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オセンタルカの太陽帝国

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信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

築山御前。

2008年02月25日 02時40分08秒 |   神君家康

昨日うっかり「浜松での最強の敵・築山御前」と書いてしまったんですが、築山殿ってずっと浜松でなくて岡崎に住んでいたんでした。また、無残に彼女が殺された地である浜松では、地元の歴史を愛好する方々を中心に、「築山殿は決して我儘意地悪陰険な女性ではなく、心の優しい清らかな美人だった。彼女を悪女としたのは神君を祭りあげようとする後世のでっちあげである」と主張する声もたくさんあります。ご当地ならではですね。「浜松の家康にとって最大の脅威だった築山御前」と訂正させてください。
かつて山岡荘八が『徳川家康』を執筆していて取材のために浜松を訪れたとき、築山殿の墓所のある西来院の御住職が、「築山殿は被害者である。現在は築山殿を悪者とする小説しか無いが、浜松にはそうではないとする伝説もたくさん伝わっている。ぜひ新たな視点で無実の築山殿を描くということをやってもらいたい」と申し入れたら、山岡荘八は「お気持ちは分かりますが、小説としてはおもしろさを重視しないといけませんから」と言って断った、といいます。いや、お気持ちはわかりますが(双方とも)。
かくいう私も、築山御前が大好きです。エヘヘ。

築山御前は桶狭間の戦いのあと独立した家康に、2年も経ってから人質交換で岡崎に引き取られたのですが、その頃の岡崎での反今川感情はものすごく、岡崎城へ入ることが許されなくて城外の屋敷に住まわされたといいます。その屋敷に人工の山があったので「築山御前」というんですって。つまり、結婚して5年間は(まさか瀬名姫と呼んでいたことは無いでしょうから)別の通称だった可能性もあったわけですね。ウィキペディアによると、築山御前を一番嫌って城に入れることを許さなかったのは、家康の生母の於大の方だったそうです。…ううう、不憫。彼女が幽閉されていたのは惣持尼寺だとか。…ただし、これまで「築山殿は家康とは10歳も年の離れた姉さん女房で、だから高飛車で尊大で誇り高くて年下の夫をバカにした」と言われてたような気がするのですが、ウィキペディアでは家康と同じ年の生まれということになっています。最近の研究ではそうなってしまっているのかしら?

「信康自害事件」については現在でもいろいろな説が飛び交っているそうですが、「築山殿を殺したこと」については、地元浜松では「家康は本当に妻を殺すつもりはなく、野中某によって打ち落された妻の首が運ばれてきたとき、家康は「なんてことを」とつぶやいた」といいます。私はあまり本をまだ読んでいないのですが、新田次郎の『武田勝頼』でもそういう描写でしたね。

河村恵利のマンガ『五徳春秋』でも、やたらと優しくて気がつく築山御前が出てきましたっけ。ここまで「いい人」だと調子が狂いますけど。


こんな感じだった。

でも、人がいいところを信長に付け込まれて徳川家はひっかきまわされて、最後に築山殿は織田家と五徳姫を激しく呪いながら死んでいきます。

でもこのマンガでは、家康(25歳ぐらい)も(↓)このような感じなので、注意が必要(笑)です。ダレやねん。

   

静岡市出身の作家・諸田玲子も築山殿の真実の姿に迫る小説を発表しているようです。これは見つけてこなければ。調べてみると、他にもたくさん築山殿は小説等になっているようです。私はちっとも読んだことないや。

一方で、実は、個人的には、家康に激しく厳しく誇り高く激烈に激昂して迫る築山殿の姿にも惹かれるところがあります。志木沢郁氏の『結城秀康』に、決して出番が多くはないもののやたらと存在感がある築山御前が描かれ、一度だけ家康に罵詈雑言を浴びせるシーンが出てきます。あそこで私は痺れた。私は別にマゾヒストでは無いんですが、どうしてかと考えたら、なんか千代姫に似ているんですよね。立花山城を持っていない千代。家康が宗茂と同じぐらいマゾ人間だったら、結構幸せにやっていけたのかもしれない。←適当な憶測。

