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木曜にはカバ殿とお茶を。

2008年05月01日 10時56分54秒 | 遠州の歴史

(かば)殿と言えばさがみさん
連載小説はまもなくそろそろ250回だといいます。偉業です。すごいです。

遠州の歴史の中で、われらが“カバ殿”、蒲冠者源範頼公は、宗良親王・徳川家康(とその関係者=岡崎信康・築山御前・結城秀康・徳川秀忠・徳川四天王たち)と並ぶ重要な「郷土の英雄」のひとりであります。わたくしにとっては、この蒲殿こそが、わたくしと失われた伊豆の思い出を結ぶただひとつのよすがなのでございます。平安時代の宿場町を中心に見れば浜松周辺にも源平史蹟がそこそこ充実していて、楽しいです。範頼公に関しましては、蒲殿が生まれ育ったという「蒲御厨(かばのみくりや)(=浜松市の住宅密集地の東半分の広大な領域)を中心に、蒲殿にゆかりの場所がいくつか点在しているのでございます。

ところが、その「蒲御厨」とは少し離れた場所に、佐鳴湖(さなるこ)という風光明媚でありながら水が汚いことで有名な小さな湖がありまして、その湖畔の史蹟地図を眺めていますと、北岸に「範頼茶屋」という地名があるので前から気になっておりました。なんでしょうこれ? 気になったから行ってみることにします。

車を走らせている最中、当然の如く私の脳裏には冥土服姿の範頼様がいっぱいいる喫茶店か何かがそこにあって、「おかえりなさいませごしゅじんさまー」とか言っている姿が浮かんだり浮かばなかったりしたのですが、真実はいかに。

   
こんな感じ?                   …いや、こうかな、範頼様は男の子ですし。


佐鳴湖の風景。


鳥の姿は美しい… が湖の水は「日本一汚い」として有名。

調べた所によると、範頼茶屋とは範頼の別邸のあった場所で、範頼がここで茶を飲むことを好んだからこう呼ばれているらしい。お茶… 完璧な武人・範頼殿にそんな趣味があっただなんて。意外。
佐鳴湖の北岸は、富塚と呼ばれる地区で、湖の東岸は佐鳴台と呼ばれています。ちょうど三方原台地の南端にあたり、とても起伏に富んだ地形です。三方原も北の方はだだっ広い平地なんですが、富塚・佐鳴台のあたりは入り組んだ谷状。そこに現在はびっしりと家が建ち並んでいて、景色はなかなか壮観なんですよね。「浜松で一番美しい」といったらこのあたりになるだろうと、わたくしは勝手に思っています。範頼様もこの美しい景色を愛してここに何度も足を運んだのかしら。

さて、佐鳴湖には北側から2つの川が流れ込んでいます。新川と段子川で、それぞれ御茶屋橋と弁天橋という橋が架かっているのですが、そのうちの「御茶屋橋」の命名の由来が、範頼公に絡めて語られているのです。…て、御茶屋橋だけ? 個人的な見解を言わせて貰えばもう一方の「段子川」もアヤシイ。お茶とダンゴはセットじゃありませんか。
ともあれ、御茶屋橋から西に向かって、「安座の坂」と呼ばれる坂道があり、そこに範頼が居たというので、適当に歩いて痕跡を捜してみることにします。佐鳴湖畔にはたくさんくるまを停められるスペースがあるので、適当な場所に車を置いて歩き始めます。本当に気持ちの良いところだなー。湖の水は汚いけど。


御茶屋橋。変哲のないごく普通の橋。橋のすぐそばに「富河岸船着場跡」という碑があり、ここに小さな湊があったようです。


御茶屋橋から新川。両側は住宅地。


安座の坂の途中から湖の方向を見下ろす。何も見えない(笑)。切り開かれた今ですらこうなのだから、こんもりと木が生い茂っていた範頼卿の時代はどうだったのだろうか。範頼はどうしてこんな場所にお茶屋を開店したのか? 家の造成が随所でなされています。

坂を登り切って、、、、、 あれ? なんにもなかったぞ?
地図に書かれているくらいだから何かあるだろう、と念のためにもう一度坂を下って路地にまで入ってウロウロし、ありそうなところなさそうなところを覗き込んでみたりしたのですが見つからず、一応、坂のてっぺんに(普通の)お茶屋さんがあったので、これを「範頼茶屋」と認定することにしました(笑)

さすがにこれだけで調査を終えてはまずい気がしたので、図書館に行って本を漁ってみることにします。『富塚の歴史』とか言う本を見ると、

なんだ、やっぱり石碑があるんじゃん。ガックリ。

日を改めて再び捜しに行ってみました。
前掲の本によると、碑はかつてあった場所から移されており、前は(範頼の屋敷のあった)小高い丘の上の藪の中にあったのが、今では坂の途中の民家の辻にあるのだとか。ところが移転したあとはトラックに突っ込まれたりして、ボコボコになっているのだとか。ともかく写真さえあればそのイメージで百倍楽に探し出せるさ!

