小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのかーー私の政局分析 ②

2012-11-19 15:34:24 | Weblog
 8月7日の読売新聞は3面スキャナーの見出しで「首相手詰まり…輿石氏党首会談認めず」という政局解説の記事を掲載した。輿石が事実上野田総理に君臨していることを示唆するような思わせぶりな記事だったが、実際にはリードでそういう認識を持っていなかったことを露呈してしまった。
「自民党が、社会保障・税一体改革関連法案採決の条件として衆院解散の確約を求める強硬路線に転じた。野田首相は、自民党の出方を読み誤り、輿石幹事長ら党執行部の対応に任せてきた甘さがあった。事態打開の手立ても容易には見当たらない事態に追い込まれている」
 スキャナーの見出しとリードの内容が完全に乖離してしまっている。見出しで「輿石氏、党首会談認めず」と、事実上民主党の実権を握っているのは野田首相ではなく、輿石幹事長であることを示唆していながら、リードでは「野田首相は、自民党の出方を読み誤り、輿石幹事長ら党執行部の対応に任せてきた甘さがあった」と、野田路線と輿石路線の間に抜き差しならない対立があり、この時点では輿石が事実上の党最高権力者であることにまだ気づいていなかったことを明白に物語っている(今でもそうだが)。
 そして翌8日の朝刊1面トップ記事で読売新聞は与野党の対立が修復不可能なところまで来てしまったと解釈し、「一体改革成立に危機…自民きょう不信任・問責案」という大見出しをつけた記事を掲載した。さらにスキャナーでは「自民『強硬』一点張り…党内『主戦論』抑えられず」というタイトルで、1面記事を補完する記事を書いた。ちょっと本筋から離れるが、読売新聞は重大ニュースについては原則3面のスキャナーで1面トップ記事を補完する解説記事を掲載、同じく3面の社説で社としてのスタンスを主張するようにしている。これは読者にとって非常に親切な編集方針である。ところが、朝日新聞もかつては同じような編集をしていたのだが、今は1面トップの重大ニュースとの関連性を重視した編集をしていない。社説と社内外の権威者の主張にスペースを割いた「オピニオン」、読者の投稿文を掲載した「声」を一体的に扱い、しかもそれがどのページに掲載されているのか一定していない。確かに1面の目次を見ればわかるのだが、大方の読者は1面から順番に読みたい記事を見つけたら読む、という習慣だと思う。「オピニオン」はいい企画だと思うし、「声」も読者の様々な主張を読売新聞ではほとんど掲載しないような(読売新聞読者センターの話)「重たい」読者の主張も、あまり偏らずに掲載しているのはいいと思うが(読売新聞の読者欄「気流」は一般の読者にとってはどうでもいい個人の日常生活に根差した投稿文が大半を占めている)、もう少し読者に親切な編集をしてもらえたら、と思う。
 余談はそのくらいでやめるが、読売新聞は自民党執行部の意見対立はちゃんと把握していたのに、なぜ民主党の最大権力者が輿石で、肝心の野田総理が輿石に手足を縛られ身動きが取れない状態になっていることに理解が及ばなかったのだろうか。読売新聞は今年の春くらいまでは野田政権に対して極めて厳しいスタンスをとっていた。私が読者センターに電話で「今日の社説の主張は私も理解できるが、もう少し長い目で見てやったらどうか」と申し上げたところ読者センターの方は「もう待ったなしのところに来ていると私たちは判断しているんです」とお答えになった。で「私は野田さんは『おしん』ではないけど『我慢総理』と勝手に命名しています。民主党は一枚岩ではない。小沢さんとの代表選では小沢アレルギーの議員たちが野田さんに投票したから勝てたけど、反小沢の議員たちもまた一枚岩ではない。野田さん自身の党内基盤は極めて脆弱なんです。そういう中で党内融和を図りながら時間をかけて政治信条を実現しようとしているのだと思います。だから『がまん総理』と勝手に命名したんです」と理由を申し上げたところ、読者センターの方は「うーん。