浜松の伝説では、築山殿は死ぬとき「未来永劫祟ってやる」と叫んで(別の伝説では静かに合掌しながら)死んでいったといいます。築山殿の首を落とした野中三五郎重政の家には以後さまざまな怪異が起こり、また家康のもとにも夜な夜な小さな蛇の姿となった築山殿の霊が訪れて、呪いをささやき続けたといいます。

が、ちょっと解せないのは、現在築山殿の墓所は浜松城の近くにある「西来院」にあるのですが、「築山殿の首塚」というのが、「信康の首塚」のすぐ近くの岡崎市の「八柱神社」にあることです。
当時家康は浜松城にいて、息子の信康も二俣城に監禁されていました。築山殿の首は、誰に見せるために岡崎に運ばれたのでしょうか? 信長? それとも築山殿を憎んでいた岡崎の人たち? むしろ岡崎の人たちは築山殿を慕っていて有志の人たちによって奪われ葬られた?(その可能性はなさそう。岡崎の人たちの築山感情ってどんなものだろう?)


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20 コメント

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郷土のスター、というもの。 (j.k)
2008-02-25 22:03:33
 ははぁ、吉良上野介の事を思い出しました。
 今でも赤穂市と吉良町の住民の間では緊張関係が続いているそうですよw
http://www.town.kira.lg.jp/pub/kyouiku/sanninsyu/kirakou/index.htm
 歌舞伎の世界では忠臣蔵は独参湯と呼ばれ、大入り間違い無しと言われてきましたが、ここ数年は「その実像はどのようなものであったか」という姿勢の本や映画、ドラマが増えていますね。
 (実際の大石蔵之介は、好色で酒好きで公金の使いこみを平気でやるような汚職役人だった、という記録もあります・・・山城時代の放蕩三昧は芝居ではなかった?井上ひさしの本では、赤穂藩は年貢や各種の税の取立てが厳しく、浅野家は領民から嫌われており、内匠頭切腹の折は赤飯炊いて祝う家もあった、とあります)
 日本のアニメでは『機動戦士ガンダム』辺りから単純明快な勧善懲悪物が減り、敵役は人間的にも陰影に富んだ、いかにもリアルな魅力的なキャラとなっていきます。
 シャア・アズナブルはずいぶん息が長いキャラですが、それは彼が単なる悪役ではなく、むしろ苦悩しながら成長していく人間味あふれた人物であるからでしょう。
 山岡荘八が現代の小説家なら、住職のお願いも充分考慮しつつ執筆した事でしょう。その方が面白い。
 (吉川英治などは、織田信長ですら優しく描いてしまいますが。作家としての資質の違い?)
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御当地ヒーロー。 (麁鹿火)
2008-02-26 04:24:20
スターのいる土地は大好きです
全国どこにいっても似たような街しかない今、家にいても全国の珍味をお取り寄せできる時代なのですから、歴史的な遺産だけが十分に差別化を実現できる個性になりうると思うんですよね。これで県民性を分かりやすく説明できるし。郷土のスターがある土地は幸せです。
ちょっと度を越した判官びいきも、とてもいとおしい。似たようなのでは、「”殺生将軍”源頼家は本当は子供を愛する優しい人だった」(修善寺)とか、「”殺生関白”羽柴秀次は名君だった」(近江八幡)とか、「石田三成は大人物だった」(佐和山)とか、「今川氏真は蹴ることにおいてだけはペレ級だった」(清水市)とか、いろいろありますね。
逆に、例えば群馬では「足利市と新田町のある太田市は隣り同士だが最近まで結婚が両者でおこなわれることはなかった」と聞きます。ここまでなるとなかなか大変です。赤穂市と吉良の場合はかなり遠いですので、その意味では平和ですね。

シャア・アズナブルも別な性格づけで語られるようになったら、日本を代表する真の歴史ヒーローですね(笑)。歴史愛好もアニメも物語メディアも、どんどん変遷しつづけていると思います。

