小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのかーー私の政局分析 ①

2012-11-19 15:59:33 | Weblog
 今日は11月11日、日曜日である。いつ書こうかと朝日新聞の政局記事やテレビのニュース番組をチェックしてきたが、こう着状態が続いていたため時期を見て書こうと思っていたマイナリ氏の冤罪問題(東電女性社員殺人事件)を先行することにした(11月9日投稿)。もし読売新聞読者センターとの「戦争」がなければ読売新聞の政局記事を参考にしていただろう。
 今春まで私と読売新聞読者センターの関係は極めて緊密だった。が、今春読者センターのスタッフがほぼ総入れ替えになり、読者センターのスタッフとの信頼関係を改めて構築しなければならない状況になった。そういう状況の中でそごが生じ、読者センターは極めて卑劣の方法で私を敵対視するようになり、私は事実をブログで明らかにし、読売新聞へのコミットをやめた、というわけである。
 そして今は朝日新聞にコミットし、朝日新聞のお客様オフィスとの親密な関係を築きつつある。 
 私のブログ読者は誤解されないと思うが、私が「コミットする」という意味は、ヨイショすることではない。評価すべきことは評価するが、批判すべきことは厳しく批判する、という意味である。より具体的に言えば、新聞の    読者が当たり前に支持するような記事に対する評価はブログでは書かない。
 私のブログスタンスはともかく、マイナリ氏冤罪問題に取り組んでいる最中の10月29日に政局が大きく動き出した。焦ったが、書きかけのブログ記事を放り出して政局問題を追いかけるわけにはいかない。とりあえずマイナリ氏冤罪問題の片をつけてから同時進行形で政局問題に取り組むことにしたというわけだ。
 そもそもアメリカ型の、政権交代可能な保守2大政党政治状況を日本にも根付かせようという構想を初めて表明したのは、いっとき「影の自民党総裁」と呼ばれた故金丸信だった。金丸が自民党内で頭角をあらわすきっかけになったのは田中角栄を担いで田中内閣の実現に奔走し、角栄の「懐刀」と称されるようになって以降である。田中内閣当時に建設大臣に就任(初入閣)、さらに三木武夫内閣では国土庁長官に就任、「建設業界のドン」と呼ばれるほどの人脈・金脈を築いた。80年代後半から、55年体制をガラガラポンして政界を再編し、2大政党政治体制を構想したと言われる。
 立花隆らによって田中金脈が暴かれて田中が失脚した後は、後継総裁選びに辣腕を発揮し、特に鈴木善幸総裁の後任に中曽根康弘を強く推し、中曽根内閣を実現した論功行賞として総務会長→幹事長→副総理へと権力者への階段を順調に上りつめていった。いっぽう田中派の末路を見極めてのちは田中派内部に経世会と称する「勉強会」(実態は派閥内派閥)をつくって竹下昇を総理総裁候補に育て上げていく。そしてポスト中曽根に竹下後継総裁を実現、竹下内閣がリクルート事件で総辞職した後は、宇野宗佑総裁がスキャンダルで辞任した後は海部俊樹を後継総裁に強く推し、海部内閣が実現した時、「「竹下派7奉行」の中で最年少の小沢一郎を幹事長に就任させ、海部後の自民党政権の危機的状況の中で竹下派(旧田中派)とは「右手で握手し左手で殴り合う」関係にあった旧大平派の宮沢喜一を竹下元総裁の意向にあえて逆らって総裁に推し副総裁に抜擢された。その後金丸はポスト海部選びのとき立役者に仕立て上げたのが小沢一郎で、宮沢喜一、渡辺美智雄(愛称・みっちー)、三塚博の3候補を小沢の個人事務所に招へいし、小沢と海部が面接を行い、その結果を金丸に報告、実際には金丸が最終的判断を下して宮沢総裁が誕生した。
 この後継総裁選びに先立って金丸は小沢に「お前がやればいいじゃないか」と言ったが、小沢が「総理総裁になるにはまだ若すぎます」と固辞したというエピソードがあるが、真偽は不明である。もちろん朝日新聞や読売新聞はそうした総裁選びの経緯を知っていながら、年配者でもあり、当選回数も多く、党や内閣の要職を歴任してきた3人の候補者を、小沢が自分の個人事務所に呼びつけて面接したという一点を針小棒大に記事化した結果、「小沢面接」といった言葉が一般に流布し、それが根拠になって小沢の人格に対する国民の印象が悪化し、その影を小沢は今でも引きずっている。
