まず前回のブログ「NHKスペシャル『メイドインジャパンの逆襲』の誤りを指摘する」の記事についてお詫びを申し上げなければならない。あの記事は同番組担当プロジューサーにFAXしたものをブログにそのまま投稿してしまったため、同番組をご覧になっていらっしゃらなかった方にとってはチンプンカンプンだったのではないか、と反省している。だいいち私の本来の文体である「である」調ではなく「ですます」調のまま投稿した手抜きについては弁解のしようもない。さらに、ソニーとアップルを対比させてソニーの失敗を検証した番組に対する批判に、なぜレコードの歴史を書く必要があったのか、我ながら恥じるばかりである。
NHKスペシャル(以降Nスペと記す)では「ソニーがアップルとの競争に負けた」という「事実誤認」に基づいた検証番組を作ったので、そもそもそういう問題認識そのものが間違っていることを証明するつもりだったのだが、つい話が横道にそれてしまい、ハードとソフトの関係をこの際明らかにしておこうと考えてしまったことが、私の失態の最大の原因であった。
ハードとソフトの関係はやはり明らかにしておく必要があるので、別の機会に書こうと思っているが、まずNスペの問題認識の誤りについて明確に指摘しておこう。
Nスペの狙いは一時世界を席巻した日本の最先端技術力がなぜ競争力を失ったのかを解明し(第1部)、再び技術立国として世界をリードできるようになるかを検証する(第2部)ことにあった。この問題提起そのものは間違っていないし、ハイテク企業にとっては喫緊の課題であることも間違いない。だが第1部でソニーとアップル、シャープとサムスンを対比させ、かつては世界をリードしたトップメーカーが凋落したことを検証の材料として取り上げたことがそもそも間違いのもとであった。
とくにソニーとアップルに関しては競争関係にあったことは過去も現在も一度もない。ソニーはAV(オーディオ&ビジュアル)市場における世界の雄であり、ブルーレイDVDで足並みを揃えるまではことごとく松下電器産業(現パナソニック)と世界標準規格の主導権争いをしてきた関係にあった。一方アップルがAVの世界で新しい技術を提案したことも一度もない。アップルがしたことはインターネットの新しい利用方法を実現するための、iモードに代わる機器を開発したことである。それをごっちゃにしてしまったのがNスペの失敗だった。
ソニーがオランダの名門企業フィリップスと、世界初のデジタル・オーディオのCDを共同開発に着手したのが79年。その3年後(82年)にはソニーが世界初のCDプレーヤーを発売、主に日本の家電メーカーが一斉にCDプレーヤーの生産を開始した。またレコード業界も一斉にLPからCDへとメディアの転換を始めた。
当時オーディオ評論家たちはCDに対して概して否定的であった。音質が金属音的でLPのような柔らかさがない、というのが大方の見方だった。だが一般の消費者はCDに飛びついた。レコードは刻まれた溝の上をレコード針が直接接触してアナログ信号を拾う。当然レコード盤にちょっとでも埃が付くと、それが雑音の原因になる。また繰り返し音楽を再生すると音質が劣化していくのは当然である。さらに摩耗の少ないダイヤモンド針でも寿命はある。レコードを聴いていて、そろそろ針の代え時だな、とわかる消費者はどのくらいいるだろうか。金型のベテラン職人は指先で数ミクロンの誤差を感知できるようだが、そういったプロのために音楽があるのではない。だから手入れや針の交換に気を使わずにすむCDは絶対に市民権を持つに違いない、と私は思っていた。結果はその通りになった。
えてして専門家は自分たちの世界だけで通用する極めて狭い視野での既成概念でものごとを考える習性がある。そして一般市民の感覚や思考との差を専門家たるゆえんと誇る。専門家と称する人たちの予想がしばしば外れるのはそのせいだ。専門家を職業とする人は、まず既成概念を基準に考えるのではなく、一般市民や消費者ならどう考えるだろうか、またなぜそう考えるのだろうか、という問題意識を持つ訓練をした方がいい。そういう思考方法を修得すれば世の中の流れが見えてくる。
CDがアナログ・オーディオのレコードを駆逐したのちは、レンタルビデオ店がCDをレンタルするようになり、CDをカセットに録音する時代が始まったからである。だがカセットはアナログ・メディアであり、オーディオ・メディアがアナログからデジタルになっても、デジタル・ツー・デジタルの録音はそんなに簡単ではなかった。まずレコード業界(すでに実態はCD業界と言った方が正しいのだが、日本の著作権法はすべての記録済みオーディオ・メディアを「商業用レコード」と定義づけているのでレコード業界と書く)が、デジタル・ツー・デジタルの録音に猛烈に反対した。アナログの場合はレコードにせよカセットテープにせよレコード針や再生用ヘッドがレコード盤あるいはテープに直接接触する。したがって再生するたびに音質が劣化する。それでもレコード業界はCDレンタルに猛反対したくらいだから、非接触で何回再生しても音質が劣化せず、また何回ダビングを繰り返してもやはり音質が劣化しないデジタル・コピーが出回ると、レコード業界にとっては死活を制する大問題になる。実際デジタル・ツー・デジタルの録音再生機器が開発される前に、消費者はレンタル店からCDを借りてきてカセットに録音するという安上がりな方法に飛びつき、レコード業界の業績は軒並み悪化していた。
しかし消費者は当然だが、デジタル・ツー・アナログの録音(CD→カセット)に満足していたわけではない。デジタル・ツー・デジタルの録音再生ができるオーディオ機器を待ち望んでいた。ソニーをはじめオーディオ機器を生産していた家電メーカーはいっせいにデジタル・ツー・デジタル録音再生機器の開発に走り出した。
