小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

橋下「日本維新の会」が初心を捨てて石原新党と合流した理由(前編)

2012-11-30 05:49:07 | Weblog
 第三極が迷走を始めた。。
 第三極とは、自民、民主の二大政党に次ぐ三番目の政治勢力のことをいう。そういう意味では、厳密に言えば公明党も第三極に入るのだが、公明党は自民と連立しているので第三極とは言わない。衆院議員の現有勢力(解散前)で最大の第三極政党は小沢一郎率いる「国民の生活が第一」(48人。以下「生活」と略す)だが、NHKが11月19日に発表した世論調査によれば、支持率はわずか1.1%(26日に発表した支持率はさらに低下し0.9%。以下各党の支持率のカッコ内数字は26日発表のもの)でしかない。今度の総選挙で「生活」の大惨敗は必至の状況だ。
 前回のブログで書いたように、小沢が民主党を飛び出した理由「消費税増税はマニフェスト違反」が、見え見えの「反対のための反対」にすぎなかったことに国民がそっぽを向いた結果である。もちろん消費税増税を喜んでいる国民など、たぶん一人もいないだろう。しかし消費税増税に反対するなら、消費税を上げなくてもこういう方法を取れば将来にわたって社会保障制度を維持・充実させることができる、という政策を提案し、その提案が党執行部から受け入れられなかったから、という理由だったら、「生活」の支持率はたぶん二桁台にのっていたであろう(解散前の衆議院議員総数に占める割合はジャスト10%)。「生活」は党名を「小沢の声が第一」と代えた方がすっきりする。いま「生活」は党勢を挽回すべく「脱原発」を旗印に新党(現時点では党名は「日本(にっぽん)未来の党」が有力視されている)を立ち上げようとしている滋賀県知事の嘉田(かだ)由紀子に秋波をおくり、合流をもくろんでいるが、1969年に衆議院議員に初当選して以降一貫して原発推進の立場をとってきた小沢が、選挙のためには基本的理念すら捨てるというなら、いっそのこと日本共産党に選挙協力関係を申し入れたらいかがか。共産党なら消費税増税に代わる財源ねん出の具体的政策を訴えているし、原発反対でも一致する(これはジョークではない。共産党が容認するかどうかは別だが)。
 しかも小沢が言い張ってきた「マニフェスト違反」という口実自体がこじつけを通り越したイチャモン付けでしかないことがだれの目にも歴然だった。真実は「マニフェストに書いていなかった」というだけで、もしマニフェストに消費税増税をうたっていたら民主党は自公連立から政権を奪うことができなかった可能性は確かにあったとは思う。
 実際にはその後の参院選で消費税増税をマニフェストに謳った自民が大量の票を獲得して、いわゆる「ねじれ現象」が生まれたことを考えると、前回の総選挙で民主が消費税増税を、社会保障のために国民に等しくお願いするしかない、とマニフェストで堂々と謳っていても勝利した可能性も少なくなかったと思う。
 現に消費税増税に、すったもんだはしたが自公が賛成しても、自民の支持率はー0.3ポイントの24.7%(24.3%)と高く、公明に至っては1.3ポイントもアップの4.3%(4.3%)になり、自公合わせると29%(28.6%)にも達したことを考えても、少子高齢化に歯止めがかからない社会的状況の中で、消費税増税はやむを得ない選択肢であることに国民が理解を示した結果が、NHKが行った政党支持率調査に現れたと考えるべきだろう。また野田総理が解散後「選挙のことを考えれば、消費税を増税しない方が良かったかもしれない。しかし日本の将来の社会保障のことを考えると、政治家としてどうしてもやらなければならないことだった」という発言が支持されたのか、内閣支持率が低下し続けた状況に歯止めがかかり4.7ポイントも民主党支持率がアップして17.4%(16.6%とやや後退。この支持率低下は野田執行部が党議に同意書を提出しないと公認しない、と露骨な「野田政党」化を図り、鳩山由紀夫が政界引退するなどの波紋を呼んだことの影響と考えられる)と党勢が持ち直したことも考えると、わが国民はポピュリズム政治(大衆迎合主義)の欺瞞性に気づきつつあることを証明しているのかもしれない。それはいみじくも大哲学者プラトンが指摘した「民主主義は愚民政治だ」という民主主義の欠陥を、私たち日本人は克服しつつある兆しと考えてもいいかもしれない。
 またアメリカでも、クリントン大統領時代にヒラリー・クリントンが実現できなかった国民皆保険制を、富裕層などの猛烈な反対を押し切って実現し、一時支持率が大幅に低下しながらも、「国民すべてが平等に医療を受ける権利がある」と最後まで信念を貫き通したオマリーが大激戦区のオハイオ州やフロリダ州で勝利し、共和党のロムニーを破って再選を果たしたことにも、アメリカが日本と同様民主主義政治の欠陥を克服しつつあると言えるかもしれない。この二国の政治状況は、「新民主主義」の始まりを意味するのではないかという予感がする。 
 またNHKが行った政党支持率調査とは違うが、朝日新聞が26日朝刊で発表した「衆院選比例投票先」の世論調査によると、自民が23%、民主が13%だった。 国会議員数(衆参両院)では第三極で最大勢力を誇る「小沢の声が第一」の影が薄らいでいく一方で、目が離せなくなったのが「日本維新の会」(以下「維新」と略す)である。朝日新聞の世論調査では9%に達した(朝日新聞に他の政党についての数字を問い合わせたが、不明とのことだった。朝日新聞は政局を左右するだろう3党についてのみ調査したのかもしれない。あまりフェアな調査方法とは言い難い)。
 ここで皆さん、特にマスコミの政治記者の方にお尋ねしたい
「連立政権」
「野合政権」
「野合政党」
 この三つの使い分けを意識しておられるだろうか。多分ないはずだ。
 この三つのカテゴリー(「連立政党」というカテゴリーは存在しない)を当てはめるとこうなる。
「連立政権」――自公政権、民主・社会民主・国民新党の連立政権(民主政権)
「野合政権」――細川政権(日本新党・日本社会党・新政党・公明党・民社党・