確かにそう言われるとそういう感じは私もします。貴重なご意見として伝えます」と返事をしてくれた。そのころは私と読者センターの関係は極めて良好だった。私は読売新聞の読者の中ではたぶん最も厳しい批判をしてきた一人だったと思う。が、私の批判は悪意に満ちたものではないことを読者センターのほとんどの方は理解してくれていた。いまは朝日新聞お客様オフィスとの関係がそういう状態になりつつある。ただ電話では穏やかに言いたいことを言わせてもらうようにしているが、ブログで書くときはかなり手厳しい表現をするケースがままある。それは読者センターやお客様オフィスを相手に書いているのではなくブログ読者により深く理解していただくための私の手法である。読者の中には「何様だと思っているのか」と不快に思われるだろう方もおられることを想定し、そのうえで書いているのでご了解いただきたい。
 そんな私ごとはどうでもいいが、読売新聞はたぶん初夏を迎えたころからだったと思うが、突然野田批判をやめて野田総理の「応援団」に転換した。転換したのはいいが、まだ民主党内事情を正確に把握していなかったため、民主党の政局運営は輿石が掌握していて、野田は依然として身動きが取れない状態にあることまでは思いが至らなかったようだ。たとえば肝心の総理の意向を訊きもせず「党首会談は認めない」などという思い上がった発言に対してさえ野田はたしなめることもできない状況にあったことを理解すれば、社説で徹底的に輿石批判を展開して野田総理の権力基盤の強化に手を貸してやればいいのに、それができないところにせっかくの「応援」が中途半端に終わってしまった最大の要因がある。
 いずれにせよ、8月の7~8日にかけて政局は大きく動いた。すでに述べたように野田が輿石の「了解」をとらずに谷垣と直談判して8日の午後8時過ぎ、とうとう3党合意を取り付けた。合意の内容は①自公は不信任・問責案を引っ込める②粛々と消費税増税法案を参院で採決し自公は賛成票を投じる③野田総理は解散を「近いうちに行う」と表明する、という3点だった。3党合意が成立した直後、記者団に囲まれた谷垣は「野田総理が約束した『近いうち』とは重い言葉だ」と万感の思いを込めて強調した。が、谷垣もまた野田が綱渡り的状態の中で「近いうち解散」を約束せざるを得なかった危うさに思いが至らなかった。私もまた同様野田がとうとう民主党の実権を輿石から奪うことに成功したのだと思い、9日に投稿したブログで「消費税増税法案採決は10日(11日からお盆に入るため)、解散は早ければお盆明けの21日か22日」との予測を書いた。10日採決の予測は当たったが、解散時期の予測は外れた。なぜ10日採決を予測したかというと、谷垣が石原を筆頭とする党内強硬派を説得するために最低1日の猶予が必要で、11日からお盆に入るというタイムスケジュールの中で採決に持ち込める日は10日しかないと判断したからである。が、野田の「反乱」がいとも簡単に輿石によってひっくり返されるとは、私も読み切れなかった。私は8月28日「私はなぜ政局を読み誤ったのか?…反省に代えて」というタイトルでブログ記事を投稿した。その骨子はこうだった。

 私は状況にもよるが、自民党内の強硬派(石原幹事長を筆頭とする)を説得できるだけの根拠を谷垣氏が確信したこと(「近いうちとは重い言葉だ」との発言を再三繰り返したこと、さらに民主・輿石幹事長が参院採決の合意ができた当日に記者から「近いうちとは今国会中か」との質問に対して「そんなことはないだろう。特例公債発行や選挙制度改革などの重要法案がまだ残っている」と発言したことを聞き谷垣総裁が「こんな幹事長が与党にいるなんて信じられない」と激怒したこと、また肝心の野田総理が繰り返し「私は社会保障と税の一体改革に自らの政治生命を賭けている」と耳にタコができるほど聞かされてきたことの3点)に重点を置いて、私はおそらくお盆明け早々の解散を野田総理がそれとなく示唆したか、あるいは密約したかのどちらかだと今でも思っている。
