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畠山国清初登場(名前だけですけど)。

2008年02月26日 03時24分27秒 | 伊豆の歴史


新田義貞はなんで人望が無かったんでしたっけね? 私は大好きだ(笑)

忘れた頃に太平記。
ほんとに名前だけ。
本当は畠山国清はこれに先立って中先代の乱の鎮圧にも参加しているはずなんですけど、……そういえば名前が出てるかどうか調べてねーです。

これからのあらすじ
14-2.節度使下向のこと(畠山国清初登場) (←今ココ!)
29-1.宮方が京を攻める
29-6.小清水合戦、付けたり瑞夢のこと
30-3.直義の追罰の宣旨のお使い、付けたり鴨社鳴動の事
30-4.薩多山合戦
33-10新田左兵衛佐義興自害の事そのそのその
34-2.畠山道誓、上洛のこと
35-1.新将軍の帰洛のこと、付けたり仁木義長を討つこと
36-7.頓宮こころがわりの事、付けたり畠山道誓の事
37-8.畠山入道道誓謀叛の事、付けたり楊国忠が事前編/後編)
38-5畠山兄弟、修禅寺の城にたてこもる事、付けたり遊佐入道のこと

(太平記巻十四-2)
節度使下向の事
こうしているうちに、11月8日、新田左兵衛督義貞朝臣は朝敵追罰の宣旨をたまわって兵を引き連れて参内した。その軍勢は馬や武具の意匠がまことに爽やかに映え、勢いのある様子だった。内弁・外弁・八座・八省の役人らが階下に陣を張って中議の節会をおこない、晴れて節度を仰せつかった。治承4年に、権亮三位中将惟盛が頼朝の進罰のとき鈴をたまわったことが不吉だったということで、今回は天慶・承平の討伐の時の手順でおこなった。
義貞は節度を給わると二条河原へ打ち出で、まず尊氏卿の宿所の二条高倉へ舟田入道を指し向けて、時の声を3度あげさせた。さらに流鏑(かぶら)を3矢射させ、中門の柱を切り落とした。これは嘉承3年に讚岐守正盛が源義親征討に出羽国に下ったときの前例に因んだのだという。しかしそれから一宮中務卿親王(=尊良親王)が五百余騎にて三条河原へ攻め寄せ、そこに内裏から下された錦の御旌(おんはた)を立てると、ちょうど風が烈しく吹いて、旗に金銀で飾って取り付けてあった月と日の御紋が取れて地に落ちるという不思議が起こった。これには「なんと縁起の悪いことか、この度の御合戦はどうも幸先が良くない」と思わぬ者は無かった。
その日の午の刻に大将新田左兵衛督義貞は都を出立した。義貞は元弘の初めに大敵(=鎌倉幕府)を亡ぼし、さらに忠功は他の人を凌いでいたが、尊氏卿が天皇に咫尺していたので(=尊氏が天皇に手を回して?)大した恩賞・位をもらっていなかった。しかし陰徳はついに露われ、今、彼は天下を率いる大将となったので、当家の者も他家の者もおしなべて好悪の情を捨て、彼に従わぬ者は無くなった。
まず新田家の一族として、舎弟脇屋右衛門佐義助・式部大夫義治・堀口美濃守貞満・錦折刑部少輔・里見伊賀守・同大膳亮・桃井遠江守・鳥山修理亮・細屋右馬助・大井田式部大輔・大嶋讚岐守・岩松民部大輔・篭沢入道・額田掃部助・金谷治部少輔・世良田兵庫助・羽川備中守・一井兵部大輔・堤宮内卿律師・田井蔵人大夫、これらが宗徒の一族として末々の源氏30余人、その勢力は7千余騎であり、大将の前後を守った。他家の大名としては、千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱・菊池肥後守武重・大友左近将監・厚東駿河守・大内新介・佐々木塩冶判官高貞・同加治源太左衛門・熱田摂津大宮司・愛曾伊勢三郎・遠山加藤五郎・武田甲斐守・小笠原信濃守・高山遠江守・河越三河守・皃玉庄左衛門・杉原下総守・高田薩摩守義遠・藤田三郎左衛門・難波備前守・田中三郎衛門・舟田入道・同長門守・由良三郎左衛門・同美作守・長浜六郎左衛門・山上六郎左衛門・波多野三郎・高梨・小国・河内・池・風間、山徒の衆として道場坊、これらが宗との兵として諸国の大名320余人、その兵数は6万7千余騎となり、前陣はすでに尾張の熱田に到着したが、後陣はいまだに相坂(おおさか)の関の四宮河原にあるという大軍だった。
東山道を行く搦手の勢は、大将に3日遅れて都を出立した。その大将は大智院宮、弾正尹宮、洞院左衛門督実世・持明院兵衛督入道道応・園中将基隆・二条中将為冬の6人。侍大将に、江田修理亮行義・大館左京大夫氏義・嶋津上総入道・同筑後前司・饗庭(あいば)・石谷(いしばえ)・猿子(ましこ)・落合・仁科・伊木・津志・中村・村上・纐纈・高梨・志賀・真壁十郎・美濃権介助重。これらを宗との侍としてその勢は5000余騎であり、、黒田の宿から東山道を経て信濃の国へ入ると、国司・堀河中納言が2000余騎を引き連れて馳せ加わった。合わせて一万余騎は、大井城を攻め落としてから同時に鎌倉へ攻め上ろうと、大手の軍からの知らせを待ちわびていた。