しかも日本の著作権法は消費者が自分のために音楽や絵画、書籍などをコピーする自由を個人の権利として認めている。だからデジタル・ツー・デジタルの録音再生機器の開発を阻止する法的権利がない。そこでレコード業界がオーディオ機器メーカーに求めた妥協案は、CDからのデジタル・ツー・デジタルの録音は、せめてフルコピーではなく、音質をアナログ並みに劣化した録音システムにしてくれないか、という虫のいい話だった。そしてこの妥協案を通産省(当時)が容認し、オーディオ機器メーカーにレコード業界の要求を呑むよう「行政指導」したのである。文部省(あるいは文化庁)ならいざ知らず、著作権法は通産省にとって管轄外のはずだ。だが、実際に通産省は以下のような通達をオーディオ機器メーカーに出していた。
「DAT(デジタル・オーディオ・テープレコーダー)の商品化に当たっては、当面以下の技術的仕様に基づくものを商品化するよう要請します。CDと同一のサンプリング周波数は再生のみとし、記録不可能とすること……」
このお役所文書は一般の人にはわかりにくいと思うが、要するにレコード会社が発売するDAT用音楽テープはCDと同じデジタル信号を記録してもいいが(再生専用だから)、消費者が録音再生するためのデジタル・ツー・デジタルのオーディオ機器は、CDと同一のデジタル信号を記録できないような工夫をしろという行政指導なのである。アナログで例えれば、レコード会社が発売するレコードやカセットテープは同音質でいいが、消費者がレコードからカセットテープに録音する場合は音質を落とすようにしなさいというたぐいの話なのである。こんなバカげた行政指導を通産省はなぜしたのか。
実は通産省はIBM互換機で世界の巨人と戦っていた富士通など日本のコンピュータメーカーを支援するため、著作権法を改悪してコンピュータのOSやCPUの命令セットを著作物として保護する政策をとっていた米商務省に対し、「OSや命令セットは著作物には相当しない。あくまで公開が原則の特許法で保護すべきだ」と主張してきた経緯もあり、デジタル・ツー・デジタルの録音再生システムの規格にも首を突っ込んできたのである。
その結果、オーディオ機器業界はやむを得ず「帯域圧縮」という方法(簡単に言えばCDのデジタル信号を間引く技術)でCDのデジタル原音をフルコピーせず、音質をアナログ並みに劣化した統一規格で85年にDATを発売することにした。この統一規格づくりをリードしたのはフィリップスと共同でCDを開発したソニーだった。だがDAT発売の先陣を切ったのはソニーではなく、系列(当時)の音響機器メーカーのアイワで、2月12日に世界初のDATが家電量販店の店頭に並んだ。もちろんアナログ・オーディオ機器しか作ってこなかったアイワが帯域圧縮という高度なデジタル処理技術を培っていたわけではなく、親会社のソニーのデジタル技術を導入したから商品化できただけの話である。ソニーはおそらく(私の推測)、通産省の横やりでアナログ並みの音質の録音が義務づけられたオーディオ機器に消費者が手を出すか、確信が持てなかったのではないだろうか。
こうしたいきさつを経て、とりあえず世界で最初のデジタル・ツー・デジタルのオーディオ・システムが発売された。NHKはその日の午後7時のニュースで、松平アナウンサーが「DATは著作権上問題があるため、多少音質を下げるよう義務付けられました」と報道した。Nスペの担当者はその事実をまったく知らなかったようだ。
当時、数年後には2兆円産業に育つと一部からは期待されて船出したDATだが、今はほとんどの人の記憶に残っていないだろう。ソニーがフィリップスとCDの共同開発を始めた79年に発売したウォークマンはいまだ多くの人の記憶に残っているが、その3年後に鳴り物入りで発売された世界初のデジタル録音再生オーディオ機器のDATの記憶がほとんどの人から失われているという事実が、デジタル・オーディオの世界の複雑さを物語っていると言えよう。
しかしDATの失敗でくじけるソニーではなかった。世界の最先端を走っていた帯域圧縮技術に磨きをかけ、帯域圧縮してもCDの原音と区別がつかないくらいの音質を録音再生できるデジタル・ツー・デジタルのオーディオ機器の開発に総力を挙げて取り組んでいった。
そしてソニーが満を持してデジタル・ツー・デジタルの録音再生ポータブル機器MD(ミニ・ディスク)を発売したのが92年11月だった。これが爆発的にヒットした。
実はMDはCDのデジタル信号を5分の1に帯域圧縮していた。だからディスクのサイズもCDの直径12cmに対しMDは6.4cmと約半分に収めることができたのである(ディスク面積は約4分の1)。では音質はCDに比べかなり劣化したかというと、よほどのプロでないと区別がつかないくらいCDの原音に近い音質を実現したのである。ソニーが開発したMDは、同伴者も含め全世界を席巻したのは当然だった。2001年11月に、アップルのiPodが出現するまでは……。
Nスペはこの事実をもって「ソニーがアップルに負けた」「ソニーらしさが失われた」という印象を視聴者に植えつけた。それがこの番組をつくったプロジューサーの意図だったのかどうかはわからない。たくまずしてそういう印象を視聴者に与える結果になった可能性は否定しない。
実際はどうだったのか。この問題を結果論から見るとiPodの出現によってMDの世界が潰えたという事実は動かしがたい。だがその事実はアップルの技術力にソニーの技術力が敗れたということを意味しているわけではまったくない。そもそもソニーとアップルはまったく別の世界でビジネスを行ってきた企業である。ライバル関係にあった時期は過去一度もないし、今もない。
ではなぜiPodの出現によってソニーのMDは市場性を失ったのか。それはレコード業界の事情が大きく関わっている。MDの発売によってレコード会社の売り上げは大きく激減した。Nスペは「ソニーがアップルに負けたのはソニーがレコード会社を傘下に擁しており、それゆえiPodのような製品をつくることができなかった」という訳知り顔の解説をしたが、事実は全く違う。MDの出現によってレコード業界は大打撃を受けたが(ソニーミュージックも同じ)、iPodが登場してMDを駆逐したことでレコード業界は窮地を脱したのが歴史的事実である(ソニーミュージックも同じ)。ソニーが傘下にレコード会社を擁していたためiPodのような製品を開発できなかったなどという解釈はげすの勘繰り以外の何物でもない。そのことはおいおい証明していく。