 だが、そうした事実上の約束を、輿石幹事長が再び民主党の実権を野田総理から奪い返したことによって反故にされたとしても、谷垣総裁は密約を明らかにすることはできない。そんなことをしようものなら密室政治に対する国民の怒りが爆発し、野田総理ともども谷垣総裁も政治生命を完全に失うことになるからだ。
 そこまで輿石幹事長が読み切って、絶対に参院で否決されて廃案になることを百も承知で今国会に特例公債発行や選挙制度改革法案を衆院に提出して自公ボイコットの中で単独強行採決に踏み切ったということは、解散時期を引っ張れるだけ引っ張って、うまくいけば衆議院議員の任期満了まで政権を維持しようという作戦に出たと解釈するのが妥当だろう(その間に選挙基盤がまだ弱い元小沢チルドレンに地元に確固たる基盤づくりをする時間的余裕を与えるのが目的と思われる)。
 私が解散時期を読み誤ったのは、輿石氏の党内基盤が野田総理よりはるかに強固だったということに思いが至らなかったことによる。先のブログで書いたように、輿石氏は小沢氏に近いとみられていた実力者である。その輿石氏を野田総理が重用し総理に次いで党内に大きな影響力を発揮できる幹事長という要職に就けたのは、ひとえに党内融和をすべてに優先したからだ。そして小沢氏の離党に際し、小沢氏と行動を共にしなかった元小沢チルドレンは当然輿石氏を頼る。選挙活動を差配するのは幹事長の専権事項だからだ。つまり大派閥の領袖ではない野田総理の党内基盤が予想していたよりかなり脆弱で、小沢チルドレンの残党を一手に握った輿石氏の権力基盤の方が強かったということを証明したのが、現在の民主党の内実だったのだ。(※以下の記述に、ご注目いただきたい)
 
 一方自民党の谷垣総裁も、私と同様輿石氏の党内基盤の強固さを見抜けなかったことで墓穴を掘ってしまった。輿石発言に憤る前に総理の約束を無視できるほどの党内基盤を輿石氏が固めていることに気付くべきだった。だから「いったん成立した参院での採決の3党合意は、野田総理が解散時期を今すぐ明確にするか、それとも総理の約束をひっくり返した輿石幹事長の職を解くかしないと3党合意を白紙に戻す」と、野田総理に迫るべきだった。それを怠った谷垣総裁が自民党強硬派の協力を今後得ることは極めて難しい状況になったと言えよう。(※実際谷垣は総裁選出馬を石原によって引きずり下された)

 この時期、石原幹事長はまだ谷垣下しを画策していなかったし、自民党総裁選は1か月先の9月26日だった。谷垣も再任を目指していた。が、私が上記のブログで予測した通り、強硬派筆頭の石原伸晃が谷垣下しにかかる。谷垣は、9月10日、出馬断念を表明した。その無念の思いが「執行部の中から2人が出るのはよくないだろうと考え、決断した次第だ」の言葉に込められている。こういう事態を1か月前に予測した政治ジャーナリスト(新聞社やテレビ局の政治部記者も含む)や評論家は誰もいなかったはずだ。
 自民党総裁選については私はあまり関心を持っていなかったし、読売新聞読者センターの私に対する卑劣な言いがかりに対して戦うことと、オスプレイ問題に全神経を集中していたからである。しかし選挙結果は私も予想だにしないものだった。投票は地方票(全国各ブロックの自民党員による投票)と    国会議員票を合算して行われる。順序を逆にして国会議員による選挙結果から見よう。
 1位  石原伸晃  58票
 2位  安倍晋三  54票
 3位  石破 茂  34票  (以下省略)
 谷垣総裁を支えるべき立場だった石原が谷垣下しに奔走したことに対する批判はかなりあったが、強硬派の筆頭だった石原を支持する議員はやはり多かった。が、国会議員の投票に先立つ地方票の結果はどうだったか。誰も予想できなかった結果が出た。
 1位  石破 茂  165票
 2位  安倍晋三   87票
 3位  石原伸晃   38票
 こういう結果を誰が予想しただろうか。はっきり言えば永田町と民意(と言っても自民党員に限られるのだが)のずれの大きさがこの投票結果に現れている。民意が反映されるようにするには小泉純一郎が2001年4月に行われた総裁選の予備選(その後改められ地方選になる)で最大派閥出身で最有力視されていた橋本龍太郎に圧勝した時のようにドント方式に戻すか(米大統領選もドント方式)、小泉純一郎がやろうとしてできなかった派閥の解体をするかしかないだろう。
