オセンタルカの太陽帝国

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柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

我が名はプリンセス・ダルマ。譬えこの名を知らずとも偏屈王の名には覚えがあるはず!

2013年06月30日 18時39分56秒 | 伊豆の歴史


6月12・13日に行った旅行の日記のつづき。
旅館にて夕食を召し終わったあと、まだまだ飲む余裕があることに安堵いたしました。よし、散歩がてら夜の修善寺のどこかに飲みに出掛けることにしましょう。そもそも深夜の修善寺を歩き回ることを目的にこの宿を選んだのです。修善寺という町は夜が一番面白い町(…と15年前にここに住んでいたときに思ったのです)

第一の目的地は、宿から5分のところにある征夷大将軍・頼家公の墓。


※この写真は色相・彩度を操っています。あなたの目の異常ではありません。以後同様。

15年前、女性を連れて初めて丑三ッ刻にこの場所を訪れたとき、墓の背後のあまりの奥黒さにおののいて腰を抜かしたことがありました。何かがわだかまってる気がして!(普段、オバケなんて全く怖くないこのわたくしがですよ!) そういえばこの女性とは長崎でも真夜中の相浦港近くの愛宕山神社に登っていたとき、恐くなって途中で引き返してしまったことがある。「なんだよお前恐がりじゃん」と浅子さんは思うと思いますが、他の山は夜だって平気だもん。頼家様の墓はそれと匹敵するぐらいの怖さだったのでした。以後、いろんな女性と修善寺に来る度に夜の頼家公の墓に一緒に詣でることにしてたんですが、、、、 怖かったのは最初の一度きりでした。結局の所、あの女性が何かあったのかなあ。
と、でも、その頃の私のことがとてつもなく懐かしい。



夜の頼家公の墓碑。実はこの石はただの記念碑でして、本当の墓はこの後ろに隠されていまして(なぜか小さな2つの墓が並んでる。誰の?)。じっと見たけど何もいませんでした。
ま、夜と言ってもまだ20時ですからね。



闇の中の指月殿。政子妃の遺念は、、、 残念ながら私は鈍感なのでした。



そこから15分のわれらが従五位参河守範頼卿の墓所に。
同郷人の浜松人たるわたくしに、蒲殿は何か伝えたいことは無いですか、だって私は今日2回もここに来たのでございますよ、とじっと眼を凝らしたんですけど、やっぱり何もありませんでした。(そりゃそうか)。だってそもそも修善寺の伝説に従えば、頼家公も範頼卿も殺されたのはここではなく信功院の近く(もしくは別の場所)ですもんね。いいです蒲公、また来ます。



さらにそこから5分の“赤蛙公園”に向かいます。
そこでは今はやりの「蛍まつり」をやってるというのです。



赤ガエル公園って変な名前ですね。何度もここへ来てますが私はここで赤ガエルを見たことがありません。
それどころか修善寺全体で普通の雨ガエルしか見たことがありません。
全国的に今年はホタルが豊漁のようで、どこにいっても「今ならクリスマスのような蛍の光が見られる」と言われます。
だがこの日は折り悪く台風が近づいていた日で、旅館の人は「とりあえず中止の連絡は来ていない」などと心細いことを言っていた。
ところがなんのなんの、台風だというのにホタルはやはり豊作じゃないか。



旅館の人は「雨の日と晴れの日を比べたらホタルの数は愕然」と言っていたが、確かに乱舞とは言えないまでも、ささやかに侘びあるビーム光線がほたほたと飛び交っていたよ。いいじゃないかホタルおっさんひとりでも。だが当然ながらそれが私の一般的なコンパクトデジカメで映像に撮れる筈も無く、あれだね雨粒がホタルみたいだね。キレイだ。もちろんフラッシュを焚けば螢もちゃんと見えるが、風情もへったくれも無い。聞けば修善寺には源氏ホタルばかりで平家ボタルは一切見られないそうである(嘘)。



結局、1時間以上も私はここでウロウロしていました。雨で人が少なかったし。



有名な竹林の小径なんか範頼・頼家の鎌倉時代には存在しなかった場所なんだから、却ってそっちの方がコワいですね。



そこから飲む場所を捜して歩くこと10分。滝亭の前に焼き鳥屋があったので入ってみました。
とりあえずビールでいいか。静岡人はサッポロビール!





出てきた焼き鳥。イヤン、ちょっと好みじゃない(肉質が)。いえいえ、私だって最近家で毎日焼き鳥を焼いていて、肉の種類や焼き方にはいろいろあることを存ずるようになってきてますから、こういう焼き方だって全然有りなのはわかるのですが、最近のワタクシには肉はうるさいのでした。
そんなことよりも、さっきからこの狭い店内に中国人もしくは韓国人の方々が次々と入ってきて、彼女彼らと女将の会話が面白すぎて、とても気になります。そういえば、昼間外国の人たちをたくさん見たなあ。韓国の人たちだろうなあ。彼らが鎌倉時代に興味を持って修善寺に来てくれているのなら、わたくしも大いに嬉しいのですが。とにかく奥さんは外国語は一切解そうとはせず(当たり前だが)、話しかけてくる若者達を小気味よく切りさばく。若者達は手に手にガイドブックを持っていて、「これください」とジェスチャーするのですが、奥さんは本を見て「無い!」「それも無い!」と全部断る。結局のところこんな小さな店がガイドブックに載ってるわけもないのだから、何があの本に「オススメ」として載って、女将さんは何を無いと言って果断に断ったんだろう。(外人が本を指さして注文する行為が可笑しいって言ってるんじゃないですよ。私だって同じことするでしょうから。結局、本が何の役にも立たなかったことがおもしろかったっていってるんです)
彼らは最終的に焼き鳥をおとなしく食べていました。このお店にはカウンターの前にショーケースがあってそこに食材が並べられてましたので、ショーケースを指さす方が遙かに早かったのです。



気を取り直して注文してみた「チーズ奴(豆腐ではありません)」。
ぎゃーー!! うめえ、これうめえ。これ毎日食べたい。
豆腐じゃないけど豆腐だよこれ。



続いて注文してみたのは「ニンニクの丸揚げ」。
ぎゃーー!! なんだこれ、これうめえ。これうめえ。
昔は大のラーメン好きであった私なのですが、ラーメンには決してニンニクは入れません(最初から入ってる場合は除く)。逆に焼き鳥屋ではニンニク焼きはよく注文する。店によってニンニクの扱いが全然違うんですよね。
だが丸ごと揚げたニンニクがこんなにホクホクで百合根のように甘くエパミノンダスの斜行陣のように攻撃的なものだとは!!
もとより、こんなの自宅でもできる! こんど(休みの前日に)やってみよう!

つづいて、焼きナス(500円)を注文したのですが、写真に撮らなかったようです。
充分満足してお会計したのですが、4000円弱! 安い! …と思ったけどよく見たらそんなに食べてないですね。(ビールは3本飲んだ。)まぁでもすごく旨くて満ち足りた。



酩酊して宿に戻り、少し横になったら一瞬で朝でした。いかーーん、たくさん伊豆の本を持ってきてあったのに~。旅館の館内の写真(人のいない浴場とか)を撮るつもりだったのに~。



私の認識からしたらさっき夕食を食べたばかりなのに、すぐさま朝食なんて食べられるワケがない。
見たら、普通の朝食で少しほっとしました。



でも、大好きなアジが少ししか食べられないっす。朝鍋にいろいろ入りすぎっす。



昨日担当してくださったお姉様に、「ご飯これだけしか食べないんですか? 大丈夫ですか?」と言われました。ごめんなさいごめんなさい。
でもやっぱり旅館って、夜と朝で一緒の人がお世話してくれるとこんなに心安らぐものなのですね。心しておこう。

チェックアウトは10時。宿に車を置かせてもらって、ふたたび修善寺探索に繰り出します。
今日の最初の目的は「不越坂」の踏破。
服部さんは書きました。「当時、私達は温泉場からみゆき橋を抜けハリストロシア教会の前を通り、嵐山を右手に見ながら登っていくと簡単に城山にたどり着くことができました。この道を降りると城山神社、修善寺東小学校(立野)に通じます。私達が中学校の時、瓜生野(うりゅうの)にあった修善寺中学校が狩野川台風で流れ、修善寺中学校の温泉場にいた生徒は、毎日教会の所から、2年間城山の脇を通り修善寺東小学校の仮校舎に通いました。中学生で30分位かかりました。鎌倉時代はこの道(越路・恋路)を通って修善寺温泉に入りました」。

問題を整理しておきましょう。現在は車で修善寺に入るには、3つのルートがあります。修善寺駅方面の横瀬から月見ヶ丘の脇を抜けて国道136号線で入る道。大仁から有料道路(修善寺道路)に入って山をくり抜いて作った修善寺トンネルをくぐってくる道。北の熊坂から山を越えて修善寺ニュータウンの中を通って入ってくる細い道。かつては南から修善寺温泉街に入る(もしくは出る)ための「不越坂」という峠道があったのですが、それは現在“修善寺道路”“天城北道路”に吸収されてしまって、一般的ではありません。
このうちメインの道と考えられる現国道136号線が、むかしは湿地であり沼地になっていて「通れない」状態だったら、(※実は「通れなかった」だなんて誰も言ってないのですが)、太古の修善寺はどういう状態だったのか。結局の所、現136号線とは違う、「横瀬八幡の裏山から半経寺を通って神戸(ごうど)に出る山道」は実在したようで、「その道のことを覚えている人」もけっこう居るらしい。なんと現在とは違う、監獄状態の修善寺じゃないですか。そもそも修善寺に伝わる伝説で一番古いのは、独鈷の湯伝説でも修禅寺開創でもなく「桂谷の一番奥の巖窟に潜む降魔を調伏した話」。それが修善寺谷の閉鎖と結びついた基本的説話だとしたら… 範頼や頼家にも大師の業魔 夢が広がるじゃないですか。
服部さんは「恋路坂の方がメインだった」のように書いています。これは実破してみなければなりますまい。



台風に由来する雨は夜の間にすっかり消えてしまったようで、しっとりと晴れていました。菊屋の裏にある対山荘から、みゆき橋の前を通り、ハリストス正教会の横を抜けて、嵐山を右手に見ながら修善寺の城山を目指す。(むかしは城山は「眞葛山(まくずやま)」もしくは「金山」という名前だったそうです)。この道は狩野川台風の頃から変わってないようですね。
道は修善寺の谷間を見下ろすように段々高くなっていき、修善寺道にぶつかる手前に、さらに細い登り道があります。ここが恋路坂の入口です。



その入口。



忘れてたけどわたし、この道歩いたことあるな。それは紛れもなく5年前に修善寺城に登ったときで、城から下ってきたあとこっちの道も歩いてみたんだった。
道は草深くなってますけど、車のタイヤの跡も見える。少なからず今でも人に普通に使われてる道みたいです。



道は登り、“越路トンネル”の上を横切ります。見下ろすと沢山の車が猛スピードでトンネルを通り抜けていきますが、写真ではほとんど巧く写りませんな。



この坂の呼び名について。
正式な名称は「越路坂」ですが、修善寺の伝説により「不越坂」「恋路坂」と呼ばれる事もある。どれも読みは一緒で「こいじ(こえじ)がさか」なのですが、漢字によって意味が全部正反対になるのが面白い。思うに北条政子は「恋路」(彼女はロマンチストだから。対象はもちろん佐殿ですよ)と呼び、若狭局は「不越」と言ったんじゃないんですかねえ。若狭はともかく政子妃がこの道を歩く理由が全く思いつきません。横瀬口にも政子遺跡があるのですから。なお、「越路坂」と書くときのみ、実は正確な読みは「こしじがさか」です。伊豆の大動脈となる修善寺道を建設したとき、「不越トンネル」は流石に縁起が悪いから、「越路」に改称したのだと思います。

また、修善寺の伝承では「若狭局は2人いた」とされているのも抑えておきたいポイントです。
比企能員の娘で頼家の室となり一幡を生んだ彼女は、建仁3年の比企氏の乱で比企館の中で焼死したとも、一幡を連れて山に逃れたが小四郎の郎党に追われて斬られたとも、三嶋大社で癪を起こして死んだとも言われます。頼家が修善寺に流され幽閉されると、死んだはずの若狭局は側に侍ります。翌年、小四郎の魔の手が頼家に迫ると若狭局はわずかな供と共に越路の坂を通って逃れます。

<修善寺マイスター教則本より>
若狭の局は比企能員の娘で頼家の側室となり一幡を授かりますが、頼家が修禅寺で暗殺された後父の地である比企の里(現在の埼玉県東松山市)に落ち延び比企尼山に草庵を建て、ここの北側に「大谷山寿昌寺」を建立し剃髪の身となり頼家の菩提を弔ったと言われています。
後の藩主森川氏が寿昌寺を遷し「扇谷山宗悟寺」を建立しました。この寺には頼家の位牌が寺宝として大切に祀られていますが、修禅寺の法名「法華院殿金吾大禅閣」とは違う「大相国公一品寿昌義仁大居士」となっています。
頼家の側室若狭の局は頼家の身に危険が迫ったとき、共に最期を迎える覚悟でいましたが、愛息一幡のために父親の地である比企の里に落ち延びて行ったといわれています。
若狭は「こんなに悲しい思いの地には二度と戻りたくない。再びこの坂を越えることはないだろう」と泣きながらこの坂を越えていったと言います。以来この坂を不越坂と呼ぶようになったと言い伝えられています。


岡本綺堂の『修禅寺物語』(大正7年)は二人目の若狭局となった娘の悲しい野望(野望なんど全く抱く余地もないところが哀しい)を描いた戯曲ですが、他にも「若狭は二人」と明記した本を読んだことがあるんですけど、何の本だっけ。成立の古い昔のガイド本ではこの女性の名を記してないことが多いです。この名も無き女性が若狭という名になったのは岡本綺堂が悪かったのだと思う。

『修善寺村誌』(大正3年)
「元久の昔源頼家此地に害せらるるや、侍姫驚愕して走り出で此山脈を越へんとすると時、再び越へじと言ひしより字となりしと言ふ。麓を硯澤と言ふ。昔日硯材を出せしが、下品なりしを以て竟に止めたりと言ふる」

『日本傳説叢書<伊豆の巻>伊豆の傳説』(大正7年)
「眞葛山と小嵐山との間を通つて、狩野村に達する道路に不越坂と呼ばれるところがある。昔、源頼家の害に遭つた日、その侍姫、逃れて漸く此坂の上に至つた。遙かに修善寺の方を顧みて『嗚呼、今日の路、また越えじ。』と言つて慟哭して去つたところであるといふので、不越(こえじ)の名を得たのであると言ひ傅へられている。
不越坂の傳説、或は猫越峠を誤り傅えたものではあるまいか、ねつこたうげの音は「否越(ねこえ)峠」即ち、なこえ峠と附會して、「越えじ峠」としたのではあるまいか。或は又、宇佐見村から網代村に至る笠松峠の東南、海に突出せる一大丘の根越山を附會していふのかもわからないといふものがある。」


歩いた感じ、全然越えるのに難しい坂ではないです。気持ちよく歩けます。
この坂を越えた若狭局がどこに向かおうかとしたのかということですが、推定ですが函南に隠棲していた比企の尼のところですよね。比企の尼は没年が不明の人ですが、少なくとも範頼事件(建久4年)のときには生存していたという人がありますので、その9年後の頼家の死の時点に生きていた可能性も充分ある。そして比企の里にいたら当然比企氏事件で名前が出てこないわけがないから、別のもっとゆかりの深い場所にいただろう。やはりこの道は「地元人でないと知らない道」だったのだとしないと、伝説の整合性が無いのですね。越えるのは全く大変では無い道ですけど。
坂をくだると、懐かしい変な赤い洋食屋があります。