討手の大軍が京を立ったという報が次々と鎌倉に入り、左馬頭直義・仁木・細河・高・上杉らが将軍(=足利尊氏)の御前に参じて進言した。「すでに御当家を滅ぼすために義貞が大将となって、東海道・東山道の両手から大軍が下っています。敵に難所を越えさせてしまったらもう防ぎきれませんから、急いで矢矯(やはぎ)と薩ッタ山に陣を張り、防戦しましょう」。しかし尊氏は黙ってしばらく何も言わなかった。ややあってポツリと、「われは代々弓矢を取る家に生まれまた源氏の血を引いているとはいっても、承久からこのかた相摸守(=北条得宗家)に従って長らく家名を羞かしめ名を汚し恨みを積んできた。しかしようやく望みであった征夷将軍につき、位も従上三品(=従三位)まで極めた。これは私の功績というより君恩が厚かったからである。その恩を忘れるようなことは人としてできぬ。そもそも今回君の怒りにふれたのは、兵部卿親王(=護良親王)が殺されたことと、諸国へ勝手に軍勢催促の命令書を送ったことの2点だ。しかしこれは両方ともこの尊氏がやったことではない。そのことをきちんと説明すれば、わが汚名は晴れ逆鱗は治まると思うのだ。あなた方は、ともかく自分で自分のことをどうするか考えるがよい。この尊氏は天皇に向かって弓を放つなどできない。それでもなお天皇が尊氏に罪があると言われても、逃げるようなことはせず、頭を丸めてでも不忠の気持ちなど無いことを子孫に示したいと思う」とすねたように言って、後ろの部屋に入って障子を閉め、閉じこもってしまった。この様子には甲冑を着込んで集った人々もたいそう呆れ、「尊氏卿がこんな人だとは思わなかったぞ」と全員が思った。

