つの小学が存在した。(石仏の隣に日坂小学開学の地碑)

        
         旧道は久兼川に沿う。

        
         久兼バス停付近に猿田彦大神、地蔵尊などが並ぶ。

        
         県道北側の集落道は行き止まりが多く、踏み入れるのに躊躇してしまう。久兼バス停か
        ら佐波川に向かって県道を下って行くのがベストだった。

        
        
         埴山(はにやま)神社の創建年は不詳とされるが、平安期には存在していたと伝えられる。
        祭神の埴山姫神は土の神、農耕の神として信仰され、五穀豊穣を祈願する人々に崇敬され
        てきた。鳥居は時代が下って、明治24(1891)年奉献と刻字されている。 

        
         宝積寺は県道27号線(山口徳山線)の高台に位置する。寺の途中から大谷山方向に棚田
        が見られるが、山口県の棚田20選の1つとされる。

        
         128世帯、226人が暮らす山間の久兼地区は、日本の原風景を残した地である。 

        
        
         宝積寺(曹洞宗)は、1649(慶安2)年に創建されたが、1879(明治12)年に全焼する。
        その後再建されて今日に至るという。

        
         西組公会堂まで戻り、西河内橋先の岡本宅を過ごすと、納屋の先に道がある。

        
         天神社は、文化5戌辰(1808)年11月と刻まれた鳥居以外に詳細を知り得なかった。
   
        
         赤山橋から片地山集落を歩いてみたが大師像のみで、佐波川沿いの片地山バス停からJ
        R防府駅に戻る。


宇部市草江‥山口宇部空港界隈を巡る

2024年09月12日 | 山口県宇部市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         草江は恩田地域の1地区で、真締川下流左岸、周防灘に面し、宇部丘陵の東部に位置す
        る。海岸部は近代に炭鉱の加土をもって埋立てられ造成された。
         歩くエリアには草江、則貞、亀浦、八王子、岬の各地区がある。(歩行約5.8㎞)

        
         JR草江駅は、1923(大正12)年宇部鉄道の停留場として開業、1978(昭和53)
        に簡易駅舎に改築されて今日に至る。

        
         2017(平成29)年宇部線利用促進協議会のプロジェクトチームにより、草江駅に郷さ
        とこさんによる駅舎アートが描かれる。線画家・郷さとこさんは埼玉県に生まれ、建築デ
        ザイン事務所を経て、2012(平成24)年に作家活動をスタートさせる。

        
         説明によると、この壁画はメインツリーのトックリキワタ(カリフォルニア州ではMajes
        tic Beaty)という園芸品種の葉から幹を通り、循環した命はそれを囲むサボテン、花や鳥
        が宇部を包み込んでいる。作品はプロジェクトチームによって色付けされたという。

        
         草江第1踏切から空港入口交差点の手前を左折する。

        
         草江児童公園の玉垣内に、遺跡のようなものが存在するが、何であるかはかわからなか
        った。石柱に「昭和8年5月」「弐年祭記念」の刻字がある。

        
         同じ公園内に石碑があるが、刻字は風化して読めず。

        
         再びJR宇部線を横断する。(塩谷踏切)

        
         草江2丁目から則貞6丁目の生活道。

        
         今度は鉄道橋下を潜る。

        
         県道220号線(宇部空港線)を横断すると、塚穴川河口に出る。

        
               左岸から橋に行けそうだったが、道がはっきりしないため右岸を進むと、入口は施錠さ
        れていた。

        
         「遊具公園」の幟から山口宇部空港ふれあい公園に入る。

        
         公園内にはインクルーシブ広場がある。障がいのある子もない子も一緒に遊べる大型遊
        具だそうだ。(2023年5月設置)