実はソニーの牙城を崩したのは、アップルではなく、皮肉なことにいま瀕死の状態にあるシャープであった。ソニーはテレビの世界でもトリニトロンという画期的な受像技術を開発し、その画質の鮮明さからたちまちテレビ市場でトップに躍り出た。さらに世界で初めてブラウン管方式のテレビ画面の平面化を実現し、ライバルを大きくリードした。が、こうした一人勝ちの歴史が、ソニーの足を引っ張ったのである。成功が失敗の原因になるという皮肉な結果はあらゆる分野でしばしばみられることだが、ソニーもブラウン管テレビの世界で一人勝ちをした結果、ポスト・ブラウン管方式の受像機の開発に真剣に取り組んでこなかった。その間、ライバルの家電メーカーは液晶ディスプレイやプラズマディスプレイの研究開発に取り組み、とくにシャープは電卓時代から取り組んできた液晶ディスプレイに特化してポスト・ブラウン管の薄型テレビの開発に全力を挙げていた。しかも大半の家電メーカーがコスト削減のため製造拠点を中国などのアジア諸国に移転していく中で、シャープは技術革新は生産現場から生まれるというメーカーの原点をかたくなに守るため主力工場の亀山工場を液晶テレビの製造拠点に位置付けてきた(いわゆる亀山モデル)。
そうした情報は当然ソニーもキャッチしていたはずだが、トリニトロンや平面ディスプレイでテレビ市場をリードしていたソニーはまだまだブラウン管時代が続くと考え、ポスト・ブラウン管の技術開発には見向きもしなかったのである。「失敗は成功の元」と言われるが、その逆もまた真なりなのである。たとえばホンダがCVCCという画期的なエンジンの開発で三菱やマツダを抜き去り、かつては「技術の日産、販売のトヨタ」とまで言われ2強時代の一翼を担っていた日産をも追い抜いたという成功体験が、ポストCVCCの開発に後れをとり、「技術は売っても、買うことはしない」と豪語してきた誇りを捨て、トヨタからハイブリッド技術を買うことによってかろうじて先頭集団にとどまったことを考えると、ソニーがなぜシャープから恥を忍んで液晶技術を買おうとしなかったのか、まさに「成功は失敗の元」を絵に描いたようなケースだったと言えよう。
ソニーの技術力は、Nスペの見方とは違って、私は今でも健在だと考えている。現にテレビ放送がデジタル時代になって、画像のデジタル・ツー・デジタルの録画システムで主流になっているブルーレイ方式はソニーが中心になって開発したものだ。ただソニーの技術力にかつてのような輝きが失われつつあることも否定はできない。その最大の理由は成功した技術のDNAを依然として引きずっている点にある。ソニーのように数えきれないほどの輝かしい最先端技術開発の歴史を誇ってきた会社でも、その歴史の過程で脈々と受け継がれてきたDNAは、ソニーほどの会社でも人間集団である以上、簡単に捨て去ることはできないのだ。その点、ホンダがCVCCという世界が驚嘆した技術の流れをいとも簡単に捨てることができたのは、かつてエンジンの冷却方式を巡って「空冷」にあくまでこだわった本田宗一郎に対し、若手の技術者たちが一歩も引かずに「水冷」を主張して譲らず、社内での開発競争を挑み、ついに本田宗一郎を屈服させたというホンダ精神のDNAが現在も脈々と受け継がれているからこそ、トヨタに頭を下げてハイブリッド技術を導入することで、ホンダは自動車業界での世界的地位を保つことができたのである。そして多分ホンダのDNAは、この屈辱を絶対に忘れさせないだろう。ホンダは思いもよらぬ方法で、トヨタから買ったハイブリッド技術を凌駕する革新的なエンジンの開発に社運を賭けて取り組んでいると私は思う。自分の息子を断固としてホンダに入社させなかった本田宗一郎と、自分の息子を将来の社長に据えるべく入社させた盛田昭夫との差が、ホンダとソニーのDNAの違いを証明している。ソニーが再びかつての輝きを取り戻すには遺伝子の組み換えから再スタートする必要があるのではないか。
一方アップルは世界で初めてパソコンを商品化し、パソコン時代の黎明期を築いた、コンピュータ市場に燦然たる金字塔を打ち立てた会社である。アップルのライバルは、ではhpやDELLなどのパソコンメーカーかというとそうではない。パソコンをつくった歴史もないマイクロソフトがアップルにとって宿命のライバルなのだ。マイクロソフトがパソコンを製造せず、パソコンの基本ソフトのOSを全世界のパソコンメーカーに売るという戦略をとることによって事実上パソコンの世界を支配した結果、アップルの存在感は一気に失われていったのである。
コンピュータの黎明期を築きながらマイクロソフトの戦略によって瀕死の状態に陥っていたアップルを立ち直らせたのは、実はiPodの成功ではなく、マイクロソフトを目の敵にしだした米公正取引委員会だった。公取委はマイクロソフトがアンフェアな方法でパソコンの世界を独占しようとしているとみなし、OSのウィンドウズ部門とアプリケーションソフトのオフィス部門を分離させようとした時期がある。この時マイクロソフトの総帥ビル・ゲイツはCEO(最高経営責任者)の席を降り、一技術者に自らを降格させ(形式上に過ぎないことは見え見えだったが)、Mac用のワードやエクセルを開発してアップルに提供するという手段に出て、かろうじて企業分割を免れたという経緯がある。まさに敵から塩を贈られることによってアップルは生き延びることができたのである。
