新しく出たという吉川弘文館の『吾妻鏡』を立ち読みしてきました。
現代語の訳は、とっっても読みやすいなぁ~~。神経の注がれた平易な訳だなぁ~~。でも今の私には到底これ(各巻2200円)は買えない。全16巻もあるんですもの。い、いつか必ず金持ちになって…(言うのも虚しくなってきました) 注とか「吾妻鏡のおかしいところ」とかの記述がもっと充実していたら、きっと買ってしまったと思うんですけどね。我慢我慢。
さて、だいぶ前から吾妻鏡の記述で、気になっている事があります。
石橋山の戦いにおける、北条宗時の死についての真相です。
現在彼のお墓は、JR函南駅の裏にあるんですが、どうしてこんなところにあるのか。そして、彼はどうしたわけだか、狩野工藤介茂光と隣り合って墓が建てられているのです。しかも、伊豆の大豪族だった狩野茂光の墓よりも、宗時の墓石の方が遥かに大きいという。どうしてこんなことになっているんでしょう?
石橋山の戦いについての記録は、『吾妻鏡』と『源平盛衰記』、それから『延慶本平家物語』の3つだけに絞っても良いと思われます。さらに延慶本では宗時について、工藤茂光の心打たれる死と頼朝の彷徨の記述の間に「北条が嫡子、三郎宗時も、伊東の入道祐親法師に討たれにけり」とさらっと書かれているだけなので(時政・義時と別れた場面も描かれていない)、とりあえず放置しておいていいと思います。
なので、吾妻鏡と源平盛衰記の記述を見比べてみましょう。
≪吾妻鏡≫ 治承4年8月25日
「武衛(頼朝)は、椙山の堀口の辺に陣した。大庭三郎景親は三千余騎を率いて競い追ってきた。武衛は後ろの峰に逃げた。(中 略) 撃つための矢も残り少なくなったので、景廉が頼朝の駕の轡を取って山の深くに引こうとしていると、大庭景親の兵たちがすぐ近くにまで迫ってきた。高綱・遠景・景廉らは、引いては留まって矢を撃ちまくる。北條殿の父子三人は、景親たちと戦っているうちに疲れ果て、山の峰に登ることはできなくなってしまい、武衛(頼朝)についていくことができなかった。加藤五景員・加藤太光員・加藤次景廉・宇佐美三郎祐茂・堀藤次親家・宇佐美平次實政らが、御共に参りますと言う。北條殿は皆に、敢えてそんなことはしてくれるな、早く武衛(頼朝)を探し出せと命じ、皆が走り回って数町の険阻な山をよじ登って探すと、武衛は臥木の上に立って待っていた。土肥實平がその傍らに従していた。武衛は皆が集まったのを見て、非常に悦んだ。(中 略) また北條殿と四郎主(義時)は、筥根湯坂を経て甲斐の国に行こうとした。三郎(宗時)は土肥の山から桑原に降り、平井郷を通ったところで、早河のあたりで祐親法師の軍兵に囲まれ、小平井の名主・紀六久重に射取られた。茂光は進退窮まって自殺したという。将(頼朝)の陣と彼等の戦場は、山谷を隔てていて、傷を癒そうにもその場所もなく、哀慟千万したという」
…私の気になるポイント。頼朝が「椙山の堀口」に陣取ったということは、その場所は山に入る手前の地点ですよね。そこで激しく戦って疲労困憊して山を登れなくなったってことは、北条親子と頼朝が別れたのは山と平地の境目ってことです。時政が脱落しようとしたとき、加藤親子、宇佐美、堀といった人たちが時政と行動を共にすると言ったというこのはどういうことか。(頼朝が先に進んでいる状態でそんなこと言うはずがない。むしろ「北条はしんがりを見事つとめろ!」ぐらいは言うと思う)。そしてここで時政・義時と宗時は分かれるわけですが、時政は「箱根湯坂を通って甲斐に行く」と言う。…どういう作戦じゃ! 甲斐に行くのに箱根湯坂を通る必要なんて無い。わざわざ遠回りして敵地の真ん中を通っていくようなものです。大体、その地点から甲斐に行く最短ルートは椙山→日金山→芦ノ湖西岸→御殿場なはずです。でも彼らにはその体力は無いはずだ。もしかして土肥に抜けて海岸沿いに敵中を突破するつもりか。同様に、宗時の選んだルートにも疑問を抱くわけです。そのルートを行く体力がないから頼朝と別れたんじゃなかったのか。椙山→日金山→桑原→平井まではいいとして、「早河」という地名は、函南町には存在しないのです。そして、上記の文では北条宗時と狩野茂光らが行動を共にしていたかどうかは分かりません。