 それはともかく、国会議員票では1位を石原がとったことは結果的に野田総理との約束を反故にされた谷垣の甘さに対する批判票が強硬派筆頭の石原に集中したことを意味し、地方票では谷垣を補佐すべき石原が谷垣下しを画策したことへの反発が石破の4分の1も取れなかったという結果に表れている。その結果、地方票と国会議員票を足した獲得票の順位は以下のようになった。
 1位  石破 茂  199票
 2位  安倍晋三  141票
 3位  石原伸晃   96票
 いずれの候補者も過半数の249票に達しなかったため引き続いて規定により上位2人によって決選投票が行われたが、安倍が大逆転し(安倍108票、石破89票)安倍が自民党総裁の座を射止めた。なお決選投票は国会議員のみで行われ、これまた民意(自民党員の総意)を裏切る結果となった。今のところ目立った動きはないようだが、「では何のための地方選だったのか。結局大派閥をバックにしなければ、党員の意向に関係なく総裁になれないというのであれば、わざわざ大金を投じて地方選などやる必要はない。最大派閥のリーダーが自動的に総裁の座に就き、政権をとったあと内閣支持率が30%を切ったらやはり自動的に内閣総辞職して第2派閥から総裁を出し、その内閣も支持率が30%を切ったら第3派閥から総裁を出す。そうした順送りはそこまでで、その内閣もやはり支持率30%を切ったら、今度は順送りをせず国会を解散して総選挙で国民の信を改めて問うことにしたらどうか。そうすれば派閥も再編成されて三つに収れんされ、さらに国民の信頼を失った自民党はガラガラポンで派閥の再編成ができるようにすべきだ」という案が地方組織から噴出しかねないのではないか。というより、そうした方が従来のように総理が論功行賞的人事をやる必要もなくなり、他の派閥に気兼ねすることなく自分の政治生命を賭けて信念を貫く政治を行うことができるようになる。これは私の期待でもある。
 自民党総裁選とほぼ同じくして民主党も代表戦が行われた。野田だけではなく、赤松広隆、原口一博、鹿野道彦も立候補したが、大した波乱もなく野田が再選された。事実上の「出来レース」だったが、野田は再び輿石に幹事長続投をいちおう「要請」する形をとり、体裁を取り繕った。そのことは9月24日に投稿したブログ「輿石幹事長は『規定』の人事――今度は私の読みが当たった」で詳しく分析した。
 だが、内閣人事では反小沢の若手実力者を配置することによって輿石を孤立化させる作戦に出た(24日の時点では内閣改造はまだ行われていない)。改造内閣の発足は10月1日で、岡田克也(無派閥)を副総理に起用して輿石体制を覆すための布石を打った。その他の閣僚には幅広く各グループから登用したが、必ずしも派閥均衡内閣とは言えず、また代表戦が接戦でもなかったため論功行賞的人事もやる必要がなかった。あえて特徴を言えば旧小沢グループから田中真紀子(文部科学大臣)を登用したぐらいで、代表選に立候補した赤松、原口、鹿野の各グループからは一人も登用しなかった程度である。
 この間、政界に激震が走った。大阪市長で「大阪維新の会」代表の橋本徹が国政に乗り出すことを表明し、「政権交代可能な民・自2大政党政治体制」にくさびを打ち込むことを宣言、「維新」ブームが巻き起こっていた。また東京都知事の石原新太郎が突然都知事を辞任、国政に再参加すると表明、立ち上がれ日本を母体に新党を立ち上げることを発表した。橋本は9月13日「日本維新の会」の結党を宣言、石原新党やみんなの党、減税日本などとの連携あるいは合流を画策しているが(マスコミは「第三極」と命名)、憲法改正や安全保障、原発。税制などの基本的政策での不一致点が目立ち、いっときのブームは完全に沈静化してしまった。第三極についてもブログを書くつもりでいたが、最近の世論調査(NHK)によると日本維新の会の支持率は2%程度にしか達せず、政権党を脅かすような存在感はこれっぽっちも見受けられなくなった。私は「近いうちの解散・総選挙」が行われたことが明確になったら第三極の弱小政党間で再編成の動きが活発化するだろうから、それまで静観することにした。
