安倍さんがかわいそうになってきた。当然の報いと言えば言えないこともないのだが、あれほど恋焦がれてきた相手に一方的に袖にされてしまうのを見ると、気の毒に思えてきた。私にも、多少の仏心はある。
が、アベノミクス・サイクルを肯定するわけにはいかない。念仏を唱えながら、引導を渡すのが、安倍さんに対するせめてもの思いやりだ。
読者はオバマ大統領から「アベノミクスでは日本経済は回復できない」と三下り半を突きつけられことは、すでにご存じと思う。が、今さら安倍さんも「アベノミクスは、よーく考えてみたら間違っていました。撤回します」とは言えない。「引くに引けない」とはこういうことだ。
オバマ大統領だけでなく、OECD(経済協力開発機構)からも「アベノミクスでは日本経済の回復は不可能」と宣告され、高齢者福祉政策の見直しを勧告されている。
オバマ大統領はそこまで踏み込んだ日本の福祉政策批判はしなかったが、はっきり言って今の社会福祉政策を継続する限り日本経済の回復はない。
私は1940年生まれの74歳。私たちの世代が高度経済成長時代以降、「年功序列・終身雇用」の日本型雇用形態や高齢者(親や祖父母世代)の年金制度や健康保険制度を支えてきた。言うなら2階に上がった年金生活者たちを支えてきたのが、1階の私たち(2階の重量を支える柱)だった。
いま私たちの年代が2階に上がり、1階に住む若い人たちの柱が私たちの年金生活や健康保険制度を支えてくれている。が、2階に住む住民(年金生活者)がどんどん増えていくのに、2階を支える1階の柱はどんどん細くなっている。政府は何とか柱を太くしようと少子化対策に力を入れてはいるが、やり方が間違っている。
ではどうしたらいいか。1階の柱を太くすることができなければ、2階の重量を減らすしかあるまい。商売も家計もそうだが、「入るを量りて、出ずるを制す」が大原則だ。出ずるを制しなければ、借金地獄に落ちるのは国も個人も同じだ。ただ一生借金から逃げられない個人と違って、政治家は政治家をやめれば借金地獄から自分だけは解放される。信用度が高い個人は銀行が、信用度が中くらいの個人はサラ金(今は大手はメガバンクの傘下に入っている)から高金利で借りるしかない。もっと信用度が低い人は闇金から借金するしかない。
国は日銀という、国のための「サラ金」を抱えているから無制限に借金ができる。日銀は政府の借金漬け政策を支え続けているが、そうすれば当然円は安くなる。円は国際社会の信用を失い、日本の富裕層は自分の金融資産を守るため、いずれ金融資産の海外逃避を図ることになる。そういうデータは持っていないが、すでに金融資産の海外逃避は始まっているかもしれない。いざというとき、国民が国を救うため個人資産を国のために差し出してくれるだろうなど
と思っていたら、とんでもない勘違いだ。
私は安倍政権が誕生した直後の12年12月30日に投稿したブログ『今年最後のブログ……新政権への期待と課題』でこう書いた。私が結果論で、アベノミクス・サイクルは失敗だったと言っているのではないことが、ご理解いただけると思う。言っておくが、この時点では「アベノミクス」という言葉もなければ「成長戦略」「三本の矢」という言葉もなかった。「アベノミクス」とは、あとから付け加えた空念仏だ。では2年前の私のブログを転記する(一部)。
まず新政権の最大の課題は、国民の新政権に寄せる期待が最も大きかった経済再建だが、妙手ははっきり言ってない。安倍内閣が経済再建の手法として打ち出しているのは①金融緩和によるデフレ克服②公共工事による経済効果の2点である。
金融緩和だが、果たしてデフレ克服につながるか、私はかなり疑問に思わざるを得ない。日銀が金を貸す相手は一般国民ではなく、主に民間の金融機関である。ではたとえば銀行が二流、三流の中小企業や信用度の低い国民にじゃぶじゃぶ金を貸してくれるかというと、そんなことはありえない。優良企業が銀行から金を借りてくれなくなってからもう20年以上になる。いくら優良企業と言っても、銀行が融資する場合は担保を要求する。そんな面倒くさいことをしなくても、優良企業なら増資や社債の発行でいくらでも無担保で金を集めることが出来るからだ。