 私自身は実は小沢の政治家としての資質に疑問を抱いている。たとえば野田政権が7月に「社会保障と税の一体改革」のための財源確保の手段のひとつとしてとりあえず消費税増税を与野党が協力して衆議院で成立させたとき、「消費税増税はマニフェストに違反している」と政府案に反対して離党(民主党は離党を認めず除籍処分にした)、「国民の生活が第一」なるまったく自己矛盾した新党を立ち上げたことを私はブログで痛烈に批判したことがある。理由はデフレ不況が続き、EUの金融危機のあおりを食って円高に歯止めがかからず産業界が深刻な経営危機に陥り、かつ少子高齢化がますます深刻度を増し高齢化社会を支えるべき若い人たちの就職難が続いている状況下で、新たな社会保障体制をどう構築し、またそのための財源どう確保すべきかの具体策の提案もできないくせに、ただ「マニフェストに違反している」ということを理由にした増税反対はもはや駄々っ子の域すら越えていると言わざるを得ない。小沢の離党の本当の理由はマニフェスト問題ではなく、民主党内での権力基盤を回復することは不可能という判断に傾き、しょせん小世帯でも「お山の大将」でいたいが故の新党結成であったことは見え見えなのだが、朝日新聞も含めて依然として小沢新党の真実を理解できていないのは残念である。
 金丸が金銭的スキャンダルで失脚して後ろ盾を失った小沢は「自民党に対抗する保守政党をつくりアメリカ型の2大政党政治体制を実現する」と称して新生党を立ち上げて代表幹事に就任した。自民を離党したものの小沢アレルギーを持つ議員が少なくないことを承知していた小沢は人望があった羽田孜をあえて党首に立て、自らは代表幹事という地位に就いた。
 そうした状況の中で細川護煕が「自由社会連合」を提唱、政界再編を目指して日本新党を結党、93年7月に行われた総選挙で社会現象とまで言われた日本新党ブームを巻き起こして自民党を単独過半数割れに追い込んだ。このビッグチャンスを小沢が見過ごすわけがない。公明党書記長の市川雄一と組んで(いわゆる「一・一ライン」)、非自民・非共産の大連立を各党に呼び掛け、日本社会党・新政党・公明党・日本新党・民主党・新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合(当選議員数順)による大連立政権を樹立、「55年体制」に終止符を打った。
 小沢の政界遊泳術はこの時いかんなく発揮された。大連立グループの最大勢力だった日本社会党党首を総理候補にするのではなく(社会党主導では大連立がまとまらないため)、第4勢力に過ぎず、また所属議員もほとんど国政に携わった経験を持っていないだけでなく、衆議院では初当選(参議院議員の経験はあったが)だった日本新党党首の細川を総理候補に祭り上げることで大連立(実態は大野合)を実現、細川政権を誕生させた。が、細川に総理としての実権はほとんどなく政権運営は事実上一・一ラインが中心になって行っていた。そういう状況を打破しようと細川総理は独断で突然、消費税廃止とセットで7%の国民福祉税を導入すると発表、総理を補佐すべき武村官房長官が即反発し、国民福祉税構想を断念した細川はあっけなく政権を放り出し、大野合は一気に崩壊する。
 その後小沢は新政党を解党して新進党を立ち上げ、ようやく独裁者としての地位(党首)に就くが、小沢の独断専横の党運営に反発する党所属議員が続出、小沢は新進党も解党し新たに自由党を結成して党首になった。が、盟友の鳩山由紀夫の説得を受け自由党丸ごと民主党に合流し、一時は民主党代表の座に就いた時期もあったが、党内の小沢アレルギーは激しく、再び新党「国民の生活が第一」を立ち上げる。その時点では民主党の最大勢力は小沢派で、09年の総選挙で小沢が擁立して当選した新人議員(いわゆる小沢チルドレン)の大半が小沢と行動を共にすると思われていたが、小沢新党に入った国会議員は小沢も含め衆議院38人、参議院12人のわずか50人だった。 