実はパソコン時代の黎明期、二人の天才的技術者スティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズが設立したアップル・パソコンの大ヒットに、いち早く敏感に反応したのがコンピュータ業界の巨人IBMだった。が、パソコンなどおもちゃの域を出ないと考えていたIBMの技術者たちはパソコン用のOSをつくろうなどと考えもしなかった。そこでIBNはやむを得ずパソコン用OSの開発を外注することにして、当時マニアの世界ですでに有名だったポール・アレンとビル・ゲイツが設立したマイクロソフトに発注したのである。IBMがうかつだったのは、この時マイクロソフトと独占使用契約を結んでおかなかったことだった。ひょっとしたらIBMは二人の天才的マニアの技術力をあまり評価せず、ほかにも同様の依頼をしていて、できのいい方を選ぼうとしていたのかもしれない。あるいはそういう動きを見せることによってアップルと連合軍を組めるかもしれないという期待を持っていたのかもしれない。少なくともパソコンの肺とも言えるOS(心臓はCPU)の開発を外部に発注したくらいだから、IBMがアップルに対して何らかの提携を持ちかけた可能性はかなり高かったと思う。いずれにせよこの時期IBMが様々な選択肢を確保しながらパソコンへの進出を考えていたことは間違いないと言える。だから独占使用契約を結んでIBM自身が手足を縛られることを避けたのではないかと私は推測している。
IBMの思惑はともかく、IBMが独占使用条件を要求しなかったことがマイクロソフトにとっては「棚から牡丹餅」以上の幸運だった。実際、マイクロソフトがIBMに提供したOS(MS-DOS)はIBMが期待していた以上の優れものだったため、IBMはただちにマイクロソフトに対し独占使用契約を持ちかけたが、アレンとゲイツはその要求を拒否、どのパソコンメーカーにもMS-DOSを供給できる権利を主張した。IBMはやむを得ず一ユーザーとしてMS-DOSをIBMのパソコンに搭載することになった。パソコンへの進出の機会を狙っていた世界各国の企業はいっせいにMS-DOSに飛びついてパソコン市場へ参入した。こうして一夜にしてアップルの一人勝ち市場は崩壊し、マイクロソフト連合が業界のリーダーシップを握ることになったのだ。
いずれにせよパソコン戦争に勝利したマイクロソフトは、マイクロソフトにコミットしMS-DOSの上で走るアプリケーションソフトを開発してマイクロソフトの勝利に貢献したサード・パーティを今度は潰しにかかった。具体的には表計算ソフト(1‐2‐3)のロータス、文書作成ソフト(ワードマスター)のマイクロプロ、日本ではジャストシステムが開発した一太郎(文書作成ソフト)や花子(表計算ソフト)などのアプリケーションソフトに対抗するワード(文書作成ソフト)やエクセル(表計算ソフト)を開発し、これらのアプリケーションソフトのバンドル(抱き合わせ販売)をパソコンメーカーに強要したのである。その結果、すでに述べたように米公正取引委員会がマイクロソフトに対し会社分割の命令を出そうとしたため、マイクロソフトは見かけ上ゲイツがCEOから降り、さらにアップルにMac・OSの上で走るワードやエクセルを開発して提供し、何とか企業分割という窮地を凌いだのである。
このブログ記事はマイクロソフトのえげつなさ、狡猾さを糾弾することが目的ではないが。あと一つだけ事実を明らかにしておきたいことがある。実はマイクロソフトがパソコンの世界を支配することになった原点のMS-DOSはアレンとゲイツが開発したものではなかったのである。IBMからOS開発の打診を受けたことは事実だが、開発する自信がなかったゲイツはいったん断っている。
アップルはパソコンの心臓部にモステクノロジーのMPUを使っていた。ところがMPUの開発ではモスに先行していたインテルのMPUを搭載したパソコンをつくろうと考えてOSをシアトル・コンピュータ・プロダクツという小さな会社が開発していた。が、パソコンを開発製造するだけの資金力がなく、せっかく作ったOS(SCP-DOS)は宝の持ち腐れとなっていた。その情報をつかんだゲイツは直ちにシアトル・コンピュータ・プロダクツと交渉し、10万ドル以下の安値(ただし公表はされていない)で買い取り、MS-DOSと名前を変えて、あたかも自分たちが開発したかのように装ってIBMや全世界のパソコンメーカーに売りつけたのである。「他人のふんどしで相撲を取る」を絵に描いたような、20歳そこそこの若者のしたたかさにはあきれるほかない。
いずれにせよ会社分割の危機から逃れるためにマイクロソフトはMac・OSの上で走るワードやエクセルを開発し、アップルの延命に手を貸した。マイクロソフト陣営に屈して一時CEOの座を追われたジョブズがアップルに復帰したが、もはやパソコン市場でマイクロソフト陣営を追撃することは不可能な状況にあることは認めざるを得なかった。そのことがジョブズに発想の転換をもたらしたのである。
ウィンドウの機能もアップルが先行して開発したし、高度なグラフィック機能は依然としてマイクロソフトの追随を許していない。しかしどんなにパソコンの高機能化を図っても事実上の世界標準になっているマイクロソフトの牙城を崩すことは不可能であった。そこでジョブズが発想を転換した戦略で挑もうとしたのがインターネットを活用したニュービジネスの創造であった。その第1弾がiPodだったのである。
ビデオのレンタル店がCDもレンタルするようになり、世界中のレコード業界は窮地に陥っていた。そこでジョブズが考えたのはインターネットを使って音楽ソフトを売買するシステムを構築することだった。販売側のレコード業界はコストがほとんどかからずCDの数十倍、数百倍のミュージックを売れれば、CDよりはるかに安い価格でCDの原音を消費者に提供できる。レンタル店からCDを借りてきて、帯域圧縮してMDに録音するより、消費者にとってもはるかに有利なのは当然である。
ソニーも今はパソコンをつくっているが、ソニーのDNAはハード面での高機能化に集約されている。たとえばソニーは生命保険会社や損害保険会社も傘下に擁している。インターネットを利用すれば、単に保険料を安くできるだけでなく、消費者自身が年齢や家族構成、年収、などの条件を入力し、自分にとって最も有利な保険をインターネットを介して設計できるシステムを開発すれば、たちまち保険業界のトップに躍り出れるのだが、そういう発想はソニーのDNAからは絶対に生まれない。そのDNAの違いがアップルのiPodによってMDの存在価値が立たれたゆえんである。