そもそもリーマン・ショックで日本のメガバンクが大打撃を受けた理由を考えてほしい。国内に優良な融資先がなく、金融緩和でだぶついた金の運用方法に困り、リーマン・ブラザーズが発行した証券(日本でもバブル時代に流行った抵当証券のような有価証券)に大金をつぎ込み、リーマン・ブラザーズが経営破たんしたあおりを食って大損失を被り、金融界の再編成に進んだことは皆さんも覚えておられるだろう。金融緩和で銀行に金がだぶついたら、また危険な投機商品に手を出しかねない。自公政権の金融緩和政策に世界の為替市場が敏感に反応して急速に円安が進み株も年初来の最安値を記録したが、そんなの
は一過性の現象に過ぎない。とにかく市場に金が回るようにしなければ、景気は回復しないのは資本主義経済の大原則だ。
そのための具体的政策としては、まず税制改革を徹底的に進めることだ。まず贈与税と相続税の関係を見直し、現行のシステムを完全に逆転することを基本的方針にすべきだ。つまり相続税を大幅にアップし、逆に贈与税を大幅に軽減することだ。そうすれば金を使わない高齢の富裕層が貯めこんでいる金が子供や孫に贈与され、市場に出回ることになる。当然内需が拡大し、需要が増えればメーカーは増産体制に入り、若者層の就職難も一気に解消する。そうすれば内需が拡大し、メーカーはさらに増産体制に入り、若者層だけでなく定年制を65歳まで拡大し、年金受給までの空白の5年間を解消できる。ただし、このような税制改革を実現するには二つの条件がある。一つは相続税増税・贈与税減税を消費税増税の2段階に合わせて、やはり2段階に分け消費税増税と同時に行う必要がある。その理由は当然考えられることだが、消費税増税前の需要の急拡大と、増税後の需要の急激な冷え込みを防ぐためである。
その場合、贈与税の考え方そのものを一変させる必要がある。相続税は相続人にかかるが、贈与税は贈与人にかかる仕組みになっている。その基本的考え方を変えなければならない。相続税の負担は相続人が支払うのは当然だが(相続者はすでに死亡しているから課税できない)、贈与税に関しては贈与人が贈与税を支払うだけでなく、被贈与人は収入として確定申告を義務付けることである。その場合、総合課税にすると計算がややこしくなるから、サラリーマンなど通常は確定申告せずに済む人たちの利便性を考えて分離課税にして、しかも通常の課税システムのように贈与額に応じて納税額を変動させるのではなく、たとえば一律10%の分離課税にすることが大切である(税率は別に10%にこだわっているわけではないが、贈与する側にも贈与される側にも出来るだけ負担を少なくして、頻繁に贈与が行える仕組みにすることがポイントになる。またこのシステムを導入することと同時に現在の非課税贈与制度を廃止し、消費税のように完全に一律課税制度にすることも大きなポイントになることだけ付け加えておく)。
いずれにせよ、相続税を軽く贈与税を重くしてきたのにはそれなりの時代背景があったと思うが、時代背景が変われば課税の在り方についての発想も転換する必要がある。税金に限らず専門家は従来の考え方からなかなか抜け出せないという致命的な欠陥をもっている。私たちはつねに従来の考え方(つまり常識)に疑問を持つ習性を身に付けるよう心がけたいものだ。そうでないと日本はこの困難な状況を脱することができない。
(以下、全文転載は長くなるので要約する。全文を読みたい方はさかのぼって私のブログ記事を読んでいただきたい)
1958年(昭和33年)から内閣府は「国民生活に関する世論調査」を行ってきた。79年に内閣府は『国民生活白書』のなかで「国民の中流意識が定着した」と宣言した。70年代に入り「自分の生活レベルは中流」と感じていた国民が9割に達したためである。が、バブルが崩壊して以降、内閣府は「国民生活に関する世論調査」から生活レベルについての意識調査を止めてしまった。いま意識調査をしたら国民の何割が「中流意識」を持っているだろうか。
消費税増税はやむを得ない、と私は思っている。が、低所得層の生活を直撃することも疑いを容れない。ただ食料品などの生活必需品を非課税あるいは軽減税率にするのではなく、「聖域なき」一律課税にして、低所得層の所得税の軽減化を図る必要がある。一方年収1000万円超の層は累進的に所得税を重くする必要がある。生活必需品を一律非課税か軽減税率化した場合、たとえば国産ブランド牛のひれ肉とオージービーフの切り落としを同等に非課税あるいは軽減税率にすることに、国民が納得するわけがない。
民意とは何か。「民意」と言えば体裁はいいが、「民意」はそれぞれの職業や生活環境、時代背景によって異なる。国民の90%以上が「中流意識」を持っていた時代もあったが、いま「中流意識」を持てる国民がどれだけいるか、そのことを考えただけでも「民意」なるもののいい加減さが分かろうというものだ。