関係無いですが、まだ私は浜松の歴史に疎いものですから、数回図書館へ行ったのですか、こういっちゃなんですが伊豆の方が遙かにやっぱり土地としては面白いです。だって浜松って家康しか無いんだもん。しかし、本の数・資料の豊富さ・面白そうな研究家はこちらの方が十数倍圧倒している。やっぱり人口の差が歴史愛好みたいな超微細な分野でも巨大に支えてるんですね。でも逆に言うと、「ここで今更わたしがするべきこと」を見つけられないんです。おもしろそうなことはみんな大勢の人が詳しく調べてるよ~~。思えば伊豆は良い感じで茫白としてました。伊豆時代の源頼朝のことなんて、ごく一部分の分野だけしか興味関心は持たれてなかったのに~~
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Unknown (ほげほげゴルファー)
2011-08-16 21:30:04
個人的には、築山御前は平凡な「主婦」だったのではと思っています。
但し、信康はともかく、時期的に信康の2人の姉は今川家で別の父親の子だったのではないでしょうか。
まー一番のところは、マゾく生きられなかったこともあると思いますが、浜松を拠点に少しずつ実力をつけ家康が手応えを感じてしまったことで、いろいろ周囲に不満が噴出するようになったのかもしれません

そう考えると、信長の「信玄は危険、家康は遠江を放棄し、吉田城に本拠を移せ」というのは、史実における三方原回避の秘策であると同時に内紛防止策であり、非常に深慮遠謀なアドバイスだったということになりますね。

あーあ信長が生きてたらなァ
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覇王の家。 (麁鹿火)
2011-09-01 02:09:18
ほげほげさん、こんちは。
レスが大変遅くなって面目ございませぬ。


ゴルファーさんは愛知県の方ですね。
静岡市出身の諸田玲子氏による小説『月を吐く』の愛読者であるわたくしには、ゴルファーさんの意見には賛同できかねます(^^)

築山御前は決して平凡的主婦ではなく、夢見がちなロマンティックな経世家だったと思うからです。
そもそも「高貴な生まれ」という時点で「平凡」ではないのでは? もちろん「主婦」でもなかったと思う。

築山御前は一度も浜松には住んだことのなかった人でしたが、しかし(彼女が殺害された場所となった)浜松での築山御前に対する哀惜と評価は、なかなか微妙なものになっておりますね。


せっかくなので、列挙してみましょう。

●藤長庚『遠江古蹟圖繪』(江戸後期)
「神君が浜松にあった頃、築山御前は常に付き添っていた。(中略)神君は野中三五郎に妻の殺害を命じた。三五郎は御前に言った。「浜松から一里離れたところに三ツ山という景勝地があります。天気がいいので皆で遊びに行きましょう」。そして、弁当・茶・風呂などを持たせ、女中を大勢引き連れ、遊覧された。頃は8月晦日、木々は紅葉し空気が澄み渡る中で、山の上から綺麗な佐鳴湖を見下ろしながら、皆で弁当を開いたとき、三五郎は大鑓を構えてそろそろと築山殿の背後から近づき、御前の脇腹を突き刺した」
「築山御前の幽霊は三五郎の寝所に現れるようになった。恨めしや、汝よくも妾を欺し討ちにしたな。我も武士の娘、不義のこと知りたまわば、その旨言わば派手に自害して見せたもうたのに。女ながら不覚をし、欺されたという恥を残したことが口惜しくてならぬ。さらば汝を冥土の供に連れ行かん、と言って、三五郎の喉に喰いついた。三五郎の女房や子供も死んでしまった」

●本田猪三郎『三方原合戦』
「築山御前の廟は、浜松空襲によって破壊されてしまった。西来院30世鈴木拙光住職は、廟堂再建を悲願とし、史料・資材を集めていた。こうした住職の一念が通じたのか、あるひとりの婦人が昭和51年4月に墓前に詣でたとき、あまりの荒廃ぶりを見て「夫君家康殿は豪華絢爛な東照宮に祀られているのに、その正妻である築山御前のこのお姿、同じ女性として見るに忍びない」と、多額の浄財寄進を申し出られた。これが発端となって、心ある人々が次々と寄進をした」
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風は山河より。 (麁鹿火)
2011-09-01 06:17:39
上段の「あるひとりの婦人」とは、いろんなところに寄付しまくることで有名な富士山の普明会教団の第2代目会長・鹿島愛子氏ですってよ。この方、もう故人かしら。

