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浜松時代の徳川家康の肖像。

2008年02月22日 00時18分54秒 |   神君家康


三方ヶ原の敗戦のときに描かせた「しかみ像」。

新しく買った信長の野望で遊ぶとき、私は必ず龍造寺隆信か今川義元のどちらかで始めるのですが(好きだから)、より簡単な今川の場合、便利アイテムとして松平元康がいるのでとても便利です。文武両道。しかし便利なのはともかく、歴代信長の野望の家康の顔画像は、美男子すぎて私はちょっと苦手でした。歴史上の大人物でありますからカッコ良いハンチャムさんであった方がみんな嬉しいことは分かりますが、本などで「家康の顔はりりしかった」「美しかった」だなんて記述は読んだことありません。私は総合的に考えてむしろブ男だったんだと思います。(真偽不明)。「でっぷり肥っていた」(若い頃から)という証言は良く見るんですけどね。…そう私が主張するのは、私自身がブ男であり、小腹がちょいと突き出たナイス中年(笑)だからです。(おっと、今だけは麦酒腹が消えていますが)

徳川家康は、ほんの数点しか肖像画が存在しない織田信長や豊臣秀吉に比べて、肖像画の数において大変に恵まれております。さすが最終勝利者。
漫画やテレビドラマ等でも、武田信玄や豊臣秀吉の顔はいろんなバリエーションが存在しうるのに、徳川家康の場合はどんな人でもイメージは一定なのじゃないかな。肖像画は再現劇において人物の行動や性格を左右します。かくいう私の理想像は、大河ドラマ『葵 徳川三代』の津川雅彦と、マンガ『風雲児たち』の元気いっぱいな徳川家康なんですけど。ともかく、画像が多いので、徳川家康はイメージしやすい。逆に、上杉謙信や真田幸村なんかの場合、ファン達が持っているイメージは全員一緒だと思うのに、みんな肖像画を見て「…え?」と思うと思う。家康の顔は安定感がありますね。
…ところが、若いころの徳川家康の顔はどんなだったのかというと… その肖像も容貌の証言も僅かしか存在しないのです。まさか生まれた時から老人だったわけではあるまいし、まるで「年をとっても30歳前後の頃の顔しか描かせなかった」ローマ皇帝アウグストゥスのように、家康の場合も特定の年齢のときのものに肖像が限られています。(私が知らないだけなのかも知れません)
逆に普通の漫画等では、老人の時の顔をそのままさかのぼらせて、没個性なオッサン顔にさせている場合も多いですよね。

しかし、ここに問題が存在します。
「若いころの家康が書かせた」ごくわずかな例外。三方原の敗戦のときの、いわゆる「しかみ像」です。やつれた顔を目一杯デフォルメさせているせいか、顔の輪郭が細く、丸々した老人顔の後の家康とは別人のような様相を見せています。これを見て「豊臣秀吉?」と思ったことのある人も少なくありますまい。

若いころの家康の顔が老人の時のものと異なっていた可能性…
すでに40代の時、家康は「かなり太っていて、皆の笑いを誘った」という証言がありますが、そもそも大の健康マニア(薬が大好き)で暴飲暴食をしたことが無く、倹約大好きで(死因となった鯛のテンプラが食の上で彼が唯一した贅沢、と書いている人もいます)、年がら年中馬に乗って遠州中を駆け巡っていた、しかも戦争が無いときは鷹狩りばかりしていた家康が、いったいどうして太っちゃったんでしょうか? 答えは簡単、遺伝性のものですね(身も蓋もない)。しかし「しかみ像」から分かるとおり、彼の骨格は意外にほっそりで、ちょっと無理をするとすぐに顔に出ます。きっと若い頃のほっぺたはプルプルぷにぷにだったに違いありませんよ。

