オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

宗良親王の親縁たち(番外編その2)…康仁親王。

2008年03月17日 21時12分08秒 |   南北朝

高校日本史の授業で必ず習う「両統迭立」。鎌倉時代の中頃に天皇家が持明院統と大覚寺統のふたつの系統にわかれ、皇位争いを鎮めるために幕府が仲裁して「天皇はそれぞれの系統が交互につくことにする」と決めたという、民主的で極めて簡単な話であるのに。
約束通り約30年間のあいだは、それぞれが順番に天皇位について表面上はメデタシメデタシだったのですが(※全然そうではない)、ついに後醍醐天皇というとんでもねーヤローが、「俺は自分の息子に位を譲る」と言い張って、それが元凶で未曽有の大混乱の時代=南北朝時代が始まったのでした。私はこの「みんなで決めたことを守らない」自己中人間であるがゆえに後醍醐天皇が大っ嫌いだったのですが、まー、それがそれが、本を読めば読むほど、事は簡単ではありませんね。
むしろ元凶は後醍醐よりも、その父・後宇多法皇のように思えてきました。そもそもこの頃の天皇は多く子を産み分流しすぎです。現代の「子が生まれない」(そーでもないか。愛子天皇万歳!)天皇家に分けてあげて欲しい。また、「交互に順番待ちせよ」というのは最初から、お行儀がいいはずの天皇家のおぼっちゃんたちでもイライラしてしまうほどの、無茶な要求だったのですね。いい教訓だ。
さすがに細かい解説は私には無理ですが、さすがウィキペディア! わかりやすくまとめてあります。文保の和談の記事の方がタメになるかも。他人の諍いは見ていると楽しいですね。

鎌倉幕府も、こんなどうでもいいものの仲介に割り込んだ結果、散々にごねられまくったあげく、あげくには「幕府滅亡の原因」とまでされてしまうんだから、つくづくご愁傷様なことです。そもそも真の問題点は、「次の天皇を誰にするか」に名を借りて、「誰が上皇となって院政をおこなえるようになるか」だったのです。院政なんてもの、まだあったのか。平安時代の院政の全盛期から200年も経っているというのに。逆に言うと、あくまで「天皇位」にこだわって絶対に上皇となって院政をすることは考えなかった後醍醐天皇はエラかったのかもしれない。…それがさらなる迷惑の種でしたけどね。


「後宇多のゴウダは剛田タケシのゴウダ~♪」
しまった後宇多のマユゲ描き忘れました。

<持明院統・大覚寺統天皇表>
89.後深草天皇(持明院統/在位13年)
90.亀山天皇(大覚寺統/在位15年)
91.後宇多天(大覚寺統/在位13年) ※実質的な両統迭立の始まり
92.伏見天皇(持明院統/在位11年)
93.後伏見天皇(持明院統/在位3年)
94.後二条天皇(大覚寺統/在位7年)
95.花園天皇(持明院統/在位10年)
96.後醍醐天皇(大覚寺統/在位21年)

うーーん、法則性がわからん。一応順番になっているようにも見えますが、何かの本かサイトで「10年ごとに譲位するきまりだった」という文章を読んだことがあります。たしかに優れた善人であった花園天皇は在位10年で後醍醐天皇に譲位し、自分の日記に譲位する決意をした心境をつづっているのですが、それがすべてではないみたい。この表から言えることは、「調停役として立った鎌倉幕府が順番/在位年数のバランスを取ることにとても心を配った」ということでしょうか。ご愁傷様。後宇多が13年だったからそれに続く伏見が11年だったのを見て、続けて持明院が立つことを許し、後二条が7年だったから文保の和談で後醍醐に続いて大覚寺統の邦良親王が立太子することを提案したんですね、たぶん。しかし、前言は撤回。10年も自分の順番を待ち続けるなんて、お行儀の良い天皇家の人々しかできそうにないですや。文保の和談で持明院統の人たちがぶーぶー言ったのも当然だと思います。(…が、その文保の和談というのは花園の治世が終わり、後醍醐に順番が変わる変わり目のところでのことです)

問題の後宇多院。
彼は13年間天皇位にあり、伏見/後伏見期を経て、自分の息子の後二条天皇のときに院政を敷いた人ですが、1305年までは父の亀山法王が生きていて、頭が上がりませんでした。亀山法王と後宇多上皇は仲が悪かったと言われています。原因は父の女好きで、学研の『歴代天皇全史』には「後宇多の皇后の忠子が亀山の元に走った」というようなことが書かれています。それが不倫のことなのかは良く分かりませんが。その忠子の息子が後醍醐。当然、後宇多は息子・後醍醐のこともこころよくは思っておらず、母が違うもう一人の息子・後二条を溺愛しました。…こんな話、源平時代の前後にもありましたよね。なにやってるんだこいつら。亀山院は後二条の後の持明院統の後に後宇多の弟となる恒明親王を皇太子とするように遺言しましたが、父が死んで自由にできることになった後宇多は、その遺言を無視することにしました。
そこからの後宇多の行動が、わけのわからないところです。
最愛の息子、後二条は早死にしてしまったのですが、その息子に邦良親王がいました。当然、後醍醐とは仲が微妙な後宇多は、息子より孫の方が可愛いのでこれを皇太子にしようとします。が、その邦良親王は年少(9歳)で病弱。この子が成長するまで、中継ぎとして後醍醐を花園天皇の皇太子とすることにしました。…平安期には8歳の天皇なんて普通だったのにな。とにかく早く自分の息のかかるものを皇太子にしておかなければ、大嫌いな父が遺言した恒明が皇太子となってしまいますから、選択肢は他に無かったのです。(後宇多には5人の息子がいましたが、長男以外は全部忠子の息子だった。大好きじゃん、後宇多は忠子が)。で、「後醍醐を皇太子とする」と決めたら後宇多は後醍醐のことがなぜか大好きになってしまったみたいで、「こんな良く出来た息子はいない」と言い始めます。文保の和談のあと、後醍醐が天皇になると、最初は院政をしてますが、3年後(1321年)に「すべてを後醍醐に任せる」と言って自分から院政を停止してしまっています。ただし「次の皇太子だけはくれぐれも可愛い可愛い邦良親王にしてくれよ」と言って。その3年後(1324年)に後宇多は死去。