●本田猪三郎『三方原合戦』
「家康は、重要な東方進出と甲斐武田信玄の遠江侵略に備えて浜松城に移り、築山御前と信康は岡崎城に残った。家康が築山御前を岡崎に残したのは、信康の母としての故であり、またひとつには信長への思案もあってのことだろう。築山御前は岡崎城に入ってからは、織田氏との同盟のこともあり確かに夫家康との仲もうとうとしかったであろうが、この浜松と岡崎の別居が、後世において二人の性格不一致による不和、更には築山御前が傲慢妬奸な女性であったというように取り沙汰される要因を生んだものと思える」
「築山御前(37歳)は次々と襲いかかる衝撃に身も心も乱れたが、その重圧に抗せさせるものは血みどろな女の執念“信長復讎”だった。(中略)信長の策略に荷担黙視し、松平派をリードする51歳於大の方の存在比重は確かに大きいが、一説される築山母子殺害は於大の方の命令によるという説は(年齢の観点から家康や信長の関与の方がもっと大きな比重を占めると思われるから)、疑問が多すぎるのである」

●宮城谷昌光『古城の風景Ⅱ』
「関口義広の妻は今川義元の妹であり、そのふたりの間に生まれた築山殿は、当然のことながら気格が高かった。しかも美貌であった。若い家康はその妍芳に耽溺して子を産ませたが、やがて美貌の下にある精神の顔がさほどうるわしいものではないことに気づいて、酔いがさめるように愛情を澆訛させた」

…ゴルファーさん、信康にはふたりも姉がいましたっけ? もしいたとしたら、確かにその父種は家康では無いことに間違いはありませんが。

「なぜか廟にだけ陽が差していて、ふしぎな明るさがあった。廟の中はさすがに幽いが、築山殿の墓石に陽光がとどき、きよらかな美しさを感じた。参詣を終えた原田維夫さんもしきりに「美しかった」と、いった。墓に詣でてそういう気分になるのはめずらしい」

●神谷昌志『川家康伝』
「家康が反今川色を打ち出し、尾張の信長と同盟関係を結んだ時点で、家康は築山御前を捨てたと考えられる。駿河にいた築山御前は、夫である家康が今川に反旗をひるがえし、岡崎城にとどまっことに強い不信感をいだいたであろう。今川氏の本流に生きてきた彼女は、反今川に走った夫家康を許せなかったであろう」
「築山殿は今川の人間としてのプライドを持ち、義元を討った織田を憎み、その心が信康の正室としての徳姫憎さにつながり、やがて徳姫をして父信長に信康と築山殿の動きを知らせる行動に走らせた」
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影武者徳川家康。 (麁鹿火)
2011-09-01 14:45:06
●浜名湖国際頭脳センター『浜松情報BOOK』
「江戸時代の書籍には「名門の血筋を鼻にかけ、傲慢で嫉妬深い情勢」など、悪く記されたものが多いが、近年では、家康が殺害させた理由づけではなかったか、という見解もある」

●本田猪三郎『浜名湖畔誌』
「信康殿は二俣に、妾は何処の路傍に果てようとも、母子ふたつの紲は何人からも離ち断つことはできぬ。夫家康殿にはさらさらお恨み申すことはなきが、ただ鬱憤を信長殿に晴らさざるることこそ今生の恨みぞ」
「衣を改め頭髪を櫛り死の座についた築山御前は、長く深い苦悩に悶えた頬は衰え、青ざめ血の引いた口唇の許に合わす手はわずかに震えていた。やがて重政はうしろに回ったが、お痛わしや、と思う心の動揺に、太刀をおろせなかった。そのとき「三五郎殿、はように……」 築山御前の言葉に思わず重政は太刀を置き、時仲・義房らと共にその場に号泣してしまった。御前はその様子を見て、「如何におのおの方、君命の重きを忘れ給いしか、いでや妾、自らせん」と懐剣をもって御喉を召される姿に、重政きっと心を定め、「いささかなりと御苦痛を安らぎ奉らん、御免候え」と、相州貞宗が鍛えた二尺三寸の銘刀が空を切った」