        
         遊具広場と滑走路の間に調整池があるが、周囲1㎞を周回できるようになっている。 

        
         河口部の右手が滑走路。

        
         散歩しながら滑走路を離着陸する旅客機を観ることができるというが、時間帯が悪く観
        ることができなかった。

        
         調整池には島があって、一羽の黒い鳥が羽根を休めていた。明治の地形図には鍋島とい
        う島が記載されている。
         飛行
機にとって離着陸の動作中、速度が比較的遅く、高度が低い時にバードストライク
        (鳥衝突)が起こることが問題とされている。島にはサギ類の営巣(えいそう)防止策が講じら
        れ、騒音にならない程度の音で、鳥を追い払う装置も設置され、
時折、音が聞こえてくる。

         
         周回路は歩きやすく、ジョギングやウオーキングをする方が多い。 

        
         山口宇部空港ターミナル周辺には、薔薇を中心に植栽されて、春と秋に訪れる人を楽し
        ませてくれる。 

        
         国内線・国際線ターミナルを過ごし、西側の緩衝緑地帯と思われる丘へ向かう。

        
         管理用道路らしき道は、雑木林の中に緩やかな坂道が設けてある。

        
         用途が違うため展望は今イチである。

        
         時間帯が悪く離着陸の旅客機は見られなかった。

        
         青い海に進入灯が並ぶ。 

        
         階段を下れば宇部岬漁港。

        
         通り側に六地蔵と地蔵尊が鎮座するが、看板には中山身語正宗(なかやましんごしょうしゅう)
        ・栄願寺とある。佐賀県の基山町に本部を置く真言宗系の新宗教という。

        
         まちづくりのキーワード「緑と花と彫刻まち」としてデザインされたマンホール蓋。周
        囲に市の花「クスノキ」と市の花「サルビア」、中央にときわ公園の「菖蒲」が描かれて
        いる。

        
         岬町3丁目界隈。

        
         八王子町、岬町、草江の住宅地には見るべきものがなく、草江駅に戻ってくる。


岩国市玖珂町谷津‥鞍掛合戦千人塚から鞍掛山城跡

2024年09月09日 | 山口県岩国市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         谷津は玖玖珂盆地の北に位置し、水無川が当地の西を南西に流れ出ている。1889
        (明治22)年の町村制施行により、近世からの区域をもって玖珂村が単独で自治体を形成す
        る。平成の大合併で岩国市玖珂町となる。(歩行約6.8㎞) 

        
         JR徳山駅から岩徳線で約55分、JR玖珂駅で下車する。

        
         歩道橋で駅北側に移動する。

        
         国道2号線の一画に千人塚の案内があり。次の四差路にも「千人塚 西へ100m右側」
        の案内がある。

        
         戦国時代の1555(弘治元)年11月14日(一説には10月27日)大内氏の重臣・杉隆
        泰軍2,600人は、毛利元就軍と蓮華山城主・椙杜隆康軍の7,000人を迎え撃って戦
        う。
         しかし、杉氏は奮闘むなしく討死し、鞍掛山城は落城する。城を脱出した杉方将兵と毛
        利軍の戦いが、玖珂盆地内各所で展開された。激戦地となった谷津の地には、戦死者を弔
        うための積み石塚が造営され、1933(昭和8)年には墓標「鞍掛戦死者之碑」が建立され
        る。
         その側に作家・宇野千代の直筆による「史跡千人塚に想ふ」の追悼碑は、随筆「残って
        いる話」の中に記述があり、合戦の悲痛さに胸打たれた想いが語られている。

        
         左手に鞍掛山、その奥に聳えるのが蓮華山。

        
        
         曹洞宗の善住寺は、往古には瑞雲寺の24坊の1つであったという。のちに寺号のみと
        なった時代もあり、再建されたものの鞍掛の戦い後は、再び壊廃して寺跡を残すのみとな
        った。岩国領主吉川経倫によって再建され、岩国横山の洞泉寺末寺になる。

        
         生活バスの善住寺バス停近くに、小さな祠と灯籠が立っているが、何が祀られているか
        知り得なかった。

        
         新幹線下を潜り、出雲大社玖珂教会のある三叉路を北上し、水無川の山王橋を渡る。

        
        