父が死んで、晴れて好き放題できるようになった後醍醐は、さっそくしたい放題始めます。彼の一番の不満は、「自分の次は持明院統の量仁親王が天皇となり、その次が邦良親王で、その次はまた持明院統が天皇となり、その次は邦良の子が天皇となる」というように40年先まで順番が決められてしまっていて、自分の子供たちの出番が無かったことでした。(すでにこの時点で後醍醐には尊良・世良・護良・宗良らの秀れた子供らがいました)。が、最初の頃の後醍醐が父の言いつけどおり皇太子を邦良親王のままにしていたのは、早速父が死んだその年に最初の倒幕運動・正中の変を起こそうとしたら、失敗してしまったからです。1326年にその邦良親王も病死してしまい、多分後醍醐は自分の息子の中から皇太子候補を決めていたはずですが、1331年に元弘の変を起こして逮捕された後醍醐は隠岐に流され、幕府は次の天皇を持明院統の量仁親王としました。これが光厳天皇です。幕府がその光厳天皇(持明院統)の皇太子と定めたのは、邦良親王の息子の康仁親王(大覚寺統)でした。そんな決定に文句を言わないなんて持明院統の人って行儀がいいなー。
しかしながら後醍醐は勝手に隠岐を抜け出して「自分が天皇である」と言い張り、1333年に後醍醐が鎌倉幕府を滅ぼして建武の中興がなると、康仁親王の皇太子を無かったことにして、自分の息子の恒良親王を皇太子としてしまうのです。あわれ康仁。
その後、いつまでたっても順番の回ってこない持明院側が怒って足利尊氏と結託し、北朝を立ててしまうようなことが起こりましたが、康仁親王には一切の出番がありませんでした。

…ところが、なぜかなぜか。(※実は今日はここまでが前置きで、ここからが本題)。
われらが遠州地方には、「康仁親王は遠州に来た」という伝承があるのです。
なんでまた。守永親王にしろ尹良親王にしろ、遠州の人ってマイナーな人の漂着伝説が大好きなのかしら。

浜松に伝わっている伝説では、康仁親王は浜松の佐鳴湖の南部にある入野に移り住んで、ここに木寺宮家を開いたといいます。木寺宮家とは、ウィキペディアによれば、「中世には常磐井宮家(=亀山法皇の皇子・恒明親王が祖)に次ぐ、立派な世襲親王家の体裁を備えていた宮家だった」といいます。すげー。…でもなぜ浜松に?
ウィキペディアのノートには、「康仁親王の子孫が遠江に住したことは確かだが、康仁自身が浜松に住んだという確証は無い(むしろ逆証はある)」としています。でも浜松にはちゃんと、「康仁親王がここにいた」という伝承があるんだもん

考えられることは、「佐鳴湖沿岸も宗良親王の勢力圏だったから、その庇護を求めてきたのか?」ということですが、問題は、同じ大覚寺統でも嫡流の後二条系から皇統を奪った後醍醐系(しかも劣勢)のところにわざわざ来るのか、というところですねえ。宗良親王は北遠の山に篭もりましたが、浜名湖や佐鳴湖沿岸の南朝方の拠点は、当初から激しい北朝方からの攻撃に晒されていたと考えられます。入野村なんて地理的から見て真っ先に陥落していたことでしょう。だとしたら考えられるのは、「木寺宮家の人々は早々に持明院統の北朝に降伏し、頑強な抵抗を見せる宗良に従う遠州諸族を降伏させる為の要員として遠州まで連れてこられ、見せつけのために裕福な待遇を与えられたのではないか」ということですね。よく分かりませんけど。哀れなことです。
ただし、「康仁親王の師は普明国師である」とされており、この普明国師の経歴を見る限り(この人は北朝で大きな影響力を持っていた夢想礎石の近縁ですが)、その薫陶を受けていた康仁親王も波瀾の人生を送ることを運命づけられていたと言えそうです。うーーーんよくわからん。ウィキペディアの記事を書いている人が「十分現地聞き取り調査もした」と言っているので、これ以上の詳しいことはわからなさそうです。

木寺宮家はその後数代続き、戦国時代には三河から侵入して来た徳川家康と交戦して甲斐に逃亡しているそうです。(つまり或る程度の戦力を持つ豪族として存していた)。この一族にどんなドラマがあったか考えるとおもむき深いですね。
木寺宮家の本流は家康のせいで消滅してしまいましたが、最後の本家の娘・定姫は浜名湖湾岸・舘山寺の大沢基胤に嫁いでおり、息子・基宿を生んでいました。ウィキペディアによれば、大沢家が江戸時代に「高家筆頭」となったのは、大覚寺統の木寺宮家の血を引いていることが重要視されたから、ということです。ほんとかよー。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする