オセンタルカの太陽帝国

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猪鼻はどの角度から見ると一番猪の鼻に見えるか。

2014年03月14日 06時05分51秒 | 遠州の歴史


浜名湖の最も奥には「猪鼻湖(いのはなこ)」という小さな湖があります。(ここも汽水ですよ)。
ここは「浜名湖の中で一番景色が良い場所」として有名であります。
(浜名湖はどこも景観がすばらしいですけどね)
「猪鼻」の名の由来は「猪の鼻の形をした」という意味ですが、何が猪の鼻なのかというと、湖の形でもなく、魚でもなく、ましてやそこに住んでいる河童や人の鼻の形でもなく、「猪鼻神社にある神石の形」なんですって。
式内猪鼻湖神社は、猪鼻湖の入口にあたるところにある古社。
浜名湖にとって「猪鼻湖」はとても重要な位置づけにあります。
歴史的には中世にこの付近から「猪の早太(いのはやた)」という英傑が出て、都で鵺を退治することにあずかったのですが、彼の名前はこの猪鼻湖神社に由来していると思われる。また、“猪の”早太は本当は“井の(=井伊家の)”早太だとして彼を井伊家の係累だとする説もあり、だとすると井伊氏の名の由来も「猪鼻」と関係があったかもしれない(無かったかもしれない)ことになるじゃないですか。







旧・瀬戸橋から見た猪鼻湖神社。
黄色い矢印のところが「猪の鼻の形の石」です。



…ぜんぜん猪には見えませんね。
いったい、古代の人はどうやってこの石を見て、「あっ、いのししだ!」と思ったんでしょうね?



現在、猪鼻湖神社に近づくには一方向からしか道がありません。
瀬戸橋を渡って大崎半島の南の方から神社を目指す方法。



「新・瀬戸橋(赤い橋)」の向こう側に「旧・瀬戸橋(銀の橋)」があり、この向こうに猪鼻湖神社がある。
当然むかしは橋なんて無かったので、唯一大崎半島をはるばるとてくてく歩いてくるしかない。
ご覧の通り瀬戸海峡はそれなりの広さがあります。
また、神社のこちらがわには赤い神橋があり、それを見るに海がまだ深かった頃にはこの神社は島だったのでしょうかね。
ここも橋の所ほどではありませんが、なかなか深くて対岸へ泳ぐにはちょっと勇気が要るぐらいです。
お寺と違って神社は昔は地元民しか崇拝しないものだし、ここの人間はみんな舟を持っていたのでしょうか。



これが式内社 猪鼻湖神社!
ちっさ!
この小さな社の中に「建甕槌神(たけみかづち)」と「市桙嶋姫(いちきしまびめ)」の2巨神が並んで立っておわすのです。



と思いましたけど、この社は飾りですね。
この岩の島全体が神様で、社はあってもなくてもどうでも良いものだったのでした。
実はむかしは建甕槌神と市桙嶋女神は別々に祀られていたのだそうで、昭和50年に一緒にしたのだと案内板に書いてある。参拝方向から見て岩の表側にあったのが市桙嶋神社で、岩の反対側の奥の高いところにあったのが「猪鼻湖神社」(祭神;建甕槌大神)であったそうです。

この全体巌の島、ぱっと見てぼろぼろの岩質のように見えますが、踏みしめて立ってみると非常に堅い。
神石の「猪の鼻の形の石」がどこにあるのかと言いますと、神社の裏手、三ヶ日方面の方。
神社がこの「猪石」をバックに建っていればかっこいいのですが、実際は岩を乗り越えて下の写真の黄色い矢印のところにある。



昭和50年建立の社の前に、何かコンクリートで作ろうとした跡があるのですが(拝段?)、これが「猪の宿った石」の位置とはすこしズレてる。
つまり、「猪鼻湖と猪鼻湖神社の名前の由来」となった「猪の花の形の岩」は決して神社のご神体ではなくて、あくまでひとつの「神石」という扱いなのですね。
神は、この岩山全体です。

この小さな神社の前に立つ為に岩を登っていますと、ひょいと見えるご神石のかたち。



おお、イノシシの鼻だ! 鼻というより「イノシシの顔全体」ですね。猪顔湖神社。



横から見ても良い感じなのですが、
もう少し近づいてみると、もっと良くなる。

少し斜め前から。



うしろに下がってななめ後ろから。



そばにある崖を登って「猪鼻湖神社旧址」の碑があるところから、見下ろすように。



そして、出来るだけ近づいて正面からアップに。



…あれ?
正面から見ると猪っぽく見えなくなってしまう。
(見えると思えば見えますけどね)