         比叡神社参道入口の右手には、この境内で行われた流鏑馬(やぶさめ)神事を詠んだ栗陰軒
        貞鯛の狂歌碑がある。
             「とんつはねつ 花な散らしそ 
                     山王の 桜の馬場に 勇む駒鳥」
         1857(安政4)年に碑が建立されたが、狂歌とは社会風刺、皮肉や滑稽を盛り込んだ和
        歌である。

        
         参道(馬場跡?)を進むと本殿への石段が始まる。

        
         比叡神社の井戸に水神(亀) 

        
         221段もある石段の途中に踊り場が設けてあって、休みながら上がって行く。周囲は
        大杉の木立に囲まれているが、杉氏や椙杜氏の崇敬厚く、神前に杉の木を植えたのが大木
        になったという。

        
         山王山に鎮座する比叡神社は、平安期の805(延暦24)年に近江国(滋賀県大津市)の日
        吉神社から勧請して創建された。当初は山王宮と称していたが、1868(明治元)年に現社
        号となる。

        
         下りの石段を避けて谷津上方面へ下る。

        
         蓮華山は旧玖珂町の最高峰の山で、いくつかの登山道があるようだが、谷津上から登る
        室ヶ迫(多老坊)コースは、古くからのコースとされる。

        
         出雲神社前の三差路を右にとって、鞍掛山登山口へ向かう。

        
         新幹線下の谷津下公会堂に弥山道の道標があり、「これよりみせん道 寄進 谷津村新 
        町中]と刻まれている。北河内の阿品にある弥山社への参詣道に設けられたものである。
         江戸時代の庶民が、日常生活の憩いとして、神社や寺院の縁日に参詣するという信仰と
        同時に、楽しみとしていたようだ。

        
         公会堂前に火切地蔵尊。

        
         小畑浦次郎(1878-1936)は、谷津ヶ原約100haの畑地を水田開発しようとする。この地
        は扇状地であることに着目し、地下ダムによる用水路を設けることを計画したが、地主の
        反対にあって失敗に終わる。根気強く説得を続け、計画から12年が過ぎ去ったが、難工
        事の末、1925(大正14)年に完成させた。
         碑は小幡が逝去して15年後、1951(昭和26)年10月に「小幡浦次郎頌徳碑」が建
        立された。

        
         旧玖珂町のマンホール蓋は「町の花・ツツジ」がデザインされ、中央に「ク」と「ガ」
        が図案化された町章が配置されている。

        
         生活バスの鞍掛住宅前バス停向い側に、鞍掛山登山道入口を示す標柱がある。この道は
        城があった時代は「大手道」と呼ばれていた。

        
        
         最奥民家前に「林間歩道」「山頂まで650m」の道標がある。雑木林の中に明瞭な道
        が続く。

        
         新幹線第一玖珂トンネルの上に出ると、歩いたルートの一部が望める。(山頂まで唯一の
        展望地)

        
         要所には距離標やベンチがあって素人には心強い。

        
         蓮華山城主・椙杜隆康と鞍掛山城主・杉隆泰は大内氏の家臣であったが、日頃から不仲
        であったという。厳島合戦で陶晴賢が敗死すると、両氏は毛利氏に従うことになった。
         しかし、杉氏は大内氏への忠誠から大内義長へ「大内氏には恩ある身なので、毛利を討
        ち果たすつもり」という密書を僧に持たせたが、椙杜氏の手下に捕まり、毛利元就に通報
        されて鞍掛山城攻めが開始された。(北に蓮華山) 

        
         平坦尾根は鞍掛山城二の丸跡とされる。

        
         鞍掛山城の戦いは多勢に無勢であったため、あえなく城主以下多数が討死する。その後、
        毛利軍は長府まで進撃し、1557(弘治3)年大内義長が自害したことにより防長2州は毛
        利氏が支配することになる。

             
         鞍掛山は2回の合戦舞台となる。室町期の1469(文明元)年11月陶弘護(ひろもり)と大
        内教幸の鞍掛の戦いがあった。応仁文明の乱で大内政弘が京都に出兵すると、政弘の叔父
        である教幸が主家奪還を狙ったクーデターを起こした。
         しかし、教幸は敗れて安芸国へ逃れ、翌年に再決起したが、追い詰められて豊前国馬ヶ
        岳で自刃する。