そこから本立野の町に入り、しばらく歩き回る。
むかし私もここに住んでいたわけなんですけど、変な町だなあ。古の雰囲気が漂っている。修善寺城から見てこの場所が大手の前になるので、城下町にも当たると思うんですけど、本で「本立野が隆盛したのは大久保長安による金山開発のおかげ」というのを読んだことがある。もちろん狩野川を使った水運の町なんでしょうね。



そこから城山神社へ。
以前行き方がわからなくて散々迷った道ですけど、なるほど、山田製麺の隣の細い道を登って行くのね。神社の前は一面茶畑です。ぐり茶かなあ。祀られているのは火産霊神。
狛犬がやたらとかっこいいです。前にも言いましたけれど、この神社の境内自体がまるで要塞みたいな城砦空間になっているのですが、畠山道誓入道の時代には入口付近には何も作らないことが通例ですので、城の遺構はもっと上の方にある。





「登り口はどうなってるのかなぁ~~」とひょいと見てみますと、



看板は以前と同じ物(だと思う)だけど、以前と雰囲気が違っちゃってる。以前は「最初から山登り」って感じだったのに。
道が整備されたんだな。



実はこのときまで山に登る気なんて全く無かったんですけど(だって一度登ったことある山だし)、「これはもう一度登れっていわれてるのかなあ、やだなあ」と思わざるを得ず、ぐずぐず悩んだ末、やっぱり登ることにしました。ヤレヤレ。

どうせ、一度登ったことがあるので、様子はよくわかっています。そもそも248mしかない山ですし中伊豆はもともとの標高がそれなりにあるので、そんなに登らなくてもいいんです。ひょいひょいのひょいです。
…と思って歩き始めたんですけど、そんなに登らず疲れないうちに、本当に覚えのある青いロープウェイ施設に着いちゃいました。ウソっ!!! こんなに簡単な山だったっけ。



いいや違う、絶対に違う。前回よりも遙かに簡単になってる。だって前回はもっと岩のゴツゴツした道を歩いてきたもん。
と一瞬混乱したんだけど、もともとこの山には道の険しい岩肌伝いの登り口(前回私はこの口から登った)と、一般向けの新たに作られた道(前回私は帰りにこの道を使った)があって、近年この登山口が整備されて、楽な道から容易にアタックできるようになったんですね。だって私は前あの朽ちた看板の所から登ったら岩道だったんだったら。今回登った登り道は、当然畠山道誓入道の時代には存在していなかったに決まってます。だってあんなに容易に登れるようじゃ、折角の山城の要害が泣く。私の記憶の中にある岩肌の道の方は、隣町大仁町の「金山城」の登り道とかなり似た雰囲気を持っておりました。



この図は『静岡の山城ベスト50を歩く』(2009年)をもとに作成。2006年に比べると修善寺城の情報は格段にたくさん入手できるようになってます。いい時代だなあ。
前回(2006)のルートが尾根伝いを歩く水色の道で、今回(2013)のルートは谷道を登る黄緑色の点線の口。今の登山道(黄緑色の道)は遙かに歩きやすいのですが、お城ってそんなに登りやすくては困るのです。実は未だ書き終えていない12月19日~21日にかけて行った伊豆旅行でも大仁の金山城に登ったのですよ。修善寺城と金山城は同じ畠山道誓が造った城でも(山の)規模が全然違っていて、金山城の場合は登り口が谷間でもやがて尾根を歩くように道がなっていて、その延長上に城郭がある。そこが修善寺城との共通点かなと思って。



「畠山国清古戦場 城山公園」と書いてあります。
畠山国清というのは、畠山道誓入道のことです。『太平記』の中ではわたくしの最愛の人物のひとりです。
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