≪源平盛衰記≫
楚効と荊保の事
北条次郎宗時と新田次郎忠俊が馬の鼻を返して戦っているうちに、甲斐の平井冠者義直が新田忠俊に馬で突っ込んできて、組み合って馬から落ち互いに差し違えて死んだ。北条次郎宗時が、波打ち際を歩いて逃げていると、伊豆五郎助久が挑んできて、取組んで落馬した。二人は虎のように戦って、互いに命は失ったが、名は留めた。
兵衛佐殿、臥木に隠れる。 附けたり梶原助が佐殿を助ける事
兵衛佐殿(頼朝)は、土肥杉山を守り、山をかきわけかきわけ逃げていった。伴には、土肥次郎実平、北条四郎時政、岡崎四郎義真、土肥弥太郎遠平、懐島平権守景能、藤九郎盛長ら。逃げていく彼らを、大場景親は曽我太郎祐信に案内させて三千余騎にて追いかけた。杉山は狭いところで、隠れる場所が無い。田代冠者信綱が大将を逃すために、高い木に昇って矢を射まくった。敵の三千余騎は田代のせいで山に入ることができなかった。そのすきに佐殿(頼朝)が鵐(しとど)の岩屋という谷間に下りて見廻すと、7、8人が入れそうな大きな伏木があった。しばらくそこで休んでいると、皆が追いついてきた。佐殿は言った。敵は大勢だ。しかも大場は曽我を案内者にして山をしらみつぶしにしている。大勢だときっと見つかる。散開して逃げようではないか。命があったらまた会おう。(中 略) 頼朝は山を出て、安房から上総へ抜けると告げ、その時にまた皆も急いで集まってくれと言葉を尽くして言うと、皆は思い思いの方向へ落ちて行った。北条四郎は甲斐国へ向かった。兵衛佐殿(頼朝)に従って山に籠った者は、土肥次郎実平、同男遠平、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長だった。
…気になるポイント。源平盛衰記でも北条宗時の死は狩野茂光の死と並べて書かれているのですが、順番が入れ替わっていて、茂光の方が先に死んでます。さらに、明らかに工藤茂光と北条宗時は別々の場所で死んでます。源平盛衰記では宗時の死んだ場所は明確ではないのですが、注目すべき箇所は「波打ち際を歩いて逃げていると~」という文章。彼は海沿いに逃げているのです。(海の無い函南町ではありません)。「歩いて」とあるので徒歩で逃げているのかと一瞬思うのですが、続く文章で宗時もこの時点では馬に乗っている事が分かります。さらに宗時を殺したのは吾妻鏡の小平井紀六久重でなく、伊豆五郎助久(…だれ?) 北条宗時と時政・義時親子が別れたのは、戦いのかなり始めの頃です。話し合って別々のルートで甲斐に逃げようと決めた時間的余裕は感じられません。むしろ事前に「何かあったら甲斐に逃げよう」と家族で話し合っていた可能性はあり、逆に「別々のルートで」などという可能性はないんじゃ? 宗時も時政も同じルートで箱根湯坂から甲斐に抜けるつもりじゃなかったのかしら。
と、まあ、吾妻鏡と源平盛衰記では書いてある内容が微妙に違うわけです。「吾妻鏡と源平盛衰記ではどっちの方が信頼できるのか」と問われると「うーーん…」と言いたくなってしまうのですが(個人的には○○の方)、ここで注目すべきは延慶本平家物語。なんでも各種平家物語の中でも延慶本は一番古い形だそうなのですが、延慶本の事件の流れは源平盛衰記のものと一致していて、源平盛衰記は延慶本の記述に乗っかってさらに増補したものだと言えます。(他の平家物語には石橋山の詳しい記述はない)。だからといって延慶本が正しい情報を載せているとはいえないわけですが、吾妻鏡よりはこっちの方を重視したいなぁ~。さらに源平盛衰記の場合、延慶本では「三郎宗時」と書かれているのをわざわざ「次郎宗時」と書き換えていたり、吾妻鏡にも延慶本にも出てこない「新田忠俊」(=仁田忠常の兄)を登場させていたり、独自の資料を参照した上で文章を補強していったらしい様子も窺えます。(函南町にある仁田家に伝わる家伝でも、新田忠俊は真鶴で死んだ事になっている)
結局の所この2つを眺めていても納得のいくつじつまは思いつかないのですが、やはりこの矛盾は人を悩ませるらしくて、昔から伊豆の郷土史家たちによって、次のように解釈されています。
≪増訂豆州志稿≫(明治時代に萩原正平が豆州志稿を増補して書いた)
