小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのかーー私の政局分析 ①

2012-11-19 15:59:33 | Weblog
 今日は11月11日、日曜日である。いつ書こうかと朝日新聞の政局記事やテレビのニュース番組をチェックしてきたが、こう着状態が続いていたため時期を見て書こうと思っていたマイナリ氏の冤罪問題(東電女性社員殺人事件)を先行することにした(11月9日投稿)。もし読売新聞読者センターとの「戦争」がなければ読売新聞の政局記事を参考にしていただろう。
 今春まで私と読売新聞読者センターの関係は極めて緊密だった。が、今春読者センターのスタッフがほぼ総入れ替えになり、読者センターのスタッフとの信頼関係を改めて構築しなければならない状況になった。そういう状況の中でそごが生じ、読者センターは極めて卑劣の方法で私を敵対視するようになり、私は事実をブログで明らかにし、読売新聞へのコミットをやめた、というわけである。
 そして今は朝日新聞にコミットし、朝日新聞のお客様オフィスとの親密な関係を築きつつある。 
 私のブログ読者は誤解されないと思うが、私が「コミットする」という意味は、ヨイショすることではない。評価すべきことは評価するが、批判すべきことは厳しく批判する、という意味である。より具体的に言えば、新聞の    読者が当たり前に支持するような記事に対する評価はブログでは書かない。
 私のブログスタンスはともかく、マイナリ氏冤罪問題に取り組んでいる最中の10月29日に政局が大きく動き出した。焦ったが、書きかけのブログ記事を放り出して政局問題を追いかけるわけにはいかない。とりあえずマイナリ氏冤罪問題の片をつけてから同時進行形で政局問題に取り組むことにしたというわけだ。
 そもそもアメリカ型の、政権交代可能な保守2大政党政治状況を日本にも根付かせようという構想を初めて表明したのは、いっとき「影の自民党総裁」と呼ばれた故金丸信だった。金丸が自民党内で頭角をあらわすきっかけになったのは田中角栄を担いで田中内閣の実現に奔走し、角栄の「懐刀」と称されるようになって以降である。田中内閣当時に建設大臣に就任(初入閣)、さらに三木武夫内閣では国土庁長官に就任、「建設業界のドン」と呼ばれるほどの人脈・金脈を築いた。80年代後半から、55年体制をガラガラポンして政界を再編し、2大政党政治体制を構想したと言われる。
 立花隆らによって田中金脈が暴かれて田中が失脚した後は、後継総裁選びに辣腕を発揮し、特に鈴木善幸総裁の後任に中曽根康弘を強く推し、中曽根内閣を実現した論功行賞として総務会長→幹事長→副総理へと権力者への階段を順調に上りつめていった。いっぽう田中派の末路を見極めてのちは田中派内部に経世会と称する「勉強会」(実態は派閥内派閥)をつくって竹下昇を総理総裁候補に育て上げていく。そしてポスト中曽根に竹下後継総裁を実現、竹下内閣がリクルート事件で総辞職した後は、宇野宗佑総裁がスキャンダルで辞任した後は海部俊樹を後継総裁に強く推し、海部内閣が実現した時、「「竹下派7奉行」の中で最年少の小沢一郎を幹事長に就任させ、海部後の自民党政権の危機的状況の中で竹下派(旧田中派)とは「右手で握手し左手で殴り合う」関係にあった旧大平派の宮沢喜一を竹下元総裁の意向にあえて逆らって総裁に推し副総裁に抜擢された。その後金丸はポスト海部選びのとき立役者に仕立て上げたのが小沢一郎で、宮沢喜一、渡辺美智雄(愛称・みっちー)、三塚博の3候補を小沢の個人事務所に招へいし、小沢と海部が面接を行い、その結果を金丸に報告、実際には金丸が最終的判断を下して宮沢総裁が誕生した。
 この後継総裁選びに先立って金丸は小沢に「お前がやればいいじゃないか」と言ったが、小沢が「総理総裁になるにはまだ若すぎます」と固辞したというエピソードがあるが、真偽は不明である。もちろん朝日新聞や読売新聞はそうした総裁選びの経緯を知っていながら、年配者でもあり、当選回数も多く、党や内閣の要職を歴任してきた3人の候補者を、小沢が自分の個人事務所に呼びつけて面接したという一点を針小棒大に記事化した結果、「小沢面接」といった言葉が一般に流布し、それが根拠になって小沢の人格に対する国民の印象が悪化し、その影を小沢は今でも引きずっている。
 私自身は実は小沢の政治家としての資質に疑問を抱いている。たとえば野田政権が7月に「社会保障と税の一体改革」のための財源確保の手段のひとつとしてとりあえず消費税増税を与野党が協力して衆議院で成立させたとき、「消費税増税はマニフェストに違反している」と政府案に反対して離党(民主党は離党を認めず除籍処分にした)、「国民の生活が第一」なるまったく自己矛盾した新党を立ち上げたことを私はブログで痛烈に批判したことがある。理由はデフレ不況が続き、EUの金融危機のあおりを食って円高に歯止めがかからず産業界が深刻な経営危機に陥り、かつ少子高齢化がますます深刻度を増し高齢化社会を支えるべき若い人たちの就職難が続いている状況下で、新たな社会保障体制をどう構築し、またそのための財源どう確保すべきかの具体策の提案もできないくせに、ただ「マニフェストに違反している」ということを理由にした増税反対はもはや駄々っ子の域すら越えていると言わざるを得ない。小沢の離党の本当の理由はマニフェスト問題ではなく、民主党内での権力基盤を回復することは不可能という判断に傾き、しょせん小世帯でも「お山の大将」でいたいが故の新党結成であったことは見え見えなのだが、朝日新聞も含めて依然として小沢新党の真実を理解できていないのは残念である。
 金丸が金銭的スキャンダルで失脚して後ろ盾を失った小沢は「自民党に対抗する保守政党をつくりアメリカ型の2大政党政治体制を実現する」と称して新生党を立ち上げて代表幹事に就任した。自民を離党したものの小沢アレルギーを持つ議員が少なくないことを承知していた小沢は人望があった羽田孜をあえて党首に立て、自らは代表幹事という地位に就いた。
 そうした状況の中で細川護煕が「自由社会連合」を提唱、政界再編を目指して日本新党を結党、93年7月に行われた総選挙で社会現象とまで言われた日本新党ブームを巻き起こして自民党を単独過半数割れに追い込んだ。このビッグチャンスを小沢が見過ごすわけがない。公明党書記長の市川雄一と組んで(いわゆる「一・一ライン」)、非自民・非共産の大連立を各党に呼び掛け、日本社会党・新政党・公明党・日本新党・民主党・新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合(当選議員数順)による大連立政権を樹立、「55年体制」に終止符を打った。
 小沢の政界遊泳術はこの時いかんなく発揮された。大連立グループの最大勢力だった日本社会党党首を総理候補にするのではなく(社会党主導では大連立がまとまらないため)、第4勢力に過ぎず、また所属議員もほとんど国政に携わった経験を持っていないだけでなく、衆議院では初当選(参議院議員の経験はあったが)だった日本新党党首の細川を総理候補に祭り上げることで大連立(実態は大野合)を実現、細川政権を誕生させた。が、細川に総理としての実権はほとんどなく政権運営は事実上一・一ラインが中心になって行っていた。そういう状況を打破しようと細川総理は独断で突然、消費税廃止とセットで7%の国民福祉税を導入すると発表、総理を補佐すべき武村官房長官が即反発し、国民福祉税構想を断念した細川はあっけなく政権を放り出し、大野合は一気に崩壊する。
 その後小沢は新政党を解党して新進党を立ち上げ、ようやく独裁者としての地位(党首)に就くが、小沢の独断専横の党運営に反発する党所属議員が続出、小沢は新進党も解党し新たに自由党を結成して党首になった。が、盟友の鳩山由紀夫の説得を受け自由党丸ごと民主党に合流し、一時は民主党代表の座に就いた時期もあったが、党内の小沢アレルギーは激しく、再び新党「国民の生活が第一」を立ち上げる。その時点では民主党の最大勢力は小沢派で、09年の総選挙で小沢が擁立して当選した新人議員(いわゆる小沢チルドレン)の大半が小沢と行動を共にすると思われていたが、小沢新党に入った国会議員は小沢も含め衆議院38人、参議院12人のわずか50人だった。 
 ちなみに小沢の人物評は「剛腕」「壊し屋」「傲慢」が主なものだが、まったく見当違いなことは、このブログで書いた民主党からの離脱の「目的」を考えると直ちにわかるはずである。つまり小沢は小なりといえども党内での独裁的権力を持てないと我慢ができないボナパルティスト(※後述)なのである。そういう視点で小沢の政界遊泳の遍歴を見ると、完全に論理的整合性を満たしていることはもはや反論の余地がないであろう。
 実際、人間性の面からみると小沢はかなり人情家としての側面も持っており、小沢が小沢派の立候補者の地元に応援に行くと、腰の低さ、人懐っこさに小沢の演説を聞いた人たちはびっくりするという。良しにつけ悪しきにつけ小沢はその時の感情が顔の表情や口調にもろに出てしまうタイプで(テレビでインタビューに応じる時の小沢の顔つきや口調を観察すると自分の感情を抑制できないタイプの政治家であることに、読者の皆さんも、「そういえば」と思いを致されるであろう。
 さらに小沢の武器は実は金ではなく、独特のレトリックの巧みさにあることも、この際指摘しておきたい。「マニフェストに違反している」というのは実は虚偽の主張である。事実は「マニフェストで増税問題に触れなかった」だけである。
 マニフェストで「私が総理である間は増税しない」と公約したのは小泉純一郎が自民党総裁として衆院選挙を戦った「郵政解散選挙」だけである。そして小泉は公約通り消費税増税をしなかった。その付けが今の時代に回ってきている。もっとも小泉政権の時代には、東日本大震災のような大災害もなかったし、EUの金融危機による円高デフレ不況も生じていなかったし、さらに日中関係の悪化による日本産業界の苦境の影すらなかったから、消費税増税なしで政権運営ができただけの話である。
 自公連立政権が大敗した2009年9月の総選挙時の民主党代表は小沢の盟友・鳩山由紀夫だった。鳩山民主党がこの総選挙で掲げたマニフェストは①無駄遣い根絶②子育て・教育対策③年金・医療④地域主権⑤雇用・経済の5項目だった。具体的な政策としては②で中学生までに1人2万6000円の子供手当や公立高校の無償化、ガソリン税をはじめとした暫定税率廃止など生活支援を前面に打ち出した。当然そういった生活支援を充実するには相応の財源の確保が必要になるが、徹底した無駄の排除や特別会計の「埋蔵金」(実際にはほとんどなかったのだが)で捻出するとしたのである。
 しかし、マニフェストは所詮(絵に描いた餅)のようなものである。国会議員(衆院および参院)の選挙で政党が消費税増税を公約(マニフェストも含む)した政党はかつてない。選挙で絶対負けるからだ。実際10日野田総理が福岡市で行ったマニフェスト報告会で「次の選挙を考えれば消費税率は上げない方がよかったのかもしれない。(民主党は)次の世代のことを本気で考えている党なんだ」と述べた(10日午後7時のNHKニュースでの録画報道)。
 日本で消費税法が初めて成立したのは竹下内閣時代の88年末で、89年4月1日から施行された(税率3%)。この時期小沢は官房副長官として消費税導入のために大活躍をしている。もちろん竹下内閣は発足時に消費税導入の「し」の字すら公約していない。そのことを小沢はすっかり忘れているようだ。
 しかも、竹下内閣時代の消費税導入の目的は現在とは全く違う。当時の納付税率(国税である所得税と地方税を合算)は最高税率が85%と高額所得層の負担が極端に重く、最高税率を65%に引き下げる代わりに、減税分を補うために消費税を導入したのである。その時に使われた口実は、「日本も豊かな国になったのだから、欧米先進国並みに高額所得層の負担を軽減してあげよう。そうでないと高額所得層の働く意欲がそがれる」というものだった。これに対し左翼政党は「金持ち優遇税制だ」と猛反発し、一般国民からも非難の声が上がった。
 ついで橋本内閣はさらに税制を簡略化するという口実で最高税率を50%まで下げ、減税分を補うために消費税を5%に引き上げたのである。この時すでに小沢は自民党を離党していたが、この消費税引き上げにどう対応したかはインターネットでいろいろ調べたが、結局わからなかった。ご存知の方がいらしたらご教示お願いしたい。
 つまり過去の消費税導入と増税は、間違いなく高額所得層の税負担を軽減することが目的だった。私は左翼ではないので、この税制改革を一言のもとに「金持ち優遇税制だ」と切って捨てるような批判はしない。常に私の視点は改革の結果を基準に検証することにしている。つまりこの税制改革によって日本経済や国民生活がどう変化したかという検証である。この視点は「結果論」と言われるかもしれないが、政治は税制に限らず過去の改革がどういう結果をもたらしたかを検証しながら次の改革の筋道を考えないと、失政の連鎖を招くからである。
 そして消費税導入によって減税の恩恵を受けた高額所得層は、増大した可処分所得をどう使ったかを検証することであった。彼らが高額商品を購入したり、優雅な生活を楽しむために消費してくれていれば日本の内需が拡大し、さらなる経済成長をけん引してくれていた、はずである。が、日本の高額所得層は全く政府が予想もしなかったことに、増えた可処分所得分を使ったのである。はっきり言えば、金が金を生むマネーゲームに突っ込んでいったのである。その金で土地や株式、絵画、ゴルフの会員権などを買い漁り、ヘッジファンドにリスキーな投資(実際には投機)を託したりしたのである。一流銀行の行員だけでなく、支店長自らがゴルフ場開発会社や住宅地分譲業者の営業マンになり、「全額融資しますから買いませんか」と勧めていたのである。「まさか」と思われるだろうが、私は買わなかったが、某一流銀行の都内の支店長が「ツアー」を組んで裕福な顧客を仙台市郊外の住宅地の分譲現場に案内し「全額融資しますからお買いになりませんか。数年後には2倍になっていますよ」と私たちにセールスをしたのである。仙台市郊外などに別荘を建てる人が首都圏にいるわけがなく、投資目的で買わせようという意図が見え見えである。
 多少過去にさかのぼるが、澄田智が日銀総裁に就任(大蔵省事務次官からの天下り)した84年に日銀プロパーの三重野康が副総裁に抜擢され、事実上の実権者として金融政策決定に絶大な影響力を発揮するようになっていた。すでに述べたように日本経済はバブル時代に入っており、三重野は金利引き上げを図ろうとしたという説もあるが、日銀の金融政策に絶大な影響力を持っていたはずなのに金融緩和状態に手を付けず放置していたのも事実である。そして澄田・三重野体制で日銀が金融緩和政策を続けていた89年4月に竹下内閣が消費税の導入と高額所得者の減税をセットで施行したのである。まさに油に火をつけるがごとくバブルは一気に爆発した。
 89年12月に日銀総裁に昇格した三重野はあわててバブル退治に乗り出した。公定歩合を引き上げて金融引き締めにかかると同時に、大蔵省銀行局に働きかけ総量規制を銀行に義務付けた。総量規制とはバブル景気で高騰した土地価格を下落させるため、不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑えろという行政指導である。
 この荒療治によってバブル景気はとりあえず収まった。その一時的現象を見て、レッテル張りしかできない無能な自称評論家の佐高信は、三重野を「平成の鬼平」と持ち上げた。
 しかし三重野が強行したバブル退治は、その後「失われた20年」(その間に短期間ではあるがITバブルで多少景気が持ち直した時期があったので「失われた10年」説をとる人もいる)と呼ばれるデフレ不況をもたらした。
 佐高という人は妙な人で、レッテルを貼り付けることが最も有効な批判の方法と思っているようだ。しかも「レッテル貼り」だけの非論理的「批判」をする権利は恥ずかしげもなく行使するくせに、自分が批判された場合は一切無視して反論もしない(失礼、「反論できない」と書くべきでした)権利もやはり恥ずかしげもなく行使する人なのである。
 ただ彼の人並みすぐれていることは「マスコミ遊泳術」には非常に長けているのである。別に内橋克人の弟子でもなんでもないのに売れる前は這いつくらんばかりのちょうちん持ちをこれまた恥ずかしげもなくやり、内橋の引き立てで少し売れるようになると、たちまちその恩を忘れてしまえるという特技を持っているのだ。私も彼のように破廉恥にふるまえれば、多少はお金になる仕事にありつけるかもしれないのだが、そういうことができない融通の利かない性格なので、これが私の運命と諦めている。
 話を本筋に戻そう。現在の政局を論じる予定で書き始めたのだが、もともと順序立てて書くということが苦手で、本を書いていた時代も書き出しの1行だけ多少時間をかけて考えるが、書き出しの文章だけ決めるとあとは一気呵成に思いつくままに書いていくのが私のスタイルなのだ。それでいて書き終わったら一切推敲せず、そのまま原稿を出版社の編集者に渡す。だからいつも「小林さんの原稿はきれいですね」と言われる。書き終えた後推敲しないから(ということは書き終えた原稿に手を入れないから)きれいなことは間違いなくきれいなのは当然である。
 さて野田政権になって初めての通常国会は衆参ねじれ状態の中で行われた。しかも野田総理の党内権力基盤は政権誕生以前から決して強固なものではなかった。
 野田派と言えるような勢力があったわけではなく、官総理が失脚したあと党内最大派閥の領袖・小沢と代表の座を争い、小沢アレルギー派の「そして最後に残った選択肢」という消極的な支持を得て代表の座に就いたという経緯があった。そのため党内融和を最優先せざるを得ず、小沢に近いとされていた輿石を幹事長に据えて小沢の協力を得て党運営を図るしかなかったのである。
 しかし、すでに述べたように小沢は権力に異常なくらいの執着心を持つ政治家で、民主党での権力の座に就くことに見切りをつけ、「消費税増税はマニフェスト違反」という理屈にならない理屈をつけて離党した。が、小沢の期待に反し、小沢チルドレンの大半は民主党に残った。「洞ヶ峠」を決め込んで小沢チルドレンの動向を見ていた輿石は小沢チルドレンの大半が党に残ったのを見て、彼らを掌握することで党内の実権を握ろうと画策したのである。
 その最初の軋轢が通常国会の終盤で生じた野田と輿石の主導権争いだった。「社会保障と税の一体改革」に政治生命を賭けていた野田は、ねじれ国会で消費税増税法案を通すには自公の協力を取り付けることが最重要課題だった。が、そうした野田の意向に真っ向からストップをかけようとしたのが輿石である。
 輿石も野田と同様もともとは自前の権力基盤を党内に持っていなかった。だが、小沢が離党し、小沢チルドレンの大半が小沢に反旗を翻した。このことは輿石にとって「棚から牡丹餅」のような僥倖だった。
 しかし輿石が小沢チルドレンを自分の権力基盤にするためには、いかなる手段を講じても解散時期を引き延ばし、元小沢チルドレンの信頼を得なければならなかった。元小沢チルドレンは大半が1年生議員で、地元での支持基盤はまだ極めて弱く、早期解散は彼らの政治生命に直結しかねない恐れを抱いたのは当然だった。つまり解散時期を引っ張れるだけ引っ張って、できれば満期まで解散を阻止することによって元小沢チルドレンに恩を売り、彼らを囲い込むことしか輿石の脳裏にはなかったのである。
 そうした状況の中で野田・輿石の、おそらく最後となるだろう主導権闘争が表面化したのだ。
 民主党の代表選で野田が再選されたあと、それまでさんざん煮え湯を飲まされてきたにもかかわらず、野田が幹事長という党ナンバー2の座に輿石を再任せざるを得なかった理由を書いた9月24日付のブログ記事「輿石幹事長は「規定」の人事――今度は私の読みが当たった」の最後に私はこう書いた。