鼻。
猪の牙は無いんですけど、じっと見つめてたら何かあるような気がしてきました。

実はこの岩は湖に身を長く乗り出すような格好をしてまして、首は既に海の上にさしのべてますので、正面からこれを見るのはなかなか難しい。
(舟に乗って航行すれば容易ですけど)
ではこの猪の首は、何を見つめているのかといいますと、



これは真後ろから撮った写真なので何の岩なのか分かりづらくなってしまってますが、
猪の視線の先にあるのは、瀬戸の赤い橋、
そのずっと向こうには、そう! 浜名湖の入口・今切れ口!
…と言おうとしましたが、、、、 
実は方向が大分ずれてまして、この先にあるのは宇津山崎の宇津山城でした。
猪は何を凝視してるんだろ。(視線をずっと伸ばしていくと潮見坂のあたりで遠州灘に出るはず)

…橋を渡って、対岸から岩を眺めてみましょう。



わかりづらっ。



こうです。
なんということでしょう。あちら側からだとあんなにはっきり「猪の顔」だった神石が、こちら側からだと「頸の長いスマートな洋犬」(あえて言うならば)かアリクイのように見える。
はっきりしましたね。
「猪の顔」は「猪鼻湖神社の側からちょっと岩を登ってその奥を見たとき」、一番猪風の顔に見えるのです。

が、これはなかなか大変なことですよ。
むかしは当然瀬戸大橋なんてかかってませんから、ここに来るには大崎半島をのんびり歩いてこないといけなかったはず。この半島はかなり距離がある。
一方、この近くの集落といったら、(大崎集落は別として)、「三ヶ日」、「都筑」、「鵺代(ここが猪早太と源三位頼政の関係地だといわれる)」、「尾奈」、「宇津谷」は向こう側の岸なのです。(舟で来ればいいんですけどね。でもここは気賀・新居両関所のすぐ近くだ)。おそらく本当に限られた人しかこの岩のことを知らなかったと思われます。

というのは、この石を一目見れば、「猪鼻湖の“猪の鼻”とはこの岩のことだ」と瞬時に諒解すると思いますが、資料ではこれのことを「獅子岩」と書いてある物が少なからずあるのです。どこが獅子じゃい。(←シシ神という呼び名が変わったものだと思いますが)、シシと獅子は違う。
また、「式内 猪鼻湖神社」には論社(=本当はこっちなんじゃないの? と主張している神社)が意外と多い。猪鼻湖の一番目立つこところにあって、議論を待つ必要の無い形の特徴的な自然石がある神社がここにあるというのに、論社はここのサイトによりますと、「猪鼻湖神社」(三ヶ日町下尾奈)、「神明神社」(三ヶ日町下尾奈)、「大神山八幡宮」(湖西市大知波)、「諏訪上下神社」(新居町浜名)、「諏訪神社」(新居町新居)、「猿田彦神社」(新居町新居)などがあるという。
なんでこんなに、、、、
というと、実は江戸時代にはこの猪鼻巖はほとんど知る人がいなかったらしい。

享和3年(1803年)に掛川の人・再彰館長庚(兵藤庄右衛門)という人によって書かれた大著『遠江古蹟圖繪』という本には、この猪鼻巖のことが出てきません。掛川から奥浜名湖は遠すぎるので庄右衛門は三ヶ日が苦手だったようなのですが、庄右衛門は非常な石好きで、各地の変わったいわれの石について熱心に書き記していますので、この巖のことを知らなかったら書かなかったはずは無いと思う。
また、それに先立つ寛政9年(1797年)、京都の人・秋里籬島によって出版されたベストセラー『東海道名所図会』には、「猪鼻湖神社」は出てくるのですが、「新居」の名所として紹介されていて、「猪鼻湖神社 延喜式内。鎮座今さだかならず。振裾記に云わく、浜名郡に猪鼻湖社あり。社號考ふるに、此は水うみの岸の上に鎮座と見えたり。今きくに、八王子社もと濱邊の岡の上に有りしを、寶永4年所うつりの時、諏訪の社中今の所に移すといへり。然れば、八王子もし猪鼻湖のにあらずや。但し又諏訪の事にてもあらずや。世の中うつりかはれば、古き名をうしなひ、あたらしき名を呼ぶ事まゝ多し云々」
要は、「よくわかんないけど名前が変わっちゃったんじゃない?」と言ってるんですが、その新居の八王子とは、現在「八所神社」として諏訪神社の境内にあるらしい。
ここに引かれた『振裾考記』という本は“遠江国学の祖”杉浦国頭の著作で、この人は浜松諏訪神社の大祝で賀茂真淵の師。
でも真淵の弟子の碩学(天竜の人で『遠江風土記傳』(寛政元年、1789)を書いた)内山真龍はさすがに凄い人なので猪鼻について詳しく書いておりまして、「猪鼻驛は荒井驛と同じではない」と書いている一方で、「猪鼻驛が水没してしまったので三ヶ日宿が置かれた」などと不思議なことも書いてある。「猪鼻岩、形似猪鼻、悪岸臨湖」。
真龍はとても綿密に調査をする人ですが、交流もとても広かった人なはず。同時代に真龍しか知らないなんてことはありえるでしょうか。
なお、「猪早太と猪鼻湖の伝説」については『遠江國風土記傳』にとても興味深いことが書いてあります。この本は近代デジタルライブラリで簡単に読めますので、興味があったら読んでみてくださいね。(そのうち紹介します)