(以下原文)確かに選挙には勝たなければならないが、日本の将来を危うくするような公約(マニフェスト)を並べ立てて票の獲得を目指すような政治家に日本の将来を任せるわけにはいかない。
以上が2年前の年末に投稿したブログの内容だ。主張をこそっと変えたり、結果論で付け加えたりするような姑息なことは私はしていない。疑う人があったら、さかのぼって私のブログを読んで検証していただきたい。批判があればコメントを寄せていただければいい。私はそうした批判は一切削除しない。答える必要性を私が認めたら、ブログで回答する。いままでもそうしてきた。
ただ2年前の時点では日本の輸出企業は多少国際競争力が回復するかもしれない、と私は思っていた。私がショックを受けたのは、黒田バズーカ砲第2弾が炸裂した10月31日以降、円安の勝ち組と思っていたソニーが、実は負け組も負け組で、円が1円安くなるたびに毎日為替差損が20億円も出ることを公表したこと、円安で膨大な利益を上げた輸出企業ですら輸出数量はまったく増えず、為替マジックによる含み益が増大しただけという事実が明らかになったためである。エコノミストではない私が、日本の産業構造がバブル崩壊以降、生産をこれほど海外にシフトしていたとは思いもよらなかった。が、それは私の責任ではない。日本の産業構造の激変は、経産省なら掴んでいたはずで、そうした事実を国民に隠してきた政府に責任はある。私の予測ミスではない。
私がこれまで何度もブログで書いてきたが、物事を考える基準は知識ではなく、論理でなければならない。論理というと難しく思う方もいるかもしれないが、いっさいの先入観を捨てて赤子のような素直な感覚を持てば、それでいい。
妙な自慢話をするようだが、私は赤ちゃんからすぐに好かれる。電車やバスに乗って、隣に赤ちゃんを抱っこしたりベビーカーに座らせた赤ちゃんを連れたお母さんが座ると、私は赤ちゃんに話しかける。「可愛いね。いくつ?」と。
もちろん赤ちゃんに答えられるわけがない。お母さんが「もうすぐ2歳になります」などと答えてくれる。私は赤ちゃんの頭をやさしく撫でながらお母さ
んと2,3分話をして「私が指を出すと握り返すよ」と言う。お母さんは「そん
なことはありえない」といった顔つきをするが、実際に私が人差指を赤ちゃんの手のひらにそっとつけると、最初きょとんとしていた赤ちゃんが、ニコッと笑みを浮かべて私の指を握ってくる。成功率は100%だ。失敗したことはない。
赤ちゃんは色眼鏡をかけていない。眼鏡は生まれた瞬間からかけてはいるが、まだその眼鏡には色がついていない。最初に色を付けるのは母親だ。母親はそういう意識を持って子育てをしてほしい。赤ちゃんを連れたお母さんに、私はそういう話をする。お母さんは何度も私に「ありがとうございました」と頭を下げて下車する。そのとき、私が赤ちゃんに「バイバイ」すると、赤ちゃんも「バイバイ」を返してくれる。バイバイする手は握りこぶしのままだ。十分に手を開くことが、まだできない赤ちゃんだからだ。もうすぐ2歳になるという子が、人を見抜く眼力を備えている。素直で、論理的だからだ。赤ちゃんの感覚はきわめて論理的だということを知ってほしい。
このシリーズを終えるにあたってまず5日に読者の方にお出しした宿題の答えを書く。そのあと、日本再生の最後の選択肢を書く。どういう人たちがどういう痛みを受けようとも、選択肢はこれしかない。
まず横浜市の保育所政策の問題だ。残念ながらコメントはゼロだった。こんなやさしい問題になぜ正解を出せないのか。私のブログを読むなら、その前に顔を洗って出直してほしい。私は有象無象の読者が激減しても痛くもかゆくもない。
答えは「横浜市の保育所政策の目的は何か」だ。「保育所が足りないから保育所を作っている」のではない。横浜市の場合、保育所以上に不足しているのが特養(特別養護老人ホーム)だ。横浜市が、特養より保育所に力を入れているのは、選挙対策もあるが、子育て支援を厚くすることによって出生率を高めたいという目的があった。では、横浜市の合計特殊出生率(女性1人が一生のうちに産む子供の数)の推移を見てみよう(かっこのなかは全国平均)。
07年 1.24(1.34)
08年 1.25(1.37)
09年 1.27(1.37)
10年 1.30(1.39)
11年 1.28(1.39)
これで保育所作りの成果が出ていると言えるのか。12年以降のデータは、なぜか横浜市は公表していない。できない理由があるのか。
