オセンタルカの太陽帝国

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禅長寺の頼政堂。

2006年07月03日 08時02分17秒 |   源三位頼政

その菖蒲前の墓所と伝えられているお寺は、沼津市の南部にある河内という地区の山の中にあります。「本当に必死こいて逃げたんだね」と言いたくなるぐらいの隔絶した山の中です。
実は、手持ちのロードマップで調べると、「禅長寺」という名前のお寺は記載されていなかったので、「大丈夫かな?」と不安になりつつも行ってみました。すると、不安に反してこの地域にはかなり深くにまで人里が広がっており、とてもいい感じの場所でした。上の地図を書いていた時は、まさかこんな里になっているとは予想ができませんでしたよ。


≪禅長寺から内浦湾を望む≫
肉眼では霧に煙った幻想的な海が遠くに見えたんですけどね。残念。

伊豆長岡の西琳寺で剃髪した菖蒲御前は、ただ静かに頼政と仲綱の菩提を弔うことだけを望んでいたのですが、平家の詮索は厳しくなり、そこから逃亡する事を余儀なくされます。徒歩で落ち延び、歩いて歩いて行き着いた先が、西浦の南辺の山奥にある河内の里でした。ここに菖蒲前は邸宅を得て、ようやく余生をまっとうできたと伝えられています。

 
≪禅長寺の頼政堂≫

頼政の次男である源頼兼は、広綱や有綱とは違って頼政蜂起時には伊豆にはいなかったようなのですが(詳細不明)、鎌倉幕府成立後は(弟の広綱ほどではないにしても) 順調に出世を重ね、その子孫はどうやったかわからないんだけど、建武の新政前後にはその直系である多田治部少輔から三代に渡って、伊豆守護職を拝命します。2代目の多田兵庫頭明詮頼は建武年間に禅長寺を修建しました。その後戦国時代になってこの周辺は北条氏の支配領域となり、それに伴って禅長寺の伽藍も荒廃するのですが、江戸時代になって元禄年間に、「源頼政の末裔」を名乗る上州高崎藩主の松平右京太夫輝貞が、「頼政にゆかりのある禅長寺が荒れ果てている」ということを聞いて、再建のための寄付を申し出ました。特に元禄11年(1698)には頼政堂を新築し、頼政と菖蒲御前の木像を安置しました。現在もこの時の「禅宗洋式 ~唐戸、円形の窓、組物は舟肘木」という独特な風情の頼政堂が現存しています。

  
≪菖蒲御前≫            ≪源三位頼政≫

で、この建物の内部にある「頼政と菖蒲御前の木像」なのですが、これは輝貞がこのとき新しく作らせた物なのか、それともそれ以前から伝わっていた物なのか。本には「輝貞が自分の意志でもって、頼政と菖蒲前の木像を安置してある頼政堂が崩壊に瀕していたのを新築している」と書かれているので、ちょっと判断に苦しみます。また、松平氏(大河内氏)は明治時代に至るまで、毎年米百俵をこの寺に献じ続けたのだそうです。ウィキペディアによると、この松平輝貞は、頼政の養子で宇治川で頼政と一緒に戦死した源兼綱の子孫を名乗っていたらしい。…って、この松平輝貞って“知恵伊豆”松平信綱の孫なのね。
頼朝の血統は断絶した事になっているので、きっと、子だくさんだった頼政の家系図はいろんな人に利用されたんでしょうね。

 
≪源頼政と菖蒲前の墓≫                  ≪菖蒲塚≫

お寺から道路を登ったところに「頼政公/菖蒲前墓所」としてそこそこ大きなスペースが取られています。なかなか豪華な気がする。ちょっと気になるのは、菖蒲御前よりも頼政の方をメインに据えてあるような気がすることです。そもそもなんでこんなところに頼政の墓が。高貴な人が死去したときになにかしらの遺品(か分骨)を持ち出して本来の墓所とは別に(※源頼政の墓として一番有名なのは、宇治平等院にあります)、墓所を作るのは良くある事なのですが(伊豆には、北川殿の墓とか足利義詮などの例があります)、ここにも何かの遺品(か分骨)が埋まっていると考えても良いのかな。そもそも菖蒲御前に遺品を持ち出すヒマなどあったのだろうか。
道路を挟んで「菖蒲塚」というものもあるのですが、これは一体何なんだろう。

 

この禅長寺でもう一点気になるのは、頼政堂の前に変な木の碑が建てられていることです。写真が小さいし字も崩してダイナミックに彫ってあるので分かりづらいのですが、「上古女人遠流之地」と書いてあります。その側面と背面に彫ってある文面によると、「大宝律令により伊豆は遠流の地と定められたが、昭和になって平城京で発見された木簡により、当地(河内)が女性の配流の地であったことが明らかになった」とのことです。・・・・・そうなの? 上の文章で私は「どうしてこんな山の奥に」と書いてしまったんですが、これが本当なら女性はここに流されている事になっていたみたい。(ほんと?) 菖蒲前はそれをしっていてここまで逃れてきたのかも知れませんね。

 

(※追記)全然関係のない事ですが、私が勝手に使っているgoogleの衛星写真マップですが、とんでもない事になっていますね。すげぇ。(とても精度が高く、画像が鮮明になった)。歩いている人や、北条守山の真珠院の八重姫の幽霊まで見えちゃいそうです。ところが写真の差し替えは徐々におこなわれているらしく、伊豆地域ではまだ新写真と旧写真の境目が「沼津・韮山」と「大仁」になっているために、加工したら上の写真のような状態になってしまいました。(とても醜いぞ)。早く伊豆全体の画像を統一してくれー。(ただ使う分には以前の旧衛星写真の方が発色が良かったなー)


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2 コメント

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禅長寺 (詩緒蘭)
2007-07-09 10:29:02
麁鹿火さん(b^-゜)スゴイ!。
ヤァ~、本当に勉強になりますよ。それにお世辞でなく、文章がいいですねェ。文と自分に距離があります。よくあるんですよね、自己愛の強い人が書いた距離の無い文章。卍(゜ρ゜)ウゲエッ そういうのって疲れるゥ~。
  
禅長寺は、木負(きしょう)にあるんですね。必ず行って来ます。麁鹿火さんの交通手段は何ですか。 寺には駐車場はあるのでしょうか。まぁ無くてもこんな山奥なら大丈夫(⌒^⌒)b。
あの辺りから達磨山を通り戸田に抜ける道あります。今もあるのかナ。
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木負。 (麁鹿火)
2007-07-09 12:05:09
うわぉ、こちらこそ長くて読みにくい文章を読んでいただいて、ありがとうございます。照れちゃいます。私、短い文章が嫌いなんですよね。だから「できるだけ長く引っ張ろう」と無茶してしまう(^_^)

個人的にこのお寺で一番気になっているのは、「伊豆が流人の地だった頃は、男は各地に分散して流したけど、女性はひとまとめにしてこの場所におしこめた」と書いてあった事です。男は孤独な状態で放り出してもいいが、女性はかえって同じ境遇の者で集めておいた方が、流した効果があるとみなされたということでしょうか? それが本当かどうかは分かりませんが、「木負(きしょう)」の里は古い史料では「棄妾」の名前で現れているそうです。

交通手段は、車と折りたたみ自転車ですよー。
自転車があると便利なことが多々あります。禅長寺には駐車場がありますし、里のつきあたりなので道路に停めても大丈夫です。禅長寺の先は林道になっていて、一般者は先に進めないようになっていましたが、木負からちょっと西に行った古宇から、サナギ山を通って達磨山に行く快適な道路がありましたね。行かれるんですか?(^-^)
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