「この民主党人事(※輿石幹事長の続投)に自民は反発しているようだが、反発して民主との対立を激化させればさせるほど、自民は輿石氏の手のひらで踊る結果になる。当然民主は特例公債発行や選挙制度改革法案が成立しない限り、重要法案を積み残したままで解散するわけにはいかない、というのが輿石作戦のポイントだからだ。
 そうした輿石作戦に乗らないためには自民が子供じみた反発をせず、むしろ積極的に法案審議に協力し、早期に民主が主張している「重要法案」を成立させてしまうことだ(政府案を丸呑みしろと言っているわけではない。自公も対案を出し、一致できる点は争うことなく同意し、一致できない問題は審議を尽くして妥協点を見つける。そういうスタンスをとるべきだ、と私は言っているのだ)。
 自公がそう言う作戦に出れば、民主としては解散を先延ばしする理由がなくなってしまう。そもそも前の国会で審議や採決をボイコットしたりせず、さっさと成立させてしまっていれば、民主は会期末に解散せざるを得なくなっていたのだ。
 私は別に民主の肩を持つつもりもなければ、自民の肩を持つつもりもない。はっきり言って私は積極的無党派層の一人である。その意味は選挙当日、白紙票を投じるために選挙会場に行っているくらいなのだから。特例として記入投票することがないわけではないが、それは所属する政党のいかんを問わず、こういう人にこそ日本の将来を担ってもらいたいと思えたケースだけである。ジャーナリストである以上、その程度の信条は持っていただきたい」
 9月24日に投稿したブログ記事を自民党本部にFAXするかプリントして  ヤマトのメール便で送っていれば、もっと早く安倍総裁は私の提案に乗っていたかもしれない。現にいま自民は私が9月24日に投稿したブログ記事の最後で提案した通りの作戦に切り替えたからだ。いつまでも「年内解散」の約束にこだわっているから通常国会が開会しても空転状態が続き、輿石作戦のシナリオ通りに事態は進行していってしまった。
 私は実は今でも野田・谷垣のトップ会談(8月8日)で、野田が解散時期についての表現を「近い将来」から「近いうち」に変えた時、かなり具体性を帯びた密約を交わしたと思っている。谷垣も「子供の使い」ではないのだから、依然としてあいまいな「近いうち」でコロッと騙されるようなことはありえない。はっきり言えば、「今月中」か「今国会中」と明示しなくても、かなり具体性を帯びた解散時期を谷垣に示唆したはずだ。
 そもそも民主党を事実上支配しているのが野田ではなく輿石だというくらいの認識は政治家だったら持っていなければおかしい。
 当時私は読売新聞にコミットしていたので読売新聞の政局記事をベースに最初の政局についての私論を書いて投稿した。その日がトップ会談で3党合意が成立したことを、NHKがオリンピック競技を中継中だった午後8時半過ぎに臨時ニュースで知った翌日である。8日のトップ会談は野田の谷垣への直談判で都内のホテルの1室で極秘に行われたようだ。会談は当初二人だけで行われ、隣室には公明党の山口が控えていた。と言ってもマスコミ各社の番記者はその時期野田、谷垣、山口には24時間体制で張り付いており、3人がほぼ同時刻にホテルに入ったのを確認している。NHKの番記者も同様だったはずだ。それを私がなぜ「極秘」と書いたのかは、この会談が輿石の了解を得ずに行われたからだ。だから3党合意が成立したことを輿石に張り付いていた番記者から聞かされた輿石にとってはまさに「寝耳に水」の話だった。
 その前日の7日の読売新聞朝刊は1面トップ記事で「自民、不信任・問責案提出へ…解散確約ない限り」(大見出し)と、自民が石原幹事長を筆頭とする強硬路線に舵を大きく切ったことを報じていた。さらに3面スキャナーでは「首相手詰まり…輿石氏、党首会談認めず」という見出しで、民主の最高実力者が野田ではなく輿石であることを示唆していながら、実際にはそういう認識を持っていなかったことが、同記事のリードを読めばすぐにわかる。

 そろそろブログ投稿の文字数制限にぎりぎりのところまで来てしまった。このブログは同時進行形で書いているため、何回の連載になるか見当もつかない。途中で飽きたりせず最後までお読みいただければ幸いである。

なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのかーー私の政局分析 ②

2012-11-19 15:34:24 | Weblog
 8月7日の読売新聞は3面スキャナーの見出しで「首相手詰まり…輿石氏党首会談認めず」という政局解説の記事を掲載した。輿石が事実上野田総理に君臨していることを示唆するような思わせぶりな記事だったが、実際にはリードでそういう認識を持っていなかったことを露呈してしまった。
「自民党が、社会保障・税一体改革関連法案採決の条件として衆院解散の確約を求める強硬路線に転じた。野田首相は、自民党の出方を読み誤り、輿石幹事長ら党執行部の対応に任せてきた甘さがあった。事態打開の手立ても容易には見当たらない事態に追い込まれている」
 スキャナーの見出しとリードの内容が完全に乖離してしまっている。見出しで「輿石氏、党首会談認めず」と、事実上民主党の実権を握っているのは野田首相ではなく、輿石幹事長であることを示唆していながら、リードでは「野田首相は、自民党の出方を読み誤り、輿石幹事長ら党執行部の対応に任せてきた甘さがあった」と、野田路線と輿石路線の間に抜き差しならない対立があり、この時点では輿石が事実上の党最高権力者であることにまだ気づいていなかったことを明白に物語っている(今でもそうだが)。
 そして翌8日の朝刊1面トップ記事で読売新聞は与野党の対立が修復不可能なところまで来てしまったと解釈し、「一体改革成立に危機…自民きょう不信任・問責案」という大見出しをつけた記事を掲載した。さらにスキャナーでは「自民『強硬』一点張り…党内『主戦論』抑えられず」というタイトルで、1面記事を補完する記事を書いた。ちょっと本筋から離れるが、読売新聞は重大ニュースについては原則3面のスキャナーで1面トップ記事を補完する解説記事を掲載、同じく3面の社説で社としてのスタンスを主張するようにしている。これは読者にとって非常に親切な編集方針である。ところが、朝日新聞もかつては同じような編集をしていたのだが、今は1面トップの重大ニュースとの関連性を重視した編集をしていない。社説と社内外の権威者の主張にスペースを割いた「オピニオン」、読者の投稿文を掲載した「声」を一体的に扱い、しかもそれがどのページに掲載されているのか一定していない。確かに1面の目次を見ればわかるのだが、大方の読者は1面から順番に読みたい記事を見つけたら読む、という習慣だと思う。「オピニオン」はいい企画だと思うし、「声」も読者の様々な主張を読売新聞ではほとんど掲載しないような(読売新聞読者センターの話)「重たい」読者の主張も、あまり偏らずに掲載しているのはいいと思うが(読売新聞の読者欄「気流」は一般の読者にとってはどうでもいい個人の日常生活に根差した投稿文が大半を占めている)、もう少し読者に親切な編集をしてもらえたら、と思う。
 余談はそのくらいでやめるが、読売新聞は自民党執行部の意見対立はちゃんと把握していたのに、なぜ民主党の最大権力者が輿石で、肝心の野田総理が輿石に手足を縛られ身動きが取れない状態になっていることに理解が及ばなかったのだろうか。読売新聞は今年の春くらいまでは野田政権に対して極めて厳しいスタンスをとっていた。私が読者センターに電話で「今日の社説の主張は私も理解できるが、もう少し長い目で見てやったらどうか」と申し上げたところ読者センターの方は「もう待ったなしのところに来ていると私たちは判断しているんです」とお答えになった。で「私は野田さんは『おしん』ではないけど『我慢総理』と勝手に命名しています。民主党は一枚岩ではない。小沢さんとの代表選では小沢アレルギーの議員たちが野田さんに投票したから勝てたけど、反小沢の議員たちもまた一枚岩ではない。野田さん自身の党内基盤は極めて脆弱なんです。そういう中で党内融和を図りながら時間をかけて政治信条を実現しようとしているのだと思います。だから『がまん総理』と勝手に命名したんです」と理由を申し上げたところ、読者センターの方は「うーん。確かにそう言われるとそういう感じは私もします。貴重なご意見として伝えます」と返事をしてくれた。そのころは私と読者センターの関係は極めて良好だった。私は読売新聞の読者の中ではたぶん最も厳しい批判をしてきた一人だったと思う。が、私の批判は悪意に満ちたものではないことを読者センターのほとんどの方は理解してくれていた。いまは朝日新聞お客様オフィスとの関係がそういう状態になりつつある。ただ電話では穏やかに言いたいことを言わせてもらうようにしているが、ブログで書くときはかなり手厳しい表現をするケースがままある。それは読者センターやお客様オフィスを相手に書いているのではなくブログ読者により深く理解していただくための私の手法である。読者の中には「何様だと思っているのか」と不快に思われるだろう方もおられることを想定し、そのうえで書いているのでご了解いただきたい。
 そんな私ごとはどうでもいいが、読売新聞はたぶん初夏を迎えたころからだったと思うが、突然野田批判をやめて野田総理の「応援団」に転換した。転換したのはいいが、まだ民主党内事情を正確に把握していなかったため、民主党の政局運営は輿石が掌握していて、野田は依然として身動きが取れない状態にあることまでは思いが至らなかったようだ。たとえば肝心の総理の意向を訊きもせず「党首会談は認めない」などという思い上がった発言に対してさえ野田はたしなめることもできない状況にあったことを理解すれば、社説で徹底的に輿石批判を展開して野田総理の権力基盤の強化に手を貸してやればいいのに、それができないところにせっかくの「応援」が中途半端に終わってしまった最大の要因がある。
 いずれにせよ、8月の7~8日にかけて政局は大きく動いた。すでに述べたように野田が輿石の「了解」をとらずに谷垣と直談判して8日の午後8時過ぎ、とうとう3党合意を取り付けた。合意の内容は①自公は不信任・問責案を引っ込める②粛々と消費税増税法案を参院で採決し自公は賛成票を投じる③野田総理は解散を「近いうちに行う」と表明する、という3点だった。3党合意が成立した直後、記者団に囲まれた谷垣は「野田総理が約束した『近いうち』とは重い言葉だ」と万感の思いを込めて強調した。が、谷垣もまた野田が綱渡り的状態の中で「近いうち解散」を約束せざるを得なかった危うさに思いが至らなかった。私もまた同様野田がとうとう民主党の実権を輿石から奪うことに成功したのだと思い、9日に投稿したブログで「消費税増税法案採決は10日(11日からお盆に入るため)、解散は早ければお盆明けの21日か22日」との予測を書いた。10日採決の予測は当たったが、解散時期の予測は外れた。なぜ10日採決を予測したかというと、谷垣が石原を筆頭とする党内強硬派を説得するために最低1日の猶予が必要で、11日からお盆に入るというタイムスケジュールの中で採決に持ち込める日は10日しかないと判断したからである。が、野田の「反乱」がいとも簡単に輿石によってひっくり返されるとは、私も読み切れなかった。私は8月28日「私はなぜ政局を読み誤ったのか?…反省に代えて」というタイトルでブログ記事を投稿した。その骨子はこうだった。

 私は状況にもよるが、自民党内の強硬派(石原幹事長を筆頭とする)を説得できるだけの根拠を谷垣氏が確信したこと(「近いうちとは重い言葉だ」との発言を再三繰り返したこと、さらに民主・輿石幹事長が参院採決の合意ができた当日に記者から「近いうちとは今国会中か」との質問に対して「そんなことはないだろう。特例公債発行や選挙制度改革などの重要法案がまだ残っている」と発言したことを聞き谷垣総裁が「こんな幹事長が与党にいるなんて信じられない」と激怒したこと、また肝心の野田総理が繰り返し「私は社会保障と税の一体改革に自らの政治生命を賭けている」と耳にタコができるほど聞かされてきたことの3点)に重点を置いて、私はおそらくお盆明け早々の解散を野田総理がそれとなく示唆したか、あるいは密約したかのどちらかだと今でも思っている。
 だが、そうした事実上の約束を、輿石幹事長が再び民主党の実権を野田総理から奪い返したことによって反故にされたとしても、谷垣総裁は密約を明らかにすることはできない。そんなことをしようものなら密室政治に対する国民の怒りが爆発し、野田総理ともども谷垣総裁も政治生命を完全に失うことになるからだ。
 そこまで輿石幹事長が読み切って、絶対に参院で否決されて廃案になることを百も承知で今国会に特例公債発行や選挙制度改革法案を衆院に提出して自公ボイコットの中で単独強行採決に踏み切ったということは、解散時期を引っ張れるだけ引っ張って、うまくいけば衆議院議員の任期満了まで政権を維持しようという作戦に出たと解釈するのが妥当だろう(その間に選挙基盤がまだ弱い元小沢チルドレンに地元に確固たる基盤づくりをする時間的余裕を与えるのが目的と思われる)。
 私が解散時期を読み誤ったのは、輿石氏の党内基盤が野田総理よりはるかに強固だったということに思いが至らなかったことによる。先のブログで書いたように、輿石氏は小沢氏に近いとみられていた実力者である。その輿石氏を野田総理が重用し総理に次いで党内に大きな影響力を発揮できる幹事長という要職に就けたのは、ひとえに党内融和をすべてに優先したからだ。そして小沢氏の離党に際し、小沢氏と行動を共にしなかった元小沢チルドレンは当然輿石氏を頼る。選挙活動を差配するのは幹事長の専権事項だからだ。つまり大派閥の領袖ではない野田総理の党内基盤が予想していたよりかなり脆弱で、小沢チルドレンの残党を一手に握った輿石氏の権力基盤の方が強かったということを証明したのが、現在の民主党の内実だったのだ。(※以下の記述に、ご注目いただきたい)
 
 一方自民党の谷垣総裁も、私と同様輿石氏の党内基盤の強固さを見抜けなかったことで墓穴を掘ってしまった。輿石発言に憤る前に総理の約束を無視できるほどの党内基盤を輿石氏が固めていることに気付くべきだった。だから「いったん成立した参院での採決の3党合意は、野田総理が解散時期を今すぐ明確にするか、それとも総理の約束をひっくり返した輿石幹事長の職を解くかしないと3党合意を白紙に戻す」と、野田総理に迫るべきだった。それを怠った谷垣総裁が自民党強硬派の協力を今後得ることは極めて難しい状況になったと言えよう。(※実際谷垣は総裁選出馬を石原によって引きずり下された)

