この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
小泊(こどまり)は屋代島の東部南海岸(外浦)に位置し、笹島と大鼻の間に湾入した入海の
海岸砂州に立地する。
地名の由来は、上関より松山領津和までの灘中・第1の繋船場で、古くから諸廻船の船
繋ぎの港であったので、小泊と名付けたという。(歩行約1.9㎞)
小泊バス停傍の駐車地を利用する。
海を埋め立てて屋敷地を確保することが行われた。
この奥に集落の中央を走る古い道があり、この道を境に海側は短冊形に地割りされてい
る。
石垣を組んで高波対策が行われた名残のようだ。
島内の他集落と同様に、堤防の先に波消しブロックが用意されている。正面の大
きな島は禿島、その間に小島が浮かぶ。
正覚寺(浄土真宗)は、1632(寛永9)年渡辺源五左衛門というものが出家して神浦に創
建したが、1684(貞亨元)年寺地を現在地に移転する。
小泊神社の鳥居両脇に木の桶を模した高さ約30㎝の水槽が奉納されている。清めの水
を入れて榊で心身を清めるものに使われたのかなど用途は不明であるが、1907(明治4
0)年前後に奉納されている。
小泊神社は菅原道真が九州に西下の折、小泊の湊へ船を繋ぎ、上陸された場所へ社を建
てたと伝える。1873(明治6)年に天満宮から現社号に改称された。
泊浜、天神浜、西浜地区は移住者が集まった新開地とされ、造船関係者、旅館、魚屋な
どの業種が多く、港町のとしての賑わいをみせるようになる。
さらに昭和初期に泊浜が埋め立てられると旅館、遊郭が進出し、トタンカフェと呼ばれ
た急造のカフェ、玉突場、飲食店など船員相手の遊興施設が立ち並んだとされる。
江戸期は小泊も風待ち、潮待ちの港として栄え、明治以降は九州若松港から石炭を運ぶ
海運業に携わる者が多く隆盛をきわめた。
しかし、第二次大戦中に船は老朽化し追い打ちをかけるように、1948(昭和23)年と
翌年の大型台風で、沈んだり流されてしまうなどして海運業は衰退する。
集落はずらりと並ぶ波消しブロックで守られている。
寺横から集落の東西を走る道に入ると、正面に正覚寺の潜り門がある。
生活を支えた通りにも空家が目立つ。
住居があったことを示す井戸が各空地に残っている。
和田小学校小泊分校の校舎が残されているので寄り道をする。その入口に第76番奥の
院小泊大師堂。
道なりに進むと正面に赤い屋根が見えてくる。その手前左手は小泊公民館。
和田小学校小泊分校と和田中学校があった地で、現在は木造校舎を「瀬戸内民俗館とう
わ」として活用されているが、看板はあるものの施錠されて、見学できるか否かの案内も
ない。
1873(明治6)年開校の小泊小学校は、和田小学校分教場、小泊国民学校などを経て、
和田小学校小泊分校として存立していたが、1861(昭和36)年に閉校する。和田中学校
もあったようだが、1971(昭和46)年に東和中学校へ統合される。
味噌樽も置かれているが放置状態である。
みかん畑に上がってみるが、樹木の生長で展望は芳しくなかった。
東側のメインストリートはわずかな距離で海岸線に合わす。
東端に和泉造船所があったとされ、建物が残されているが、造船所経営の傍ら廻船業も
手掛けていたとされる。
東端から見る小泊集落。
県道橘東和線の三差路を過ごすと小泊バス停。(建物は民宿こどまり)