以上でNスペ番組に対する批判を完結する。
NHKスペシャル(以降Nスペと記す)では「ソニーがアップルとの競争に負けた」という「事実誤認」に基づいた検証番組を作ったので、そもそもそういう問題認識そのものが間違っていることを証明するつもりだったのだが、つい話が横道にそれてしまい、ハードとソフトの関係をこの際明らかにしておこうと考えてしまったことが、私の失態の最大の原因であった。
ハードとソフトの関係はやはり明らかにしておく必要があるので、別の機会に書こうと思っているが、まずNスペの問題認識の誤りについて明確に指摘しておこう。
Nスペの狙いは一時世界を席巻した日本の最先端技術力がなぜ競争力を失ったのかを解明し(第1部)、再び技術立国として世界をリードできるようになるかを検証する(第2部)ことにあった。この問題提起そのものは間違っていないし、ハイテク企業にとっては喫緊の課題であることも間違いない。だが第1部でソニーとアップル、シャープとサムスンを対比させ、かつては世界をリードしたトップメーカーが凋落したことを検証の材料として取り上げたことがそもそも間違いのもとであった。
とくにソニーとアップルに関しては競争関係にあったことは過去も現在も一度もない。ソニーはAV(オーディオ&ビジュアル)市場における世界の雄であり、ブルーレイDVDで足並みを揃えるまではことごとく松下電器産業(現パナソニック)と世界標準規格の主導権争いをしてきた関係にあった。一方アップルがAVの世界で新しい技術を提案したことも一度もない。アップルがしたことはインターネットの新しい利用方法を実現するための、iモードに代わる機器を開発したことである。それをごっちゃにしてしまったのがNスペの失敗だった。
ソニーがオランダの名門企業フィリップスと、世界初のデジタル・オーディオのCDを共同開発に着手したのが79年。その3年後(82年)にはソニーが世界初のCDプレーヤーを発売、主に日本の家電メーカーが一斉にCDプレーヤーの生産を開始した。またレコード業界も一斉にLPからCDへとメディアの転換を始めた。
当時オーディオ評論家たちはCDに対して概して否定的であった。音質が金属音的でLPのような柔らかさがない、というのが大方の見方だった。だが一般の消費者はCDに飛びついた。レコードは刻まれた溝の上をレコード針が直接接触してアナログ信号を拾う。当然レコード盤にちょっとでも埃が付くと、それが雑音の原因になる。また繰り返し音楽を再生すると音質が劣化していくのは当然である。さらに摩耗の少ないダイヤモンド針でも寿命はある。レコードを聴いていて、そろそろ針の代え時だな、とわかる消費者はどのくらいいるだろうか。金型のベテラン職人は指先で数ミクロンの誤差を感知できるようだが、そういったプロのために音楽があるのではない。だから手入れや針の交換に気を使わずにすむCDは絶対に市民権を持つに違いない、と私は思っていた。結果はその通りになった。
えてして専門家は自分たちの世界だけで通用する極めて狭い視野での既成概念でものごとを考える習性がある。そして一般市民の感覚や思考との差を専門家たるゆえんと誇る。専門家と称する人たちの予想がしばしば外れるのはそのせいだ。専門家を職業とする人は、まず既成概念を基準に考えるのではなく、一般市民や消費者ならどう考えるだろうか、またなぜそう考えるのだろうか、という問題意識を持つ訓練をした方がいい。そういう思考方法を修得すれば世の中の流れが見えてくる。
CDがアナログ・オーディオのレコードを駆逐したのちは、レンタルビデオ店がCDをレンタルするようになり、CDをカセットに録音する時代が始まったからである。だがカセットはアナログ・メディアであり、オーディオ・メディアがアナログからデジタルになっても、デジタル・ツー・デジタルの録音はそんなに簡単ではなかった。まずレコード業界(すでに実態はCD業界と言った方が正しいのだが、日本の著作権法はすべての記録済みオーディオ・メディアを「商業用レコード」と定義づけているのでレコード業界と書く)が、デジタル・ツー・デジタルの録音に猛烈に反対した。アナログの場合はレコードにせよカセットテープにせよレコード針や再生用ヘッドがレコード盤あるいはテープに直接接触する。したがって再生するたびに音質が劣化する。それでもレコード業界はCDレンタルに猛反対したくらいだから、非接触で何回再生しても音質が劣化せず、また何回ダビングを繰り返してもやはり音質が劣化しないデジタル・コピーが出回ると、レコード業界にとっては死活を制する大問題になる。実際デジタル・ツー・デジタルの録音再生機器が開発される前に、消費者はレンタル店からCDを借りてきてカセットに録音するという安上がりな方法に飛びつき、レコード業界の業績は軒並み悪化していた。
しかし消費者は当然だが、デジタル・ツー・アナログの録音(CD→カセット)に満足していたわけではない。デジタル・ツー・デジタルの録音再生ができるオーディオ機器を待ち望んでいた。ソニーをはじめオーディオ機器を生産していた家電メーカーはいっせいにデジタル・ツー・デジタル録音再生機器の開発に走り出した。
しかも日本の著作権法は消費者が自分のために音楽や絵画、書籍などをコピーする自由を個人の権利として認めている。だからデジタル・ツー・デジタルの録音再生機器の開発を阻止する法的権利がない。そこでレコード業界がオーディオ機器メーカーに求めた妥協案は、CDからのデジタル・ツー・デジタルの録音は、せめてフルコピーではなく、音質をアナログ並みに劣化した録音システムにしてくれないか、という虫のいい話だった。そしてこの妥協案を通産省(当時)が容認し、オーディオ機器メーカーにレコード業界の要求を呑むよう「行政指導」したのである。文部省(あるいは文化庁)ならいざ知らず、著作権法は通産省にとって管轄外のはずだ。だが、実際に通産省は以下のような通達をオーディオ機器メーカーに出していた。