 

大正13年ですか。
ふたたびテクテク歩き始めます。地図によると下手から見て左手の民家の影にあるはずです。(前回もそこらは徹底的に目を凝らしたんですけど)。んんーーーー? ないぞーーーー? でも地図のあのあたりでふと右手を見ると、何かの碑が。あった! …また場所が移転されてしまっているのかな?

でも、石碑じゃなくて、木の杭に書かれた碑です。
これは本にあるのとは別物なのでしょうか。でも、明らかに「こここそが昔、かばの冠者がお茶を飲んだ屋敷の敷地だったんですよ」との標識然とした立てられ方ですよね。うーーーん。なお、この標識の前は個人のお宅の駐車場になっていまして、ずらっと車が並んでいますので、よほど目を凝らさないとこの碑も見つけるのは難しいと思います。とにかく、範頼様の屋敷の位置が確定できて良かった。・・・でも本の写真にある梅の木ってどこにあるの?(わかりません)

碑のある場所を、別の位置から見てみます。景色が良いとは到底言えませんが、本によればかつては佐鳴湖の水辺がここまで迫っていたそうで。
2本の碑、分かるでしょうか? 思うに、この碑の傍らにあるあの背の低い木が本の写真にある梅の木ですね。要は(本の中にある地図から解釈するに)「大正13年に範頼屋敷のあった場所に最初に石碑が建てられたが、宅地造成か何かの為に昭和の中頃に道路の対岸に移転され、その2代目碑はトラックが突っ込んだりしてさまざまな苦難にあったが、最近もともとの場所に木の碑が作り直された。石碑が現在どうなっているのかは不明」といったところでしょうか。「トラックが突っ込んだりした碑」、蒲殿の波瀾万丈の生涯を象徴している気がするので、現存しているのならぜひ見てみたいのですが。(機会を見付けてまた行ってみま~~す)

昭和8年頃に地元の人たちが記した案内文があるそうで(時期的に見て、大正13年に石碑が建てられたのと同じ機運によるものですね。この頃、平家物語ブームなんてあったのでしょうか? 吉川英治の新平家物語は昭和25年ですしねえ) ともかくそれによると、当地に伝わっている伝説では、

・ここには範頼の別邸があった
・広大な敷地で、南側は佐鳴湖に面し、東西には堀が廻らされ、その内側には数多くの巨木が茂ってまるで遊園地のようだった
・この地は“曳馬野”に次ぐ景勝地で、湖面にあまたの鳥が浮かび魚が群れる光景を、範頼は愛した
・範頼がここで清遊(=上品な遊び)をしたので「御茶屋」と呼ばれるようになった
・その遺構は明治初年まで残っていたが、やがて耕地となってしまった。今は何も無い
・この場所の西に広がる田んぼを「源十西」と呼んでいる。これは「源氏西」の訛ったものだと思われる。
・この付近には他にも、富塚・御塚様・その他調査はされていないが古墳かと思われる塚が相当数あり、太古から人がいた形跡がある

だとのことです。

さて、考えねばならぬことは、①.なぜ範頼とお茶なのか? 範頼公が飲んだのはどんなお茶か? ②.どうしてこの場所なのか?ということです。
②に関しましては、浜松では範頼公は当地でヤンチャで格好良い貴公子に生まれ育ったのだとされていますが、あくまでその活動範囲は「蒲御厨」です。実際に蒲の地を歩いてみますと、地図で見る以上に広いことにビックリしてしまいますが(だって24の地区にまたがっていますから)、佐鳴湖は残念ながら蒲御厨の域外です。注目すべきは、蒲御厨の中にも他に「範頼の別邸」とされている場所があること。浜松での範頼は、そんなにいくつも別邸が持てるほどのリッチな身分だったのでしょうか。自分たちの領地の外にも別邸を建てられるほどの? 浜松の伝説では、範頼は蒲神明宮の神官のムコとなっていますが、その蒲神宮の権威(=伊勢神宮の権威)が浜松ではそれほどすごいものだったのかもしれません。実は佐鳴湖は蒲の域内ではありませんが、この「御茶屋」のすぐそばにも「富塚の神明宮」の小さなお社があるのです。(※「神明宮」というのは「天照大神」を祀る神社のことです)。当然、蒲の神官の息が少なからず掛かっていたことが予想されますが、そうなると、今も昔もこの地区の中心地だったと思われる「曳馬」(=浜松城のあるあたり)の当時の支配権がどうなっていたのかが気になってきます。
蒲神明宮は平安時代にはかなりの勢力をもっていたそうなので、蒲24郷以外にも権勢を及ぼせる場所があったのかも知れませんね。詳しくは分かりませんけど。