        
         標高240.1mの本丸跡は砦規模の広さで、二の丸も物見台程度であったとされる。城
        の砦を形どった展望台が設置されている。

        
         山頂からは玖珂の町並みが一望できる。

        
         下山は登ってきた道とは違う反対方向へ下ると、途中にテーブル付きの展望地がある。
        急坂の登山道は横木階段となっている。

        
         トイレのある林間広場は駐車場でもある。

            
         舗装路を下って行くと、ガードレールの所に「鞍部コース」の案内がされている。この
        まま下って金龍寺に立ち寄る予定であったが、列車時間のこともあって、上り時に利用し
        た登山道と合流する鞍部コースを辿ることにする。

        
         植林帯の中の緩やかな道を辿ると、南ピークとの鞍部に出る。そのまま直進すると、林
        間歩道入口付近に戻ることができる。 

        
         近道したことで筏山古墳に立ち寄るが、古墳は玖珂中学校の裏手にある。

        
         筏山古墳は、1954(昭和29)年2月に高森高校前の国道2号線工事で発見され、この
        地に移築された。古墳は古墳時代中期(5世紀頃)に築造された竪穴式石室古墳とのこと。

        
         戦国哀話の鞍掛山の背後には、蓮華山が威圧するかのように迫っているが、この2つの
        山は、「眺めてよし 山頂からの眺めよし」と地元や登山者に愛されている。国道2号線
        の地下道を利用してJR玖珂駅に戻る。


宇部市宇部岬・見初‥漁港と寺社巡り

2024年09月06日 | 山口県宇部市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         宇部岬・見初(みぞめ)は沖宇部にあり、旧長門国の東南端に位置する。隆起海岸の台地が
        見られ、かつては岬から海底にかけて炭鉱があって賑わった地である。(歩行約6.6㎞)

        
        
         JR宇部岬駅は山口県の最南端駅で、1923(大正12)年8月に宇部鉄道の駅として開
        業する。駅舎の建築年代はわからないが、いずれはJR常盤駅のような簡易駅舎になるの
        であろう。

        
         駅の正面に創業100年を超える旅館・福久があり、日帰り温泉も可能とか。

        
         浄土真宗の法泉寺の本寺は、小野村(現宇部市小野)の棯小野にあったが、世の中が移り
        変わり、新川方面の発展により当地へ移住する者が多くなった。1921(大正10)年に出
        張所を開設したが、仮屋で狭隘であったため、1929(昭和4)年に説教所として認可を受
        け、のちに仏堂を建立したとされる。

        
         岬町2丁目界隈の通り。

        
         八王子町の交差点は、八王子児童公園への道を進む。

        
         公園の先から丘に上がれば離陸する旅客機が見える。

        
         反対側の宇部岬漁港は木の生長でよく見えない。

        
         漁船が並ぶ宇部岬漁港。

        
         宇部岬漁港前に蛭子神社。

        
         山口県管理の第2種漁港で、湾内の中央部が出っ張って2手に分かれている。海面近く
        を飛んで着陸する旅客機が見えるようだが、その姿を見ることはできなかった。

        
         明神児童公園脇に住吉神社が鎮座するが、海上守護の神で「見崎明神」とか「水崎明神」
        と呼ばれた。寺社由来は神社の由来を明らかにしていないが、境内の石碑(1879年建立)
        によると、平安期の845(承和12)年に神のお告げにより住吉神を祀ったとある。

        
         本殿階段の右側に大きな「かんかん石」がある。名のとおり叩いてみると、「カンカン」
        と通常の石にはみられない音がする。石には盃状穴(はいじょうけつ)があって魔除け石や古墳
        の蓋石など諸説あるようだ。

        
         もとは海近くにあったようだが、海の埋立てで遠くになったのか、この地に遷座したの
        かは知り得なかった。

        
         1945(昭和20)年4月26日から8月5日まで計8回の空襲を受けて、被害は死者2
        54人、罹災家屋6,243戸と推計されている。
         7月2日の宇部岬から西中町一帯の東部市街地の空襲では、罹災者24,270人余とさ
        れ、宇部空襲最大の空襲であった。罹災した市民は復興への事業に取り組み、約10余年
        の歳月と巨費が投じられた。(区画整備された松山5丁目付近)