 この時期、石原幹事長はまだ谷垣下しを画策していなかったし、自民党総裁選は1か月先の9月26日だった。谷垣も再任を目指していた。が、私が上記のブログで予測した通り、強硬派筆頭の石原伸晃が谷垣下しにかかる。谷垣は、9月10日、出馬断念を表明した。その無念の思いが「執行部の中から2人が出るのはよくないだろうと考え、決断した次第だ」の言葉に込められている。こういう事態を1か月前に予測した政治ジャーナリスト(新聞社やテレビ局の政治部記者も含む)や評論家は誰もいなかったはずだ。
 自民党総裁選については私はあまり関心を持っていなかったし、読売新聞読者センターの私に対する卑劣な言いがかりに対して戦うことと、オスプレイ問題に全神経を集中していたからである。しかし選挙結果は私も予想だにしないものだった。投票は地方票(全国各ブロックの自民党員による投票)と    国会議員票を合算して行われる。順序を逆にして国会議員による選挙結果から見よう。
 1位  石原伸晃  58票
 2位  安倍晋三  54票
 3位  石破 茂  34票  (以下省略)
 谷垣総裁を支えるべき立場だった石原が谷垣下しに奔走したことに対する批判はかなりあったが、強硬派の筆頭だった石原を支持する議員はやはり多かった。が、国会議員の投票に先立つ地方票の結果はどうだったか。誰も予想できなかった結果が出た。
 1位  石破 茂  165票
 2位  安倍晋三   87票
 3位  石原伸晃   38票
 こういう結果を誰が予想しただろうか。はっきり言えば永田町と民意(と言っても自民党員に限られるのだが)のずれの大きさがこの投票結果に現れている。民意が反映されるようにするには小泉純一郎が2001年4月に行われた総裁選の予備選(その後改められ地方選になる)で最大派閥出身で最有力視されていた橋本龍太郎に圧勝した時のようにドント方式に戻すか(米大統領選もドント方式)、小泉純一郎がやろうとしてできなかった派閥の解体をするかしかないだろう。
 それはともかく、国会議員票では1位を石原がとったことは結果的に野田総理との約束を反故にされた谷垣の甘さに対する批判票が強硬派筆頭の石原に集中したことを意味し、地方票では谷垣を補佐すべき石原が谷垣下しを画策したことへの反発が石破の4分の1も取れなかったという結果に表れている。その結果、地方票と国会議員票を足した獲得票の順位は以下のようになった。
 1位  石破 茂  199票
 2位  安倍晋三  141票
 3位  石原伸晃   96票
 いずれの候補者も過半数の249票に達しなかったため引き続いて規定により上位2人によって決選投票が行われたが、安倍が大逆転し(安倍108票、石破89票)安倍が自民党総裁の座を射止めた。なお決選投票は国会議員のみで行われ、これまた民意(自民党員の総意)を裏切る結果となった。今のところ目立った動きはないようだが、「では何のための地方選だったのか。結局大派閥をバックにしなければ、党員の意向に関係なく総裁になれないというのであれば、わざわざ大金を投じて地方選などやる必要はない。最大派閥のリーダーが自動的に総裁の座に就き、政権をとったあと内閣支持率が30%を切ったらやはり自動的に内閣総辞職して第2派閥から総裁を出し、その内閣も支持率が30%を切ったら第3派閥から総裁を出す。そうした順送りはそこまでで、その内閣もやはり支持率30%を切ったら、今度は順送りをせず国会を解散して総選挙で国民の信を改めて問うことにしたらどうか。そうすれば派閥も再編成されて三つに収れんされ、さらに国民の信頼を失った自民党はガラガラポンで派閥の再編成ができるようにすべきだ」という案が地方組織から噴出しかねないのではないか。というより、そうした方が従来のように総理が論功行賞的人事をやる必要もなくなり、他の派閥に気兼ねすることなく自分の政治生命を賭けて信念を貫く政治を行うことができるようになる。これは私の期待でもある。
 自民党総裁選とほぼ同じくして民主党も代表戦が行われた。野田だけではなく、赤松広隆、原口一博、鹿野道彦も立候補したが、大した波乱もなく野田が再選された。事実上の「出来レース」だったが、野田は再び輿石に幹事長続投をいちおう「要請」する形をとり、体裁を取り繕った。そのことは9月24日に投稿したブログ「輿石幹事長は『規定』の人事――今度は私の読みが当たった」で詳しく分析した。
 だが、内閣人事では反小沢の若手実力者を配置することによって輿石を孤立化させる作戦に出た(24日の時点では内閣改造はまだ行われていない)。改造内閣の発足は10月1日で、岡田克也(無派閥)を副総理に起用して輿石体制を覆すための布石を打った。その他の閣僚には幅広く各グループから登用したが、必ずしも派閥均衡内閣とは言えず、また代表戦が接戦でもなかったため論功行賞的人事もやる必要がなかった。あえて特徴を言えば旧小沢グループから田中真紀子(文部科学大臣)を登用したぐらいで、代表選に立候補した赤松、原口、鹿野の各グループからは一人も登用しなかった程度である。
 この間、政界に激震が走った。大阪市長で「大阪維新の会」代表の橋本徹が国政に乗り出すことを表明し、「政権交代可能な民・自2大政党政治体制」にくさびを打ち込むことを宣言、「維新」ブームが巻き起こっていた。また東京都知事の石原新太郎が突然都知事を辞任、国政に再参加すると表明、立ち上がれ日本を母体に新党を立ち上げることを発表した。橋本は9月13日「日本維新の会」の結党を宣言、石原新党やみんなの党、減税日本などとの連携あるいは合流を画策しているが(マスコミは「第三極」と命名)、憲法改正や安全保障、原発。税制などの基本的政策での不一致点が目立ち、いっときのブームは完全に沈静化してしまった。第三極についてもブログを書くつもりでいたが、最近の世論調査(NHK)によると日本維新の会の支持率は2%程度にしか達せず、政権党を脅かすような存在感はこれっぽっちも見受けられなくなった。私は「近いうちの解散・総選挙」が行われたことが明確になったら第三極の弱小政党間で再編成の動きが活発化するだろうから、それまで静観することにした。
 さて民主、自民ともに新体制が発足し、とりあえず臨時国会開催の状況にはなったが、消費税増税法案成立の3党合意が成立した時の野田総理の約束「近いうちに信を問う」が反故にされたことへの自民の野田政権への不信感が日を追うごとに増大し(というより総裁選で国会議員票を最も集めた石原の強硬路線を安倍も無視できず)、「解散時期を明らかにしない限り国会審議に応じられない」と頑なに臨時国会の開催を拒否、政治的空白状態が続いた。こうした安倍作戦にマスコミが批判を始め、10月25日、民主が自公の同意を取り付けずに29日に臨時国会を開くことを決定したのを受け、安倍、石破ら自民の幹部が同日夜緊急会議を開いて臨時国会への対応を協議、臨時国会での審議を拒否するのは得策でないと判断、ようやく臨時国会が召集された。
 だが、野田首相への反発をますます強める強硬派に配慮し、国会初日に行われることが慣例になっている首相の所信表明演説を無視することを決定、まだかろうじて民主党議員が多数を占めていた衆院では野田は所信表明演説を行ったが、野党が多数を占める参院では所信表明演説が拒否され(憲政史上初めて)、マスコミからの集中砲火を浴びた。
 そのころはもう読売新聞を読んでいなかったが、おそらく自民批判を強力に展開して野田政権の後押しをしたのは読売新聞ではなかっただろうか。すでに書いたように読売新聞が主張を方針転換して(野田政権が目指している政策には当初から賛意を示していたが、遅々として進まないことに感情的批判を繰り返していたのが、今年初夏を迎えた時期から主張の方針を転換し、野田政権を積極的にバックアップするようになったことはすでに述べた)、それ以降はむしろ野党(特に自民)に対して批判の矛先を向けるようになった。日本最大の発行部数を誇る読売新聞からの「解散時期を明確にしない限り審議に応じられない」という駄々っ子じみた主張を繰り返していた自民党に対する批判はかなり厳しいものがあったのではないかと、これは私の推測だが思う(自民党員には読売新聞の読者がかなり多い)。
 しかし解散は総理の専権事項である。大統領制を採用している国は、大統領の権限は日本人にとっては想像を超えるほど大きい。国民から直接選ばれたという強みがあるからだ。しかし衆議院の選挙で選ばれる日本の総理大臣の権限は極めて脆弱で、まず自分が所属する党内の支持を固めなければ国会に法案を提出することすら不可能だ。まして連立政権であったり、政党そのものが数合わせの寄せ集め集団だったりすると、根回しに相当の努力が必要になる。
 実際、それを怠って「5%の消費税を廃止して7%の国民福祉税を創設する」という、今から考えれば素晴らしい税制改革案であることを誰も否定しないだろうこのアイデアは、武村官房長官の「過(あやま)ちてはすなわち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)
れ」の一言で一夜にして葬られ、細川が政権を放り投げる要因の一つとなったほどである。
 すでに述べたように、野田の政権基盤は細川と同様脆弱である。実際民主党の権力実態は輿石体制と呼んでもいいくらいである。なぜ輿石はそれほどの力を持つにいたったのか。
 輿石は政治家になる前は山梨県の主に山間僻地の小学校教員を遍歴した。時間的余裕があったせいもあり組合運動に熱心に取り組んで山梨県教職員組合執行委員長に就任、その後、山梨県労働組合総連合会議長を兼任、90年の総選挙で社会党から出馬して当選して政界入りを果たした。その後、落選の悲哀も味わったが、98年には民主党の参議院議員として政界に返り咲き、旧社会党系の横路グループに所属、05年に参議院議員会長になり07年の参院選挙を取り仕切って民主党の歴史的大勝利の立役者となった。
 その後、民主党の最大派閥のリーダー、小沢に急接近して権力基盤を強化し、小沢・管・鳩山の「トロイカ」と並ぶ実力者にのし上がり、小沢代表のもとで管とともに代表代行に就任した。この時代に民主党が政権奪取に成功した時大量に誕生した小沢チルドレンの教育係になり、それが現在の輿石体制の基礎となったのである。
 一方、野田は松下政経塾の1期生として政治家を目指し、家庭教師などアルバイト生活を送りながら虎視眈々と政治家への道を模索していた。だが、輿石のような組織的バックがないため、いきなり国政への参加は不可能と考え、千葉県議を目指し最大の激戦区だった船橋市からあえて出馬、20代の若者たちのボランティアに支えられて下馬評を覆して当選、政治家への第1歩を踏み出した。
 千葉県議を2期務めた後、細川の日本新党に参加、93年の総選挙で当選し念願の国政に参入することになった。が、細川→羽田政権が短命で終わると小沢の新進党に入るが、96年の総選挙で落選、その後民主党に鞍替えして00年の総選挙で返り咲き、02年には鳩山3選を阻止すべく若手の代表として民主党代表選に出馬、負けはしたが若手グループの信望を集めた。鳩山代表から政調会長就任の要請を受けたが、鳩山が中野寛成を幹事長に抜擢したことに「論功行賞人事だ」と反発して固辞、骨太なところも見せた。10年6月、鳩山内閣が総辞職したあとに成立した管内閣のもとで副総理兼財務大臣として初入閣、管総理が福島第1原発事故収拾の失敗の責任をとって辞任した後、小沢の支持を受けた海江田万里経産相、前原前外相、鹿野道彦農水相、馬淵澄夫全国土交通相と後継代表の座を争い、第1回投票では海江田に次ぐ2位だったが、決選投票で反小沢票を集めて逆転勝利し、野田政権が誕生した。
 そもそも民主党は細川連立政権の遺産を継承した野合政党に過ぎず、右から左まで幅広く権力の旨味を求めて集まった寄り合い所帯であった。自民党のいわゆる「派閥」と言えるような規模の集団は小沢派だけで、その他はグループと呼ばれている。グループは、鳩山、管、横路、川端、羽田、前原、野田、平岡&近藤、旧小沢、樽床、小沢鋭仁、平野、原口、玄葉、鹿野の15グループを数える。これらをまとめ党内融和を図るには参議院議員ではあったが、鳩山、管が失脚し、政治資金規正法違反の嫌疑がかけられていて表舞台から退いていた小沢を除くと党内きっての実力者にのし上がっていた輿石に党運営を委ねるしかなかったのである。輿石が付け上がる要因はこうして形成されたのである。

 さて政局が急展開し出したのは田の「近いうちに信を問う」との谷垣に約束した言葉を反故にしたことへの、自民の駄々っ子じみた反発、にマスコミが批判の矛先を向け出したからである(その先陣を果たしたのは②編で書いたように読売新聞だったと思う)。マスコミがこの時期自公(特に自民執行部)に対して批判の矛先を向けだしたのは、臨時国会開催日の29日に衆院本会議に欠席、参院では野田首相に所信表明すらさせないという前代未聞の「抵抗」劇を始めたからである。
 もっとも自民も一枚岩ではない。総裁選で強硬派筆頭の石原が国会議員の投票で最多の票を集めたという事実は、党執行部にとっても重しとなっていた。彼ら強硬派が納得できる状況を作り出さずに民主との交渉のテーブルに着いたら「お前ら、バカか。また谷垣の二の舞を踏むつもりか」と猛反発が出ることは必至だったからだ。もともと安倍や石破は強硬派ではない。連立を組む公明党への配慮から、どうしても譲ることができない選挙制度改革を除けば、赤字国債になる特例公債発行の必要性は十分認識していたし、先の消費税増税と合わせていちおう社会保障制度構築の財源が確保でき(私はまだ不十分だと思っている。特に税体系を抜本的に見直して、将来の日本を担うべき子供たちを若い夫婦が安心して産めるシステムを構築するために、富裕層にかなりの負担をお願いするしかないと思っている)、この財源を使っていかなる社会保障制度を構築するか、民間の有識者も交えた国民会議を設置する必要性も十分理解していた。
 


なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのかーー私の政局分析 ③

2012-11-19 15:25:14 | Weblog
 このブログの①編で「小沢はボナパルティスト」と断じたが、この時期の安倍・石破執行部もボナパルティズム体制によって勝ち取った自民内部の権力である。
 ついでにここで「ボナパルティズム」について説明しておきたい。この言葉の本来のいわれは、フランスのナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)が権力を握った第1帝政の崩壊後、第2帝政(ナポレオン3世)を再興させた運動勢力のことである。が、マルクスが、フランス革命を支持しながら、結局は革命の主体となった勢力が労働者だけでなく、貴族社会を打倒して資本主義国家建設を目指し、軍事勢力と手を組んだブルジョアジー(資本家階級)と統一戦線を組んだ革命を批判して以降、ボナパルティズムの意味が変わったのである。
 ナポレオン・ボナパルトはイタリア半島の西に位置するコルシカ島(元はイタリア領土だったがコルシカ人による独立運動がたびたび生じ、手を焼いたイタリア政府がフランスに譲渡した。その当時の1769年にナポレオンは生まれている。現在もフランス政府はコルシカ人に司法・立法・行政の3件を認めており事実上の「独立国」と言えなくもない)で生まれ、子供のころから軍人を目指し、パリ陸軍士官学校で砲兵科を専攻した。当時花形だった騎兵科を専攻せず砲兵科を専攻したのは、結果論だが「先見の明」があったと言える。
 ナポレオン・ボナパルトの人生は織田信長のそれとの共通点がかなりある。
 刀槍による戦争が大半だった時代に新兵器の鉄砲に目をつけ、ヨーロッパとの交易で栄えていた堺を支配下に置き、鉄砲の輸入や製造を奨励し、近代(当時の)戦術を駆使して日本を制圧していった信長と同様、ナポレオンはこれからの戦争における近代戦術は大砲が中心になると考え、あえて騎兵科ではなく砲兵科を専攻したようだ。そして4年制の士官学校をわずか11か月の短期間で卒業(開校以来の最短記録)、1785年に砲兵士官として任官した。が、その4年後にフランス革命が勃発し、世相は騒然たる様相を呈していたが、当時のナポレオンはこの政変に無関心だったようで政治的活動はしていない。
 ナポレオンに先立つこと235年前にすでに生まれていた信長は幼少の頃(尾張きってのうつけ者」と陰口を叩かれながら、父・信秀がそれまで敵対していた斎藤道三と和睦し、その証として道三の娘・濃姫と結婚した直後に近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという。ちなみに信長と濃姫の夫婦関係には謎が多い。何が何でも信長を戦国時代の英雄に仕立て上げたかった司馬遼太郎は、本能寺の変の際、濃姫が長刀をふるって信長とともに戦ったとしているが(「国取物語」)、論理的に考えるとおかしい。そもそも当時は権力者の正室になると、それまでの名を捨て○○殿とか○○院(たとえば徳川家康の正室は築山殿、家康の死後は西光院)という別名で呼ばれる習慣があり、濃姫の場合、○○殿という別名で呼ばれたという記録が残っていない。また二人の間に子供が生まれた記録も残されていない。信長伝記で一番信頼されている『信長(しんちょう)公記』も信長と濃姫の夫婦関係の実態については触れていない。「司馬史観」などと彼の著作を拝めている人たちは多いが、実際には司馬は自分の歴史観を正当化するため、都合の悪いことはすべて隠蔽して書いている。推理小説家なら多少アンフェアなところがあっても許容できるが、歴史小説ではそういうアンフェアな書き方は許されるべきではないと思う。たとえば「あの戦争」(この言葉は私独自の用語で、ほかに言いようがないためこういう多少曖昧な言葉を使わせてもらっている。朝日新聞の用語は「アジア太平洋戦争」、読売新聞の用語は「昭和戦争」)について司馬は批判しているが、『坂の上の雲』では日露戦争の勝利を賛美している。しかし日本が軍国主義への道を歩み出したのはこの戦争で勝利しながら、日本の戦力を脅威に感じ出した欧米列強の干渉により戦果を放棄せざるを得なくなった政府に対して国民の怒りが爆発し、連日国会や総理官邸をデモ隊が取り巻き、そうした一般大衆の「弱腰外交」に対する怒りをあおりにあおったのが大新聞社であり(具体的には朝日新聞や読売新聞など)、そうしたマスコミのバックを得た国民の怒りが軍国主義国家への道を掃き清めたという動かしがたい歴史的事実を、司馬は意図的に自分の脳裏から消去した歴史小説家であった。
 司馬批判はそのくらいでやめ、ナポレオン・ボナパルトと信長の共通性についてもう少し検証しよう。フランス革命によって市民がいったん王を含む貴族の支配を崩壊させたが、王政派がしばしば蜂起し、ナポレオンは市民側が支配していた軍隊の総指揮をとってパリ市街地で大砲を乱射して王政派の反乱を鎮圧した。この時市民側にも大きな犠牲者を出したが、そんなことはお構いなしといった、現代社会だったら当然許されない乱暴な行為だったが、この「功績」によって国内軍司令官のポストを手に入れた。
 だがフランス革命の余波が自国に及ぶのを恐れた欧州各国が同盟(第1次対仏大同盟)を結びドイツ側とイタリア側の2方面からフランスに攻め込み、ナポレオンはイタリア側からの攻撃に対するフランス軍の総指揮をとって連戦連勝を重ね、イタリア北部に広大な領地を獲得、凱旋したナポレオンはパリ市民から熱狂的な歓迎を受けた。
 さらにナポレオンはフランス領土の拡大を目指してエジプトに侵攻、いったん勝利してカイロに入城したが、イギリスが反発してナポレオン軍を攻撃し、アブキール湾の海戦でフランス艦隊を撃破、ナポレオン軍は孤立した。勝利したイギリスは欧州各国に呼びかけて第2次対仏大同盟を結成、オーストリア軍がイタリアを奪還、フランス市民政府は一転窮地に陥った。
 これを知ったナポレオンは自分の軍隊を放り出してエジプトを脱出(信長も浅井・朝倉連合軍との「姉川の戦い」に敗れ、同盟の徳川軍や自分の軍隊まで見捨てて京都に逃げ帰っている)、パリに逃げ帰ったが、パリ市民はエジプトを制圧した英雄としてナポレオンを迎えた。
 その直後、ナポレオンは当時台頭しつつあったブルジョアジー(資本家階級のこと。左翼用語)の意向を受けてクーデターを起こし、市民政府の代表の座(統領)に就く(この権力の座に就くプロセスは、信長が足利義昭を担いで義昭を第15代将軍の座に就けながら、実権を掌握していくプロセスときわめて酷似している)。
 権力を掌握したナポレオンは内政面でも諸改革を断行。革命時に壊滅的な打撃を受けた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興を図る。フランス全土にわたる統一法典をつくり、「万人の法の前の平等」「信教の自由」「経済活動の自由」「公共教育法」など現在の民主主義に継承される法律を制定する。また社会インフラとして交通網の整備にも力を注いだ(このあたりも楽市楽座を設け、資本主義経済を先取りした制度をつくった信長の政治とも類似している。信長が暗殺されていなければ社会資本の充実やインフラ整備にも取り組んでいたと思われる。キリスト教の布教を許して「信教の自由」を事実上認めた点もナポレオン政治と酷似している。また豊臣秀吉の太閤検地などは信長の思想を継承したものと言っていい)。
 
 ここまで書いて、食事をしながら午後7時のNHKニュースを見ようとテレビを点けたら、いきなり野田総理が今月16日解散を、自民・安倍総裁に条件を付けて表明したというビッグニュースが飛び込んできた。で、本筋の本筋の政局問題に戻るが、大急ぎで続きを書く。
 
 ナポレオンの権力は拡大し、自ら皇帝の座に就く。王政を滅ばして民主的改革を進めながら、独裁的地位を築くや歴史の歯車を逆転し、自らが皇帝になったのである。パリ市民のナポレオン敬愛の念は急速に冷えていく。ナポレオンはフランス皇帝の座に就いただけでは満足せず、スペインをも手中に収めようとスペイン王朝の内紛に付け込んで自分の兄をスペイン王の座に就けるという暴挙までやった。これに怒ったスペイン民衆が蜂起、ゲリラ活動を始めた(「ゲリラ」という言葉はこの時生まれた)。彼らを支援したのがイギリス軍で、オーストリア軍も反ナポレオン連合軍に加わり、ナポレオン軍は一時苦戦を強いられたが、最終的には勝利を収め、敵対したイギリスを孤立化させる作戦に出る。
 当時イギリスでは産業革命が進行中で、ヨーロッパ諸国は国内産業がイギリスの工業製品に頼っていた。そのためまずロシアがナポレオンのイギリス包囲作戦に反発、フランスとロシアの間で戦争が勃発、ナポレオン軍はロシアの「冬将軍」の前に大敗を喫する。これがナポレオン帝政の没落の原因となる。
 この大敗で皇帝の座を追われたナポレオンだが、ナポレオンを慕う軍隊や民衆も少なくなく、いったん皇位に復活するが、ふたたびイギリス・プロイセン連合軍とワーテルローの戦いで完敗し、セントヘレナ島に幽閉され孤独な生活を送って、波乱に満ちた人生を閉じた。
 ナポレオンが信長と決定的に違った点は、若くして小さいながらも一国の主として領内の内紛を次々に平定し独裁体制を築いてからは、周辺に領土を拡大していき、天下制覇の達成を目前にしながら、逆臣・明智光秀のクーデターで夢を絶たれたのと違い、一兵卒から身を起こし、数々の戦争で武勲を立て、最後はフランス軍の最高司令官になってブルジョアジーの要請を受ける形で民衆とともに帝政を崩壊に導き、独裁権力を確立したうえで帝政を復活して自ら皇位に就いたという権力奪取のプロセスの違いである。ナポレオンが独裁権力を確立して行く過程で、貴族(前国王を含む)、民衆(農民と新興工業産業の労働者)、イギリスの産業革命の余波を受けて台頭しつつあったブルジョアジーの3者の拮抗した勢力関係を巧みに利用し、政治的遊泳術で次第に独裁権力の座を固めていった、そういう権力奪取の手法をボナパルティズムという。
 そういう意味で、自民党時代も派閥均衡状態を巧みに利用した政界遊泳術でのし上がり、「政権交代可能な2大政党政治体制を確立する」という大義名分を掲げ、ある意味では近い思想で日本新党を結党した細川護煕に呼びかけて大野合勢力を作り上げ、総選挙で自民が過半数を割ったのを好機として大連立政権を実現、細川を総理に擁立しながら、その背後で事実上の権力を握ろうとした手法はまさにボナパルティストと言って差し支えないだろう。

 実はこのブログを書き始めたのは11月8日から。前日の7日は朝から外出していて帰宅してから朝日新聞を広げたら、いきなり目に飛び込んできたのは「首相、主導権狙う」という中見出しを付けた政局記事だった。「主導権狙う」という表現は、現時点で野田が民主党の主導権を握っていないことを意味する。やっと朝日新聞はそのことに気が付いたかと思い、朝日新聞お客様オフィスに急きょ電話したのが午後5時45分ころ。土曜日は朝日新聞お客様オフィスの読者対応は午後6時まで(平日は9時、日祝日は休み)。年中無休で午後10時まで読者からの電話に対応している読売新聞読者センターに比べ、朝日新聞の読者に対するサービスは悪すぎる。読者から寄せられた情報や記事に対する意見は新聞社にとって「宝物」と言ってもいい(すべてとは言わないが)。朝日新聞は、読者サービスは「棚から牡丹餅」を入手できる大きなチャンスなのだという認識を持ってほしい。
 それはともかく、記事の中身は読まずに(読んでいる時間的余裕がないため)朝日新聞のお客様オフィスに電話した。聞き覚えのある方の声だったが、朝日新聞のお客様オフィスも読売新聞の読者センターも絶対姓名を名乗らない。自分たちは誰彼かまわず取材する時は土足で入り込み、ひとの人権やプライバシー、親族のスキャンダルまで平気で暴く「権利」を主張するくせに、自分たちは安全地帯を確保するため姓名を名乗らない。ちなみにNHKの場合はふれあいセンター(視聴者窓口)の人はコミュニケーター(最初に電話に出た方)も、チーフ(責任者)も必ず姓名を名乗る。それだけでなく、電話をかけたら担当者につながる前に「正確を期すため録音させていただいております」というインフォメーションが自動音声で流されている。読者からの電話を録音していることも読者に知らせず、何かトラブルが生じたときの証拠にするためかどうかは知らないが、密かに録音している読売新聞読者センターの悪辣さに対する憤りはいまだに消えない(私が知っている限り、客からの電話を録音する場合、読売新聞読者センターを除いてすべて「正確を期すため録音させていただきます」といった趣旨の自動メッセージが流れる。読者センターは読者をどう考えているのか)。
 私は朝日新聞お客様オフィスの持ち時間が残り15分しかないので、急きょ、ブログに投稿するまでは政治部に伝えないでほしい、と念を押してこれからの政局の論理的予測を述べた。その骨子を箇条書きで書く。