「DAT(デジタル・オーディオ・テープレコーダー)の商品化に当たっては、当面以下の技術的仕様に基づくものを商品化するよう要請します。CDと同一のサンプリング周波数は再生のみとし、記録不可能とすること……」
このお役所文書は一般の人にはわかりにくいと思うが、要するにレコード会社が発売するDAT用音楽テープはCDと同じデジタル信号を記録してもいいが(再生専用だから)、消費者が録音再生するためのデジタル・ツー・デジタルのオーディオ機器は、CDと同一のデジタル信号を記録できないような工夫をしろという行政指導なのである。アナログで例えれば、レコード会社が発売するレコードやカセットテープは同音質でいいが、消費者がレコードからカセットテープに録音する場合は音質を落とすようにしなさいというたぐいの話なのである。こんなバカげた行政指導を通産省はなぜしたのか。
実は通産省はIBM互換機で世界の巨人と戦っていた富士通など日本のコンピュータメーカーを支援するため、著作権法を改悪してコンピュータのOSやCPUの命令セットを著作物として保護する政策をとっていた米商務省に対し、「OSや命令セットは著作物には相当しない。あくまで公開が原則の特許法で保護すべきだ」と主張してきた経緯もあり、デジタル・ツー・デジタルの録音再生システムの規格にも首を突っ込んできたのである。
その結果、オーディオ機器業界はやむを得ず「帯域圧縮」という方法(簡単に言えばCDのデジタル信号を間引く技術)でCDのデジタル原音をフルコピーせず、音質をアナログ並みに劣化した統一規格で85年にDATを発売することにした。この統一規格づくりをリードしたのはフィリップスと共同でCDを開発したソニーだった。だがDAT発売の先陣を切ったのはソニーではなく、系列(当時)の音響機器メーカーのアイワで、2月12日に世界初のDATが家電量販店の店頭に並んだ。もちろんアナログ・オーディオ機器しか作ってこなかったアイワが帯域圧縮という高度なデジタル処理技術を培っていたわけではなく、親会社のソニーのデジタル技術を導入したから商品化できただけの話である。ソニーはおそらく(私の推測)、通産省の横やりでアナログ並みの音質の録音が義務づけられたオーディオ機器に消費者が手を出すか、確信が持てなかったのではないだろうか。
こうしたいきさつを経て、とりあえず世界で最初のデジタル・ツー・デジタルのオーディオ・システムが発売された。NHKはその日の午後7時のニュースで、松平アナウンサーが「DATは著作権上問題があるため、多少音質を下げるよう義務付けられました」と報道した。Nスペの担当者はその事実をまったく知らなかったようだ。
当時、数年後には2兆円産業に育つと一部からは期待されて船出したDATだが、今はほとんどの人の記憶に残っていないだろう。ソニーがフィリップスとCDの共同開発を始めた79年に発売したウォークマンはいまだ多くの人の記憶に残っているが、その3年後に鳴り物入りで発売された世界初のデジタル録音再生オーディオ機器のDATの記憶がほとんどの人から失われているという事実が、デジタル・オーディオの世界の複雑さを物語っていると言えよう。
しかしDATの失敗でくじけるソニーではなかった。世界の最先端を走っていた帯域圧縮技術に磨きをかけ、帯域圧縮してもCDの原音と区別がつかないくらいの音質を録音再生できるデジタル・ツー・デジタルのオーディオ機器の開発に総力を挙げて取り組んでいった。
そしてソニーが満を持してデジタル・ツー・デジタルの録音再生ポータブル機器MD(ミニ・ディスク)を発売したのが92年11月だった。これが爆発的にヒットした。
実はMDはCDのデジタル信号を5分の1に帯域圧縮していた。だからディスクのサイズもCDの直径12cmに対しMDは6.4cmと約半分に収めることができたのである(ディスク面積は約4分の1)。では音質はCDに比べかなり劣化したかというと、よほどのプロでないと区別がつかないくらいCDの原音に近い音質を実現したのである。ソニーが開発したMDは、同伴者も含め全世界を席巻したのは当然だった。2001年11月に、アップルのiPodが出現するまでは……。
Nスペはこの事実をもって「ソニーがアップルに負けた」「ソニーらしさが失われた」という印象を視聴者に植えつけた。それがこの番組をつくったプロジューサーの意図だったのかどうかはわからない。たくまずしてそういう印象を視聴者に与える結果になった可能性は否定しない。
実際はどうだったのか。この問題を結果論から見るとiPodの出現によってMDの世界が潰えたという事実は動かしがたい。だがその事実はアップルの技術力にソニーの技術力が敗れたということを意味しているわけではまったくない。そもそもソニーとアップルはまったく別の世界でビジネスを行ってきた企業である。ライバル関係にあった時期は過去一度もないし、今もない。
ではなぜiPodの出現によってソニーのMDは市場性を失ったのか。それはレコード業界の事情が大きく関わっている。MDの発売によってレコード会社の売り上げは大きく激減した。Nスペは「ソニーがアップルに負けたのはソニーがレコード会社を傘下に擁しており、それゆえiPodのような製品をつくることができなかった」という訳知り顔の解説をしたが、事実は全く違う。MDの出現によってレコード業界は大打撃を受けたが(ソニーミュージックも同じ)、iPodが登場してMDを駆逐したことでレコード業界は窮地を脱したのが歴史的事実である(ソニーミュージックも同じ)。ソニーが傘下にレコード会社を擁していたためiPodのような製品を開発できなかったなどという解釈はげすの勘繰り以外の何物でもない。そのことはおいおい証明していく。
