中島敦の本。
この作品は、エナリの公文プリントの中に出てきた作品で、
エナリが解くのに苦戦していたので、途中に解説などもしながら一緒に読んでる間に
「おお、これいい作品かも」と思って本屋に行って買った1冊。
もともと私自身が漢文好きだったこともあって漢文調の文そのものには
抵抗がなかったんだけど、それでも国名や人、役職の名前など
イチイチ後ろの注釈を見ながら読まなくちゃならないのは大変だった。
でも、出てくる人物の内面のもの悲しさ、運命を呪う部分や諦めの気持ち、
孤独感、焦燥感みたいなものが漂ってて、なんか引き込まれちゃうんだよね~
で、サボさんに「これすごくいいんだよ」って教えてあげて
彼はすぐに「名人伝」を読んだんだけど「そんなばかばかしいことは起こらないでしょう」って
笑うのみ。確かに「名人伝」は弓矢の名人が実際に矢を放たずに鳥を落とす(不射之射というやつ)
部分をあざけり笑い、最後に真の名人になった主人公が弓矢を見て「これは何の道具かね」と
弓矢の使い道を忘れてしまったというエピソードについても「ただボケたんでしょ」と
一言言うだけだったし、山月記に至ってはトラになってしまった男のことを
「普通トラにはならないよね」と一蹴。
だから、トラになるとかならないとか、あるいは矢を放たず本当に鳥を落とせるのかどうか
ということはこの本の中で問題になる部分ではないのだということを
一生懸命説明したんだけど、バカらしく感じる設定にちょっと苦笑、みたいな感じなのよね。
でも、たとえば「山月記」の李徴は、トラになってしまったわけだけど
なぜなってしまったのかを振り返ると自分の才能がすごくあるのに世の中はそれを
認めてくれないと恨み言を言い続けていたその気持ちが原因なのよね。
自分の才能に胡坐をかいて、小さな努力を怠ったことをトラになったことで気がついて
かつての人生を顧みる李徴なんてのは、現代にもよくあることだし(トラになることじゃなくて)
若者が自分への戒めとして読む価値は多々あるわけよ。
今更ながらこの本の素晴らしさに感激したわさ。
李陵もすごくよかった~。
今年はあんまりいい本に出会えてないって思ってたんだけど、ここにきて満足の1冊だったわさ。
この作品は、エナリの公文プリントの中に出てきた作品で、
エナリが解くのに苦戦していたので、途中に解説などもしながら一緒に読んでる間に
「おお、これいい作品かも」と思って本屋に行って買った1冊。
もともと私自身が漢文好きだったこともあって漢文調の文そのものには
抵抗がなかったんだけど、それでも国名や人、役職の名前など
イチイチ後ろの注釈を見ながら読まなくちゃならないのは大変だった。
でも、出てくる人物の内面のもの悲しさ、運命を呪う部分や諦めの気持ち、
孤独感、焦燥感みたいなものが漂ってて、なんか引き込まれちゃうんだよね~
で、サボさんに「これすごくいいんだよ」って教えてあげて
彼はすぐに「名人伝」を読んだんだけど「そんなばかばかしいことは起こらないでしょう」って
笑うのみ。確かに「名人伝」は弓矢の名人が実際に矢を放たずに鳥を落とす(不射之射というやつ)
部分をあざけり笑い、最後に真の名人になった主人公が弓矢を見て「これは何の道具かね」と
弓矢の使い道を忘れてしまったというエピソードについても「ただボケたんでしょ」と
一言言うだけだったし、山月記に至ってはトラになってしまった男のことを
「普通トラにはならないよね」と一蹴。
だから、トラになるとかならないとか、あるいは矢を放たず本当に鳥を落とせるのかどうか
ということはこの本の中で問題になる部分ではないのだということを
一生懸命説明したんだけど、バカらしく感じる設定にちょっと苦笑、みたいな感じなのよね。
でも、たとえば「山月記」の李徴は、トラになってしまったわけだけど
なぜなってしまったのかを振り返ると自分の才能がすごくあるのに世の中はそれを
認めてくれないと恨み言を言い続けていたその気持ちが原因なのよね。
自分の才能に胡坐をかいて、小さな努力を怠ったことをトラになったことで気がついて
かつての人生を顧みる李徴なんてのは、現代にもよくあることだし(トラになることじゃなくて)
若者が自分への戒めとして読む価値は多々あるわけよ。
今更ながらこの本の素晴らしさに感激したわさ。
李陵もすごくよかった~。
今年はあんまりいい本に出会えてないって思ってたんだけど、ここにきて満足の1冊だったわさ。