ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島町の沖家室島は海上交通の要衝地 

2019年10月31日 | 山口県周防大島町

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         沖家室島(おきかむろじま)は屋代島中部の南海上にある島で、人が住んでいる島としては
        大島郡の最南端に位置する。屋代島本土との間に潮流の早い沖家室瀬戸があり、面積0.
        94㎢の島は、洲崎と本浦の2つの集落に分かれている。室町時代には海賊の根拠地であ
        ったという。(歩行約3㎞)

        
         1983(昭和58)年3月18日離島振興法により架橋された沖家室大橋、その下を流れ
        る海峡は「セト」と呼ばれている。

        
         大橋の袂に民俗学者・宮本常一の手紙の一文を記した碑がある。「此の橋 全国同胞の
        協力によってできました。感謝します。沖家室島民」と刻まれている。

        
         蛭子神社の御旅所境内地には架橋の記念として、ヨットの帆をイメージした大理石製の
        モニュメントがある。

        
         沖家室大橋から眺める州崎集落。

        
         萩藩は藩境に位置するこの地に、往来する船を監視する御番所を設置し、島の有力者で
        ある石崎氏を船究役に任命し、公用船を置き御船倉を設けた。屋根は萱葺きで簀子(すのこ)
        4枚が設けられ、縦14.5m、横4mであったとされる。

        
         この船倉跡地には、昭和の終わり頃まで造船所があり、所有者であった原氏の寄付によ
        り、史跡として整備される。

        
         右手に旧道が海岸線と平行している。

        
         漁師町特有の狭い路地に軒を接している。昭和初期までは旅館の他に、造船所、釣針屋、
        散髪屋などもあったそうで、対岸の佐蓮(され)の人々は「沖家室に行けば何でもそろう」と、
        伝馬船でやってきたという。

        
         ここに御番所があったそうで、そこで使用されていた井戸は、昔からどんな渇水期でも
        水枯れしなかったとのこと。地元ではこの井戸を「御番所ガワ」と呼んでいる。

        
         御番所跡から山手側に入って行くと、以前は段々状に家があったようだが、崩壊もしく
        は空家となっている。

        
         沖家室にはいたるところに共同井戸があったようだ。これは最上部付近にあるもので、
        井戸が一種の社交場にもなっていたという。

        
         路地裏歩きで地元の方をお見かけすることはなかった。

        
         路地には郵便局や商店もあったようだが、郵便局は海岸通りへ移転し、商店も閉店され
        て集う場所が失われていた。(旧角忠商店付近)

        
         空家のためか損傷が激しくなりつつあり、蔵は消滅したようである。金井家の横に観音
        堂へ上がる石段がある。

        
         観音堂奥から伊予灘を眺めることができる。1662(寛文2)年建立の観音堂は、179
        0(寛政2)年に再建され、本尊は聖観音菩薩で行基の作と伝えられる。

        
        平地が少なく山裾に民家が集中している。

        
         路地に倒壊寸前の建物。

        
         本浦へ通じていたトンネルが残されている。

        
         往来する車は釣り人など島外の人で、島民に会えたのは自転車で通行された方のみだっ
        た。

        
         沖家室島にも弘法大師伝説が残っている。一人の旅僧が喉を潤すために、一軒の家を訪
        ねて水を求めると貴重な水ではあったが老婆は差し出した。すると僧は「渚に行って波打
        ち際を掘れ」といい、海岸を掘ると真水が湧いて飲むことができたとか。この井戸を弘法
        大師井戸として弘法堂を祀ったが、井戸は道路工事のため埋め立てられたという。

        
         1873(明治6)年に開校した沖家室小学校は、1989(平成元)年児童数の減少により
        閉校する。

        
         蛭子神社は漁業を主な生業としてきた沖家室島の総鎮守とされる。創建年月は不詳だが、
        当初、洲崎に鎮座していたが、1872(明治5)年現在地に遷座する。

        
         蛭子神社から本浦の町並み。

        
         本浦には寺の門前と旧道沿いに2つの商店街と、昭和初期まで造船所、文具店、豆腐屋、
        銀行、役所、医院などがあった。

        
         石組みの上に民家が続く。

        
         萩藩の要衝地であったことから、大島郡内では沖家室と地家室の2ヶ所に高札場が設け
        られた。

         
         山口県の天然記念物とされる「アコウ(赤榕)」の木は、水無瀬島より持ち帰ったものと
        される。

        
         群山(くんさん)は大韓民国にある港町であるが、そこで財を成した柳原氏が、贅を尽くし
        て建てた木造二階建ての邸宅である。現在は「群山荘」として沖家室出身者用の宿泊所に
        なっている。 

        
         海岸通りに置かれている常夜燈。

        
        
         泊清寺(はくせいじ)は沖家室島唯一の寺で、江戸期には萩藩主や参勤交代で島に立ち寄る
        九州の大名の本陣を務めた。

        
         泊清寺の境内にある「ふか地蔵」は海の守り本尊とされ、船が遭難しかけた時、一心に
        ふか地蔵を念じたところ助かったという話が伝えられている。

        
         ここが海岸線であったのであろう防波堤が残されている。

        
         波止場は太公望のメッカとなっている。

        
         1947(昭和22)年に開校した沖家室中学校は、1966(昭和41)年時代の波に押し流
        されて閉校となる。

        
         かつては蛭子神社の御旅所から大漁旗を立てた船に神輿を乗せ、洲崎の御旅所まで海上
        を渡御したという。祠は中学校近くにあったが、道路整備の際に現在地へ移転する。(現
        在はトラックで神輿を運搬) 

        
         海を眺めながら海岸線を歩いて洲崎に戻る。国勢調査によると、人口137名・80世
        帯。高齢化率も高い地域である。 

        
         波止場は太公望のみならず、海鳥たちにとっても良き場所のようだ。

        
         かつて「せと丸」という小さな渡船が、対岸の佐連との間を毎日数回行き交う渡船場が
        あった。 

        
         牛ヶ首岬と分岐する地点に、シーボルトが上陸したとする碑がある。1826(文政9)
        9月長崎から江戸参府の折に沖家室に停泊。その時に牛ケ首に上陸し、周辺の植物採集な
        どをしたとされる。 

        
        小積・大積地区にある厳島神社。