 さて民主、自民ともに新体制が発足し、とりあえず臨時国会開催の状況にはなったが、消費税増税法案成立の3党合意が成立した時の野田総理の約束「近いうちに信を問う」が反故にされたことへの自民の野田政権への不信感が日を追うごとに増大し(というより総裁選で国会議員票を最も集めた石原の強硬路線を安倍も無視できず)、「解散時期を明らかにしない限り国会審議に応じられない」と頑なに臨時国会の開催を拒否、政治的空白状態が続いた。こうした安倍作戦にマスコミが批判を始め、10月25日、民主が自公の同意を取り付けずに29日に臨時国会を開くことを決定したのを受け、安倍、石破ら自民の幹部が同日夜緊急会議を開いて臨時国会への対応を協議、臨時国会での審議を拒否するのは得策でないと判断、ようやく臨時国会が召集された。
 だが、野田首相への反発をますます強める強硬派に配慮し、国会初日に行われることが慣例になっている首相の所信表明演説を無視することを決定、まだかろうじて民主党議員が多数を占めていた衆院では野田は所信表明演説を行ったが、野党が多数を占める参院では所信表明演説が拒否され(憲政史上初めて)、マスコミからの集中砲火を浴びた。
 そのころはもう読売新聞を読んでいなかったが、おそらく自民批判を強力に展開して野田政権の後押しをしたのは読売新聞ではなかっただろうか。すでに書いたように読売新聞が主張を方針転換して(野田政権が目指している政策には当初から賛意を示していたが、遅々として進まないことに感情的批判を繰り返していたのが、今年初夏を迎えた時期から主張の方針を転換し、野田政権を積極的にバックアップするようになったことはすでに述べた)、それ以降はむしろ野党(特に自民)に対して批判の矛先を向けるようになった。日本最大の発行部数を誇る読売新聞からの「解散時期を明確にしない限り審議に応じられない」という駄々っ子じみた主張を繰り返していた自民党に対する批判はかなり厳しいものがあったのではないかと、これは私の推測だが思う(自民党員には読売新聞の読者がかなり多い)。
 しかし解散は総理の専権事項である。大統領制を採用している国は、大統領の権限は日本人にとっては想像を超えるほど大きい。国民から直接選ばれたという強みがあるからだ。しかし衆議院の選挙で選ばれる日本の総理大臣の権限は極めて脆弱で、まず自分が所属する党内の支持を固めなければ国会に法案を提出することすら不可能だ。まして連立政権であったり、政党そのものが数合わせの寄せ集め集団だったりすると、根回しに相当の努力が必要になる。
 実際、それを怠って「5%の消費税を廃止して7%の国民福祉税を創設する」という、今から考えれば素晴らしい税制改革案であることを誰も否定しないだろうこのアイデアは、武村官房長官の「過(あやま)ちてはすなわち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)
れ」の一言で一夜にして葬られ、細川が政権を放り投げる要因の一つとなったほどである。
 すでに述べたように、野田の政権基盤は細川と同様脆弱である。実際民主党の権力実態は輿石体制と呼んでもいいくらいである。なぜ輿石はそれほどの力を持つにいたったのか。
 輿石は政治家になる前は山梨県の主に山間僻地の小学校教員を遍歴した。時間的余裕があったせいもあり組合運動に熱心に取り組んで山梨県教職員組合執行委員長に就任、その後、山梨県労働組合総連合会議長を兼任、90年の総選挙で社会党から出馬して当選して政界入りを果たした。その後、落選の悲哀も味わったが、98年には民主党の参議院議員として政界に返り咲き、旧社会党系の横路グループに所属、05年に参議院議員会長になり07年の参院選挙を取り仕切って民主党の歴史的大勝利の立役者となった。