少なくとも横浜市の場合、2階の住民は増え続けているようだが、どんどん重くなっていく2階を支える1階の柱を太くすることに成功しているとは言い難
い。税金の無駄遣いは保育所作りの土地代や建設費だけではない。この政策に
携わる市職員の人件費も含めると大変な額になる。横浜市は子供を保育所に預けた母親が、子育てから解放されて、どういう生活の変化が生じたかを調査したことがあるのか。ちゃんとした仕事を再開して1階の柱を太くしてくれているのなら、必ずしも出生率を高めることだけが最重要課題だとは私も考えていないから、それはそれで横浜市は特養づくりの財源を確保できることになるが、そうなっているのか。
そういう肝心のデータを横浜市はなぜ公表できないのか。そもそも、幼い子を保育所に預けた若い母親がどういう時間の使い方をしているのかの調査すらしていないようだから、公表しようがないのかもしれない。あるいは、そういうデータは「特定秘密保護」の対象になるとでも思っているのか。
横浜市のケースから見ても、国が少子化対策として取り組んでいる保育所作りは、まったく少子化対策にはならないことが、これで明らかになった。物事を論理的に考えるということは、これほど単純なことなのだが、頭がいいキャリア官僚はこういう単純な考え方はしないように、高等教育を受けてきているのだろうか。
少子化には、はっきり言って歯止めはかけられない。保育所作りを一生懸命にやって、少子化対策には取り組んでいますよ、というジェスチャーを国民に示すために、大臣を作ったり官僚を増やしたり、そうすることで税金をじゃぶじゃぶ使う――それが目的なのか、と言いたくなる。
日本再生の究極の方法を提言する。
まず福祉についての考え方を根本から変えることだ。社会福祉は国民の権利として憲法で認められているが、憲法9条が日本の平和を保障してくれているわけではないのと同様、福祉を受ける権利には受けるために当然果たすべき義務もあることを高齢者に説明すべきだ。タバコは吸う、酒は飲む、運動はしない、パチンコ通いに精を出す……そういう高齢者に権利としての社会保障を受ける資格はない、という政策に転換しなければならない。
国民の大半は65歳で年金生活に入る。現役並みの収入がある人は別として、年金生活者の医療費自己負担は65歳から1割にする。その代わり健康保険医療の範囲をきわめて限定する。延命治療や高額な費用がかかる医療は保険対象外とする。
私の考えはこうだ。65歳になったら、すべて自己責任だということを自覚してもらう。健康維持のための支援は国なり地方自治体がしてもいい。たとえばフィットネス・クラブで運動をする高齢者には補助金を支給してもいい。ただし、風呂だけ入りにフィットネス・クラブに通っている高齢者もいるから、そういう目的の人には補助金を出す必要はない。そういう扱いを受けるフィットネス・クラブは国なり地方自治体から認可を受け、厳しく審査される。違法な営業をしたフィットネス・クラブは即3か月間の営業停止処分にする。
フィットネス・クラブのケースは一つの健康維持対策の例として挙げたが、ビタミンやミネラルなどの健康サプリメントも、高齢者が健康維持のためとして申請した場合、一定の条件のもとで補助金を支給してもいい。
日本医師会は猛反対するだろうが、2階に上がる人が増え続けるのを防げず、また2階を支える柱が細くなるのも防げない以上、2階の総重量を軽くする政策を考えるしか対策はない。「自分の健康は自分で守ってください」――そういうことを、国は高齢者にお願いするしかない。そして自分の健康は自分で守るという人にはそれなりの支援をする。社会福祉の考え方をそういう方向に転換する以外に日本再生の道はない。
日本再生の道はこれだけではないが、今日は時間がもうない。今日でこのシリーズを終えるつもりでいたが、本当の最終回は数日後に投稿する。
ただ、最後に一つ。投票日までわずかしかない。今回の選挙は憲政史上最低の投票率を記録するだろうと、このシリーズの最初の回に書いたが、本当にそうなりそうだ。自民圧勝というメディアの予想が私の予測を裏付けた。選択肢がない選挙だから、積極的に投票所に足を運ぼうという人が激減する。そうなれば与党にとって非常に有利な選挙になることは世界共通の原則だ。
結果として自民が圧勝したとしても、郵政解散のときと違い、国民がアベノミクス継続を支持した結果ではない。ほかに投票したい政党がないから、投票所に足を運ばないという結果になるだけだ。つまり投票率が低かったら、アベノミクスは否認されたと見なすべきだ。メディアは、今回の選挙結果についての判断を誤ってはならない。
