またまた華道試作シリーズです。
今回は「水盤」という平らな器にいけたものです。
花材は前回と同じです。
器が違うだけでだいぶ印象が変わります。
「こうした場合、音楽はほとんど一つの可視の存在とも、われわれが生と呼ぶものの本質にちかい存在とも、謂えるような気がするなあ。生はむこうにあり、表現の努めを担った者はこちらにいるというようなものじゃない。生とは存在の連帯感ではなかろうか。そうだとすれば芸術家自身が生なのだとはいえないかしらん。何故って、あの船と僕とを結ぶ音楽の軌跡のように、芸術家は作品という存在と他のあらゆる存在とを結ぶ軌跡のようなものだから。そして芸術家はこうすることによっておのれの存在を、万有の上にひろげることができるんだから。しかし「現実」はそうではない。・・・・・・」
p.156「火山の休暇」『岬にての物語』所収、三島由紀夫、新潮文庫、1978年
今回は「水盤」という平らな器にいけたものです。
花材は前回と同じです。
器が違うだけでだいぶ印象が変わります。
「こうした場合、音楽はほとんど一つの可視の存在とも、われわれが生と呼ぶものの本質にちかい存在とも、謂えるような気がするなあ。生はむこうにあり、表現の努めを担った者はこちらにいるというようなものじゃない。生とは存在の連帯感ではなかろうか。そうだとすれば芸術家自身が生なのだとはいえないかしらん。何故って、あの船と僕とを結ぶ音楽の軌跡のように、芸術家は作品という存在と他のあらゆる存在とを結ぶ軌跡のようなものだから。そして芸術家はこうすることによっておのれの存在を、万有の上にひろげることができるんだから。しかし「現実」はそうではない。・・・・・・」
p.156「火山の休暇」『岬にての物語』所収、三島由紀夫、新潮文庫、1978年