        新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合)、自社政権
「野合政党」――旧民主党(新党さきがけの鳩山由紀夫や管直人ら・社会党右
        派・鳩山邦夫ら自民離脱者)、新民主党(旧民主・自由党{旧新
        生党→旧新進党つまり小沢グループ}・民政党・新党友愛・民
        主改革連合)
 では「維新」はどういう性質の政党か。上のようなカテゴリーで考えれば、ほとんどの方はお分かりになる。お分かりにならないようであれば、少なくともマスコミの政治部記者はすぐお辞めになることをお勧めする。政局を分析する場合、常にこの三つのカテゴリーを念頭に置くか置かないかで、浅はかな分析しかできないか、表面上の動向の背後にうごめいている政治家たちの思惑や計算が透けて見えてくるかの大きな差が生じる。
 でも政治ジャーナリストだけが私のブログを読んでいただいているわけではないので、いちおう三つのカテゴリーの意味を説明しておこう。
 まず「連立政権」は中心になる政党があり、その政党の政策を柱にしながらも連立を組む相手の政策にも配慮し安定した政治基盤をつくるための政権のことである。したがって双方の政策の基本点でおおむね合意ができていないとたちまち分解してしまう。
 政策の一致点が少ないのに、ただ数合わせのために複数の政党が「結集」して多数派になり政権を獲得したケースを「野合政権」という。その極端なケースが自社政権である。細川内閣の成立によって自・社対立の55年体制にピリオドが打たれ、政権の座から引きずりおろされた自民が、ただ政権の座に戻りたい一心で55年体制の対立軸にあった社会党を取り込み、あまつさえ社会党党首の村山富一を担いで総理にするという「離れ業」(というより「禁じ手」と言った方がいいかもしれない)で再び与党に返り咲いたことは自民党史に消すことができない最大の汚点として残った。
 細川政権も、ただ自民を政権の座から引きずりおろすことだけを目的にして政策論議すら交わさず、ひたすら「この指とまれ」で小政党を寄せ集めた「理念・政策なき政権」だった。実は細川政権を裏で画策して作り上げたのが小沢であった。が、すでに述べたように小沢の政治生命は事実上終わりを遂げた。そういう政局分析をするのが政治ジャーナリストの使命なのだが、残念ながらそういう論理的思考力をもった政治ジャーナリストは日本には私が知る限りひとりもいない。
 最後に「野合政党」である。もともと野合政党だった旧民主が中心になって、思想も理念も政策も一致しない複数の政党を寄せ集めた新民主がその典型である。新民主にはなんと15ものグループ(自民の派閥のようなもの)が存在し、小沢グループの3割以上(明確な数字は判明しなかった)が離党したあとは絶対的多数のグループがなく、グループ同士の足の引っ張り合いに乗じて旧小沢グループの残党(小沢チルドレン)を「タナボタ」的に掌握し、また最大の支持母体である連合をバックにした輿石が新民主の実権を握って、肝心の野田が動きが取れない状態に追い込まれていたことが前回のブログ『なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのか――私の政局分析』で書いた。野合政党は必ずそういう運命をたどる。
 もう皆さん、お分かりのように「維新」は野合政党以外の何物でもない。しかも新民主と違い、政権奪取の可能性もないのに(将来の話ではなく現在の話)、今なぜ野合政党をつくる必要があるのか。まず橋下は橋下自身の政治理念と基本的政策をベースに「橋下新党」(党名は「日本維新の会」で構わない)を立ち上げ、単独で総選挙の洗礼を受けて、橋下の政治理念や基本的政策がどの程度国民から理解され、そして支持されるかを見極めたうえで、次の総選挙で「維新」と政治理念や政策で共有し合える政党と選挙協力を結んで戦い、もし政権奪取の可能性が現実化した時に初めて「野合」に近い数合わせでもいいから(これは政権奪取のためのやむを得ざる許容範囲と私は認める)連立政権を目指すのが政治の王道である。
 橋下徹が日本テレビの人気番組『行列の出来る法律相談所』にレギュラー出演して全国的知名度を上げ、地元関西地区のローカルテレビ・ラジオ番組にもたびたび出演して関西地区での知名度をさらにアップ、知名度だけを頼りに2008年、大阪府知事選に出馬して圧勝し地方自治の大改革を目指した。
 橋下は『週刊朝日』が10月26日号で「ハシシタ 奴の本性」と題する連載記事の1回目で彼の出自を暴かれ、彼の父親のDNAがハシシタ政治の本性であるがごとき主張をしたことに激怒、朝日出版(朝日新聞社の子会社)の社長が引責辞任するという出版界だけではなくポピュリズム(大衆迎合主義)・マスコミ界の格好のネタになったことは皆さんご存知であろう。
 またまた本筋から外れるが、そもそも週刊誌が全盛時代を築くきっかけとなったのは1956年(昭和31年)発行の『週刊新潮』と、1959年(昭和34年)発行の『週刊文春』である(いずれも出版社系)。それ以前に新聞社系の週刊誌は何誌かあったが、新聞社系の週刊誌は新聞では紙面の許容スペースでは書ききれない記事を細部にわたって書くというスタンスを取っていた。『新潮』や『文春』は新聞社系が新聞記事の補完的役割に徹していたことにくさびを打つため、新聞が取り上げないような事件(主にタレこみや内部告発の追跡取材)を中心に記事を掲載する方針を取ってきた。また新聞社系が取材を担当した記者が原稿も書くという、新聞の紙面と同様な作り方をしていたのに対し、出版社系では最初の『新潮』が取材記者と記事の書き手(業界用語で「アンカー」という)の分業体制を取ることにより、作業効率を大幅に向上させ、以降そうした分業体制が出版社系週刊誌の基本的作り方になっている。
 ところが週刊誌が全盛期を迎えたのは『文春』が創刊された同じ年に発刊された講談社の『週刊現代』と10年後の1969年に小学館が発行した『週刊ポスト』が徹底的にスキャンダル記事路線で、先行した新聞社系を始め『文春』や『新潮』を追撃し始めたからである。さらにそうした状況に加速度を付けたのは1981年に発刊された『FOCUS』や1984年に発刊した『FRIDAY』などの写真週刊誌だった。写真週刊誌はもともと朝日新聞社の『アサヒグラフ』や毎日新聞社の『毎日グラフ』が先行していたが、週刊誌と同様新聞の補完的役割を果たすことが役割で、戦争現場などの生々しい写真を掲載する硬派の写真週刊誌だった。当然、赤字垂れ流し事業となり、現在は休廃刊になっている。