が、アベノミクス・サイクルを肯定するわけにはいかない。念仏を唱えながら、引導を渡すのが、安倍さんに対するせめてもの思いやりだ。
読者はオバマ大統領から「アベノミクスでは日本経済は回復できない」と三下り半を突きつけられことは、すでにご存じと思う。が、今さら安倍さんも「アベノミクスは、よーく考えてみたら間違っていました。撤回します」とは言えない。「引くに引けない」とはこういうことだ。
オバマ大統領だけでなく、OECD(経済協力開発機構)からも「アベノミクスでは日本経済の回復は不可能」と宣告され、高齢者福祉政策の見直しを勧告されている。
オバマ大統領はそこまで踏み込んだ日本の福祉政策批判はしなかったが、はっきり言って今の社会福祉政策を継続する限り日本経済の回復はない。
私は1940年生まれの74歳。私たちの世代が高度経済成長時代以降、「年功序列・終身雇用」の日本型雇用形態や高齢者(親や祖父母世代)の年金制度や健康保険制度を支えてきた。言うなら2階に上がった年金生活者たちを支えてきたのが、1階の私たち(2階の重量を支える柱)だった。
いま私たちの年代が2階に上がり、1階に住む若い人たちの柱が私たちの年金生活や健康保険制度を支えてくれている。が、2階に住む住民(年金生活者)がどんどん増えていくのに、2階を支える1階の柱はどんどん細くなっている。政府は何とか柱を太くしようと少子化対策に力を入れてはいるが、やり方が間違っている。
ではどうしたらいいか。1階の柱を太くすることができなければ、2階の重量を減らすしかあるまい。商売も家計もそうだが、「入るを量りて、出ずるを制す」が大原則だ。出ずるを制しなければ、借金地獄に落ちるのは国も個人も同じだ。ただ一生借金から逃げられない個人と違って、政治家は政治家をやめれば借金地獄から自分だけは解放される。信用度が高い個人は銀行が、信用度が中くらいの個人はサラ金(今は大手はメガバンクの傘下に入っている)から高金利で借りるしかない。もっと信用度が低い人は闇金から借金するしかない。
国は日銀という、国のための「サラ金」を抱えているから無制限に借金ができる。日銀は政府の借金漬け政策を支え続けているが、そうすれば当然円は安くなる。円は国際社会の信用を失い、日本の富裕層は自分の金融資産を守るため、いずれ金融資産の海外逃避を図ることになる。そういうデータは持っていないが、すでに金融資産の海外逃避は始まっているかもしれない。いざというとき、国民が国を救うため個人資産を国のために差し出してくれるだろうなど
と思っていたら、とんでもない勘違いだ。
私は安倍政権が誕生した直後の12年12月30日に投稿したブログ『今年最後のブログ……新政権への期待と課題』でこう書いた。私が結果論で、アベノミクス・サイクルは失敗だったと言っているのではないことが、ご理解いただけると思う。言っておくが、この時点では「アベノミクス」という言葉もなければ「成長戦略」「三本の矢」という言葉もなかった。「アベノミクス」とは、あとから付け加えた空念仏だ。では2年前の私のブログを転記する(一部)。
まず新政権の最大の課題は、国民の新政権に寄せる期待が最も大きかった経済再建だが、妙手ははっきり言ってない。安倍内閣が経済再建の手法として打ち出しているのは①金融緩和によるデフレ克服②公共工事による経済効果の2点である。
金融緩和だが、果たしてデフレ克服につながるか、私はかなり疑問に思わざるを得ない。日銀が金を貸す相手は一般国民ではなく、主に民間の金融機関である。ではたとえば銀行が二流、三流の中小企業や信用度の低い国民にじゃぶじゃぶ金を貸してくれるかというと、そんなことはありえない。優良企業が銀行から金を借りてくれなくなってからもう20年以上になる。いくら優良企業と言っても、銀行が融資する場合は担保を要求する。そんな面倒くさいことをしなくても、優良企業なら増資や社債の発行でいくらでも無担保で金を集めることが出来るからだ。
そもそもリーマン・ショックで日本のメガバンクが大打撃を受けた理由を考えてほしい。国内に優良な融資先がなく、金融緩和でだぶついた金の運用方法に困り、リーマン・ブラザーズが発行した証券(日本でもバブル時代に流行った抵当証券のような有価証券)に大金をつぎ込み、リーマン・ブラザーズが経営破たんしたあおりを食って大損失を被り、金融界の再編成に進んだことは皆さんも覚えておられるだろう。金融緩和で銀行に金がだぶついたら、また危険な投機商品に手を出しかねない。自公政権の金融緩和政策に世界の為替市場が敏感に反応して急速に円安が進み株も年初来の最安値を記録したが、そんなの