範頼と「お茶」について。
どうして浜松の人は範頼とお茶を絡めて語ろうと思ったのでしょうか?
浜松も静岡県の一部として当たり前のように重要なお茶どころであり、現在三方原でもどこでも随所に茶畑が広がっていますが、当然ながら源平合戦の時代にはお茶畑なんてものはこの辺りに無かったのだと思います。(喫茶の風習が日本にできたのは、鎌倉時代初期に栄西が禅の修行と合わせてお茶を飲むことを勧めてからだと言われている)。それ以前にもお茶は無かったわけではありませんが、ウィキペディアお茶サイトを見ると、平安時代までのお茶は煎茶や抹茶などではなく、纏茶団茶のようなもので(=これらがどんなものか良く知りませんが、ウィキを見ればあらかた分かりますね。これらが現在はほとんど飲まれないお茶であるというところが惜しい)、またお茶の木も古来から日本の各地に自生していたらしいことが書かれています。が、栄西の喫茶養生記には「日本は茶の葉を正しく摘み取る方法を知らない」「お茶の悪口をいう人が多い」とありますから、文化としてはともかく飲料としてはかなり一般的に広まっていたことは窺えますが(栄西が広めたのは抹茶)、でもそれはやっぱり貴族の生活での中でのものだったでしょうね。
さて、範頼公は源氏の公達で、平家を滅亡させた東国軍団の総大将でありながら、その評価は毀誉褒貶されております。さがみさんは温厚で有能で冷静に周囲のものを見つめている好青年に描いていますが、2ちゃんねるなどの場所では一部の人が「優れた武将だった」「むしろ暴れん坊だった」とか言われてますし、逆に小説等で弟の源義経と対比させられるときは「愚将」「凡将」と描かれることが多いと聞きます。私などには、評価が定まっていないからこと非常におもしろく感じられるんですけどね。数年前に石原良純が大河ドラマで演じた蒲殿は、温厚かつ優しくて、非常に良い感じだと感じられました。

が、お茶視点で範頼公を眺めると。
なんとも不可思議な感じになってしまいます。大事なことは「当時はお茶を飲む風習は、高貴な貴族のお洒落な遊びとして行われ、武士の間では一般的ではなかった」ということでして。伊豆にも「源頼朝が京での華やかな生活を偲んでたびたび曲水の宴のマネゴトをした場所」というのが伝説として残っていますので、浜松の範頼のコレも同種の伝説だとみなすこともできます。しかし一方で、浜松に伝わる伝説では範頼はずっと浜松で暮らし、源氏軍の総大将となるまでは一度も京へ行ったことがないのです。京の生活を偲ぶも偲ばないもないのです。範頼と深い関わり合いのある蒲神宮の神官の身分がそれほど高雅なものだったということでしょうか。うーーーん、それも考えがたいなあ。・・・・結局結論づけようとすれば、「日本一の茶の民族」を誇る静岡人が、郷土の英雄と茶を結びつける逸話をこしらえあげた、ということになるのでしょう。でも家康には茶の逸話が無いのが不可解ですし、逆に家康については100も200ものさまざまな昔話・伝説を作り上げた浜松人なのに、範頼のコレの場合はただ「範頼がここにいた」ということばかりで、それに付随する逸話はナシ。うーーーん。