 こうして週刊誌のポピュリズムというか、スキャンダル路線が定着していく中で、読売新聞社だけはスキャンダル路線に迎合することを潔しとせず、『読売ウィクリー』を2008年に休廃刊した。新聞社の見識を示したと言えよう。だが、朝日新聞社は同じ年の2008年に出版部門を分離独立して朝日出版を設立し(と言っても朝日新聞社が100%出資した完全子会社)、朝日新聞社本体は朝日出版の刊行物に直接の責任を負わないという体制をとった。その結果、『週刊朝日』も朝日新聞社に気兼ねすることなく、利益追求重視のスキャンダル路線に転換した中で生じたのが例の「ハシシタ 奴の本性」と題するえげつない記事だった。
 この記事の筆者は佐野眞一である。「現代の」代表的ノンフィクション作家だ(というより「過去の」と言った方が正確な表現だろう。というのは、もはや佐野はノンフィクション作家としての生命をこの記事の筆者となったことでおそらく失うだろうからである)。佐野は「この記事は週刊朝日のスタッフとの共同作業だ」と弁解しているが、こういう場合の共同作業とは何を意味するかをご存じない方に説明しておくが、週刊朝日の記者は取材をしたり資料を集めたり、言うなら佐野の手足を務めたにすぎず、記事の全責任は佐野が負うのがこの世界のルールである。
 実は著者と編集者がしばしば(と、私が思っているだけかもしれないが)ぶつかるのは著作権と編集権の対立である。単行本の場合は書いた内容でもめることはあまりないと思う(少なくとも私の場合は文章に編集者が手を入れたことはほとんどない)。が、題名でもめることはしばしばあった。小説の場合は題名は著者が決めるケースが多いようだが、ノンフィクションやジャーナリズムの場合は編集長(担当編集者ではない)が決めるのがこの世界の常態である。著者の主張はまず通らない。著者としては書いた内容を反映した題名にしたいと思うのは当然だが、編集長は売らんがための題名をつけたがる。まだ、編集長が内容を読んだうえで内容と矛盾しない範囲(著者にとってのぎりぎりの許容範囲)なら我慢するが、原稿を読みもしないで「売れそうだ」と勝手に思い込んで内容と完全に矛盾した題名をつける場合がままある。私の場合は、あくまで私がこだわって押し切ったのは祥伝社から上梓した『忠臣蔵と西部劇』(1992年刊。89年には日米構造協議が始まるなど経済摩擦が激化していくさなかに書いた)の1冊だけだった。この題名だけでは私の意図が伝わらないと思い、サブタイトルに「日米経済摩擦を解決するカギ」と付けた。読者が書店で題名やサブタイトル、ひょっとしたらもっと重要な要素はカバーデザインかもしれないが、興味を持って手に取ってくれたときまず目が行くのはまえがきである。私は渾身の思いを込めて前書きの書き出しをこう書いた。

 日米経済摩擦には、二つの側面がある。
 一つの側面は、言うまでもなく貿易摩擦である。増える一方の日本の対米貿易黒字をどうするかという問題だ。
 もう一つの側面は、もっと根が深い。いわゆる日本的経営や行政、さらには日本社会そのものが問われているからである。
 日本社会の底流には、目的さえ正しければ手段は問わない、という考え方が横たわっている。ロッキード裁判で有罪判決を受けた全日空の若狭徳治名誉会長に、同情票が集まったり、社内での人望が揺るがないのも、「会社のためにやったこと」(若狭)だからである。つまり「会社のため」という目的の“正当性”によって、賄賂という手段の“反社会性”が塗り込められてしまったのである。
 一方、アメリカは目的の“正当性”より手段の“正当性”を重視する傾向が強い。アメリカ人の目に、日本社会の構造が「米欧社会とは異質なアンフェアなもの」と映ったのはそのためである。
 こうした日米のパーセプション・ギャップ(認識のずれ)は、『忠臣蔵』と西部劇に象徴的に反映されている。『忠臣蔵』は、主君の仇を討つという目的の“正当性”によって、無防備状態の敵を闇討ちするという行為が美化された物語である。
 一方、西部劇では、目的の“正当性”だけでなく、手段の“正当性”が厳しく求められる(※本文で書いたが、西部劇における手段の正当性とは「丸腰の相手を撃ってはならない」「後ろから撃ってはならない」という2大ルールを意味しており、それがアメリカ社会の規範的ルールになっていることを「手段の正当性」として私は評価した。そのため「フェア」であること、すなわちフェアネスを世界共通のルールにすべきだと主張するのが本書の目的だった)。この、日米二つの社会の底流に横たわる価値観の対立が、日米経済摩擦の深層部を形成していると言えよう。(以下省略)

 この本は山本七平や竹村健一は高く評価してくれたが、あまり売れなかった。もしこの本がヒットしていたら、その後の私の人生は大きく変わっていたであろう。売れはしなかったが、私にとっては32冊上梓した本のうちの代表作であり、今でも新鮮さを失っていないという自負がある。
 老いぼれジジイの回想はこの辺でやめるが、単行本ですら、そういう状態だから、雑誌や週刊誌の場合は、編集者が著作権を平気で侵害するケースがしばしばどころか、しょっちゅうある。単行本の場合は担当編集者は一人つくだけだが、月刊誌でも編集者は7~8人いるし、週刊誌となると編集者は10人をはるかに超える。
 雑誌の企画は、著者側が売り込むケースもないわけではないが、大半は編集会議でテーマを決め、そのテーマにふさわしいと思った著述家に執筆を依頼する。週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」は、おそらく週刊朝日側が企画して佐野に執筆を依頼したのではないかと思える。佐野のこれまでの作品から考えると、そういう類のスキャンダラスな企画を売り込んだとは到底思えないからだ。佐野は1997年、民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の生涯を描いた『旅する巨人』で第28回大矢惣一ノンフィクション賞を受賞、さらに2009年にも『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞しているほどの著述家である。彼が自ら橋下の父親の問題を洗い出し、その父親のDNAを橋下が引き継いでいるなどというテーマを売り込んだりする人ではない、と私は思う。