は一過性の現象に過ぎない。とにかく市場に金が回るようにしなければ、景気は回復しないのは資本主義経済の大原則だ。
そのための具体的政策としては、まず税制改革を徹底的に進めることだ。まず贈与税と相続税の関係を見直し、現行のシステムを完全に逆転することを基本的方針にすべきだ。つまり相続税を大幅にアップし、逆に贈与税を大幅に軽減することだ。そうすれば金を使わない高齢の富裕層が貯めこんでいる金が子供や孫に贈与され、市場に出回ることになる。当然内需が拡大し、需要が増えればメーカーは増産体制に入り、若者層の就職難も一気に解消する。そうすれば内需が拡大し、メーカーはさらに増産体制に入り、若者層だけでなく定年制を65歳まで拡大し、年金受給までの空白の5年間を解消できる。ただし、このような税制改革を実現するには二つの条件がある。一つは相続税増税・贈与税減税を消費税増税の2段階に合わせて、やはり2段階に分け消費税増税と同時に行う必要がある。その理由は当然考えられることだが、消費税増税前の需要の急拡大と、増税後の需要の急激な冷え込みを防ぐためである。
その場合、贈与税の考え方そのものを一変させる必要がある。相続税は相続人にかかるが、贈与税は贈与人にかかる仕組みになっている。その基本的考え方を変えなければならない。相続税の負担は相続人が支払うのは当然だが(相続者はすでに死亡しているから課税できない)、贈与税に関しては贈与人が贈与税を支払うだけでなく、被贈与人は収入として確定申告を義務付けることである。その場合、総合課税にすると計算がややこしくなるから、サラリーマンなど通常は確定申告せずに済む人たちの利便性を考えて分離課税にして、しかも通常の課税システムのように贈与額に応じて納税額を変動させるのではなく、たとえば一律10%の分離課税にすることが大切である(税率は別に10%にこだわっているわけではないが、贈与する側にも贈与される側にも出来るだけ負担を少なくして、頻繁に贈与が行える仕組みにすることがポイントになる。またこのシステムを導入することと同時に現在の非課税贈与制度を廃止し、消費税のように完全に一律課税制度にすることも大きなポイントになることだけ付け加えておく)。
いずれにせよ、相続税を軽く贈与税を重くしてきたのにはそれなりの時代背景があったと思うが、時代背景が変われば課税の在り方についての発想も転換する必要がある。税金に限らず専門家は従来の考え方からなかなか抜け出せないという致命的な欠陥をもっている。私たちはつねに従来の考え方(つまり常識)に疑問を持つ習性を身に付けるよう心がけたいものだ。そうでないと日本はこの困難な状況を脱することができない。
(以下、全文転載は長くなるので要約する。全文を読みたい方はさかのぼって私のブログ記事を読んでいただきたい)
1958年(昭和33年)から内閣府は「国民生活に関する世論調査」を行ってきた。79年に内閣府は『国民生活白書』のなかで「国民の中流意識が定着した」と宣言した。70年代に入り「自分の生活レベルは中流」と感じていた国民が9割に達したためである。が、バブルが崩壊して以降、内閣府は「国民生活に関する世論調査」から生活レベルについての意識調査を止めてしまった。いま意識調査をしたら国民の何割が「中流意識」を持っているだろうか。
消費税増税はやむを得ない、と私は思っている。が、低所得層の生活を直撃することも疑いを容れない。ただ食料品などの生活必需品を非課税あるいは軽減税率にするのではなく、「聖域なき」一律課税にして、低所得層の所得税の軽減化を図る必要がある。一方年収1000万円超の層は累進的に所得税を重くする必要がある。生活必需品を一律非課税か軽減税率化した場合、たとえば国産ブランド牛のひれ肉とオージービーフの切り落としを同等に非課税あるいは軽減税率にすることに、国民が納得するわけがない。
民意とは何か。「民意」と言えば体裁はいいが、「民意」はそれぞれの職業や生活環境、時代背景によって異なる。国民の90%以上が「中流意識」を持っていた時代もあったが、いま「中流意識」を持てる国民がどれだけいるか、そのことを考えただけでも「民意」なるもののいい加減さが分かろうというものだ。
