オセンタルカの太陽帝国

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式内 蜂前神社(細江町中川)。

2014年03月05日 20時04分27秒 | 遠州の歴史


大昔から浜松の人間は神話や伝説にはあまり興味を抱かなかったらしくて、変わった神様を祭っている神社というのも、少ししかありません。
三方ヶ原から祝田(ほうだ)の坂を下ったところ(つまり家康伝説で、三方ヶ原合戦のとき家康が武田信玄軍に待ち伏せされたまさにその場所)にある「蜂前(はちさき)神社」は、名前も凝っていますし、祭神が「熯速日命(ひのはやひのみこと)」「甕速日命(みかはやひのみこと)」「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」といいまして(武甕槌はともかく)「聞いたことが無い神かも?」と思って一瞬わくわくしたのですが、検索したら3人とも「日本書紀で伊弉諾が火神軻遇突智を斬ったときに滴った血から生まれた神」で、つまり神話の中ではそれなりにメジャーな神様であったのでした。

ただ考えるに、どうして浜松でこれらの神様なのでしょう?
それから、『日本書紀』を読む限り、この3人の中で一番上位に立つべきなのは甕速日であるように読み取れるのに、浜松のこの神社の場合は、中心に置かれているのが熯速日で、甕速日と武甕槌は脇神なのです。(この3神は天岩窟の中に住む神で(もしくはこの3神の祖である稜威雄走神(←カグツチ神のことか?)が天岩窟の中にいた人で)稜威雄走神の子が甕速日命、甕速日命の子が熯速日命、熯速日命の子が武甕槌命、という記述もある。武甕槌命は中臣氏(藤原氏)の祖です)。熯速日命は浜松の神話の中で何かしたのでしょうか? 熯速日命を祀っている神社は全国的にはそれほど多くない気がします。それから、浜松には異様に(?)武甕槌を祀っている神社が多いような気がします。これも、何かあったからでしょうか?
(※呉松町の根本山には「神護景雲元年に武甕槌が降臨した」という神話がある)





『引佐郡神社誌』(静岡県神社庁引佐支部・編)より。

「社伝によれば本社の勧請は應天皇11年庚子3月8日(西暦270年)、脇宮の勧請は允恭天皇御宇なりと言ひ、社号は勧請の当初に於ては八ヶ前の地名に因って蜂ヶ前と称し、允恭天皇以降は鳥飼神社又は羽鳥大明神と称へ、延長5年更に蜂前神社と改め古名に復したと言ふ。三代実録貞観8年12月26日の条に「遠江國鳥飼神に従五位を授く」とある、則ち是なりと定む。舊記によれば、應天皇11年庚子3月8日八田毛止恵なる者勅を奉じ、遠江國へ下向し、八田45町(祝田の古名)廣田70町(刑部の古名)岩瀬8町3反(瀬戸の古名)合せて123町歩餘りを開墾し、本社を八ヶ前に勧請し蜂前神社と斎き奉り、子孫代々祝部として奉仕した。依って八田、上刑部、下刑部、岩瀬、石岡、五日市場、廣岡七ヶ村はこの神社を大氏神と崇め奉ると言ふ。今川家・井伊家の崇敬あり社領を寄せられ、徳川家康亦伊奈忠次をして社領5石を寄進す。次いでこれを朱印に改め以って明治に至る。明治41年1月12日神饌弊帛料供進社に指定せられ、大正12年2月12日郷社に昇格、大正12年2月22日郷社としての供進指定社と定めらる」


『細江町史(資料編三)』より。

「本社の勧請は、応神天皇11年庚子3月8日(西暦270年)、脇宮の勧請は允恭天皇御代。
社号は当初八ヶ前(ハチガサキ)の地名によって蜂ヶ前(ハチガサキ)と称したが、允恭天皇以降は鳥飼(トリカイ)神社または羽鳥大明神(ハトリダイミョウジン)と称え、延長5年更に蜂前神社と改め古名に復した。
応神天皇11年八田毛止恵(ハッタモトエ)なる者勅を奉じ遠江国へ下向し、八田45町(祝田の古名)、広田70町(刑部)、岩瀬8町3反(瀬戸)合わせて123町余りを開墾し、本社を八ヶ前に勧請し、蜂前神社と斎き祀り、子孫代々祝部として奉仕した。
よって八田、上刑部、下刑部、岩瀬、石岡、五日市場、広岡の七ヶ村はこの神社を大氏神と崇め奉ったという。今川家・井伊家から社領を寄せられ、徳川家康も伊奈忠次をして社領5石を寄進した。次いでこれを朱印に改めて明治に至った。 
祭日
榊葉の白弊を奉幣し御飯75膳即ち早苗田の新米3升3合をあてる。
御神酒、新醸の清酒を壺に入れて献ず、お肴、御料理、生姜十片、柿十顆、栗十顆、松魚節5本、鮮魚10尾を献供する。
外に牛の舌と名付け円長形の餅を作り、氏子一族へ配布する。また小円形の餅を製して投げ餅にする。
右献供取扱者何れも浄身して覆面を掛け謹んで献供する。(牛の舌は現在も続けられている)」