①野田は年内解散・総選挙の腹を決めたと思う。
②ただし安倍が最低「特例公債(赤字国債)発行法案」の今国会中
 成立を約束すること。
③「社会保障制度構築のための国民会議」の設置を約束すること。
④来年の通常国会で衆議院議員の定数削減を約束すること。
④以上の②~④を条件に解散すると思う。もともと野田は8月8日、輿石の了
 解をとらず、密かに谷垣と会談し、消費税増税法案成立条件として「近いう
 ちに国民の信を問う」と約束していた。
⑤だが輿石が解散を承知せず、野田も約束を反故にせざるを得なかった。野田
 が頼みにしていた反小沢の若手実力者たちが野田に協力してくれなかったこ
 とも約束を守れなかった要因の一つである。
⑥その結果、輿石氏の幹事長続投は阻止できないまでも閣僚人事で輿石体制に
 対抗できるようにしたと思う。
⑦一方、自民も強硬派の石原を党執行部から遠ざけることで野田の出方次第で
 は民主3条件に歩み寄れる(もちろん丸呑みは意味しない)体制をつくった。
⑧かくして特例公債発行については3党合意が成立し、国民会議の設置にも
 自民内で反対の声が出ていないから②と③は実現する見通しがついた。
⑨早期の解散・総選挙となると民主が惨敗することはほぼ間違いない。もとも
 と政策のすり合わせもせずに右から左までを数合わせで集めた野合政党だか
 ら、総選挙で負けた途端細川・羽田政権のように四分五裂のガラガラポンで、
 政界再編成になる可能性がかなり高い。
⑩その場合、民主内でも少数派だった野田グループだが、代表選で若手実力者
 たちが様々な要因で出馬できず、小沢アレルギーから野田支持に回ったいき
 さつもあり、野田グループとスクラムを組んで自公と大連立を組む可能性は
 無視できない。
⑪まったく予測がつかないのが旧小沢チルドレンの動向。これまでは輿石につ
 いて行ったが、総選挙となると輿石が属する旧社会党系の横道グループでは
 選挙に勝てないことは明らかで、かといって野田グループに接近するのもこ
 れまでのいきさつから潔しとしないだろうから、身の振り方に困ると思う。
 ひょっとしたら小沢の「国民の生活が第一」に、頭を下げて入る人が出る可
 能性もある。

 野田の「解散のための3条件」は④を除いてほぼ自公の協力を取り付けた。④の選挙制度改革は自公と民主の間の隔たりは小さくない。国民に大きな負担をお願いする以上、自分たちも血を流す必要があると、最高裁で憲法違反の判決が出た1票の格差を解消するための小選挙区の0増5減だけでなく、比例定数を40人は削減すべきだと主張する民主と、とりあえず憲法違反の0増5減を先行すべきだとする自公の主張の格差は簡単には埋まらない。だから野田も一応選挙制度改革法案は提出するが、「来年の通常国会で定数削減を約束するなら」という16日解散のための条件を付けたのである。これに対して安倍は約束すると応じた。いちおうこれで不充分ながら3条件が整った形になったが、はっきり言ってこの約束事は茶番劇である。とにかく安倍は年内解散を確実なものにするために「約束」しただけで、野田だって「近いうち解散」を反故にしたことがあるじゃないか、と言われると弱みがある野田としては何も言えないことを計算づくでした「約束」に過ぎない。せいぜいのところ野田の顔を立てて5~10くらいの定数削減はするかもしれないが、その程度の軽い「約束」でしかない。
 そもそも政党の主張は選挙を有利に運ぶことを最優先するケースが圧倒的に多い。そのため民主主義政治はポピュリズム(大衆迎合主義)に陥りやすいと言われている。
 大哲学者のプラトンは、民主主義政治は「愚民政治」とこき下ろし、哲学者による独裁政治を主張した。プラトンほどの人ですら自己中心の政治論を主張したことからも民主主義の最大の欠陥が多数のための多数による政治という点にあることは明らかである。しかし民主主義に代わるよりフェアな政治思想が登場するまでは民主主義はベストとは言えなくてもベターであることは疑問の余地がない。
 マルクスが『ゴータ綱領批判』で唱えた社会主義・共産主義の理念は民主主義者も全否定はしていないが、レーニンが社会主義社会の前段階としてプロレタリア独裁政治を唱えたことにより、封建制度以上の専制独裁政治の理論的主柱となってしまった。今では日本共産党すらこの政治思想を否定しており、中国も毛沢東時代への反省から個人による独裁政治の防止策を模索しているのだ。
 実はマニフェストは政党の「党利党略政治」の公約に過ぎないのだ。実際、「国民に大きな負担をかける消費税増税をお願いする以上我々も自ら血を流す必要がある」という民主の比例定数削減案は、自民と連立している公明党議員を標的にした削減案に過ぎず(公明党議員は圧倒的に比例選出が多い)、自民が主張する憲法違反の解消を優先すべき、というのも公明党を救済するためのものでしかない。
 いずれにせよ両者譲らず政治空白が一か月以上続く中で、しびれを切らした民主が自公の合意をとらずに一方的に臨時国会の開会日を10月29日と決定したことに自公が猛反発、衆院の首相所信表明演説には出席せず、野党が多数を占める参院では開会すら認めず、野田が所信表明演説すらできないという前代未聞の状態になり、マスコミが自民に集中砲火を浴びせたことで、何とか打開の道を模索しながらも強硬派に配慮して身動きがとれなかった安倍・石破執行部にとっては、逆にマスコミの批判が強硬派の重しを取り除く契機になった。
 実際翌10日から安倍・石破執行部は徐々に党内強硬派の説得に乗り出した。そうは言っても一夜にして自民内部の主戦論が簡単に後退するわけでもなく、党内での対立がかえって激化するという結果も生んだ。
 が、このことが安倍・石破執行部にとっては神風となった。中間的立場で様子見していた有力議員たちが執行部寄りの発言を始めたからだ。マスコミは自民内部の対立について強硬派の「野田総理が年内解散を表明しない限り国会審議に応じるべきではない」との主張だけを強調してきたため、全く別の視点から審議入りの条件整備の声が出てきて、結果的にはこれが自民の軟化を一気に進めることになったのだが、それをご存知の方はほとんどいないと思う。
 それは、水面下でくすぶっていた今年度予算の減額を巡る与野党の対立だった。このことは大方の方はご存知だと思うが今年度予算の中で大きな要素を占めていた東日本大震災によって被害を受けた地元経済を復活するための予算が成立したことで、実は無関係な事業を営む企業が「蜜に群がる蟻」のように絶好のチャンスとばかり見せかけの申請をして不正に受給していたことが明らかになり、自公が今年度予算の減額補正を求めていた案件が急浮上してきたのである。が、執行部は「減額補正は当然だが、それと解散時期の表明がリンクするかどうか…」と党内の状況を見定める姿勢を打ち出すにとどまっていた。が、こうしたこう着状況の打開案が自民から出てきたことをチャンスととらえた民主の安住幹事長代行が「喜んで提案に乗らせていただきたい」と野党に歩み寄る姿勢をはっきり打ち出し誘い水をかけたことで自民の体制が大きく転換していく。
 それまでいちおう強硬派に配慮していた安倍が11月1日昼、都内での街頭演説で特例公債発行法案について衆院予算委員会での審議に応じると初めて表明、事態打開の動きが急速に進みだしたのである。
 
 ここまで書いて私の日課であるフィットネスクラブに行って汗を流し、帰宅して食後NHKのニュースを見たら(15日)早くも民主党から5人の離党者が出たらしい。一歩も外出せずパソコンに向かい続けなければ政局のめまぐるしいまでの激変にとてもついていけない。で、今日でこのブログをいったん終了することにした。続きは解散語、民主党の分裂がどういう形で生じるか、野田グループが前原や岡田、枝野、安住など最後の段階で野田の支援を明確にした実力者たちが新たな連合を結成し(その場合民主党の党名を踏襲するか、あるいは新党を結成するかは不明だが)、自公とどういう関係を構築するべきかについて書きたいと思う。
 ただ政局の読み方としてポイントになったことだけを時系列で書いておく。
 安倍がマスコミの批判に対応する形で強硬派をけん制し、特例公債法案の審議に入ることを表明したのが11月1日だった。また社会保障制度改革を実現するための有識者も含めた国民会議の設置にも合意した(いわゆる「太陽政策」)。「野田が解散時期を明確にしなければ与党に協力すべきではない」と主張してきた強硬派は、安倍が方針転換したことに猛烈に反発し、自民内部も収拾がつかない状況になった。
 一方、民主党では輿石が依然として強硬姿勢を崩さず4日のNHK番組で「年内解散は日程的にも物理的にも難しい」と述べ臨時国会で民主が成立を目指す3法案にあくまでこだわる姿勢を強調した。この時点では輿石は「解散のための3条件」を自公が呑まない限り、野田が解散時期を表明するようなことはありえないと考えていたのだ。一方同じ番組で安倍は「野田総理が求めてくれば党首会談に応じるのはやぶさかではない」と、3条件の扱いに前向きな姿勢を示し、野田・安倍ラインで事態の収拾を図る意向を示唆した。
 こうして政局の歯車が曲がりなりにも動き出したが、まだその行方は全く読めない混沌とした状況だった。そうした時期の3~4日に共同通信が行った全国世論調査によると、内閣支持率は前回10月の調査より11.5ポイントも急落して17.7%だった。この数字は事実上野田内閣がすでに「死に体」であることを示している。自民の石破幹事長は5日「これだけ国民に信頼されていない政権が外交をやる、来年度予算を組むとは笑止千万」と一刀両断し、「国民の声を首相は真摯に受け止め一刻も早く国民に信を問うべきだ」と改めて年内解散を強く迫った。自民強硬派の主張を執行部がまだ押し切れていないことを意味する発言だった。実際安倍の「特例公債法案の審議入り」を容認する発言を公の場でしたことで、強行派はかえって硬化し、安倍は党内で孤立化しかねない状況に追い詰められた。
 民主もまた輿石路線が依然として党の主流をなしており、安倍の「太陽政策」にかえって警戒感を鮮明にし、自公が求めた国会日程をことごとく拒否、衆院両院での予算委員会の開催要求にも「法案の処理を優先すべき」(山井国対委員長)と一蹴するありさまだった(6日)。この時期、アンチ野田派は、野田が安倍の「太陽政策」に乗って早期解散に踏み切ることを最も警戒していた。
 こうした民主党内部の混乱は、自民強硬派をかえって元気づけ、安倍も再び強硬姿勢に転換せざるを得なくなっていく。たとえば、この段階になって民主が「中道路線」を主張し始めたことについても安倍は「自分の信念も哲学も政策もない人たちを中道の政治家という。堕落した精神、ひたすら大衆に迎合しようという醜い姿がそこにある」と、民主の混迷ぶりを痛烈に批判した(7日午前)。が、そのころ自公に「国民の生活が第一」が加わり国会内で国対委員長会議が行われ、衆院予算委員会の9日(金曜)、12日(月曜)両日開催に与党が応じれば、特例公債法案について8日(木曜)の衆院本会議での審議入りを容認することで一致した。新聞やテレビニュースではあまり大きく扱われなかったが、この野党3党の国対委員長会議が局面打開に大きく影響した。野田がこの野党3党の要請に応じたからである。野田にとっては膠着状態から脱する最後のチャンスとなった。