 その後、民主党の最大派閥のリーダー、小沢に急接近して権力基盤を強化し、小沢・管・鳩山の「トロイカ」と並ぶ実力者にのし上がり、小沢代表のもとで管とともに代表代行に就任した。この時代に民主党が政権奪取に成功した時大量に誕生した小沢チルドレンの教育係になり、それが現在の輿石体制の基礎となったのである。
 一方、野田は松下政経塾の1期生として政治家を目指し、家庭教師などアルバイト生活を送りながら虎視眈々と政治家への道を模索していた。だが、輿石のような組織的バックがないため、いきなり国政への参加は不可能と考え、千葉県議を目指し最大の激戦区だった船橋市からあえて出馬、20代の若者たちのボランティアに支えられて下馬評を覆して当選、政治家への第1歩を踏み出した。
 千葉県議を2期務めた後、細川の日本新党に参加、93年の総選挙で当選し念願の国政に参入することになった。が、細川→羽田政権が短命で終わると小沢の新進党に入るが、96年の総選挙で落選、その後民主党に鞍替えして00年の総選挙で返り咲き、02年には鳩山3選を阻止すべく若手の代表として民主党代表選に出馬、負けはしたが若手グループの信望を集めた。鳩山代表から政調会長就任の要請を受けたが、鳩山が中野寛成を幹事長に抜擢したことに「論功行賞人事だ」と反発して固辞、骨太なところも見せた。10年6月、鳩山内閣が総辞職したあとに成立した管内閣のもとで副総理兼財務大臣として初入閣、管総理が福島第1原発事故収拾の失敗の責任をとって辞任した後、小沢の支持を受けた海江田万里経産相、前原前外相、鹿野道彦農水相、馬淵澄夫全国土交通相と後継代表の座を争い、第1回投票では海江田に次ぐ2位だったが、決選投票で反小沢票を集めて逆転勝利し、野田政権が誕生した。
 そもそも民主党は細川連立政権の遺産を継承した野合政党に過ぎず、右から左まで幅広く権力の旨味を求めて集まった寄り合い所帯であった。自民党のいわゆる「派閥」と言えるような規模の集団は小沢派だけで、その他はグループと呼ばれている。グループは、鳩山、管、横路、川端、羽田、前原、野田、平岡&近藤、旧小沢、樽床、小沢鋭仁、平野、原口、玄葉、鹿野の15グループを数える。これらをまとめ党内融和を図るには参議院議員ではあったが、鳩山、管が失脚し、政治資金規正法違反の嫌疑がかけられていて表舞台から退いていた小沢を除くと党内きっての実力者にのし上がっていた輿石に党運営を委ねるしかなかったのである。輿石が付け上がる要因はこうして形成されたのである。

 さて政局が急展開し出したのは田の「近いうちに信を問う」との谷垣に約束した言葉を反故にしたことへの、自民の駄々っ子じみた反発、にマスコミが批判の矛先を向け出したからである(その先陣を果たしたのは②編で書いたように読売新聞だったと思う)。マスコミがこの時期自公(特に自民執行部)に対して批判の矛先を向けだしたのは、臨時国会開催日の29日に衆院本会議に欠席、参院では野田首相に所信表明すらさせないという前代未聞の「抵抗」劇を始めたからである。
 もっとも自民も一枚岩ではない。総裁選で強硬派筆頭の石原が国会議員の投票で最多の票を集めたという事実は、党執行部にとっても重しとなっていた。彼ら強硬派が納得できる状況を作り出さずに民主との交渉のテーブルに着いたら「お前ら、バカか。また谷垣の二の舞を踏むつもりか」と猛反発が出ることは必至だったからだ。もともと安倍や石破は強硬派ではない。連立を組む公明党への配慮から、どうしても譲ることができない選挙制度改革を除けば、赤字国債になる特例公債発行の必要性は十分認識していたし、先の消費税増税と合わせていちおう社会保障制度構築の財源が確保でき(私はまだ不十分だと思っている。特に税体系を抜本的に見直して、将来の日本を担うべき子供たちを若い夫婦が安心して産めるシステムを構築するために、富裕層にかなりの負担をお願いするしかないと思っている)、この財源を使っていかなる社会保障制度を構築するか、民間の有識者も交えた国民会議を設置する必要性も十分理解していた。
 


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