うーーん、わけわからん。
これを読むと、この神社では熯速日命と甕速日命はそれぞれ別の機会にここに連れてこられたことになっています。
應天皇11年と、允恭天皇の?年と。(允恭天皇は応神天皇の孫)。ちなみに言いますと、蜂前神社の建っている三方原台地のこの崖のことを、「八幡山」といいます。

まず、神がここに来た前後に「八ヶ前」という地名があったってことです。
何が八?
「前」っていうのは「崎」と同じでしょうか?
そしてなんで「八」が「蜂」に変わるんだ。
「3月8日」と日付が限定されていることが気を引く。
それが「甕速日神と武甕槌神がここに来たとき」(=允恭天皇時代)に「鳥飼」または「羽鳥」と変わった。
それを延長5年(←延喜式の完成した年:平安時代中期)に、また「蜂」に戻した。
あえてここにそう書いてあるって事は、何らかの出来事があったってことですよね。
(神社名が変わることは良くあることですが、ちゃんと意味の分かる理由なはず)

まず、「日本三代実録(貞観8年12月)に出てくる“鳥飼神社”」というのが本当にこの神社なのかってことです。
また、「羽鳥」と「鳥飼」は良く似た印象ですが、「ハトリ」は「ハットリ」さんかなと。
「羽鳥」という地名は多いですけど、浜松には豊町羽鳥というところに式内社である「服織神社」がありますし、近くには「羽鳥八幡」という古社(創建年不詳)もある。「服部さん」も意外と多いです。

『細江町史』には「八田毛止恵」に「はったもとえ」とルビが振ってあるんですけどこれは何者か。念のため似た名前が無いかと『日本書紀』を読んでみると(案内板には「勅を奉じて」と書いてありますから、朝廷の付近の人のはず)、「応神天皇の3年」に「羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)」がいる。似てない名前と思うかも知れませんが、「羽田矢代」は武内宿禰の長子で「波多氏」の祖です。羽田矢代宿禰そのものが東国へ来ることは無いでしょうが、応神天皇3年の前後に武内宿禰は息子達と共に盛んに朝鮮に侵攻しまくってますので、その8年後(朝鮮の動乱が落ち着いた頃)にその親族のひとりが東国へ何かの命で来ていてもいいかもしれない。でも、日本古代史の世界では「波多氏」というとややこしいことを言う方が大勢いますので、もっと本を読んだらもっと詳しいことを書いている方がいるかもしれません。
あるいは応神天皇の娘「矢田皇女」。この人は仁徳天皇の后となった「八田皇女」と同一人物だろうとされているのですが(葛城の磐之媛に15年に渡って激烈な嫉妬を受けた女性)、この人の関係者が辺境へ任を受けるなんてあり得ないことですけども、応神天皇の子女達ってなぜか不自然に鳥にちなんだ名前が多いので、気になる。(兎=菟も鳥に含めて良いのならば;「菟道稚郎子皇子」「大鷦鷯皇子(後の仁徳天皇ですが、彼が誕生したとき産所に木菟が飛び込んできたという伝承がある)」「根鳥皇子」「雌鳥皇女」「隼総別皇子」などがいる)。姫のお名前が「モトエさん」だったという可能性が無いとは言えないこともないかもしれなくもなくない。
応神天皇の皇子「稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)」。この時代名前に「毛」の入っている人がたまにいますが、主に「東蝦夷」を連想するようです。(「上毛野君」とか)。そして稚野毛二派皇子の息子には「八田真人」がいます。ゆえあって稚野毛二派皇子の子女が全国に散らばっていても、全然おかしいことではありません。(その子孫のひとりがのちに継体天皇となる)

応神天皇37年、天皇は使いを呉国へ送り、工女兄媛・弟媛・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の4人を得ました。
22年にも天皇は備中の葉田の宮に移って、兄媛に吉備の国の織部(はとりべ)を与えてるんですよね。このふたりの兄媛は関係あるかどうか。

それから、「八田(はった)」が「祝田(ほうだ)」に変わったという伝承。
どこがどうなったらそうなるんだ。
(これには、この近くに「蜂前神社の祝部(ほうりべ)」が住む家があった、という伝もあるのですけど)
「八田」と「祝田」の間にはもちろん「蜂田」があったはず。いったいこの地で「蜂」の字はどこから来た?
コメント (2)
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