ここからはお茶の県の民の妄想です。
日本にお茶を飲む風習を広めたのは、日本臨済宗の祖・栄西です。
(※それはまぎれもない事実ですが、実はお茶県・静岡では茶聖としてはその栄西よりも静岡市出身の聖一国師(=円爾;鎌倉時代中頃の人)の方が顕彰されている)
栄西は、前半生においては平家と深い関わりをもっていましたが、後半生、とても深く鎌倉幕府に接近することになります。その過程において、範頼とも面識があったんじゃないか。(その証拠は一切ありません)
栄西は生涯に2度、中国(宋)に渡っています。喫茶の作法を持ち帰ったのは2度目の帰国の時(建久2年)だとされますが、この時代、二度も入宋する僧などほとんど無く、栄西はそれがゆえに高く名を挙げたとされています。
実は一度目の渡宋(仁安3年)のあと、栄西は平家と親しくなります。とりわけ栄西を大事にしたのは天台座主の明雲(※栄西の号の「明庵」は明雲と関係があるとされます)と平頼盛でした。この頼盛つながりで、栄西は源氏の面々と知り合いになった可能性もあったんじゃないかと。
蒲冠者範頼が総大将として西国を転戦していた時期、栄西は備前あるいは筑前にいたとされています。栄西は一回目の渡航のときから宋で大流行のお茶に目を付けていて、その魅力を明雲や清盛や頼盛(や範頼)に常々語っていたとしても不思議ではない。また冷静に考えて、範頼が蒲御厨の外に別邸を構えられたのは、彼が相当な実力者となってから(=三河守となった以降)ではないか。

また、県民性の面から範頼を考察することも忘れてはいけません。
静岡県は東西にやたらと長く、県民性は東中西でハッキリ分かれるとよく言われます。いわく、「遠州強盗、駿州詐欺、伊豆乞食(=食うに困ったら、押しの強い遠江の人間は積極的に強盗をする、ずる賢い駿河の人間はすごく普通に詐欺をする。何もしたくない伊豆の人間は流れにまかせて乞食になる)」です。通説に反して、範頼公ってのは「進取の気風に富む」といわれた浜松人の代表人物ですよ。「貴族的なお茶」よりは「流行の最先端のお茶文化」に早くから目を付けていたに決まっていますとも。
え? 私は遠州に生まれましたが伊豆での生活が長すぎて完全に「伊豆乞食」に成り果てています。頼朝様も名古屋で生まれ京で育ちましたが、伊豆で青春時代を過ごしましたので、私と一緒。

なお、範頼様に遠州弁を喋らせますとこうなります。

語尾の「に」と「ら」の発音に一番の強点を置くこと。

余談。
蒲の地名の由来は「天龍川岸にたくさんの蒲の穂が生えていたから」だそうなのですが、蒲地区ではなぜか愛らしいマスコットとしてカバさんのイラストを用いることが多いようです。(※参考) だれでも考えることは一緒。「範頼様の愛馬も河馬だった」としたら楽しいですね。ケルピーとか浜名湖のアハ・イシュケ(河馬)だったりした可能性もありますけど。


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遠州 (さがみ)
2008-05-03 06:26:37
お久しぶりです。
ブログご紹介くださりありがとうございました。
冒頭の「カバ」笑ってしまいました。実は私も同様の発想をしたことが多々ありまして。
「範頼茶屋」確かに気になります。
当時お茶は相当の貴重品。「茶」とはいったいなんしょうか・・・
是非是非遠州の話題のお取り上げお願いします。
蒲殿に限らず、徳川家康公、徳川四天王やその他家臣の方々にも大変興味がありますので是非に!
返信する
静岡は茶どころですから。 (麁鹿火)
2008-05-03 23:48:36
さがみさんすみません。
また筆が止まってしまいました。毎晩ガンダムを観ながら眠ってしまうのが一番の悪因。どちらにせよ結論から言えば「見付けられなかった(笑)」になっちゃうのです(笑)。でも一応、追加情報としてこの記事の中で、浜松にある範頼遺跡の「蒲御厨」、「蒲神明宮」(=範頼の娘が宮司となったという伝説がある)、「竜泉寺」(=範頼の首塚がある)の説明をしてしまおうと思っています。思えば私は修禅寺の範頼の記事も完成させなかったのですのよねえ。さがみさんに自慢する気マンマンでしたのに。だから、今回ばかりはこれを完成させるまで新規記事は書かない所存ですよ。「中村屋敷」(=範頼の子孫を称する一族が江戸時代まで名族として存した)は別の機会に語ろうと思っています。
お茶については不思議ですよね。一応図書館に行って調べてみましたが、「今のとは全然違うお茶」だそうです。思えば浜松も静岡県の一員としてお茶に対する思い入れは格別ですから、だからこんな史蹟ができたんでしょうか?