実はソニーの牙城を崩したのは、アップルではなく、皮肉なことにいま瀕死の状態にあるシャープであった。ソニーはテレビの世界でもトリニトロンという画期的な受像技術を開発し、その画質の鮮明さからたちまちテレビ市場でトップに躍り出た。さらに世界で初めてブラウン管方式のテレビ画面の平面化を実現し、ライバルを大きくリードした。が、こうした一人勝ちの歴史が、ソニーの足を引っ張ったのである。成功が失敗の原因になるという皮肉な結果はあらゆる分野でしばしばみられることだが、ソニーもブラウン管テレビの世界で一人勝ちをした結果、ポスト・ブラウン管方式の受像機の開発に真剣に取り組んでこなかった。その間、ライバルの家電メーカーは液晶ディスプレイやプラズマディスプレイの研究開発に取り組み、とくにシャープは電卓時代から取り組んできた液晶ディスプレイに特化してポスト・ブラウン管の薄型テレビの開発に全力を挙げていた。しかも大半の家電メーカーがコスト削減のため製造拠点を中国などのアジア諸国に移転していく中で、シャープは技術革新は生産現場から生まれるというメーカーの原点をかたくなに守るため主力工場の亀山工場を液晶テレビの製造拠点に位置付けてきた(いわゆる亀山モデル)。
そうした情報は当然ソニーもキャッチしていたはずだが、トリニトロンや平面ディスプレイでテレビ市場をリードしていたソニーはまだまだブラウン管時代が続くと考え、ポスト・ブラウン管の技術開発には見向きもしなかったのである。「失敗は成功の元」と言われるが、その逆もまた真なりなのである。たとえばホンダがCVCCという画期的なエンジンの開発で三菱やマツダを抜き去り、かつては「技術の日産、販売のトヨタ」とまで言われ2強時代の一翼を担っていた日産をも追い抜いたという成功体験が、ポストCVCCの開発に後れをとり、「技術は売っても、買うことはしない」と豪語してきた誇りを捨て、トヨタからハイブリッド技術を買うことによってかろうじて先頭集団にとどまったことを考えると、ソニーがなぜシャープから恥を忍んで液晶技術を買おうとしなかったのか、まさに「成功は失敗の元」を絵に描いたようなケースだったと言えよう。
ソニーの技術力は、Nスペの見方とは違って、私は今でも健在だと考えている。現にテレビ放送がデジタル時代になって、画像のデジタル・ツー・デジタルの録画システムで主流になっているブルーレイ方式はソニーが中心になって開発したものだ。ただソニーの技術力にかつてのような輝きが失われつつあることも否定はできない。その最大の理由は成功した技術のDNAを依然として引きずっている点にある。ソニーのように数えきれないほどの輝かしい最先端技術開発の歴史を誇ってきた会社でも、その歴史の過程で脈々と受け継がれてきたDNAは、ソニーほどの会社でも人間集団である以上、簡単に捨て去ることはできないのだ。その点、ホンダがCVCCという世界が驚嘆した技術の流れをいとも簡単に捨てることができたのは、かつてエンジンの冷却方式を巡って「空冷」にあくまでこだわった本田宗一郎に対し、若手の技術者たちが一歩も引かずに「水冷」を主張して譲らず、社内での開発競争を挑み、ついに本田宗一郎を屈服させたというホンダ精神のDNAが現在も脈々と受け継がれているからこそ、トヨタに頭を下げてハイブリッド技術を導入することで、ホンダは自動車業界での世界的地位を保つことができたのである。そして多分ホンダのDNAは、この屈辱を絶対に忘れさせないだろう。ホンダは思いもよらぬ方法で、トヨタから買ったハイブリッド技術を凌駕する革新的なエンジンの開発に社運を賭けて取り組んでいると私は思う。自分の息子を断固としてホンダに入社させなかった本田宗一郎と、自分の息子を将来の社長に据えるべく入社させた盛田昭夫との差が、ホンダとソニーのDNAの違いを証明している。ソニーが再びかつての輝きを取り戻すには遺伝子の組み換えから再スタートする必要があるのではないか。
一方アップルは世界で初めてパソコンを商品化し、パソコン時代の黎明期を築いた、コンピュータ市場に燦然たる金字塔を打ち立てた会社である。アップルのライバルは、ではhpやDELLなどのパソコンメーカーかというとそうではない。パソコンをつくった歴史もないマイクロソフトがアップルにとって宿命のライバルなのだ。マイクロソフトがパソコンを製造せず、パソコンの基本ソフトのOSを全世界のパソコンメーカーに売るという戦略をとることによって事実上パソコンの世界を支配した結果、アップルの存在感は一気に失われていったのである。
コンピュータの黎明期を築きながらマイクロソフトの戦略によって瀕死の状態に陥っていたアップルを立ち直らせたのは、実はiPodの成功ではなく、マイクロソフトを目の敵にしだした米公正取引委員会だった。公取委はマイクロソフトがアンフェアな方法でパソコンの世界を独占しようとしているとみなし、OSのウィンドウズ部門とアプリケーションソフトのオフィス部門を分離させようとした時期がある。この時マイクロソフトの総帥ビル・ゲイツはCEO(最高経営責任者)の席を降り、一技術者に自らを降格させ(形式上に過ぎないことは見え見えだったが)、Mac用のワードやエクセルを開発してアップルに提供するという手段に出て、かろうじて企業分割を免れたという経緯がある。まさに敵から塩を贈られることによってアップルは生き延びることができたのである。