そんな彼の容貌の真実を探りたいと思います。
まず、家康の顔はかっこよかったのか? むしろ普通のオッサン顔だったのか?
幼少時代、彼を見た今川義元が顔を見ただけで将器を見抜き、単なる人質ではなく養子扱いにして大事にしようと思わせたあたり、「ただならぬ何か」を容貌に持っていたことは間違いありません。それが「美男」に結びつくものであるかどうかは分かりませんけど。それは、妻である超極上の美人で性格も極めつけに悪い築山御前が、家康に対してたくさんの悪口を言ってるのに、容姿についてだけは別に貶してないことからも裏付けられると思います(ホントかよ?)。
一方で、あれほどの猜疑心の塊であった同盟者・織田信長が、家康に対しては完全なる信頼をよせ、家康の望みには極力応えようとしている事実。少しでも野心が感じられるような顔であったらば、信長は決して放っておきはしなかったでしょう。家臣でなかったら必ず殺されます。つまり、実直さ以外は全く表れていない顔。家康は常に「律儀者」という評判を得ていたことからもそれは裏付けられるでしょう。その仮面は最後の最後にかなぐり捨てられるんですけどね

「老人の頃の家康の肖像画は多い」と書きましたが、数多いうちでも、ある特徴があると思います。私が気がついたことに「目にやたら力を入れているものが目につく」ということがあります。まぁ、人の顔を描いたことがある人なら知ってますが、人の顔ってふつうまず力を入れるところは「目」なのですが、それにしても家康の場合は「やけに異様な感じの」目を持っているものがいくつかある。べつに「ふつうな感じ」なのもいくつもあるんですけどね。中でも極め付けだと思うのが、日光東照宮にある下の肖像画でしょう。

家康ってもともとかなり目だけに力のある人だったのじゃないかしら。だとすれば「将器があるのに意外と顔立ちが地味」という矛盾にも納得ができますね。そう見れば「しかみ像」も十分合格点です(何が)。ま、誰でも頬がこければ眼はギラギラとしてきますけどね。

続けて日光山輪王寺の「くつろぐ家康像」。白黒の写真しか無かったので、私による模写です。

いやー、目が子供のように爛々としていてエロそうだ。
…いま気づいたのですが、「目が大きい系」の肖像画は日光東照宮のものが多いな。
2つ上のやつは、京都の狩野派の狩野山雪が描いたものだそうです。生年から判断して彼が実際に家康に会ったことがあるのかは微妙なのですが、彼は慶長10年に大阪城でも活躍していた狩野山楽に弟子入りしてるんですよね。…家康の顔を見たことあるのかも。日光東照宮で絵を描いたのは秀忠つながりみたいですが。

続いて注目すべき点。
老人ではない「若い頃」の家康を描いたものとして、「徳川十六将図」があります。
これは一体何歳の家康かが分からず(井伊直政が壮年に描かれてあるのが手がかり?)、また全国に何幅もあってそのそれぞれが微妙に顔立ちが違うのですが、老人の時のものとはだいぶ趣が違うところが注目点なのです。

和歌山東照宮の十六将図の家康。

これまた私による模写で申し訳ないのですが(だいぶ似てますよ)、全体の完成度の高さから見て、かなり後世に力を入れて書かれたことが分かりますが、東照宮系なのでやはり目が一番のポイントです。

これはどこにある十六将図なのか分からないのですが、浜松博物館にあるものなのかな?
一見して「全然顔が違う」「むさい!」と思われるかと思いますが、よく見ると構図や甲冑・頭部・表情等の細部から、すこしだけ共通する要素があることもわかります。