 活字離れは想像を絶するほどのスピードで進んでおり(私は「氷河期」を通り越して「ビッグバン」の時代になってしまったと思っている)、佐野ほどの著名なノンフィクション作家でも、仕事の機会は極めて少なくなっていたと思う。そのため、つい週刊朝日側からの執筆依頼に飛びついてしまったのではないだろうか。だが、たとえそうだったとしても、書き手が全く無名のライターで、売り出すためのやむを得ない行為とは、彼の場合は異なる。佐野の行為は大宅壮一ノンフィクション賞や講談社ノンフィクション賞の権威を汚した行為と、この世界からは烙印を押されたに等しい。
 私自身、いつか機会を見て橋下の思い上がった独裁的振る舞いについて厳しい批判を加えるつもりでいた。だが、機を見て敏なる遊泳術を、いつからどうやって身に付けたのかは知らないが、橋下の独裁的政治・行政活動に対する批判的な目をマスコミが向けだした途端、一瞬にして柔軟な姿勢に豹変、ブログに書く機会を失ってしまったと思っていたら、突然の衆院解散、そして石原慎太郎率いる「太陽の党」との唐突な合併と、どうしても見逃すわけにいかない事態が出現したため、急きょ「維新」の立役者・橋下について分析することにしたというわけである。
 橋下は94年早稲田大学を卒業後、司法試験に合格、2年間の司法修習で法曹資格を獲得、いったん大阪市内にある樺島法律事務所に10か月ほど在籍したのち98年にはやはり大阪市内に橋下総合法律事務所を開設、主に示談交渉による解決を看板にした。飛び込み営業をするなどして年間400~500もの案件を手掛けたという。
 このキャリアについては私も正直疑問を抱かざるを得ない。弁護士不足を解消すべく文科省が法科大学院を乱立させ、法曹家を粗製乱造する以前であったとしても、実務経験が司法研修(医者の世界でいえばインターンのような制度)を入れてもわずか2年10か月ほどで大阪市内に個人の法律事務所をどうやって開設できたのだろうか。しかも橋下はいみじくも週刊朝日が暴いたように決して裕福な家庭に育ったわけではなく、むしろ苦学に近い状態で大学を卒業している。実務経験といっても司法修習時代に高級を貰えるわけがなく、また顧客を獲得することは不可能である。顧客との交渉は事実上樺島法律事務所に在籍していたわずか10か月に過ぎない、どの世界でもそうだが樺島法律事務所時代に担当した顧客をかっさらって個人事務所の顧客にすることなどできるわけがない。別に法律がそうした行為を禁じているわけではないが、そんなことをすればたちまち法曹界から締め出されてしまう。さらに個人事務所を開設し軌道に乗せるのにどれだけ費用がかかるか、橋下がどうやってこのような「奇跡」を実現できたのか、そのプロセスを週刊朝日は検証すべきだった。おそらく週刊朝日はその「奇跡」の真実をつかみ、その「奇跡」が橋下の父親との因果関係と結びついていたことを明らかにしようという意図があったのではないかと、
私は好意的すぎる見方かもしれないが、そう思う。ただいきなり父親がどういう人間だったのか、また「」という差別を意味する用語を使ってまで明らかにしてしまったこと、 しかも橋下の人格が父親のDNAを受け継いでいるかのごとき書き方をしたこと(これは佐野の言い逃れできない責任)が、橋下の反撃を世論が支持する要因になったと思う。そもそも橋下に限らず、人の人格形成と親のDNAとの関連性は科学的にまったく証明されていず、そのような行き過ぎたレトリックを使用したことで週刊朝日と佐野は墓穴を掘ってしまった。おそらくこれが週刊朝日問題の真実ではないだろうか。売らんがためには手段を問わない、という『忠臣蔵』精神が週刊朝日にも佐野にも根強く染み込んでいたというのが事件性を抜き差しならないものにしてしまった最大の要因だったのではないか。日本人が忠臣蔵精神から脱皮し、「目的を遂げるためには手段を問わない」という社会規範を全否定できるには私の孫の時代まで待つしかないかもしれない。
 だいいち事務所を開設して飛び込み営業をして顧客を獲得し、年に400~500もの案件を手掛けるといった人間離れした行動が、法曹界では本当にできるのだろうか。橋下が国政に大きな影響力を持つようになったら、この時代の「奇跡」は必ずマスコミかノンフィクション作家によって暴き出される。実際私が売れ出した途端いろいろな方から有名人や大企業、さらにはテレビ番組のやらせなどのスキャンダル情報がうんざりするほど寄せられた。私はスキャンダルライターではないし、スキャンダルを暴くことでテレビ局から引っ張りだこになりたいなどと思ったことは一度もないので、そういった類の情報は一切無視してきたが、「いやな世界に身を置いてしまったな」という思いは実際何度かしたことがある。
 橋下は自ら法曹家になって以降の「サクセス・ストーリー」の真実を今のうちに明らかにしておいた方がいい、と彼のためにそう思う。いまだったらどういう手練手管を使ってサクセス・ストーリーを作り出したのかを自ら告白しておけば、クリントン大統領が「不倫」を相手から暴露された時、正直に認め、ヒラリーとの間に生じた亀裂と夫婦関係破綻の危機にあることも告白したことで、窮地を脱したばかりか、むしろいったん急降下した支持率が逆転急上昇した事実を教訓にすべきだと願う。
 
 またまた長いブログになってしまった。すでに9800字を超え、ブログの文字制限に達しようとしている。今回は前・後編の2回で終えるつもりなのでご容赦願いたい。(続く)
 

橋下「日本維新の会」が初心を捨てて石原新党と合流した理由(後編)  )

2012-11-30 05:38:07 | Weblog
 橋下徹はどういう政治思想を持っているのか。私は共鳴できる部分もあるが、容認できない部分もある。