頼朝の頃は、伊豆山-十国峠(日金山)-丹那-桑原-平井に抜けるルート(現在の「熱函道路」ですね)は最も一般的なルートで、この道を使って逃げようとした北条宗時の考えは全然不合理なものではない。早河という地名は函南には無いが、これはここを流れる「冷川」のことである。
≪伊豆鑑≫(…これ、どういう本だったんですっけ? 失念)
治承四年八月廿四日、石橋の御陣敗れしかば、北条時政父子三人、佐殿に別れまいらせ、甲斐国に落行ばやと、箱根山に□□□□嫡子三郎宗時は心細くも杉山を下り、桑原を見かけて平井の郷を落行く所に、伊東入道□心、同九郎祐清父子、早川口に陣取って居たりしが、此所に来り宗時を見付、能く敵ぞ遁すなと真中に取籠め、火水になれと攻蒙、宗時素より剛強の人なりしかば、敵の中に切入りて死生をしらずに戦はる。妻良三郎忠喬・千原七郎政光・松崎八郎重信等、我れ討ち取らんと勇み進むといへども、宗時これを事共せず、左に当て、右を払い、敵六七騎斬って落とし欠け破り飛ぶが如く桑原の方、箱根道を目当てに返し給へと詞をかく。かへしに難き事あらんと宗時かへさる処を、紀六よっ引、兵(ヒョウ)と射ければ、其の矢宗時の胸板をかへして射通さば、犬居、百(トウト)伏しけるを走り寄て首を取り、伊東が陣へ持行きけり。
…むかしのことなので、私とは逆で、記述がどうしても吾妻鏡を贔屓にしてしまうんですね。形の上では吾妻鏡が「公式記録」だから。伊豆の歴史好きは地元大好きな人ばかりなので、どうしても地元の人(平井紀六久重)を活躍させたくなるということもあるのだと思います。(紀六重久は平井郷の領主で、地元の伝説では廉直な人だったので頼朝の陣に参じようとしたが、北条らに軽く扱われたので怒って平家方に付いたと語られる人物です。伊東祐親と親しかった。) しかしながら、「熱函道路を伝って逃げてくる敵を一網打尽にするために、伊東祐親が出口で網を張って待ち構えていた」という描写はおもしろいですね。実際にありそう。みんなこの道を混乱して逃げてくるでしょうから。頼朝主従が杉山で時間を浪費しているうちに伊東・大庭は策を張り巡らしていたのです。伊東の配下に妻良・千原・松崎という西伊豆の名前がたくさん出てくる事も興味深いです。のちに伊東祐親が南伊豆に潜伏するのですが、そこに乗り込んで祐親を捕らえる天野遠景の冒険もスリリングなイメージになる。そしてここに出てくる伊東祐清、やたらと血も涙もない感じなのが良い。八重姫に頼朝を手引きして伊東から逃がしたときの祐清はあんなに優しかったのに、祐清はどうして宗時にはこんなに厳しいのか。北条宗時の母は伊東祐親の妹で、つまり宗時と祐清は従兄弟なんですよ。
ということで、あとは思いついたことを適当に。
- とにかく私が腑に落ちないのは、宗時が死んだとされる「早河」という地名です。これはやっぱり小田原の(石橋山の近くにある)早川じゃないのか。両書に書かれている記述で腑に落ちないのは、「北条親子が甲斐に行こうとしていた」ということです。北条氏が甲斐武田氏と以前から親しかったとして、「何かあったら甲斐に行こう」と打ち合わせていた事は十分にあり得ることです。でも、だとして時政はどうして「箱根湯坂を通って」甲斐に行こうとしたのか? また宗時は函南に向かってからどこに向かおうとしていたのか? 時政が「甲斐に行く」と言ったと言う事は、「北条郷は捨てる」ということです。(そのために政子と大姫を熱海に避難させていたんですし)。宗時が土肥郷から函南に向かう必要は無いんじゃないか?(←甲斐に向かうのならば)。逆に、「北条氏が甲斐にいくつもりだったというのは本当か?」という疑問も湧いてきます。この局面で北条が「頼朝と離れる」と決断したということが、一番納得いかないことです。頼朝を甲斐に連れて行くか、山木攻めでしたように一緒の死を迫ればいいのに。甲斐へ行かないのならば、函南へ向かうというのは納得できます。
- 「甲斐に行く」という記述は吾妻鏡と源平盛衰記で一致していますが、吾妻鏡では時政が土肥郷で頼朝と別れたあと、翌日に(頼朝の行く先を確認しなければ甲斐武田も納得しないと考えて)頼朝のもとに戻り、その2日後に頼朝に先だって舟で安房に向かったとあります。実際には時政は安房には言ってませんので、このあたりの時政の行動の記述には注意が必要だと言われております。
- 私の適当な推理。吾妻鏡と源平盛衰記の都合のいい箇所を組み合わせて考えるのがいいんじゃないか。私はこういう記録では文中に記された地名を重要視したいんです。(吾妻鏡には波志田山など実在しない地名が出てくる事もありますけど、この早川は実在する早川であるに違いない)。石橋山の戦いの激戦の最中に、時政・義時と宗時ははぐれてしまった。勢いに押されて宗時は真鶴付近まで後退したが、山に隠れた頼朝を捜すために大庭・伊東軍が散開したのを見て、山中を逃げるよりも馬で敵中を突破して箱根道を通って甲斐に逃げる方がいいと考え、海沿いに北上した。(「箱根湯坂を通って甲斐に行こう」と言ったのは実は宗時なのです)。しかし早川付近で紀六重久に見つかって戦死。多分、頼朝が隠れたしとどの岩谷は湯河原ではなく真鶴のもので、そこで頼朝と別れた時政も(まだ宗時の死を知らなかったので)宗時を追っていくつもりだったのですが、しかし箱根に近づいた所で宗時の死を知ったので、甲斐に行く事を止めて引き返したのです。
- 「宗時を殺したのは誰か」ということですが、吾妻鏡では憎い仇として紀六久重の名前が3度現れ、捕まって翌年4月に処刑されるまでの記録がしっかりしていますので、彼だと断言してもいいんでしょう。だからといって、宗時が死んだ場所が紀六久重の領土内だったかどうかということは、考慮が必要だと思います。(紀六も石橋山に参陣していたんですし)
- 私がここまで「宗時が函南で死んだ」という説を否定したいのは、実は図書館で読んだ函南に伝わる伝説で、「函南の武将たちは北条時政のことをひどく嫌っていた」(笑)というものがあるからです。(宗時は暴走する父親のなだめ役でしたけど)。北条氏を嫌っていて(一応味方なのですけどね)、追っ手も沢山待ち構えているだろう函南に、賢い宗時がわざわざ向かうとは思われません。
- ではどうして函南に宗時の墓があるのかということですが… たぶん、紀六久重は石橋山方面にいたのですが、平井紀六の主人である伊東祐親が紀六の屋敷を落ち武者狩りの宿所として、この場所で狩野茂光と北条宗時の首実検をおこない(狩野茂光の首は息子の親光が持っていったので胴体だけだったのでしょうが、祐親入道にとっては茂光も宗親も大事な愛する親族だったはずです)、近くの見晴らしのいい場所でそれを並べて供養した場所なのじゃないでしょうか。吾妻鏡が編纂された時期には、宗時が死んだ場所は早河だと伝えられていたが、墓が函南にあるために、編者がつじつまを合わせるためにこのような記述にした。
不思議な事に、この北条宗時の墓は、現在でも「ときまつさん」「ときまっつぁん」と呼ばれているのだそうです。最初、地元の人が間違って「北条時政が死んだ」と伝え聞いた事からだそうです。この場所に「宗時の墓」があるとされたのは結構古くて、吾妻鏡の建仁2年6月11日には、時政の夢の中に「桑原の宗時の墓に行け」というお告げがあったという記述があります。正確にはここは桑原じゃなくて隣の平井なんですけどね。また、付近の三島山法華寺というお寺には、寺伝に「治承4年、伊東祐清が北条宗時の為に当寺に於いて法会を修す」という記録があるそうです。時間的な余裕から言って、石橋山合戦直後のことですよね。宗時と祐清は仲の良いイトコだったのだと思います。
ま、宗時がどこで死のうがどんな戦いぶりをしようが、結局は早死にして歴史に何も残さなかった人なので、どうでもいいことです。逆に長生きされてしまったら、弟の“怜悧な宰相”北条義時の出番が無くなってしまうので、「日本の歴史のためには早死にして良かった人だ」とも断言されてしまう、かわいそうな人です。たぶん伊豆の住民で北条宗時の名を知っている人も少ないでしょう。でも、、、、、 永井路子や吉川英治の小説に出てくる爽やかでちょっとイジワルでロマンティックで頼りがいのある彼が大好きなわたくしたちからしたら、、、、 伊豆の歴史の中に彼がいて良かった
右が北条宗時の墓石、左が“為朝退治の英雄”狩野茂光のものです。泣きたくなってしまうぐらいちっちゃいです。ま、この時代は墓石を大きくしたり派手に飾るとかいう習慣の無かった時代でしたのでね。