そんなことより戦車です。
この猪鼻湖近くの湖底には、第二次大戦時の日本軍の画期的な中戦車・四式(チト)が沈んでいるというのです。
(ごめんなさい、上のゲーム画像は九七式中戦車(チハ)です。
私はこの手のゲームがすこぶる苦手で、チト開発まではとても長い道のりだ)

とにかく、昔から猪鼻湖には幻の戦車が沈んでいると言われていて、去年辺りにその探索がひどく盛り上がったそうなのですが、結局見つからなかったそうなのですよね。
この戦車が沈んでいると言われている場所にはいろいろな説があるのですが、一番有力視されている場所がここだったそうです。



でも、これにも、猪鼻湖神社と同じ問題が絡んでいると思う。
だって戦車をわざわざここに沈めるには、瀬戸橋を渡るわけにはいかないんですから、浜名湖をぐるっと回り、気賀か三ヶ日のどちらかの町を通って大崎半島に至ったのち、南下してここまでたどり着かないといけないわけですよ。そもそもこの秘密兵器がどこからどういう経緯でここにやってきたのかという話にもなりますが、そもそもここに沈んでいるという話自体がガセだという可能性もある。(だって人知れず隠してしまいたかったわけですから、見当違いの所に噂だけ流しておけば良い)。でも目撃者もいる。
昨年あんなに探したんですから、チトはこの場所にはいないのでしょう。
でも、チトと一緒に沈められたという他の二台(チハとウィンザー・キャリア)は、いるかもね。
こんなに狭い湖域なのに、そんなでかい物が探しても見つからないというのも凄いことです。
(※ウィンザー・キャリアだけは既に引き揚げられているとのことでした。いつ、どこに?)

浜名湖近辺で戦車部隊がいたというのは、浜名湖北岸に布陣された戦車第23連隊(豊橋にいた戦車第24連隊と合わせて独立戦車第八旅団とされた)で、これは本土決戦の最終作戦のためのものですよね。150輌の戦車があったそうなのですが、チトは渥美半島(伊良湖射撃場)にいたという話があります。浜松は執拗に空襲に襲われていたので、広く防衛戦車を展開していたのでしょうかね。対戦車戦のために開発された四式中戦車が、悲しすぎますね。

関係無いことなんですけど、戦争のための兵器に愛着を感じてしまうなどいけないことですね。(戦車は高いし)
でも私は戦車が大好きでして(飛行機や戦艦には興味ない)、デアゴスティーニの「コンバット・タンク・コレクション」をずっと買い続けておりまして(現在第47号)、目的は愛する英国戦車の蒐集のためだったのですが、英国戦車は人気無いみたいで(?)、このシリーズでも冷遇され続けてたんです。40号近くまで欲しい戦車が全く来なくてそろそろ買い続けることに疑問を感じてたんですけど、ここに至って、39号・クロムウェル、43号・クルセイダーⅡ、そして来たる49号(4月1日発売)でチャーチルですって!! いやぁ、チャーチルが出たら買うの止めようかなとも思ってましたが、この勢いならマチルダさんやトータスも来ますよね! 一番欲しいのはスーパーチャーチル(エドワード黒太子)なんですけど、これは無理かな。
対して、日本の大戦中の戦車は未だ音沙汰が無い(笑)
チハはまだしも、チトは無理かネ。

戦車ゲームの方でもメインは英国戦車で、足のクソのろいマチルダでひたすら頑張りながら、たまにチハでウサを晴らしています。スーパーチャーチルまでは先が果てしなく長い。
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