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A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

memorandum 548 ただ普通なだけ

2017-08-26 23:02:56 | ことば
 マリファナ売ってどうのこうのとかってラップしてるひとたちもいるけど、そんなのいちばん楽な道じゃんって、俺いつも思うんですよ。悪いことしか表現できないなら、悪い人にしか届かないっていうか。
 ただ普通なだけじゃ、それはそれでつまらないし、悪いことを経験した上でっていうのはもちろんあるんですけど。普通の生活をして、普通の人の目線で、普通の気持ちじゃないと、普通のひとに届かないって思うんですよね。


ZONE THE DARKNESS、都築響一『ヒップホップの詩人たち』新潮社、2013年、174頁。

「普通」でいることは意外とむずかしい。

memorandum 546 日本の博物館

2017-08-24 23:47:35 | ことば
日本の博物館は、市民に開くことを目的としてつくられたものではなかったのである。その最大の目的は、近代国家としての象徴(シンボル)であり、そのために、どちらかといえば、モノを管理して収める空間としての側面が強い施設だった。(・・)その結果、日本の博物館は、開くべき先としての明確な送り手像をもたないままつくられた。
村田麻里子『思想としてのミュージアム ものと空間のメディア論』人文書院、2014年、170頁。

日本の博物館とは、当初は来館者となるべき階層がいない中で、政府の政策を直接的に反映する行政的組織としてつくられ、のちに社会構造の変化に伴い初めてそこを利用できる階層が生まれた、ということになる。つまり、欧米のミュージアムとは逆の順序と構造になっていることが、その最大の特徴なのである。
同上、171頁。

 日本の博物館は、明治期には近代国家の象徴として、戦前・戦中には帝国の象徴(シンボル)とプロパガンダ装置として、そして戦後は民主主義と、「もはや戦後ではない」経済大国の象徴として機能してきた。しかし、地方の豊かさが証明されてしまったあと、博物館はそのメッセージを失い、行政にとって積極的に支える理由をなくしたのである。「貴重な文化財の保護」や「市民の教育」というメッセージだけでは、予算を投入する論理としてはもはや弱いと行政が判断したいま、日本の博物館というメディアは、新たな意味とメッセージを必要としている。それは、もはや行政のメッセージではない。それぞれの館が個別に発するメッセージであり、高度な消費社会(に生きる私たち)に向けて放たれるメッセージである。
同上、225頁。

根源からミュージアムとは何かを問う名著。
京都市美術館のリニューアルをめぐる問題を見ると、つくづく日本のミュージアムは箱物行政だと思い知らされる。
この国のミュージアムのほとんどは、来館者や市民に向けて「メッセージ」を発していない。
学芸員や職員数の少なさも、メッセージを発する気がないから不要なのであり、「モノを管理して収める空間」であればいいと運営者は考えているのである。欧米のミュージアムのように3ケタの職員数とはいかないとは言われるが、3ケタを超える職員がいるから、それだけ出来ることも多く、関係も広がり、多様な来館者層に向けてメッセージを発することができ、人々が訪れるのである。




memorandum 545 自分のことば

2017-08-19 23:26:31 | ことば
 自分のことばなどというものはない。ことばということばはすべて他人のことばである。書くこと話すこと、そしてそもそもことばを覚え、ことばを会得することは、他人のことばが自在に自分の中を往来することに身をまかすこと、他人のことばに身をのせることである。

ぱくきょんみ「わたしの東洋の骨が鳴る」池内靖子・西成彦編『異郷の身体 テレサ・ハッキョン・チャをめぐって』人文書院、2006年

ことばは他者である。だから、ことばは自分の思い通りにならない。

memorandum 544 シリアス

2017-08-18 23:28:17 | ことば
●フィッシュマンズはだんだんシリアスになってきているように感じますが…。
「そうです。やっぱりシリアスにやらないと通じないと思う。そこが音楽がナメられる原因だって気が僕はするんです。音楽はかなりナメられてる。だからマジメにやる。純粋にやればそうなるんだと思う」
●誰がナメてるの?
「(笑)いや、9割5分の国民がナメてるよ。作る人も聴く人もレコード会社のひとも含めて、芸術の歴史というものを軽視してる。本当は、ミュージシャンの”こういうことをやりたい”っていう純粋な気持ちと、リスナーの”こういうのを聴きたい”という純粋な気持ちが直接結びつくのが普通じゃないですか。それがあまりになさすぎる。それに対して、誰一人立ち上がろうとはしない」
●立ち上がるというのは?
「オレたちは音楽を作ることしかないから、それでやっていくしかない。リスナーの心をむりやり変えることはできないわけだし。だからやっぱりただ作っていくことしかないけど。ほんと、悪い星の下に生まれたと思ってるよ」
(『ez』96年12月号、聞き手:水越真紀、212頁)