        
         浄土真宗の福勝寺は、厚東村にあって住職は華道の大家であった。1925(大正14)
        要望により、この地に出張所を開設したのが始まりという。(昭和町4丁目) 

        
        
         西覚寺(真宗)は、1695(元禄8)年に原村(現宇部市厚南区)に創建されたが、1900
        (明治33)年現在地に移転する。寺というより御殿のようであった。

        
         寺の西側(寺からは行けない)に東見初街区公園があり、中央に四阿があって昼食休憩を
        させてもらう。

        
         松山町4丁目付近の通り。

        
        
         松山町3丁目と4丁目の境に「曹達(ソーダ)の引込線」跡が残されている。美祢市の重
        安駅から原料の石灰石が厚狭駅を経由して宇部岬駅まで輸送された。ここから約1㎞の宇
        部曹達専用線で運び込んでいたが、2009(平成21)年に廃止された。
         宇部曹達工業㈱は、1963(昭和38)年に旧セントラル硝子を吸収合併し、セントラル
        硝子㈱に社名変更する。

        
         常安寺(曹洞宗)は、1929(昭和4)年に熊毛郡勝間よりこの地に移建したという。

        
         松山通り公園を過ごし、虎月堂(こげつどう)のある通りを南下する。1953(昭和28)
        創業の洋菓子店で、甘党の方にとっては最高のお店のようだ。(この先を右折) 

        
         区画整理された町並みだが、この一角だけ斜めに設けられている。

        
         昭和町3丁目にある白亜の塔には、「宇部港東導灯(後灯)・初灯昭和28年(1953)」と
        表示されている。導灯は狭い港への入港進路を示すもので、灯高は19mで光到達距離は
        約13㎞とされる。前灯はセントラル硝子工場内に設置されている。

                           
         コンテナが並んでいるので近所に方にお聞きすると、コンテナ型ホテルで全国チェーン
        とのこと。よく見るとコンテナにはホテルと記載されている。

        
         再び引込線跡を横断する。

        
         幸町界隈。

        
        
         智照院太子堂の位置がわからず、少し右往左往してしまう。セントラル硝子の入口交差
        点をフジグラン方向へ進み、コンビニ先の狭い脇道に入ると案内板がある。
         1927(昭和2)年に京都の仁和寺よりお大師様が移されて創建されたという。本堂と周
        囲には健康にご利益のある地蔵が並んでいる。

        
        
         1958(昭和33)年にオープンした「友恵湯」は市内唯一の銭湯である。汗だくのため
        ひと風呂浴びたかったが、15時30分からの営業となっていた。昭和の時代の雰囲気を
        色濃く残す銭湯は、この地域のコミュニティの場にもなっているのであろう。

        
        
         日蓮宗の圓満寺は、大内氏時代には吉敷郡宮野村にあり、享保年間(1716-1736)に同吉
        敷村に移転する。将来の発展と日蓮宗寺院がないなどの理由で、1918(大正7)年に現在
        地に移転する。
         1945(昭和20)年の宇部空襲の際に堂宇は全焼し、その後再建されたが、往時の遺構
        は堂脇に立つ供養塔のみとのこと。

        
         ケヤキ通りと右手に昭和町公園。1953(昭和28)年戦災復興時に設けられた公園のよ
        うで、通称・ハトポッポ公園と呼ばれているとか。

        
         炭鉱地だった面影はなく寺巡りをしたようで、最後の三徳寺(真宗)も立派で、各真宗寺
        院は競ってか豪華な本堂だったのが印象的である。(商工会議所前バス停からJR宇部新
        川駅)