 ちなみに小沢の人物評は「剛腕」「壊し屋」「傲慢」が主なものだが、まったく見当違いなことは、このブログで書いた民主党からの離脱の「目的」を考えると直ちにわかるはずである。つまり小沢は小なりといえども党内での独裁的権力を持てないと我慢ができないボナパルティスト(※後述)なのである。そういう視点で小沢の政界遊泳の遍歴を見ると、完全に論理的整合性を満たしていることはもはや反論の余地がないであろう。
 実際、人間性の面からみると小沢はかなり人情家としての側面も持っており、小沢が小沢派の立候補者の地元に応援に行くと、腰の低さ、人懐っこさに小沢の演説を聞いた人たちはびっくりするという。良しにつけ悪しきにつけ小沢はその時の感情が顔の表情や口調にもろに出てしまうタイプで(テレビでインタビューに応じる時の小沢の顔つきや口調を観察すると自分の感情を抑制できないタイプの政治家であることに、読者の皆さんも、「そういえば」と思いを致されるであろう。
 さらに小沢の武器は実は金ではなく、独特のレトリックの巧みさにあることも、この際指摘しておきたい。「マニフェストに違反している」というのは実は虚偽の主張である。事実は「マニフェストで増税問題に触れなかった」だけである。
 マニフェストで「私が総理である間は増税しない」と公約したのは小泉純一郎が自民党総裁として衆院選挙を戦った「郵政解散選挙」だけである。そして小泉は公約通り消費税増税をしなかった。その付けが今の時代に回ってきている。もっとも小泉政権の時代には、東日本大震災のような大災害もなかったし、EUの金融危機による円高デフレ不況も生じていなかったし、さらに日中関係の悪化による日本産業界の苦境の影すらなかったから、消費税増税なしで政権運営ができただけの話である。
 自公連立政権が大敗した2009年9月の総選挙時の民主党代表は小沢の盟友・鳩山由紀夫だった。鳩山民主党がこの総選挙で掲げたマニフェストは①無駄遣い根絶②子育て・教育対策③年金・医療④地域主権⑤雇用・経済の5項目だった。具体的な政策としては②で中学生までに1人2万6000円の子供手当や公立高校の無償化、ガソリン税をはじめとした暫定税率廃止など生活支援を前面に打ち出した。当然そういった生活支援を充実するには相応の財源の確保が必要になるが、徹底した無駄の排除や特別会計の「埋蔵金」(実際にはほとんどなかったのだが)で捻出するとしたのである。
 しかし、マニフェストは所詮(絵に描いた餅)のようなものである。国会議員(衆院および参院)の選挙で政党が消費税増税を公約(マニフェストも含む)した政党はかつてない。選挙で絶対負けるからだ。実際10日野田総理が福岡市で行ったマニフェスト報告会で「次の選挙を考えれば消費税率は上げない方がよかったのかもしれない。(民主党は)次の世代のことを本気で考えている党なんだ」と述べた(10日午後7時のNHKニュースでの録画報道)。
 日本で消費税法が初めて成立したのは竹下内閣時代の88年末で、89年4月1日から施行された(税率3%)。この時期小沢は官房副長官として消費税導入のために大活躍をしている。もちろん竹下内閣は発足時に消費税導入の「し」の字すら公約していない。そのことを小沢はすっかり忘れているようだ。
 しかも、竹下内閣時代の消費税導入の目的は現在とは全く違う。当時の納付税率(国税である所得税と地方税を合算)は最高税率が85%と高額所得層の負担が極端に重く、最高税率を65%に引き下げる代わりに、減税分を補うために消費税を導入したのである。その時に使われた口実は、「日本も豊かな国になったのだから、欧米先進国並みに高額所得層の負担を軽減してあげよう。そうでないと高額所得層の働く意欲がそがれる」というものだった。これに対し左翼政党は「金持ち優遇税制だ」と猛反発し、一般国民からも非難の声が上がった。