 まず「大阪都」構想。これは無条件に支持する。もともと橋下が大阪府知事選(2008年)に出馬した時点ではこの構想は持っていなかった。彼が府知事選に立候補した時の公約は4つ。①子供が笑う、大人も笑う大阪に②人が集い、交わるにぎわいの大阪に③中小企業が活き活きし、商いの栄える大阪に④府民に見える府庁で、府民のために働く職員と、主役の府民が育てる大阪に、というものだった。
 その4つを実現するための具体的政策は全くなかった。つまり彼は大阪府が抱えている問題については何一つ知らずに大衆受けするスローガンを並べただけで選挙戦を戦ったのだ。だが、橋下は戦う前からすでに勝利は確実視されていた。お笑いタレントの横山ノックを府知事に選んだくらい「民度が高い」大阪府民である(これもジョークではない)。知名度が高く、しかも法曹家という社会的地位の高い橋下が勝つのは既定の事実だったと言っても差し支えない。
 だから橋下は立候補を決断した時点(あるいは立候補を考え出した時点かもしれない)から、選挙運動そっちのけで大阪府が抱えている問題について勉強を始めたと思われる。おそらく優秀なブレーンのアドバイスもあっただろうし、橋下の応援団を買って出た堺屋太一からもいろいろ教わったに違いない。
 08年2月6日に府知事として府庁に初登庁した日に行われた記者会見で橋下は財政非常事態宣言を出し、予算の1000億円カット、知事退職金の半減などを宣言、一躍国民的ヒーローになった。予算の1000億円カットの方策も6月には明らかにして府民の信を改めて問うた。その主な内容は①ハコモノ集客施設の廃止・見直し②府指定出資法人(府職員の再就職先の受け皿)の廃止・見直し③知事退職金の半減だけでなく知事給与及びボーナスの30%カット④府職員の給与カット{3.5~16%}、ボーナスカット{4~10%}、住居・通勤・管理職手当カットなど府職員組合との対立をも辞さない思い切った具体策を発表した。
 
 わたくしごとになって恐縮だが、私が中小企業のサラリーマンだった時代、組合ができたとき初代委員長に就任(組合設立には一切関与していなかったが、設立総会で組合設立に奔走した民青系組合員の方針に真っ向から批判し、一般組合員から「小林さんが委員長になってほしい」との要請を受けて、やむを得ず委員長を引き受けた)、私が委員長として取り組んだ最初の労使交渉となった「夏季ボーナス闘争」で、私は会社側の提示をいきなり独断で呑んだ。労使交渉に同席した組合執行部はびっくりしたようだが、その直後に私が付けた条件に今度は社長をはじめ会社側がびっくりした。
 当時社員の給与体系はきわめて複雑で、基本給のほか役職手当・職務手当(職務によって一律支給)・その他もろもろ意味不明な名目で支給されていた諸手当(経営状況によっていつでも廃止できるようにすることが目的だったと思う)があった。どうしてそのように細かく分けていたかというと、残業代を始めボーナスや退職金のベースになるのが基本給だけで、月給(総支給額)は世間並みにして、ボーナスや退職金で調整するという姑息な方法をとっていた(当時の大半の企業がそういう給与体系をとっていた)。で、私は従来の組合が主張していた「ボーナスは生活給」という考え方をとらず、会社側が主張していた「ボーナスは成果配分」という主張を丸呑みし、「成果配分であるならば基本給だけをベースにするのではなく、通勤・住宅・家族手当の属人的手当を除いたすべての手当は職務に直結した手当であり、成果配分のベースにすべきだ」と主張したのだ。そうするとボーナスの算定基準は一気に倍くらいに膨らんでしまう。会社側が呑めるわけがなく、最初の交渉で決裂、私は直ちにスト権の確立を組合員総会で承認してもらい、スト権行使は執行部一任を取り付けた。そのことを会社側に通告、会社側を一気に窮地に追い込んだ。
 その結果、社長(のちに国から何かの褒章を受けたほどの人)が困り果て私にボス交渉を内密に申し入れてきた。「小林君はいったい何が目的なのだ」と聞いてきたので、私は「給与体系を基本給・役職給・属人的手当に集約したうえで、会社の経営状況から出せるギリギリの線を一発回答してほしい」と主張し、社長は「君の主張はわかった。もっともだと思うので会社としても精いっぱいの線を出す」といって、その日のボス交渉は終わった。当時は会社は未上場だったので、私には会社の経営状況がわかるわけがなく、社長の誠意にかけるしかなかったという事情もあった。1週間ほどたって2度目のボス交渉で社長が出してきた支給額は属人的手当てを除くすべての名目の給与(もちろん管理職は対象外)を算定基準にして提示したものだった。私は「それが交渉の余地がないギリギリの線ですね」と念を押してOKした。その場で、私は2回目以降の労使交渉の工程表(ボス交渉ではなく正式な労使交渉)をつくって、3回の交渉で妥結に至るスケジュールを組んだ。そのスケジュール通りに事は進み、労使協調体制を築く第1歩を踏み出した。
 その直後胃潰瘍で私は入院・手術して1か月ほど会社を休んだが、その間給与は非課税で丸々くれた。退院して会社に出ると、社長にすぐ呼ばれ、「今度、社長室をつくることにした。室長は常務(社長の義弟)になってもらうが、君を社長室の仕事をしてもらいたい。受けてくれるか」と頼まれ「わかりました」と応じた。それまでの私の仕事は広報兼宣伝担当と総務(経理や人事も含んでいた)だったが、それはそのまま継続してやってくれとのことだった。その結果、今は高層ビルになっているが、当時は3階建てのビルだったので、新しく社長室をつくるスペースがなく、役員室の片隅に私のデスクを用意してくれた。そのため私のデスクは二つになり、行ったり来たりするようになった。社長職として最初に取り組んだのは給与体系をすっきりしたものにすることだった。ボーナス交渉で基本給・役職手当・属人的手当てに集約することは労使間ですでに合意が成立していたので、それまではほとんどトップの思い付きで作ってきた諸手当を課長以下すべての社員一人一人について常務と二人だけで相談しながら決めていった。