これから、「さがみさんはこう言ったが、浜松では○○○~」という文言が頻出しますが、面白半分で言ってるだけなので気にしないでくださいまし。

伊豆での範頼についての伝承も、必ずきちんとまとめますので見捨てないでください。西国にも範頼巡りをいつかしたいですねえ。遠州では平宗盛と深い関わりのある熊野御前、平重衡と関係のある手越御前も面白いですよ。

>徳川家康公、徳川四天王やその他家臣の方々にも大変興味がありますので是非に!
わぉ!!
「次は榊原康政か大須賀康高にしよう」と思っていろいろと案を練っているところですが、書きやすいから岡崎信康か築山御前の記事になりそうです。でもさがみさんといったら井伊一族ですね(?)。井伊家でも面白そうですけど、実はこれが一番浜松ゆかりの一族で、書くのは大変なんです。
返信する
言い忘れ。 (麁鹿火)
2008-05-04 00:46:53
今日から浜松では浜松祭りが始まっています。
要は凧揚げと屋台による町練りのお祭りなのですが、この祭りはこの町では異様な熱気を持って毎年迎えられていて、でも最近地元で詳しい方にお話を聞きましたら、蒲殿にゆかりの蒲地区だけは、地元の神明宮の祭典の方が重要らしくて、この地区が所有する立派な屋台は余計な浜松祭りなどには提供しないそうです。(ウラは取ってないから真偽不明)
今日なんか、浜松祭りのせいで客商売な私は大混乱でしたから、蒲地区のその話は逆に興味が湧きます。浜松市民でありながら、浜松祭りよりも優先する事項があるなんて!
蒲殿もきっと立派な浜松市民として、屋台で練り歩くのが大好きな性格であったはずですよきっと。

かくいうわたくしは、いわゆる平成の大合併でいやいや浜松市に入れていただいた地区の住民でございますので、浜松祭りの伝統にあれこれ言う権利を持っていないのでございます。
返信する
軍人に戦う意義を問うはナンセンスだ! (麁鹿火)
2008-05-06 00:07:09
「新規記事では上げない」と誓ったのでこの場で報告させていただきます。

無事にガンダム00を全話観終えました。尻つぼみな性格の私であるゆえ、期限までに全部を観終える自信が無く(ギャオでは5/7までの配信となってました)、実際前半には途中で寝てしまうことが多かったのですが、後半に至ってあまりにおもしろすぎるゆえ、一心不乱に観耽ることになってしまいました。これはすばらしい作品でした。思うに歴代ガンダムシリーズでも最高傑作の出来ではありますまいか。話しは地味だけれど地味な魅惑満載でした。地味に面白すぎたおかげで早く観終えて長らく中断していた日記に取りかかれます。ありがたやありがたや。

やはり、わたしが最愛していたVガンダムとは正反対の方向性であったです。Vガンダムではごくあたりまえの少年が主人公で悲哀に満ちた英雄群像を描いていましたが、この作品では“選ばれた存在”である卓越したごく少数だけが出場し、一般民衆はほとんど描かれません。健気に生きる人不在のガンダムなんて。(左慈とルイス・キャロルだけが例外)。しかし後半に至って、全てのモビルスーツがガンダムとなってしまい、前半で圧倒的な優位性を示していたそれまでのガンダムたちは見る影を失ってしまうのです。なんたる逆心被虐。しかし、ザクが大好きで、中でもその祖先たるザクI(いわゆる旧ザク)が大好きなわたくしには(プロトケラトプスさらにはプシッタコサウルスが大好きなわたくしには)「ザクすらガンダムになってしまった」この展開には手に汗握ることが多く、非常に面白くありました。

相変わらず重要人物の数多くが死に、「えっ!?」と思う人まで死んでしまいましたが、中途半端な所で終幕。あわてて情報を探ると、ウィキペディアには「最初から前後半で構想されている」と書かれていました。なぁんだ。

改めて最初から見直したい作品ですが、もう時間的余裕がありません。どこかで「シャア的存在がいない」と書いた記憶がありますが、なかなかどうして敵の陣営が4つもあるせいで小シャアが何人もいる案配でした。パロディ的台詞は異様に充実していたと思う。戯画が大好きな私にはこれが最大の偏愛ポイントだったです。アリーアル・サージェスとアレハンドロ・コーナーは最高にイヤな性格の登場人物だったけど、素晴らしいシャアでありました。でも最高のシャアはユニオンのグラハム・エーカーでしたけどね。

ガンダムって、ほんといいなあああああーーー。
ま、無事に全部観終えたので、これから範頼と宗良親王の記事にとりかかるですよ。
返信する

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