 ついで橋本内閣はさらに税制を簡略化するという口実で最高税率を50%まで下げ、減税分を補うために消費税を5%に引き上げたのである。この時すでに小沢は自民党を離党していたが、この消費税引き上げにどう対応したかはインターネットでいろいろ調べたが、結局わからなかった。ご存知の方がいらしたらご教示お願いしたい。
 つまり過去の消費税導入と増税は、間違いなく高額所得層の税負担を軽減することが目的だった。私は左翼ではないので、この税制改革を一言のもとに「金持ち優遇税制だ」と切って捨てるような批判はしない。常に私の視点は改革の結果を基準に検証することにしている。つまりこの税制改革によって日本経済や国民生活がどう変化したかという検証である。この視点は「結果論」と言われるかもしれないが、政治は税制に限らず過去の改革がどういう結果をもたらしたかを検証しながら次の改革の筋道を考えないと、失政の連鎖を招くからである。
 そして消費税導入によって減税の恩恵を受けた高額所得層は、増大した可処分所得をどう使ったかを検証することであった。彼らが高額商品を購入したり、優雅な生活を楽しむために消費してくれていれば日本の内需が拡大し、さらなる経済成長をけん引してくれていた、はずである。が、日本の高額所得層は全く政府が予想もしなかったことに、増えた可処分所得分を使ったのである。はっきり言えば、金が金を生むマネーゲームに突っ込んでいったのである。その金で土地や株式、絵画、ゴルフの会員権などを買い漁り、ヘッジファンドにリスキーな投資(実際には投機)を託したりしたのである。一流銀行の行員だけでなく、支店長自らがゴルフ場開発会社や住宅地分譲業者の営業マンになり、「全額融資しますから買いませんか」と勧めていたのである。「まさか」と思われるだろうが、私は買わなかったが、某一流銀行の都内の支店長が「ツアー」を組んで裕福な顧客を仙台市郊外の住宅地の分譲現場に案内し「全額融資しますからお買いになりませんか。数年後には2倍になっていますよ」と私たちにセールスをしたのである。仙台市郊外などに別荘を建てる人が首都圏にいるわけがなく、投資目的で買わせようという意図が見え見えである。
 多少過去にさかのぼるが、澄田智が日銀総裁に就任(大蔵省事務次官からの天下り)した84年に日銀プロパーの三重野康が副総裁に抜擢され、事実上の実権者として金融政策決定に絶大な影響力を発揮するようになっていた。すでに述べたように日本経済はバブル時代に入っており、三重野は金利引き上げを図ろうとしたという説もあるが、日銀の金融政策に絶大な影響力を持っていたはずなのに金融緩和状態に手を付けず放置していたのも事実である。そして澄田・三重野体制で日銀が金融緩和政策を続けていた89年4月に竹下内閣が消費税の導入と高額所得者の減税をセットで施行したのである。まさに油に火をつけるがごとくバブルは一気に爆発した。
 89年12月に日銀総裁に昇格した三重野はあわててバブル退治に乗り出した。公定歩合を引き上げて金融引き締めにかかると同時に、大蔵省銀行局に働きかけ総量規制を銀行に義務付けた。総量規制とはバブル景気で高騰した土地価格を下落させるため、不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑えろという行政指導である。
 この荒療治によってバブル景気はとりあえず収まった。その一時的現象を見て、レッテル張りしかできない無能な自称評論家の佐高信は、三重野を「平成の鬼平」と持ち上げた。
 しかし三重野が強行したバブル退治は、その後「失われた20年」(その間に短期間ではあるがITバブルで多少景気が持ち直した時期があったので「失われた10年」説をとる人もいる)と呼ばれるデフレ不況をもたらした。
 佐高という人は妙な人で、レッテルを貼り付けることが最も有効な批判の方法と思っているようだ。しかも「レッテル貼り」だけの非論理的「批判」をする権利は恥ずかしげもなく行使するくせに、自分が批判された場合は一切無視して反論もしない(失礼、「反論できない」と書くべきでした)権利もやはり恥ずかしげもなく行使する人なのである。