 その時私が問題にしたのは属人的手当をどうするかであった。通勤手当や住宅手当、家族手当などの属人的手当ては本来職務や会社への貢献度とは無関係の、言うなら自己責任に相当する手当であり、すべて廃止したかった。が、廃止した結果給料が減るということになると労組が承知するわけがないので(社長室勤務になると自動的に組合から離脱することになっている。会社の最高機密に接触する機会が生じるからである。なぜか電話交換手やタイピストも組合員になれない)、この属人的手当をどう処理するかにかなり頭を絞った。特に私が問題視したのは通勤費と住宅費が事実上反比例する関係にあることだった。つまり会社(本社は都心にあった)に近い場所に住居を構えると住宅費は当然高くなるが、住宅手当は実情を反映せず一定額である。ところが住宅費が安い遠距離地に住居を構えると、住宅手当は変わらないのに通勤手当は実額支給である。どこに住居を構えるかは自己責任であって、遠距離地に住居を構えると通勤時間はかかるし、疲れ果てて出勤することになり、当然仕事の能率に大きな影響が出る。しかも住宅手当は課税対象になるが、通勤手当は非課税だ。国の課税システムにも大きな問題があり、私は管轄の税務署に出向き、強引に署長に面会を要求し、交渉した。私は諸手当に対する課税システムは問題があり、通勤手当を住宅手当と含めて一本化し、通勤手当として一律支給するが、それを認めてくれるか、という、今から考えると若気の至りと言うしかないむちゃな要求をした。当然のことながら一言のもとに拒否された。しかし署長は私の主張の合理性は個人的には理解できると言ってくれたのが、せめてもの慰めだった。
 この時代に取り組んだもう一つの大仕事は総務部長と私が二人でやっていた社員の給与計算方法だった。コンピュータといえばメインフレームを意味していた時代で、いちおう電卓はあったが卓上の電話機ほどの大きさで、しかも計算ミスをしばしば起こすような代物だった。だから二人で1週間がかりで計算し、何度も互いの計算をチェックしなければならないといった状況だった。私は今でもそうだが、何事もほどほどということができない性格でエクササイズも全力でやるためインストラクターが「やりすぎはかえって健康を害しますよ」とアドバイスしてくれるのだが、そういったコントロールができない性分はたぶん死ぬまでなおらないだろう。そういうわけで、この単純な給料計算の作業を何とか効率化できないかと考えていた時、会社がゼロックスの複写機{コピー機}を購入したので(それまでの複写は青焼きだった)、これを利用しようと考えた。具体的には給与票をタイプライターで打ってもらい、不変の基本給・役職手当・属人的手当とその合計額は私があらかじめ記入しておき、給料締日にコピーをとって空欄にしておいた残業代と給与総額、源泉徴収額の3か所だけ計算機を使って記入し、それを再コピーして原本は会社が保管し、社員に給与と一緒に渡す給与票は個々人ごとにはさみで切り分けるというやり方に変えた。いまから思えば、コンピュータがない時代で、どの会社も手計算で給与計算をしていた時代だったから、かなり斬新な方法だったと思う。
 私の「厚生年金保険被保険者証」(当時は「年金手帳」はなく、ほぼはがきサイズの1枚の紙切れだった)の記録によると、私が被保険者になったのは昭和42年4月21日付で、この一連のすったもんだは入社3年目に入った直後ぐらいだったから28歳の時だったと思う。もちろんまだ平社員で、梅雨時から夏場にかけては「水虫になるから」と屁理屈をつけて下駄ばきで社内を闊歩していた。社長は私を新設の社長室で仕事をすることになった時(正確にはダブル配属)社長室長代理(部次長クラス)の肩書をくれようとしたが、この下駄ばきが役員会で問題になり、結局主任(係長クラス)の肩書になった。でも役職手当は部次長クラスに相当する額を支給してくれたので私は嬉しかった。30歳のとき事情があって転職した際、略歴に肩書きを一切記入しなかったので平社員待遇での採用となったが、「まだ30歳の平社員なのになぜこんな高給をもらっていたのか」と聞かれ、「私が自分の給与を決めたわけではないのでわかりません」と答えたことは覚えている。
 こんな性分なので、自分を売り込むことに自分自身が抵抗心を持ってしまい、そんな私を見かねた妻から「私が営業してあげようか」とまで言われるほどで、竹村健一など自分が個人的に開いていた私塾のようなものに呼んでくれたり、「私の事務所に遊びに来ないか」とまで誘ってくれたが、私塾は小池百合子をはじめ竹村の「ご機嫌取り」のための取り巻きの集まりに過ぎないことがわかったので二度と出ることはしなかった。たぶん私は「三つ子の魂百まで」を地で行くような生涯で終えることになるだろう。でも、あらゆることに妥協できない性分を、私は勝手に我が誇りと思っている。
 
 戯言はさておき、府知事になって橋下が府財政の立て直しのために気づいたことは二重行政の無駄であった。そのあたりはさすが、と私も敬意を表したい。
 さらに橋下の政治家として人並みすぐれた資質は、知事の地位にあってはこの二重行政を解消できないをすぐ理解したことである。
 田中眞紀子前文科省大臣がすでに文科省が認可していた3大学(秋田公立美術大・札幌保健医療大・岡崎女子大)の認可を取り消したものの、世論の批判を浴びて撤回、3大学の設立を認可した問題と、橋下の決断はある意味で対照的である。
 私はいかなる世論の批判を浴びようと、3大学設立認可を取り消すべきであったと思っている。そして3大学設立を認可した文科省の責任者(文科省事務次官をはじめ大学設立認可にかかわった幹部職員)の首を飛ばすべきであった。それができないような政党が、政治主導の云々と口先だけでいっても「空文句」に過ぎないことが、この事件で明らかになった。
 文科省の役人は、大学を卒業しても就職できないという状況、そして大卒を採用するより経験とそれなりの能力がある社員の定年を65歳まで延長した方が会社にとって有利だと経営者が考え始め、しかも少子高齢化がますます深刻化して行く中で、就職できない大卒者をさらに増やす結果になることが目に見えているのに、何が目的で大学を増やそうというのか、文科省の役人どもの頭をかち割って脳みそを調べてみたくなった。