岩国市愛宕‥牛野谷から門前川沿い

2024年09月03日 | 山口県岩国市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         愛宕地域は錦川の支流・門前川右岸に位置し、南は瀬戸内海に面する。1889(明治2
         2)
年の町村制施行により、牛野谷村・門前村・尾津村の区域をもって愛宕村としたが、村
        名は牛野谷と門前との境の山頂・物見ヶ岡に鎮座する愛宕権現社に因むという。(歩行約7.
       1㎞)

         
         JR岩国駅からいわくにバス新岩国駅行き約10分、東錦見(ひがしにしみ)バス停で下車
        する。

        
        
         途中にあるJR岩徳線の西岩国駅は、国登録有形文化財の駅舎である。 

        
        
 岩徳線の愛宕踏切を過ごすと錦川に2つの橋があるが、低い橋が愛宕橋で高いのが新愛
        宕橋である。1971(昭和46)年に完成した新愛宕橋は、全長477m、幅員9mのPC
        ポストテンションと鋼製が結合した橋である。
         一方の愛宕橋は、1935(昭和10)年に完成した全長353mの橋である。

        
         愛宕橋南詰を左折すると牛野谷地区である。玖珂郡志は地名の由来について、愛宕山道
        に牛岩という大岩があり、その姿から地区の名前になったと記す。

        
        
         今津を歩いた時に気になっていた門前川井堰に立ち寄る。今津を港にするために門前川
        を堰き止め、今津川の水量を増やす堰である。茂る森は楠巨樹群で、県の天然記念物に指
        定されている。

        
         愛宕共用会館前から愛宕橋方向へ引き返すと疫神社。創建年など詳細は不明とのこと。

        
         再び引き返して岩国第一包括支援センター前を右折する。県道15号線(岩国玖珂線)を
        横断すると観音堂への案内がある。

        
         牛野谷観音堂に祀られている観世音菩薩像は、当地に古くから祀られていたが、時代が
        下ると衰微し、山崩れもあって地中に埋もれたままとなる。
         錦見の商人と牛野谷の人が仏託を受けて、2人で聖(しょう)観世音菩薩を掘り出す。15
        73~75(延宝元~3)年頃に近郷の朝枝九郎左衛門が仏像を彫らせ、その胎内に観音像を
        納めた。後に松陰庵を建立して祀ったのが観音堂の始まりとされる。 

        
         石風呂の詳細については案内がないので詳細はわからないが、江戸末期頃に造られ、1
        965(昭和40)年代まで使用されたとか。

        
         以前はこの中にも石仏があったようだが、岩国市室の木にある一の滝寺(真言宗)へ移さ
        れたとのこと。

        
         混在型というより近代型の住宅が大半を占める。

        
         1738(元文3)年の享保増補村記に「牛野谷村龍ノ尾」という記述がある。時期など詳
        細はわからないが、玖珂郡志(1802)には「竜ヶ鼻」とあり、現在もこの地名となっている。
        (門前川の対岸が楠・中津町) 

        
         石柱の右は愛宕神社の道標で、「愛宕神社之本道従是十三町」とある。市民憩いの里山
        として親しまれ、標高112m地点に愛宕神社があったという。米軍沖合移設のため土砂
        搬出に伴ない仮移設され、2008(平成20)年に牛野谷町3丁目に移転する。(平岩神社
        を含め離れているため行かず)

        
         聖徳地蔵尊の由来によると、1732(天明2)年に世の中の心配、苦労、難儀する人を救
        わんと、諸国修行中の歳老いた人がこの場所で成仏したという。(周芸5番札所) 

        
         1743(寛保3)年創建の権現社は、「神」と「仏」が同じものとして、神仏習合の観念
        で信仰され、かつては様々な場所で祀られていた。
         明治政府の神仏分離を進める政策により、その多くは廃止されたが、この地は権現様と
        して大切に祀られている。

        
         権現社の隣に岩国南八十八ヶ所42番札所があるが、1900(明治33)年に霊場が開設
        されたという。

        
         県道南岩国停車場磯崎線の先に大歳神社が鎮座する。創建年など詳細は不明のようだが、
        鳥居には延亨4丁卯(1747)とあり、灯籠には寛延4年(1751)三宝荒神宮と刻まれている。