実はパソコン時代の黎明期、二人の天才的技術者スティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズが設立したアップル・パソコンの大ヒットに、いち早く敏感に反応したのがコンピュータ業界の巨人IBMだった。が、パソコンなどおもちゃの域を出ないと考えていたIBMの技術者たちはパソコン用のOSをつくろうなどと考えもしなかった。そこでIBNはやむを得ずパソコン用OSの開発を外注することにして、当時マニアの世界ですでに有名だったポール・アレンとビル・ゲイツが設立したマイクロソフトに発注したのである。IBMがうかつだったのは、この時マイクロソフトと独占使用契約を結んでおかなかったことだった。ひょっとしたらIBMは二人の天才的マニアの技術力をあまり評価せず、ほかにも同様の依頼をしていて、できのいい方を選ぼうとしていたのかもしれない。あるいはそういう動きを見せることによってアップルと連合軍を組めるかもしれないという期待を持っていたのかもしれない。少なくともパソコンの肺とも言えるOS(心臓はCPU)の開発を外部に発注したくらいだから、IBMがアップルに対して何らかの提携を持ちかけた可能性はかなり高かったと思う。いずれにせよこの時期IBMが様々な選択肢を確保しながらパソコンへの進出を考えていたことは間違いないと言える。だから独占使用契約を結んでIBM自身が手足を縛られることを避けたのではないかと私は推測している。
IBMの思惑はともかく、IBMが独占使用条件を要求しなかったことがマイクロソフトにとっては「棚から牡丹餅」以上の幸運だった。実際、マイクロソフトがIBMに提供したOS(MS-DOS)はIBMが期待していた以上の優れものだったため、IBMはただちにマイクロソフトに対し独占使用契約を持ちかけたが、アレンとゲイツはその要求を拒否、どのパソコンメーカーにもMS-DOSを供給できる権利を主張した。IBMはやむを得ず一ユーザーとしてMS-DOSをIBMのパソコンに搭載することになった。パソコンへの進出の機会を狙っていた世界各国の企業はいっせいにMS-DOSに飛びついてパソコン市場へ参入した。こうして一夜にしてアップルの一人勝ち市場は崩壊し、マイクロソフト連合が業界のリーダーシップを握ることになったのだ。
いずれにせよパソコン戦争に勝利したマイクロソフトは、マイクロソフトにコミットしMS-DOSの上で走るアプリケーションソフトを開発してマイクロソフトの勝利に貢献したサード・パーティを今度は潰しにかかった。具体的には表計算ソフト(1‐2‐3)のロータス、文書作成ソフト(ワードマスター)のマイクロプロ、日本ではジャストシステムが開発した一太郎(文書作成ソフト)や花子(表計算ソフト)などのアプリケーションソフトに対抗するワード(文書作成ソフト)やエクセル(表計算ソフト)を開発し、これらのアプリケーションソフトのバンドル(抱き合わせ販売)をパソコンメーカーに強要したのである。その結果、すでに述べたように米公正取引委員会がマイクロソフトに対し会社分割の命令を出そうとしたため、マイクロソフトは見かけ上ゲイツがCEOから降り、さらにアップルにMac・OSの上で走るワードやエクセルを開発して提供し、何とか企業分割という窮地を凌いだのである。
このブログ記事はマイクロソフトのえげつなさ、狡猾さを糾弾することが目的ではないが。あと一つだけ事実を明らかにしておきたいことがある。実はマイクロソフトがパソコンの世界を支配することになった原点のMS-DOSはアレンとゲイツが開発したものではなかったのである。IBMからOS開発の打診を受けたことは事実だが、開発する自信がなかったゲイツはいったん断っている。
アップルはパソコンの心臓部にモステクノロジーのMPUを使っていた。ところがMPUの開発ではモスに先行していたインテルのMPUを搭載したパソコンをつくろうと考えてOSをシアトル・コンピュータ・プロダクツという小さな会社が開発していた。が、パソコンを開発製造するだけの資金力がなく、せっかく作ったOS(SCP-DOS)は宝の持ち腐れとなっていた。その情報をつかんだゲイツは直ちにシアトル・コンピュータ・プロダクツと交渉し、10万ドル以下の安値(ただし公表はされていない)で買い取り、MS-DOSと名前を変えて、あたかも自分たちが開発したかのように装ってIBMや全世界のパソコンメーカーに売りつけたのである。「他人のふんどしで相撲を取る」を絵に描いたような、20歳そこそこの若者のしたたかさにはあきれるほかない。
いずれにせよ会社分割の危機から逃れるためにマイクロソフトはMac・OSの上で走るワードやエクセルを開発し、アップルの延命に手を貸した。マイクロソフト陣営に屈して一時CEOの座を追われたジョブズがアップルに復帰したが、もはやパソコン市場でマイクロソフト陣営を追撃することは不可能な状況にあることは認めざるを得なかった。そのことがジョブズに発想の転換をもたらしたのである。
ウィンドウの機能もアップルが先行して開発したし、高度なグラフィック機能は依然としてマイクロソフトの追随を許していない。しかしどんなにパソコンの高機能化を図っても事実上の世界標準になっているマイクロソフトの牙城を崩すことは不可能であった。そこでジョブズが発想を転換した戦略で挑もうとしたのがインターネットを活用したニュービジネスの創造であった。その第1弾がiPodだったのである。
ビデオのレンタル店がCDもレンタルするようになり、世界中のレコード業界は窮地に陥っていた。そこでジョブズが考えたのはインターネットを使って音楽ソフトを売買するシステムを構築することだった。販売側のレコード業界はコストがほとんどかからずCDの数十倍、数百倍のミュージックを売れれば、CDよりはるかに安い価格でCDの原音を消費者に提供できる。レンタル店からCDを借りてきて、帯域圧縮してMDに録音するより、消費者にとってもはるかに有利なのは当然である。
ソニーも今はパソコンをつくっているが、ソニーのDNAはハード面での高機能化に集約されている。たとえばソニーは生命保険会社や損害保険会社も傘下に擁している。インターネットを利用すれば、単に保険料を安くできるだけでなく、消費者自身が年齢や家族構成、年収、などの条件を入力し、自分にとって最も有利な保険をインターネットを介して設計できるシステムを開発すれば、たちまち保険業界のトップに躍り出れるのだが、そういう発想はソニーのDNAからは絶対に生まれない。そのDNAの違いがアップルのiPodによってMDの存在価値が立たれたゆえんである。
以上でNスペ番組に対する批判を完結する。