(「今日でこのブログをいったん終了する」と書いたが、政局を一転する事態が生じたので④に続ける)
 
 



なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのかーー私の政局分析 ④

2012-11-19 14:48:20 | Weblog
 11月8日午後、衆院本会議で特例公債法案の審議がようやく始まった。野田は国民生活に支障が出るのを避けるため速やかに法案が成立するよう野党に協力を求めた。自民は法案処理が大幅に遅れた責任は政府・民主にあると主張、年内の解散・総選挙を改めて迫る。ある意味では無意味なやり取りと言えないこともないが、これは国会での審議開始に際しての儀式のようなもので、それ以上でもなければ、それ以下でもない。しかし、この日を境に再び回りだした歯車は一気に加速しながら進みだす。
 9日の朝日新聞朝刊は1面トップ記事に「公債法案、成立見通し」の大見出しをつけて衆院を15日に通過させることで3党合意が成立したことを伝えた。また3面では野党の要求を呑み民主が予算委員会の開催にも応じる方針を決定したことを報じている。ただこの記事のリードでは「環境整備は進むが、会期末まで残り3週間。自公が求める年内解散へのハードルは、なお高い」と書き、結果論だが読みの甘さを露呈した。
 しかも9日の夕刊では、また読者が混乱したであろう記事が1面トップを飾った。野田がTPP(環太平洋経済連携協定)の交渉に参加する意向を固めたというのだ。その一方サブタイトルは「首相、年内解散も視野」とした。TPP交渉参加の意向はもともと野田は持っていた。が、民主が参加を一方的に決めたら野党が反発して審議はストップし、党内も分裂状態に陥ることくらい政治記者なら百も承知のはずだ。TPP交渉参加と年内解散は絶対に両立しえないテーマである。解散後の総選挙でのマニフェストに謳う意向を固めたという意味だったらあり得るが、今国会中に参加を決めたりしたら、何もかもぶち壊しになることぐらいわかりそうなものだが……。
 このブログの③編で朝日新聞のお客様オフィスに10日の午後5時45分ごろ、私が今後の政局予測を申し上げ、実際ほぼその通りになったのは、些細な情報にとらわれず大局的要素以外は無視したからである。政局が最終的段階に入りつつある状況で、民主、自民ともども党内が割れているTPP交渉参加問題を野田が争点に持ち出すわけがない。朝日新聞の番記者は民主幹部に張り付いており、9日の夕刊で、TPP問題について枝野経産相が「次の選挙までに結論を出すべきだ」と個人的意見を述べたことは事実だろうし、前原国家戦略相が「TPPの交渉にも参加すべきだ。民主党が高らかにマニフェストに掲げて、選挙後の連携の一つの大きな軸にもなりうる」とやはり個人的見解を述べたことはたぶん事実だと思う。しかし、解散が近い状況になると、解散後の選挙を有利に運ぶため閣僚や閣僚級の党内実力者が、様々なアドバルーンを打ち上げ、マスコミや国民の反応をうかがおうとするのは有力政治家の常套手段である。その程度のことは政治ジャーナリストにとって常識である。政治ジャーナリストではない私ですら承知しているくらいだから……。
 何度も書いてきたように野田が頑として譲ろうとしなかった「解散の3条件」は①特例公債(赤字国債)の発行②社会保障制度改革を国民の目に見える形で論じあう国民会議の設置③衆院議員数の0増5減で憲法違反状態を解消するだけでなく消費税増税という国民に大きな負担を求める以上国会議員も血を流すべきとして主張してきた比例定数の40削減(前回選挙でのマニフェストでは80削減だった)、の三つである。この三つのうち①と②は事実上合意に達しており、連立を組む公明に配慮して比例定数削減の先送りだけは頑として歩み寄りの姿勢を見せなかった自民との距離をどうやって縮めるかだけが残る段階まで漕ぎつけてきたのに、ここに来てすべてをぶち壊すような難問を持ち出すわけがないことぐらい、高校生とまでは言わないが大学生だったら容易に理解できるはずの話を、2日にわたって夕朝刊の1面トップ記事で扱った朝日新聞の政治センスが問われるべきである。
 このあと書くが、まさか輿石に「最後の大逆転」を図るためのこんな手があったのかということは、私にとってまったく想定外だった)。いや私だけでなく、輿石にこんな「奥の手」が隠されていたとは、「専門家」であるはずの政治ジャーナリスト(マスコミの政治部記者を含む)や政治評論家にとっても想定外だったはずだ。というより、政治ジャーナリストとしては素人の私ですら「想定外」という認識を持ったのに、プロの政治記者がそういう認識すら持っていなかったということは、政治ジャーナリストとして「失格」の烙印を押されても仕方ないだろう。
 もし私が朝日新聞のお客様オフィスにそういう意見を申し上げたら朝日新聞お客様オフィスの方はどうお答えになるだろうか。良心的な方だったら必ず「私もそう思う」とお答えになると思う。で、実際これから試してみる。実は今胸がドキドキしている。

 電話に出られお客様オフィスの方は「私の意見は差し控えさせていただきます」と言われたので「皆さん、ご自分の考えを述べられますよ」とさらに迫った。その方は「お客様のご意見は今後の教訓として活かすべく担当部門に伝えさせていただきます」だった。非常に慎重な言い方だったが、事実上私の主張をお認めいただいたと思う。
 さてなぜこういう手段を私がとったか。読売新聞読者センターの対応の卑劣さを改めて検証するためだった。すでにご承知の方も多いと思うが、8月15日に投稿したブログ記事『緊急告発!! オスプレイ事故件数を公表した米国防総省の打算と欺瞞』を書くに際し、読売新聞読者センターの方二人に私の考え方に盲点がないかどうかを確認すべく電話したのである。書く前に私の分析内容について聞いていただいたのは男性のスタッフ。声に聞き覚えがなかったので、春の異動で読者センターに配属された方ではないかと思う。その時の彼の発言をブログに書いてしまった(私の配慮がちょっと足りなかったことは認めるが…)。その個所を転記する。

 実は昨夜読売新聞読者センターの方に私の考えを申し上げたところ、担当者は「うーん。……おっしゃる通りだと思います」とお答えになったので「読売さんの記者はまだ誰も米国防総省の計算と欺瞞性にお気づきではないようですね」と言いつのった。「そのようですね」とお答えになったので「つまり記者としては失格だということですね」とまで挑発してみたが、返ってきた答えは「その通りだと思います」だった。そこで私が米国防総省の欺瞞性を暴いてみることにしたというわけである

 もう一人の方は何度も意見交換をしてきた女性の方で、ブログ記事を書き上げた後、再確認するため意見を伺った。私は名前を名乗って電話したわけではないが、その女性は「小林さんの主張は私もその通りだと思いますが、ちょっと気になった表現があります」とのご指摘を受けた。実は私もやや気にしていた個所だったが、米国防総省が仕掛けた罠とトリックにまんまと引っかかり、オスプレイの安全性を安易に認めてしまった森本防衛相に対し「アホな」という冠言葉をつけた個所だった。彼女は「小林さんの主張については私も同意しますが、森本さんは少なくとも一国の大臣ですよ。敬称まで付ける必要はないと思いますが、大臣に対して『アホな』はないでしょう。小林さんらしくないと思いますよ」と、手痛いご指摘だった
 で、私はその個所を「森本のような論理的判断力を欠いた防衛相がたった一度オスプレイに試乗したくらいでオスプレイの安全性or危険性がわかるわけがない」と書き換えて投稿し、このブログ記事の原本(ワードで書いた原稿を貼り付け投稿したのがパソコンなどで読めるブログ記事です)をプリントして読者センターにFAXした。すべてではないが、今後の参考にしてもらいたいと思った記事は読者センターにFAXすることにしていた。いまは朝日新聞のお客様オフィスにそうしている。
 ところが、読売新聞は驚くべきことに北朝鮮のような世界だった。言論の自由を声高に主張する日本最大の発行部数を誇る読売新聞の世界には言論の自由がないのである。私のブログ記事(原本)を読んだ読者センターの責任者は直ちに「犯人探し」を始めた。いわゆる内部調査である。そして「犯人」を突き止めた責任者は「お前、本当にそんなことを言ったのか」と詰問した。震え上がった「犯人」は「そんなこと言ってません」と否定した。北朝鮮のような世界で正直に答えたら、たちまち稚内あたりの支所に飛ばされてしまう。本当のことが言えるわけがない。で、たちまち私は「ウソつき」呼ばわりされることになった。あまつさえ「ねつ造した方ですね」とまで断言された。これで怒りを爆発させないようなお人好しでは私はない。「ねつ造なんか絶対にしていない」「証拠がある」「証拠とはなんですか」「録音だ」「では聞かせてほしい」「そんなことできるわけがない」……このやり取りを最後に私は読売新聞に対するコミットを遮断することにしたというわけだ。
 それ以降私は読売新聞読者センターへの復讐を始めた。私が復讐するための手段はブログ記事で告発する方法しかない。弁護士に「名誉棄損で告訴できないか」と尋ねたこともあるが、「電話での二人だけのやり取りは告訴しても名誉棄損を問えない」と言われ、告訴は断念した。その代りの手段として読売新聞読者センターに私を名誉棄損で告訴させるため、さんざん挑発するブログを書いてきた。ブログは小なりといえど公な言論手段である。そのブログで事実に反する情報を公にして法人や個人の名誉を傷つけたら、間違いなく名誉棄損罪が成立する。対立が生じて以降、読売新聞読者センターは私のブログを毎日チェックしていたはずである。ひゃひゃしながら……。
①読売新聞読者センターはとうとう人間録音機集団になってしまった(8月25
 日投稿)
②読売新聞読者センターはとうとう「やくざ集団」になってしまったのか?(8
 月26日投稿)
③読売新聞読者センターの欺瞞的体質をついに暴いた!!(8月31日投稿)
 我ながら多少執拗すぎたと思ってはいるが、そこまでやっても読売新聞読者センターは反撃してこない。「録音」という絶対的証拠があるのだから(でっち上げでない限り)、告訴すれば勝てるはずだし、勝てば私の社会的生命を抹殺できるのに、なぜ告訴しないのだろう。で、今度は読売新聞本体に攻撃の矢先を向けることにした。武器はやはりブログである。
④オスプレイ問題で米国防総省の有料広報誌に堕した読売新聞(9月21日投稿)
⑤頭の悪い奴でないと読売新聞社には入社できないぞ!!(9月23日投稿)
⑥読売新聞論説委員の国語能力を再び問う お前らアホか!(10月2日投稿)
⑦なぜ読売新聞論説委員は政府の「女性宮家」創設案に賛成したのか?(10月8
 日投稿)
⑧読売新聞と共同通信は誤報の責任をどう取るつもりか?(10月19日投稿)
 さすがにタフな私も疲れた。このブログ記事の原本を読売新聞社コンプライアンス委員会にメール便で送りつけて、とりあえず様子を見ることにする。たぶん読売新聞読者センターはてんやわんやの大騒ぎになると思う。最初からそうしていればよかったのだが、そういう方法があることを思いつかなかったため消耗なひとり相撲を取り続けてしまったというわけだ。
 政局の話に戻る。いよいよ政局は最後のドラスチックな段階に突入していくが、この続きは明日(17日)書く。