 ただ彼の人並みすぐれていることは「マスコミ遊泳術」には非常に長けているのである。別に内橋克人の弟子でもなんでもないのに売れる前は這いつくらんばかりのちょうちん持ちをこれまた恥ずかしげもなくやり、内橋の引き立てで少し売れるようになると、たちまちその恩を忘れてしまえるという特技を持っているのだ。私も彼のように破廉恥にふるまえれば、多少はお金になる仕事にありつけるかもしれないのだが、そういうことができない融通の利かない性格なので、これが私の運命と諦めている。
 話を本筋に戻そう。現在の政局を論じる予定で書き始めたのだが、もともと順序立てて書くということが苦手で、本を書いていた時代も書き出しの1行だけ多少時間をかけて考えるが、書き出しの文章だけ決めるとあとは一気呵成に思いつくままに書いていくのが私のスタイルなのだ。それでいて書き終わったら一切推敲せず、そのまま原稿を出版社の編集者に渡す。だからいつも「小林さんの原稿はきれいですね」と言われる。書き終えた後推敲しないから(ということは書き終えた原稿に手を入れないから)きれいなことは間違いなくきれいなのは当然である。
 さて野田政権になって初めての通常国会は衆参ねじれ状態の中で行われた。しかも野田総理の党内権力基盤は政権誕生以前から決して強固なものではなかった。
 野田派と言えるような勢力があったわけではなく、官総理が失脚したあと党内最大派閥の領袖・小沢と代表の座を争い、小沢アレルギー派の「そして最後に残った選択肢」という消極的な支持を得て代表の座に就いたという経緯があった。そのため党内融和を最優先せざるを得ず、小沢に近いとされていた輿石を幹事長に据えて小沢の協力を得て党運営を図るしかなかったのである。
 しかし、すでに述べたように小沢は権力に異常なくらいの執着心を持つ政治家で、民主党での権力の座に就くことに見切りをつけ、「消費税増税はマニフェスト違反」という理屈にならない理屈をつけて離党した。が、小沢の期待に反し、小沢チルドレンの大半は民主党に残った。「洞ヶ峠」を決め込んで小沢チルドレンの動向を見ていた輿石は小沢チルドレンの大半が党に残ったのを見て、彼らを掌握することで党内の実権を握ろうと画策したのである。
 その最初の軋轢が通常国会の終盤で生じた野田と輿石の主導権争いだった。「社会保障と税の一体改革」に政治生命を賭けていた野田は、ねじれ国会で消費税増税法案を通すには自公の協力を取り付けることが最重要課題だった。が、そうした野田の意向に真っ向からストップをかけようとしたのが輿石である。
 輿石も野田と同様もともとは自前の権力基盤を党内に持っていなかった。だが、小沢が離党し、小沢チルドレンの大半が小沢に反旗を翻した。このことは輿石にとって「棚から牡丹餅」のような僥倖だった。
 しかし輿石が小沢チルドレンを自分の権力基盤にするためには、いかなる手段を講じても解散時期を引き延ばし、元小沢チルドレンの信頼を得なければならなかった。元小沢チルドレンは大半が1年生議員で、地元での支持基盤はまだ極めて弱く、早期解散は彼らの政治生命に直結しかねない恐れを抱いたのは当然だった。つまり解散時期を引っ張れるだけ引っ張って、できれば満期まで解散を阻止することによって元小沢チルドレンに恩を売り、彼らを囲い込むことしか輿石の脳裏にはなかったのである。
 そうした状況の中で野田・輿石の、おそらく最後となるだろう主導権闘争が表面化したのだ。
 民主党の代表選で野田が再選されたあと、それまでさんざん煮え湯を飲まされてきたにもかかわらず、野田が幹事長という党ナンバー2の座に輿石を再任せざるを得なかった理由を書いた9月24日付のブログ記事「輿石幹事長は「規定」の人事――今度は私の読みが当たった」の最後に私はこう書いた。

「この民主党人事(※輿石幹事長の続投)に自民は反発しているようだが、反発して民主との対立を激化させればさせるほど、自民は輿石氏の手のひらで踊る結果になる。当然民主は特例公債発行や選挙制度改革法案が成立しない限り、重要法案を積み残したままで解散するわけにはいかない、というのが輿石作戦のポイントだからだ。