 ただし、田中にも多少の問題はあった。能力のある学生が家庭の経済事情で大都市の権威ある大学に進学できないというようなケースに対する何らかの支援体制を構築することを前提に認可の取り消しを発表すべきだった。さらに既設の大学も、卒業者の就職率が80%を切るような大学には一切国が補助金を出さないことも同時に決定すべきだった。そうすればバカでもチョンでも入れるような大学は自然消滅し、社会に出た時、それなりの能力を発揮できる学生に絞り込んでいけば、大卒者の就職難も解消に向かうのは当然の帰結である。
 とかく役人どもは、屁理屈としか言えないような口実を無理やり考え出し、役所での自分の仕事をでっち上げ、さらにその仕事の中身は自分の再就職にとって有利な状況を確保すること、としか考えていないと言っても言い過ぎではない。そういう能力だけは、官僚は有している。というより、そういう能力しか官僚は持っていないのだ。
 民間企業だったらどうか。IT技術の進歩で仕事の効率はどんどん上がって行く場合、余剰社員は能力に劣る社員から順にリストラしていくか、市場規模が拡大している場合はそれに見合った仕事に就かせる。そういう民間の考え方を役所にも導入し、「いつ首になるかわからないよ」という状況をつくれば、本当の意味での政治主導が可能になる。国会議員が「政治主導」を口にする場合、役所を民間並みに大変革しない限り不可能だという認識を持ってもらいたい。
 そういう意味で、橋下がとった行動は大阪府の最高権力者である知事という職を自ら投げ出し、格下の大阪市長選に出馬して当選、市長の権限で二重行政を解消しようとしたことは見事な決断と言ってもいいだろう。
 その一方で橋下は密かに「大阪都構想」を温めていった。府知事になって2年後の2010年1月、橋下は公明党の年賀会に招かれ「競争力のある大阪にするためには一度大阪府を壊す必要があるし、大阪市も壊す必要がある。来たるべき統一地方選挙において、大阪の形を一回全部解体して、あるべき大阪をつくりあげる」と述べ、大阪都構想の一端を披露している。そして翌11年6月に開いた政治資金パーティーで、橋下は半年後に行われる大阪府知事・大阪市長のダブル選挙を視野に入れながら「大阪市が持っている権限、力、お金をむしり取る」「大阪は日本の副首都を目指す。そのためにいま絶対やらなければならないことは大阪都をつくることだ」「今の日本の政治で一番必要なのは独裁。独裁と言われるくらいの力だ」と大阪都構想の実現に向けて突っ走る宣言をした。
 もともと橋下が府知事になって以降、財政再建のため強引な政策を次々と打ち出し、しばしば議会や職員組合とぶつかってきた。その手法が「独裁的だ」と批判する声もあちこちから出てきたのは事実である。たとえば民放の格好なニュースショーのネタになった、いわゆる「一斉メール送信」事件はご存知の方も多いだろう。この事件は09年10月1日、府のダム建設費用について次のようなメール(抜粋)を全職員に一斉送信したことに端を発した。
「水需要予測の失敗によって380億円の損失が生まれたことに関しても。恐ろしいくらい皆さんは冷静です。何とも感じていないような。民間の会社なら、組織あげて真っ青ですよ!!」「何があっても給料が保障される組織は恐ろしいです……」
 このメールに対して翌日女性職員から反論のメールが返信された。橋下は即座に反応し「まず、上司に対する物言いを考えること。私は、あなたの上司です。組織のトップです。その非常識さを改めること。これはトップとして厳重に注意します。あなたの言い分があるのであれば、知事室に来るように。聞きましょう」と再送信した。このやり取りをきっかけに反論メール合戦になり、ついに業を煮やした橋下は8日「トップに対する物言いとして常識を逸脱している」として女性職員を厳重注意処分にした。この一連のやり取りが明らかになり、府に寄せられたメールや電話の反響が約700件に達するという騒ぎになったのである。市民からの反応は賛否相半ばしたようだ。
 私は、この件に関しては、橋下の「トップの威」を笠に着たいびりには違和感を覚える。なぜ女性職員の上司に対するイチャモンの付け方を問題視するより、行政機関(行政組織ともいう)の職員(つまり公務員)の仕事の結果に対する無責任さ、鈍感さを噛んで含めるように諭さなかったのか。そうしていれば市民の反応は圧倒的に橋下支持の声で満ち溢れていたはずだ。
 「パーキンソンの法則」というのがある。60代以上の人なら覚えておられる方も少なくないと思うが、若い人は耳にしたこともない法則だろう。この法則はイギリスの歴史・政治学者のシリル・ノースコート・パーキンソンが提唱した法則で、行政組織についての二つの法則から成り立っている。
 第1法則は「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」というもの。
 第2法則は「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」というもの。
 この法則はパーキンソンがイギリスの官僚組織を観察して発見したもので、わかりやすく解説すると官僚組織は、その組織が行ってきた仕事が完了しても、新たに無意味な仕事を創り出し、さらにその仕事が完了したら、また新しい仕事を創り出すという無限のサイクルを繰り返し、官僚組織は際限なく膨張を続けるという意味である。この法則が成り立つ要因は二つあり、①公務員はライバルにならない部下が増えることを望む②公務員は相互に仕事を創りあう、という2点である。
 パーキンソンがこの法則を提唱したのは1958年(昭和33年)で、日本はまだ高度経済成長の時代への手探りをしていた時代で、すぐパーキンソンの法則が話題になったわけではなかった。日本でパーキンソンの法則が話題になり出したのは、高度成長時期に入った1960年代からで、高度経済成長を支えるために官僚機構も肥大化していった時期になってからである。