 さてこのブログ記事は文字実数ですでに3万5000字を超えた。これはワードが頼みもしないのに勝手に文字カウンター機能を付けたことで、ブログの制限以内に文字数を収めるのに非常に役立ち、私は重宝にしている。
 最後のドラマが始まったのは10日である。自公の要求を呑んで政府が予算委員会を開いた日だ。「予算委員会」は衆参両院に設置されている常設機関である。本来の目的は政府が提出した予算案を審議することだが、予算は国政のあらゆる側面に直結しているため、法案が本会議に上程される前に争点整理を行う場として位置づけられ、予算委員会で承認されればほとんどの法案が本会議ではシャンシャン手拍子で可決される。ゼロから本会議で議論を始めると収拾がつかなくなることがしばしば生じるため、あらかじめ地ならしをしておくのが予算委員会の役割になっている。実際予算委員会の委員は各政党の有力議員が占め、予算委員会は、本会議についでNHKが予算委員会での重要法案の審議を中継することが多い。
 当然自公が予算委員会で野田の約束違反(「近いうち解散」の事実上の撤回)を追求してくることは目に見えており、当初民主は予算委員会開催の前に党首会談などで与野党の隔たりをできるだけ解消したうえで予算員会を開きたいとの意向を示し、「密室政治」の継続による争点整理にこだわっていた。
 しかし安倍が民主への歩み寄り路線を鮮明にしたこと、またマスコミ各社による世論調査で野田内閣の支持率が急落し、このままいくと解散後の総選挙で大敗しかねないと、野田がようやく重い腰を上げて予算委員会が開かれることになった。この時点で野田の年内解散の腹が完全に固まったと言えよう。だから、予算委員会での野田の答弁はかつてなかったほど腹の座った堂々たるものだった。NHKの中継を見ていた私ですらそう感じたくらいだから、現場で取材に当たっていた記者たちがいかに鈍感だったか、朝日新聞の政局問題の扱い方にも表れている。10日夕刊の1面トップは「うまいコメ列島激戦…北海産・九州産からトップ3」であり、片隅に「首相『TPP、公約に書く』」と、政局には何の影響もない記事を載せ、11日朝刊の1面トップ記事は「延命治療せず6割経験…救命センター、搬送の高齢者に」と、これまた政局に無関係な記事を持ってきていた(10,11日は土日で予算委員会も休会ではあったが)。
 が、12日の朝刊1面トップに、前日の11日夜から幕を開けたドラスチックな政局ドラマの開始を告げる記事が載った。記事の大見出しは、横書きの黒べた白抜きという最大級の扱いで「首相、年内解散の意向」とあった。サブ見出しも二つに分け、一つは大見出しに相当するくらいの大きな文字で(大見出しは通常ゴシック体の文字を使うが、この見出しは大見出しとの違いを明確にするため明朝体の文字を使っていた)「輿石氏に伝える」とあり、さらに二つ目のサブ見出しで「懸案見極め判断」と記していた。記事のリードは以下の通り。

 野田佳彦首相は年内の衆院解散に踏み切る意向を固めた。民主党の輿石東幹事長と11日夜、首相公邸で会談して伝えた。特例公債法案や選挙制度改革法案、社会保障国民会議設置の三つの課題の進捗状況を見極め、環太平洋経済連携協定(TPP)への交渉参加表明時期を探ったうえで(※TPP問題には触れていないはず。もし触れていたのなら、解散表明の時、安倍総裁に「TPPへの交渉参加にも前向きに取り組むことを約束していただきたい」と協力要請をしていたはず。朝日新聞は民主の有力議員がTPP交渉参加のアドバルーンを上げたことを大きく取り上げてしまった尻拭いをするため、こういう姑息なでっち上げをするのか!)、最終判断する。課題の処理のため、年内に解散しても選挙は年明けになる(※この予測も見事に外れた。政局の読み方を知らないための結果である)。

 さらに本文でも、その日の午前中に開かれた予算委員会で、石破幹事長の質問に答えた野田の決定的な発言を無視した。朝日新聞の記者はこう書いている。

 野田首相は(中略)「近いうち」とした衆院解散の時期について「自分の言葉は重たいとの自覚は持っている」と強調。一方で「特定の時期を明示するつもりはない」と述べた。

 このやり取りがあったことは事実である。だが、そうした類いの発言は今に始まってのことではなく、まして本文の冒頭を飾るようなやり取りでもない。野田が12月16日解散を表明した時、自民執行部を動かすことにつながったに違いない極めて重要な発言を朝日新聞は無視した。それは石破が「所費税増税について、8月8日の党首会談で3党合意が成立していなかったら、野田総理はどうされていましたか」という質問をした時、野田が何と答えたかである。野田はこう答えた。「私は、議員を辞職するつもりでした」と。この発言を機に、自公の野田に対して解散時期の表明を求める攻勢は止まった。野田の政治人生の中で最も重い言葉になっただろう。その言葉の重みに気付かなかった記者はやはり政治ジャーナリストとして失格だと言わざるを得ない。小泉純一郎が国民の圧倒的支持を得た一言「自民党が変わらなければ、私が自民党をぶっ壊す」と同じくらい重たい言葉だったのに…。

 野田が輿石に年内解散の意向を伝えたことで、輿石が私の(だけでなく、すべてのマスコミの)想定外の行動に出た。13日、常任幹部会の招集を急きょ行ったのである。政局を論じながら恥ずかしい限りだが、民主党に(民主だけではないかもしれないが)常任幹部会という名の、両院議員総会に次ぐ党の意思決定機関(実態は長老会議。つまりかつての実力者たちが党運営への影響力を維持するために設けた機関)があることをまったく知らなかった。この会議を招集した輿石の意図は言うまでもなく明らかである。長老たちの力を借り、年内解散を阻止すべく最後のあがきに出たのである。そして長老たちを説得するため、今まで主張してきた「まだ今国会で処理しなければならない重要法案が残っている」といったきれいごとではなく、ついに本音で勝負に出たのだ。
「今解散すれば、総選挙で惨敗する」
というのが、長老たちに対する本音の殺し文句だった。このあとは私の推測だが、「今解散・総選挙に突入すれば、党は四分五裂するだろう」とか「今解散したら1年生議員(その大半は小沢チルドレン)が小沢の『国民の生活が第一』に流れてしまう」などと言ったかもしれない。こうしたレトリック手法は日教組や連合で鍛えたのだろう、長老たちはコロッと輿石の手のひらに乗ってしまった。「年内解散は、党の総意として反対する」という「総意」を常任幹事会で取り付けてしまったのである。輿石はこの「総意」を野田にぶつけ、年内解散の翻意を迫った。窮地に陥った野田はついに「伝家の宝刀」を抜かざるを得なくなったのだ。
 野田が抜いた「伝家の宝刀」とは何か。
 総理だけが有する専権事項である「解散権」の行使であった。
 野田は輿石の反乱を無意味なものにするため、14日安倍、山口、小沢の3氏に呼びかけ急きょ党首会談を持ちかけた。もちろん解散の意思表明のためだ。通常、党首会談を公開することはありえない。「党首会談」は密室で、国会運営が行き詰まった時に、事態を打開するため妥協点を探ろうと、党首同士が本音をさらけ出して丁々発止の真剣勝負をする場である。「密室政治」の典型であり、その場を国民の目にさらすということは、この時点で解散することの意味を国民に知らしめ、野田が政治改革にかけてきた執念を改めて国民に問うという捨て身の作戦であった。
 内閣支持率の低下に歯止めがかからない状況の中で、「解散の3条件」にあくまでこだわり続けてきた野田が、輿石の大反乱に直面し、国民の目の前で野党党首の本音を引きずり出し、「わが信念の正当性」を来たるべき解散後の総選挙で問うために打った大芝居、とも言えよう。その様子を朝日新聞の「1問1答」記事で見てみよう(ただし記事中の敬称は略す)。野党党首に迫った野田の迫力がよくわかる。支持率は下がる一方で、「近いうち解散」の約束を反故にして野党からこれでもかこれでもかと追及され、その上輿石の大反乱でにっちもさっちもいかなくなった政治家とは思えないほど、逆に野党を追い詰めていく野田の真骨頂の一端が「一問一答」記事の行間に見て取れる。ただし朝日新聞の記事は党首間のやり取りをすべて掲載しているわけではない。

 安倍 野田総理は確かに約束した。(消費増税の)法律が成立したあかつきには、近いうちに信を問うと。法律は成立した。約束の期限は大幅に過ぎている。
 首相 私は小学生の時に家に通知表を持って帰った時に、とても成績が下がっていたので、おやじに怒られると思っていた。でも親父は頭をなでてくれた。生活態度の講評のところに「野田君は正直の上にバカが付く」と。それを見て喜んでくれた。数字にあらわせない大切なものがある。残念ながら、「トラスト・ミー」(※)という言葉が軽くなってしまったのか、信じてもらえていない。
   ※「トラスト・ミー」は1990年制作のアメリカ映画。妊娠して高校をド
   ロップ・アウトした少女が、両親にそのことを告げると父親が激怒、妊
   娠させた相手からも愛想を尽かされる。その彼女が偶然出会ったのが誠
   実すぎて巧みな世渡りができず、仕事も転々としていた若い男性と知り
   合い互いに惹かれあう。男性は彼女のために地道に働くことを決意する。
 確かに感動的な映画だが、ここで使う言葉としてはあまり適切ではない。
  むしろズバリ「正直者は馬鹿を見る」あるいはその逆を意味する「正直
 者の頭に神宿る」という格言を使って安倍を牽制すべきだったと思う。
 特例公債については3党合意ができた。今週中に成立できるように、尽力を頂ければと思う。1票の格差と定数是正の問題。1票の格差の問題は違憲状態だ。一刻も早く是正しないといけない。一方で定数削減は、2014年に消費税を引き上げる前に、まず我々が身を切る覚悟で具体的に削減を実現しなければいけない。それを約束して頂ければ、今日、近い将来(※当然この言葉はカギカッコでくくるべき)を、具体的に提示したい。
 安倍 まずは0増5減。皆さんが賛成すれば明日にも成立する。
 首相 定数削減はやらなければならない。消費税を引き上げる前に、この国会で結論を出そう。どうしても定数削減で賛同してもらえない場合は、ここで国民の皆さんに約束をしてほしい。ここで定数削減は、来年の通常国会で必ずやり遂げる。それまでの間は議員歳費を削減すると。このご決断をいただければ、私は今週末の16日に解散をしても良いと思っている。
 安倍 まずは0増5減、これは当然やるべきだ。来年の通常国会において、すでに私たちの選挙公約において、定数の削減と選挙制度の改正を約束している。(※この党首会談での事実上の「公約」を安倍は党内の慎重論に押され、翌日あっさり撤回した。朝日新聞は15日の夕刊で「削減数、公約に記さず…安倍氏方針」という見出しで報じた。「ひとのことがよく言えたな」と言いたい)
 首相 最悪の場合でも、必ず次の国会で定数削減をする。ともに責任を負う。それまでの間は、例えば議員歳費の削減等々、国民の皆さんの前に、身を切る覚悟をちゃんと示しながら、負担をお願いする。制度ができるまでそれを担保にする。そこをぜひ、約束して頂きたい。
 安倍 皆さんが出している選挙制度、連用制はきわめてわかりにくい。憲法との関係においても疑義がある。しかし16日に解散をして頂ければ、国民の皆さんに委ねようではないか。
 首相 技術論ばかりだ。覚悟のない自民党に政権は戻さない。そのことで我々も頑張る。(中略)
 山口 総理はこの16日にも解散をしてもいいと。
 首相 16日解散、ぜひやり遂げたいと思うが、問題は1票の格差と定数削減だ。ぜひ協力を。
 山口 連用性の提案は傾聴すべき点もあるが短い時間で合意を作り上げることは簡単ではない。
 首相 16日までに決断できるよう、再考していただきたい。定数削減は必ずやらなければいけない。かつて山口代表は議員歳費の2割削減を主張された。削減できるまでは、せめて身を切る努力をすることを約束いただけないか。(※些細なことと言われるかもしれないが、これまでは「頂く」と書いていたのにこの首相発言では「いただく」と漢字を開いている。記者の国語能力の低さもさることながら、チェックで見逃した校閲担当の社員も「給料泥棒」と言われても仕方あるまい。私の場合、手書きで原稿を書いていた時代はこういうミスは絶対しなかった。ワードで書くようになり誤変換を見落とすことがたびたびあるが、書くのも推敲も校閲も一人でやらなければならなくなりミスを完全に防止することが不可能になったが、そういうミスをチェックする体制を新聞社は取っている。「恥」を知ってほしい)
山口 おお、いいでしょう。定数削減、これも選挙制度の内容とともに議論を進めよう。3党合意に基づいて、消費税の制度設計、命を守るための防災対策、そういう道を共に歩もう。

 16日午後の衆院本会議で衆院議長が「解散」を高らかに宣言した。各党各議員はいっせいに選挙活動に走り出した。
 これで長文の政局記事を終える。これから編集作業に入る。 
                           平成24年11月18日午前10時15分