        
         境内には西南の役から第二次大戦までの戦没者を忠魂する碑が建立されている。

        
         忠魂碑傍の樹木に「軍人勅諭御下賜百周年記念」の碑がある。1882(明治15)年明治
        天皇が陸海軍軍人に下賜(かし)した勅諭というものがあった。忠節・礼儀・武勇・信義・質
        素を軍人が守るべき5つの徳目と、軍人は政治に関与しないように明示されていた。
         終戦後に教育勅語などと共に失効となったが、どういう意図で百年記念碑が建立された
        のだろうか。

         
         聖徳地蔵尊まで戻って門前町を東進する。地名の由来は、往古、当地に喜楽寺という真
        言宗の大寺があり、その門前の村であることから村名にしたという。
         寺号・本尊ともに芸州吉田(現安芸高田市)の洞春寺に移建するため、1598(慶長3)
        に解体されたという。

        
         農業地と住宅地が相半ばしていたと思われるが、農業地は消滅して宅地となっている。

        
         浄土真宗の光福寺前を過ごす。

        
         交差点を横断して尾津地区を目指す。(横断後に見返す)

        
         岩国市愛宕出張所の地に愛宕村役場があったとされる。1940(昭和15)年に岩国町な
        ど5町村が合併して愛宕村は廃止される。

        
         愛宕小学校東側の小路に2基の碑がある。1つは竹内南圃先生頌徳碑とあるが、愛宕村
        門前の秋田多四郎の3男として生まれ、叔父の竹内兵次郎の養嗣子になる。
         藩校養老館に学び、1882(明治15)年愛宕小学校の訓導(現在の教諭)となり、在職3
        0年終始子弟の教育にあたった。1909(明治42)年在職中に有志によって碑が建立され
        た。

        
         左手の碑は、1922(大正11)年9月国広清一が、父の追善記念として小学校の講堂を
        寄付したが、その謝恩の碑である。 

        
        
         尾津神社(通称・尾津明神社)は愛宕小学校の敷地内にある。近世には厳島大明神社とよ
        ばれ、伝承では飛鳥期の624(推古天皇32)年に市杵島姫命が筑紫の宗像から船で瀬戸内
        海を進み、周防国装束浜に着岸された時、尾津に行宮(一時的に使う宮)を建ててしばらく
        滞在した。その縁により祀るという。(玖珂郡志より) 

        
         市杵島姫命が立ち寄り、岩場の上で口紅などを塗り、お化粧直しをされたという伝承に
        より「紅岩」と呼ばれるようになったという。

        
         日本初の電車を設計した岩国市出身の電気工学者・藤岡市助の偉業に因み、いわくにバ
        スでは電車型バス「いちすけ号」を運行している。

        
        
         江戸中期の1751~89(宝暦~天明)年間は、長雨や旱魃により大飢饉による餓死者、
        疫病の流行が追い打ちをかけた。この惨状に尾津の兄弟が天下泰平と五穀豊穣、餓死者の
        冥福を祈るため京都で出家する。
         のちにこの地へ帰り、萬福寺から下付された観音像を安置する草庵を建立、祈念の日々
        を送ったのが始まりという。1997(平成9)年に現在の観音堂が建立されたという。

        
         平岩山に八十八ヶ所霊場を設けたが、お参りがしやすいようにと新観音堂建設の際、移
        転・安置したという。

        
        
         龍門寺は石州に創建されたが、1603(慶長8)年吉川氏の岩国転封に際、横山紅葉谷に
        再興し、岩国領5ヶ寺として吉川家の回向を務めた。
         幕末に廃寺の難に遭遇したが、1883(明治16)年に周防国分寺の塔頭を移して再興さ
        れる。のちの豪雨で罹災して各所を転々としたが、尾津平岩観音堂の復興を託され、この
        地に転住する。約60年間平岩観音龍門寺としてきたが、2016(平成28)年岩国市通津
        へ移転する。

        
         1952(昭和27)年に新設開業した南岩国駅は、2021(令和3)年に現在の新駅舎の供
        用が開始された。ホームに出れば南側にハス田が広がる。