2日後、一の宮を先頭に新田の勢が三河・遠江まで来たというので、上杉兵庫入道道勤・細河阿波守和氏・佐々木佐渡判官入道道誉の3人が左馬頭(=直義)のところに来て「どうしようか」と話し合った。「将軍の言うことはしょうがないが、このまま公家の世となれば天下の武士はまた何もせぬ京の人間の僕従へと戻ってしまう。諸国の地頭・御家人は長らく怒り望みを失っていても、今までは武家の棟梁となるにふさわしい人がいなかったから仕方なく公家に従っていたのだ。だからこそ足利の御一家が立つと聞き、皆で馳せ参った。これこそ当家にとっての運開きなのだと。将軍もあんな考えでかのようにおっしゃるが、ご自分の身に禍いが来たらそうも言っておれまい。とにかくだらだらと僉議している間に敵に難所を越されてしまったら後悔してもしきれぬ。将軍は鎌倉に残して、左馬頭殿が兵を率いなされ。われらお供して伊豆・駿河の辺りで軍を支え、合戦した上で運のほどを見よう」と皆で言ったので、左馬頭直義はとても喜んで、すぐに鎌倉を出立し、夜を日に継いで急行した。
直義に付き従う郎党は、吉良左兵衛督(義満)・同三河守・子息三河三郎・石堂入道(義房)・その子中務大輔・同右馬頭・桃井修理亮(義盛)、上杉伊豆守(重能)・同民部大輔・細河陸奥守顕氏・同形部大輔頼春・同式部大夫繁氏・畠山左京大夫国清・同宮内少輔・足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫時家・仁木太郎頼章・舎弟二郎義長・今河修理亮(貞世)・岩松禅師頼有・高武蔵守師直・越後守師泰・同豊前守・南部遠江守・同備前守・同駿河守・大高伊予守、それに外様の大名、小山判官・佐々木佐渡判官入道道誉・舎弟五郎左衛門尉(貞満)・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・宇都宮遠江守・佐竹左馬頭義敦・舎弟常陸守義春・小田中務大輔・武田甲斐守・河超三河守・狩野新介・高坂七郎・松田・河村・土肥・土屋、坂東の八平氏、武蔵七党を始めとして、その勢は20万7千余騎。11月20日に鎌倉を立って、24日には三河国矢矯の東の宿に到着した。

…これは1335年(建武2)年のことです。
畠山入道が伊豆で反乱を起こすのは1361年(康安元年/正平16年)のことですので、延々30年近く前のことになりますね。畠山国清は生年が不詳なのですが、たぶん20代前半ぐらいなのだと思います。まだこの時は尊氏でも基氏でもなく足利直義の配下。

このあたりは太平記も物語が中盤。のちの鎌倉公方の苦悩の話とは違い、尊氏も出てきて物語はメインストーリーなので全然説明する必要もないのですが、中先代の乱の鎮圧に鎌倉までやってきた尊氏は勝手に征夷大将軍を名乗り、乱が終結しても京へは帰らず、とうとう謀反を宣言してしまう。怒った後醍醐天皇が鎮圧のために新田義貞をリーダーとする討伐軍を派遣した、そんなところです。
「もっとも情けない尊氏さまの姿」を見られるのもここ。全部弟に罪をなすりつけるのは人としてどうなのか。(護良親王を殺したのも尊氏を京に帰らせなかったのも勝手に兵を集めたのも全部直義です。全て英断です)。なのに、意気揚々と出陣した足利直義の軍は、三河の矢作川で負け、遠江の匂坂で負け、駿河の手越河原で負けます。直義って頭がいいイメージがあるんですけど、戦闘指揮は弱かったのでしょうか。石田三成みたいだな。で、とうとう重い腰の尊氏が観念して戦場に出てくると、「箱根・竹之下の戦い」で尊氏軍は大勝利をしてしまうのです。尊氏すげー。
っていうか、華々しく登場したわりには新田義貞とのこの兵力差はなんだ? 宮軍が「あまりにも人数が多すぎて、先頭が尾張に到着したとき最後尾は逢坂の関だった」というのなら、尊氏軍は「先頭が三河で戦闘を始めたとき、末尾はまだ鎌倉だった」ぐらいだったでしょう、たぶん。家康だったらこれでも勝ったのに~。が、家康の御先祖(ということになっている)世良田兵庫助重氏は、このとき死んだことになってるな。ついでに言うと、畠山国清の父である畠山阿波守家国もこのとき参戦してますが、箱根竹之下の次の「伊豆国府の戦い」で戦死しているそうです。でも太平記には活躍しない人は名前が出てこない。


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