加藤典洋『耳をふさいで、歌を聴く』アルテスパブリッシング、2011年、280-281頁。

加藤典洋の著書からフィッシュマンズ・佐藤伸治のインタビューの孫引き。昔持ってた『フィッシュマンズ全書』(小学館、2006年)で読んだ気がする。やっぱりフィッシュマンズは正しい。
上記の「音楽」を「美術」や「批評」に置き換えても同様だろう。9割5分の国民が「批評」をナメてる。状況や業界、人の心を早々に変えることはできないが、私はただ書き続けよう。未来の読者に向かって。

memorandum 543 音楽業界の人間は

2017-08-17 22:34:17 | ことば
 なぜ、音楽業界の人間は、自分に傑作と思える曲が現れたら、それが売れるようにと考えないのか。
 なぜなら、ふつう、音楽業界の人間は、自分に傑作と思える曲が現れたら、喜んでそれが売れるように手を回し、それを売ろうと努力するものだからである。
(・・)
音楽業界の人間は、ふつうは、自分の音楽のセンスで勝負する。マーケットがそのよさに気づかなければ、それを気づかせようと、自分の領域つまり非音楽性の領域で、手を回し、仕掛けを作り、操作する。ふつうには、彼らが、ミュージシャンに対し、自分のセンスに逆行する「前進」ならぬ「後退」を示唆するということは、ないからである。
 では、なぜこの国の音楽業界は、そうなのか。彼らが、自分の相手とするマーケットを、信頼していないからだというほかない。それが、「よい音楽」ということと違うものとしての「売れ線」、「売れ筋」というコトバが意味することなのである。


加藤典洋『耳をふさいで、歌を聴く』アルテスパブリッシング、2011年、277-278頁。

美術界にも当てはまりそうな話ではある。
この国では、「売れ線」「売れ筋」と言われるものはほとんどの場合、「芸術」を意味しない。


memorandum 542 文芸評論というのは

2017-08-15 23:49:33 | ことば
文芸評論というのは、突きつめれば、作品を読めるかどうか、である。何の知識もいらない、またそういうものが何の役にも立たない。未知のものとして現れる作品を前に、ただその力を衆目の前で問われる。

加藤典洋「「戦後」の地平——江藤淳氏の逝去によせて」『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』クレイン、2002年、244頁。

美術評論も同様だと思う。

memorandum 541 美しさ

2017-08-14 23:53:17 | ことば
 では、「美しさ」とはいったい何なのでしょうか。いろいろな見かたはあるでしょうけれど、私は「それが二度と同じことをくりかえさないこと」だと思っています。例えば雲の美しさ。もし、雲のかたちや動きが、ある周期でくりかえされていたらどうでしょう。おそらく「美しい」とは思わないでしょう。予測できそうで、予測できない微妙な動き、しかも二度と同じものにであえないという、どきどきするような緊迫感に「美」を感じているのではないでしょうか。

佐治晴夫『ゆらぎの不思議』PHP研究所(PHP文庫)、1997年、16頁。

美しさは二度とない。


memorandum 540 芸術における低い金銭的収入

2017-08-10 06:00:41 | ことば
 芸術における低い金銭的収入は、アーティストが他の職業の人々よりも暮らし向きが悪いことを示している。芸術とアーティストの供給過剰がある。芸術はあまりに魅力的である。これらのことは、誤った情報があるために貧困が実在し、あるいは非金銭的報酬によって埋め合わされる、という考えに基づいている。

ハンス・アビング『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』山本和弘訳、grambooks、2007年、249-250頁。

芸術が魅力的でなかったならば、世界はどうなるだろうか。

memorandum 539 プロのアーティストとしての資質

2017-07-27 23:54:48 | ことば
プロのアーティストとしての資質は、第一義的には、同時代のアーティストや過去のアーティストの先達とどのように関連しているか、ということにかかっている。仲間の認知を求めて闘っているとき、それはプロのアーティストであることの明確な特質と見なされる。アーティストが受けた教育もまた、プロとしてのステータスに影響を及ぼす。しかし、これは必須条件ではない。経済的資質は完全な的外れではないが、それほど重要でもない。芸術で生計を立てていること(あるいはそのような意図を持っていること)は、プロのアーティストとしてのステータスに特に何もつけ加えない。商業的に成功しているアーティストを仲間たちがアマチュアと見なすこと、その反対に、商業的にはまったく成功していないが高い敬意を集めるアーティストがいることは珍しいことではない。

ハンス・アビング『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』山本和弘訳、grambooks、2007年、246頁。

「同時代のアーティストや過去のアーティストの先達とどのように関連しているか」は、日本の美術界は恐ろしく欠如している。
この問題(?)は長年考えているが、日本の美術界で批評、レビューがないことも一因だろうが、アーティストが展覧会を見ない(興味がない?)ことが最大の原因だと考えられる。

アーティストの教育、経済については同感である。美大出身ではないアーティストは多くいる。
また、売れたアーティストほど、売れる前の個性が薄まってつまらなくなるケースを私たちはよく知っているはずだ。
学歴や商業性で美術を判断するのは禁物である。