●小楠和正『浜松城時代の川家康の研究』
「家康にとって一番重要なことは、徳川家の存続であり徳川家の分裂を阻止することである。他家から家康と信康の離反工作が行われるとすれば、その標的となるのは岡崎の信康と築山御前である。(中略)若いが自信を持ち始めた信康と苦労をし続けている徳川家臣団とのいろいろな点での食い違いから、家臣たちの信頼を損ねていたとしたらどうか。さらに、家康と築山御前との間だけでなく、築山御前と徳川家臣団の間にも信頼関係が失われている場合、家康には信康と築山御前を処断する動機があったと考えられる。(中略)この事件によって、信長の手が直接徳川家を牛耳る危険性を、家康が防ぐことができたとも考えられる」
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Unknown (ほげほげゴルファー)
2011-09-10 23:01:14
詳しいことは良く分かりませんが、いわゆる信康事件において、

・江戸期の神君を持ち上げている本は「信康は母親の影響で反信長の立場」とはっきり書いてある

・当時に近い本は何も理由が書いていない

という傾向の史料しか残っていない訳です

穿った見方をすれば後から、築山御前を今川色の濃い人物として脚色すると、神君が信康事件を処理したことが正当化されるという事に誰かが気づいて、それに皆が追従した、とは取れないかということです。

平凡な母親と言っては変だったかもしれませんが、今川家の人間としての部分が後世やたら取り上げられるのは不自然で、実際の所は中立的なスタンスの人間であったように思うという意味です。
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東照宮御實記附錄。 (麁鹿火)
2011-09-11 08:53:22
おお、ほげほげゴルファーさん、御返信くださるとは。
感激です!
でもすんません、私の文章はまだ途中でしたので、もうちょっと続けさせていただきますが(私の見解も最後に述べます)、おかしなことに、私の結論も今度はゴルファーさんの意見とほぼ同じことになってしまっています。
……あれぇ?


●静岡新聞社刊『ふるさと百話1』~徳川家康
「姉さん女房の瀬名姫は家康とそりが合わず、感情的対立から政争に巻き込まれ、天正7年8月、徳川家康は正妻の命を断った。いま浜松市広沢町西来院ににさびしく残る築山殿の墓を見ると、感慨無量なものがある。いかに戦国の世のならいとはいえ、築山殿の悲劇は家康の人生観をきびしくせずにはおかせなかった」

●『徳川實記』
「勝頼は、当家が北条と好を結んだと聞き大いに驚き、「先手を取らねば甲斐の破滅は近い」とさまざまな謀略を巡らしていた。築山殿という人はまだ駿河にいた頃から長年付き添われている北の方であったが、勝頼の仕組んだ罠にはまってしまわれたのか良くないことが続き、8月29日、小藪村というところで亡くなられた。〔野中三五郎重政という士に討つよう命じられたので、彼がやむを得ず討ち浜松へ報告すると、「相手は女なのだから他の方法もあったであろうに、ただ討ち取ったのか」と家康公は言い、重政は絶望して蟄居してしまったという。これを見ると公には何か深い思し召しがあったのであろう〕」
「信康君もこれに連座し、9月15日、二俣城において切腹された。これはみな織田右府の命令だという」
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獅子の系譜。 (麁鹿火)
2011-09-11 09:28:16
●静岡県出身の(磐田の人?)梓澤要 小説『女にこそあれ次郎法師』
「築山殿は馬鹿ではない。最初の頃こそ気位高く今川風を吹かせて於大の方や家臣たちの反感を買うことがあったにちがいないが、今は、さきほどの一件もそうだが、務めて感情を抑えてふるまっている。今川方のとりまきに煽り立てられるのが自分にとっていかに危険なことか、承知しているのである。子供の頃の瀬名は自由奔放で自分のことしか関心が無い娘だったが、その反面、ひどく傷つきやすいところがあった。わがままにふるまうことで無意識に自分を守っていたのである。それが、思いもかけぬ運命の変転にさらされたことでおのれの心の深さを自覚し、不用意に人を傷つける怖さを知ったのだ」