 そうした輿石作戦に乗らないためには自民が子供じみた反発をせず、むしろ積極的に法案審議に協力し、早期に民主が主張している「重要法案」を成立させてしまうことだ(政府案を丸呑みしろと言っているわけではない。自公も対案を出し、一致できる点は争うことなく同意し、一致できない問題は審議を尽くして妥協点を見つける。そういうスタンスをとるべきだ、と私は言っているのだ)。
 自公がそう言う作戦に出れば、民主としては解散を先延ばしする理由がなくなってしまう。そもそも前の国会で審議や採決をボイコットしたりせず、さっさと成立させてしまっていれば、民主は会期末に解散せざるを得なくなっていたのだ。
 私は別に民主の肩を持つつもりもなければ、自民の肩を持つつもりもない。はっきり言って私は積極的無党派層の一人である。その意味は選挙当日、白紙票を投じるために選挙会場に行っているくらいなのだから。特例として記入投票することがないわけではないが、それは所属する政党のいかんを問わず、こういう人にこそ日本の将来を担ってもらいたいと思えたケースだけである。ジャーナリストである以上、その程度の信条は持っていただきたい」
 9月24日に投稿したブログ記事を自民党本部にFAXするかプリントして  ヤマトのメール便で送っていれば、もっと早く安倍総裁は私の提案に乗っていたかもしれない。現にいま自民は私が9月24日に投稿したブログ記事の最後で提案した通りの作戦に切り替えたからだ。いつまでも「年内解散」の約束にこだわっているから通常国会が開会しても空転状態が続き、輿石作戦のシナリオ通りに事態は進行していってしまった。
 私は実は今でも野田・谷垣のトップ会談(8月8日)で、野田が解散時期についての表現を「近い将来」から「近いうち」に変えた時、かなり具体性を帯びた密約を交わしたと思っている。谷垣も「子供の使い」ではないのだから、依然としてあいまいな「近いうち」でコロッと騙されるようなことはありえない。はっきり言えば、「今月中」か「今国会中」と明示しなくても、かなり具体性を帯びた解散時期を谷垣に示唆したはずだ。
 そもそも民主党を事実上支配しているのが野田ではなく輿石だというくらいの認識は政治家だったら持っていなければおかしい。
 当時私は読売新聞にコミットしていたので読売新聞の政局記事をベースに最初の政局についての私論を書いて投稿した。その日がトップ会談で3党合意が成立したことを、NHKがオリンピック競技を中継中だった午後8時半過ぎに臨時ニュースで知った翌日である。8日のトップ会談は野田の谷垣への直談判で都内のホテルの1室で極秘に行われたようだ。会談は当初二人だけで行われ、隣室には公明党の山口が控えていた。と言ってもマスコミ各社の番記者はその時期野田、谷垣、山口には24時間体制で張り付いており、3人がほぼ同時刻にホテルに入ったのを確認している。NHKの番記者も同様だったはずだ。それを私がなぜ「極秘」と書いたのかは、この会談が輿石の了解を得ずに行われたからだ。だから3党合意が成立したことを輿石に張り付いていた番記者から聞かされた輿石にとってはまさに「寝耳に水」の話だった。
 その前日の7日の読売新聞朝刊は1面トップ記事で「自民、不信任・問責案提出へ…解散確約ない限り」(大見出し)と、自民が石原幹事長を筆頭とする強硬路線に舵を大きく切ったことを報じていた。さらに3面スキャナーでは「首相手詰まり…輿石氏、党首会談認めず」という見出しで、民主の最高実力者が野田ではなく輿石であることを示唆していながら、実際にはそういう認識を持っていなかったことが、同記事のリードを読めばすぐにわかる。

 そろそろブログ投稿の文字数制限にぎりぎりのところまで来てしまった。このブログは同時進行形で書いているため、何回の連載になるか見当もつかない。途中で飽きたりせず最後までお読みいただければ幸いである。

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