 この時期、日本では経営理論が一大ブームとなり、ピーター・ドラッガーの著作『断絶の時代』やダグラス・マグレラーのXY理論が日本の経営者にとって極めて都合のいい理論であったことから大流行した。私も先述した労組委員長から社長室主任に転属した時、これらの経営理論をむさぼるように読んだ。それも自費で購入して社長室で読んでいたため、自費で買っていたことを知った社長が「会社で金を出すから読みたい本はいくらでも買っていい」と言ってくれたが、「これは自分の勉強のためだから自分の金で買う」と断ったことを覚えている。
 私はいずれ日本の年功序列終身雇用という江戸時代の経営管理法を引きずった人事管理ではアメリカの経営手法には太刀打ちできなくなると考えており、若い有能な人材がその能力を十分に発揮できる人事システムを構築することに全力を傾注していた。具体的には、そのころ日本でも盛んに言われ出していた能力主義・実力主義を定着するためにはどのような組織・人事・給与の一体的システムを作り上げるかが私の当時の最大のテーマで、通勤・住宅・家族手当などの属人的手当を廃止するための最初の一歩として通勤・住宅手当を一本化したうえで一律定額支給にし、非課税の「通勤手当」の名目でやろうとしたのもそのためだった。
 私が既成概念に疑問を最初に抱いたのは、小学生のころ、ニュートンが万有引力の法則を発見したきっかけはリンゴが木から落ちる瞬間を目撃したことだという「伝説」に対し、そんなことはありえないという疑問を持った時からである。多分5年生のころだったと思うが、授業で担任の教諭がこのあり得ない「伝説」を事実であるかのごとき説明をしたのに食って掛かり、教諭を立ち往生させて以来、常識や既成の価値観に対する疑問を抱く「クセ」が私の頭脳に定着するようになった。今でもその「クセ」は引きずっているが、少し大人になったのは、現行のシステムを全否定するのではなく、妥協点を見出しながらその妥協点を時間をかけながら少しずつ私が考える方向に移行させていくという現実的な方法に重点を置くようになったことである。
 こんな話をしたのは、橋下の政治理念に共鳴を感じつつも、その政治理念を一気に実現しようとすると、当然現行システムの中で安穏とした優雅な人生を歩み既得権益に胡坐をかいた特権階級(はっきり言えば高級公務員)の抵抗にあってとん挫しかねないという危惧を抱いたからである。
 橋下は現時点でどこに妥協点を設定し、時間をかけてその妥協点を少しずつ橋下の理念に近づけて行くかという手法を身に付けるべき時期だと思う。彼の「大阪都構想」には全国の行政組織のくびちょうがかたずを呑んで見守っている。特に大都市と大人口を擁する神奈川県や愛知県、福岡県、北海道などの行政組織のくびちょうは橋下改革が成功したら、橋下に同調して一気に地方自治改革が進みだす。彼の戦いの結果は、地方自治改革を一気に進めるか、逆に大きく後退させてしまうかの分岐点になる。そのことを重く自覚してほしい。
 特に地方自治改革を大きく進めるためには国の行政組織の改革も不可避だと考えたことは、私も十分理解できるが、これも1歩1歩亀のような歩みで最初は始めるべきだったと思う。「小異を捨てて大同に付く」という老いぼれジジイ(80歳)の石原慎太郎のレトリックに乗ってしまい、「維新」の主導権を老練な政治手腕にたけた石原に事実上奪われかねない危惧を抱いているのは私だけではない。現に橋下の地方自治改革「大阪都構想」を支持してきたマスコミが、ここに来て橋下に対する批判を強めだしとことを高にくくるべきではない。たとえば朝日新聞は24日の社説「総選挙 維新の変節 白紙委任はしない」はこういう書き出しで「維新」批判をしている。

 原発はゼロにするかもしれないし、しないかもしれない。環太平洋経済連携協定(TPP)には参加するかもしれないし、しないかもしれない……。
 太陽の党と合流して日本維新の会の主張ががぜんあいまいになった。代表代行になった橋下徹大阪市長は街頭演説でこう言い切る。
 「政治に必要なのは政策を語ることではない。組織を動かし、実行できるかどうかだ」
 自分や太陽の塔を立ち上げた石原慎太郎代表は大阪と東京で行政トップを経験し、組織を動かす力がある。どう動かすかは任せてほしいといわんばかり。だとすれば、有権者に求められているのは政策の選択ではない。白紙委任である。
 維新は、党規約に明記していた企業・団体からの政治献金の禁止を、撤回した。「選挙を戦えない」という太陽側の意向を受け、上限を設けて受け取ることにしたという。
 「脱原発」は看板政策だったはずたが、揺らいだ。

 この手厳しい批判を橋下は重く受け止めなければ、国民からの支持は遠かれ遅かれ失うことは目に見えている。国民はバカではない。直観的であっても、橋下の二枚舌に気付くのは時間の問題だ。
 このブログの前編で書いた滋賀県知事の嘉田は「脱原発」を「卒原発」に言い換えて新党「日本(にっぽん)未来の党」(以下「未来」と略す)の立ち上げを28日正式に表明した。小沢は最後の生き残りをかけて「生活」を解散して「未来」に合流することにした。「脱原発」を「卒原発」に言い換えたのは嘉田のアイデアなのか小沢の提案なのかはしらないが、なぜ言い換えたのかの説明は一切ない。他の「脱原発」派と違うのは10年後と、期間を短縮しただけだ。10年で卒原発を実現できる根拠は当然ながら一切説明がない。ひたすら「この指とまれ」で反原発政治グループの中で主導権を確保したいという意図が見え見えだ。反原発以外の政策は「子供・女性支援」以外一切ない。それ以外の政策を明らかにすると野合政党が作れないという理由以外の何物でもない。こんな「第三極」にだれが投票するだろうか。日本国民の見識が問われている。
 橋下は「未来」が国民からそっぽを向かれる実態を見て(この結果は、私は予想屋ではないが、近くマスコミの世論調査で判明するだろう)、直ちに「維新」の原点に立ち返るべきだ。そして、総選挙で自公が過半数を獲得できなかったときに民主や渡辺喜美の「みんなの党」(以下「みんな」と略す)などと政策協定を結んで連立政権を目指せばいい。特に「みんな」が発表しているアジェンダ(公約やマニフェストとほぼ同義)の主要部分は「維新八策」とかなり近い。「太陽の党」との合流を最優先して「維新八策」を骨抜きにするより、「みんな」と選挙協力関係を結び、「太陽」が否応なしに歩み寄らざるを得ない状況をつくるべきだったのではないか。それが「政治の王道」というものである。