「せめて墓に参り、無念の声を訊いてやりたい。戒名を聞いてきて自庵に位牌を安置し、日々供養しよう。それで彼女の無念が晴れるかどうかわからないが、いま思いつくことといえばそれしかない。
西来院は築山殿が浜松に来ると必ず宿舎にしているところだと本人の口から聞いたことがある。初めて訪れて、城のすぐ近くであることに改めて愕然とした。正室でありながら、目と鼻の先まで来ていながらまっすぐ城に入ることを許されなかったのだ。さぞ悔しかったであろう。あの城は家康と側室たちの城であって、自分の居場所は無い。ここに来るたびにそのことを思い知らされたであろう。
住職の潙翁禅師はおだやかな老齢の人物だった。本堂の裏手にまだ掘られた土の色もなまなましい塚があり、真新しい白木の墓標が立てられていた。「西来院殿政岩秀貞大姉…」 築山殿のまっすぐで裏表のない気性が偲ばれる戒名である。少なくとも、彼女を直接知るこの潙翁は、武田と内通しただの、唐人医者と醜関係があっただのという噂は信じていない。それが窺えて祐は内心ほっとした」
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改正三河後風土記。 (麁鹿火)
2011-09-26 06:43:38
●小楠和正『浜松城時代の川家康の研究』
「徳姫が書いたとされる12ヶ条の手紙が実在しているのか、その内容を正確に写した文があるのかどうか岡崎中央図書館で調べてもらったが、『改正三河後風土記』に収録されているものしかないとのことであった。本当に徳姫が書いた12ヶ条の手紙が実在したのか疑問である。中村孝也著『家康の族葉』に「築山殿は殺害せられ、信康は自害せしめられる悲劇が展開せられるのであるが、その真相を実証するに足る確実なる文書は、一通も発見することができない」とある。現在知られている話は、江戸時代に書かれた書物の記述が基礎になっている。徳川家臣団や世間の人々が納得できる理由付けや話が必要となり、真相はわからないけれど、いかにもありそうな話がいつの間にか語られるようになった。それが記録されたと考えられる。そして、その記録が基になってさらに広く伝わるようになったものであろう」

「天正7年8月29日に遠江国小藪村(現浜松市富塚)の佐鳴湖畔で、家康の命令を受けた野中三五郎重政等によって殺害され、西来院に葬られたとされている。しかし(信康についての記事は多い)『家忠日記』には8月29日については何も記述は無く、築山御前殺害の様子を客観的・具体的に記した当時の記録は発見されておらず、本当のことは不明である」
「殺害の様子について具体的に書かれているのは『嶽南史』『曳馬拾遺』『西来院廟堂記』『御前谷由緒』『遠江国風土記伝』『浜松城合戦略記』など。しかしこれらは後世に書かれた書物」

「『築山御前考』(昭和45年)に「(中略)石川義房と岡本時仲は築山御前の首を持って岡崎に引き返した。そのあとは西来院の住僧が小藪台地のの人たちを呼び、築山御前の遺骸を収め、そこに葬った。その時の築山御前の法名は西光院殿政岩秀貞大姉と言った。多くの史書・俗書にはすぐに西来院に葬られたようになっているが、実はそれから百年の間、御前谷の現場に葬られたままにされていたのである。西来院に改葬され、廟堂が建てられたのは延宝6年のことで、築山殿の百回忌が行われた時のことである」とある。しかし、この話の根拠が示されていない。
『西来院』(昭和58年発行のパンフレット)に、「家康公は痛くその死を哀しまれて、時の住持に命じて寺の一隅に御遺骸を葬り、ねんごろにその菩提を弔わしめたこと。佐鳴湖畔の神久呂村に菩提のため、御茶湯料地弐拾石料の朱印状を付していることは何を語っているかである」などの記述があるが、根拠の史料名が記されてはいない」
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