(以下原文)確かに選挙には勝たなければならないが、日本の将来を危うくするような公約(マニフェスト)を並べ立てて票の獲得を目指すような政治家に日本の将来を任せるわけにはいかない。
以上が2年前の年末に投稿したブログの内容だ。主張をこそっと変えたり、結果論で付け加えたりするような姑息なことは私はしていない。疑う人があったら、さかのぼって私のブログを読んで検証していただきたい。批判があればコメントを寄せていただければいい。私はそうした批判は一切削除しない。答える必要性を私が認めたら、ブログで回答する。いままでもそうしてきた。
ただ2年前の時点では日本の輸出企業は多少国際競争力が回復するかもしれない、と私は思っていた。私がショックを受けたのは、黒田バズーカ砲第2弾が炸裂した10月31日以降、円安の勝ち組と思っていたソニーが、実は負け組も負け組で、円が1円安くなるたびに毎日為替差損が20億円も出ることを公表したこと、円安で膨大な利益を上げた輸出企業ですら輸出数量はまったく増えず、為替マジックによる含み益が増大しただけという事実が明らかになったためである。エコノミストではない私が、日本の産業構造がバブル崩壊以降、生産をこれほど海外にシフトしていたとは思いもよらなかった。が、それは私の責任ではない。日本の産業構造の激変は、経産省なら掴んでいたはずで、そうした事実を国民に隠してきた政府に責任はある。私の予測ミスではない。
私がこれまで何度もブログで書いてきたが、物事を考える基準は知識ではなく、論理でなければならない。論理というと難しく思う方もいるかもしれないが、いっさいの先入観を捨てて赤子のような素直な感覚を持てば、それでいい。
妙な自慢話をするようだが、私は赤ちゃんからすぐに好かれる。電車やバスに乗って、隣に赤ちゃんを抱っこしたりベビーカーに座らせた赤ちゃんを連れたお母さんが座ると、私は赤ちゃんに話しかける。「可愛いね。いくつ?」と。
もちろん赤ちゃんに答えられるわけがない。お母さんが「もうすぐ2歳になります」などと答えてくれる。私は赤ちゃんの頭をやさしく撫でながらお母さ
んと2,3分話をして「私が指を出すと握り返すよ」と言う。お母さんは「そん
なことはありえない」といった顔つきをするが、実際に私が人差指を赤ちゃんの手のひらにそっとつけると、最初きょとんとしていた赤ちゃんが、ニコッと笑みを浮かべて私の指を握ってくる。成功率は100%だ。失敗したことはない。
赤ちゃんは色眼鏡をかけていない。眼鏡は生まれた瞬間からかけてはいるが、まだその眼鏡には色がついていない。最初に色を付けるのは母親だ。母親はそういう意識を持って子育てをしてほしい。赤ちゃんを連れたお母さんに、私はそういう話をする。お母さんは何度も私に「ありがとうございました」と頭を下げて下車する。そのとき、私が赤ちゃんに「バイバイ」すると、赤ちゃんも「バイバイ」を返してくれる。バイバイする手は握りこぶしのままだ。十分に手を開くことが、まだできない赤ちゃんだからだ。もうすぐ2歳になるという子が、人を見抜く眼力を備えている。素直で、論理的だからだ。赤ちゃんの感覚はきわめて論理的だということを知ってほしい。
このシリーズを終えるにあたってまず5日に読者の方にお出しした宿題の答えを書く。そのあと、日本再生の最後の選択肢を書く。どういう人たちがどういう痛みを受けようとも、選択肢はこれしかない。
まず横浜市の保育所政策の問題だ。残念ながらコメントはゼロだった。こんなやさしい問題になぜ正解を出せないのか。私のブログを読むなら、その前に顔を洗って出直してほしい。私は有象無象の読者が激減しても痛くもかゆくもない。
答えは「横浜市の保育所政策の目的は何か」だ。「保育所が足りないから保育所を作っている」のではない。横浜市の場合、保育所以上に不足しているのが特養(特別養護老人ホーム)だ。横浜市が、特養より保育所に力を入れているのは、選挙対策もあるが、子育て支援を厚くすることによって出生率を高めたいという目的があった。では、横浜市の合計特殊出生率(女性1人が一生のうちに産む子供の数)の推移を見てみよう(かっこのなかは全国平均)。
07年 1.24(1.34)
08年 1.25(1.37)
09年 1.27(1.37)
10年 1.30(1.39)
11年 1.28(1.39)
これで保育所作りの成果が出ていると言えるのか。12年以降のデータは、なぜか横浜市は公表していない。できない理由があるのか。
少なくとも横浜市の場合、2階の住民は増え続けているようだが、どんどん重くなっていく2階を支える1階の柱を太くすることに成功しているとは言い難
い。税金の無駄遣いは保育所作りの土地代や建設費だけではない。この政策に
携わる市職員の人件費も含めると大変な額になる。横浜市は子供を保育所に預けた母親が、子育てから解放されて、どういう生活の変化が生じたかを調査したことがあるのか。ちゃんとした仕事を再開して1階の柱を太くしてくれているのなら、必ずしも出生率を高めることだけが最重要課題だとは私も考えていないから、それはそれで横浜市は特養づくりの財源を確保できることになるが、そうなっているのか。
そういう肝心のデータを横浜市はなぜ公表できないのか。そもそも、幼い子を保育所に預けた若い母親がどういう時間の使い方をしているのかの調査すらしていないようだから、公表しようがないのかもしれない。あるいは、そういうデータは「特定秘密保護」の対象になるとでも思っているのか。
横浜市のケースから見ても、国が少子化対策として取り組んでいる保育所作りは、まったく少子化対策にはならないことが、これで明らかになった。物事を論理的に考えるということは、これほど単純なことなのだが、頭がいいキャリア官僚はこういう単純な考え方はしないように、高等教育を受けてきているのだろうか。
少子化には、はっきり言って歯止めはかけられない。保育所作りを一生懸命にやって、少子化対策には取り組んでいますよ、というジェスチャーを国民に示すために、大臣を作ったり官僚を増やしたり、そうすることで税金をじゃぶじゃぶ使う――それが目的なのか、と言いたくなる。
日本再生の究極の方法を提言する。
まず福祉についての考え方を根本から変えることだ。社会福祉は国民の権利として憲法で認められているが、憲法9条が日本の平和を保障してくれているわけではないのと同様、福祉を受ける権利には受けるために当然果たすべき義務もあることを高齢者に説明すべきだ。タバコは吸う、酒は飲む、運動はしない、パチンコ通いに精を出す……そういう高齢者に権利としての社会保障を受ける資格はない、という政策に転換しなければならない。
国民の大半は65歳で年金生活に入る。現役並みの収入がある人は別として、年金生活者の医療費自己負担は65歳から1割にする。その代わり健康保険医療の範囲をきわめて限定する。延命治療や高額な費用がかかる医療は保険対象外とする。
私の考えはこうだ。65歳になったら、すべて自己責任だということを自覚してもらう。健康維持のための支援は国なり地方自治体がしてもいい。たとえばフィットネス・クラブで運動をする高齢者には補助金を支給してもいい。ただし、風呂だけ入りにフィットネス・クラブに通っている高齢者もいるから、そういう目的の人には補助金を出す必要はない。そういう扱いを受けるフィットネス・クラブは国なり地方自治体から認可を受け、厳しく審査される。違法な営業をしたフィットネス・クラブは即3か月間の営業停止処分にする。
フィットネス・クラブのケースは一つの健康維持対策の例として挙げたが、ビタミンやミネラルなどの健康サプリメントも、高齢者が健康維持のためとして申請した場合、一定の条件のもとで補助金を支給してもいい。
日本医師会は猛反対するだろうが、2階に上がる人が増え続けるのを防げず、また2階を支える柱が細くなるのも防げない以上、2階の総重量を軽くする政策を考えるしか対策はない。「自分の健康は自分で守ってください」――そういうことを、国は高齢者にお願いするしかない。そして自分の健康は自分で守るという人にはそれなりの支援をする。社会福祉の考え方をそういう方向に転換する以外に日本再生の道はない。
日本再生の道はこれだけではないが、今日は時間がもうない。今日でこのシリーズを終えるつもりでいたが、本当の最終回は数日後に投稿する。
ただ、最後に一つ。投票日までわずかしかない。今回の選挙は憲政史上最低の投票率を記録するだろうと、このシリーズの最初の回に書いたが、本当にそうなりそうだ。自民圧勝というメディアの予想が私の予測を裏付けた。選択肢がない選挙だから、積極的に投票所に足を運ぼうという人が激減する。そうなれば与党にとって非常に有利な選挙になることは世界共通の原則だ。
結果として自民が圧勝したとしても、郵政解散のときと違い、国民がアベノミクス継続を支持した結果ではない。ほかに投票したい政党がないから、投票所に足を運ばないという結果になるだけだ。つまり投票率が低かったら、アベノミクスは否認されたと見なすべきだ。メディアは、今回の選挙結果についての判断を誤ってはならない。