思うに、題材から言って「十六将図」というのは、家康が覇業を為して一定期間を経てからの作品であるべきです。しかしこんなものを書いて喜ぶのは、「十六神将」なんて言われて御満悦な、当の本人たちだけです。一体これが何種類あるか分かりませんが、16本ある可能性もありますよね。題材としては「武田二十四将図」の物真似ですが、しかし描くに当たっては家康と苦難の時代を共にした当事者たちの声がかなり強く入っていることは想像はつきます。で、「十六将」の名簿が一定していることから見て、まず元になる一本があり、それを手本にしてその他のものも描かれていったと思うのです。画家によって絵の画風・個性はかなり異なりますが、共通する部分も多いのもそのためだと思います。それに加えて、16人のそれぞれの家康と自分の顔に対する思い入れが加味されていると思う。
で、上にあるものがその大もとのものである可能性も高いんじゃないかと思うんですけど… どうかなあ。検索してみると、「三河武士の館」にも上のとは違うのが一本あるそうですね。いずれ金持ちになって出世したら、見に行こう~~

話変わって、司馬遼太郎の「街道をゆく」の最終巻『濃尾参州記』に、次のような文章がありました。

「明治の史論家山路愛山(1864~1917)は、旧幕臣の子で、そのせいか、若いころの家康に近侍する三河衆たちの家康に対する感情に、格別な思い入れをもっていた。
かれらは、家康という人柄に、“愛嬌”を感じていたという。“愛嬌”とは、愛すべき欠陥をもつと解してよく、要するに三河衆にとって、家康は、自分たちが輔けねば立ちゆかぬと思わせるものを持っていたという。つまりは、ときに家康は露骨に臆病だったのではないか」

これに続いて、司馬遼太郎は「家康はいかに臆病で、それに苦慮していたか」を続けていくのですが、、、 「愛嬌のある顔」ってどんな顔だろう? 「かわいい」? 戦国時代だからある程度猛々しさもないとやっていけないはずです。しかし、確かに三河武士たちの家康に対する忠誠心には異様なものがあります。それを「三河独特のご当地性」で説明する人もいますが、松平家が辿ってきた歴史を見ると、必ずしも三河人すべてが忠義の塊であるとも思えません。主君は次々殺されてるじゃん。三河の一向一揆のときみんな裏切ってるじゃん。石川一正は出奔したじゃん。しかし、「異様だ」とされる家康個人に対する忠誠心の秘密が、家康のその顔にあったのだとしたら。

で、総合して。
若いころの家康の風貌は。

  • 基本的にムサい。しかし力強さは持つ。
  • 目がチャームポイント
  • 将器を感じさせる顔
  • 野心を感じさせぬ顔
  • 愛嬌がある
  • 基本的に丸い顔。でも骨格は頬骨が高く突き出、それ以外は細身。
  • 髪はてっぺんが薄い
  • 鼻筋は太い。耳が大きい。首が太い
  • タ○キっぽい

というわけで、とりあえず試しに下のように描いてみました。

これは試案その1です。二十歳ぐらいの想像図。
愛嬌を、「薄いおちょぼ口」、「えくぼ」、「やわらかそうなホッペ」で表現してみました(笑)。
これを基底にして、(お絵かき板が復活したら)もっともっと描き込むぞーー。

しかしながら残念なのは「しかみ像」です。
当時の浜松の家康の近くには、これほどの(なかなか写実的ですよ)絵をサッと描ける絵師が控えてたってことです。当然この絵は、「普段の状態の肖像」と対比させる前提で描かれるべきものですよね? 「裸のマハ」と「着衣のマハ」みたいに。当り前のように家康は自分の肖像画を何枚も描かせていたはずです。それらはどこいっちゃったんだろ。

 

 

ついでに、浜松時代の家康の「甲冑」についても考えてみたいと思います。
家康には、着用したとされる鎧がかなりの数残っています。さすが天下人。それらを見比べると、彼はかなり甲冑にはこだわりを持っていて、あんなに質素倹約どケチ実用第一主義イジワル陰険といわれているのに、甲冑に関してだけは「派手・豪華」を貫いていたことがわかります。
…しかし、たくさん残っているワリには、浜松時代にはどれを使っていたのかがわからないんですよね~~

信長の野望では、すべて若い顔の顔画像に「一ノ谷兜」を着用させています。「一ノ谷」とは、源平時代好きならなんとも心躍る名前ですが、こんなかんじのやつです。(※参考サイト)。なんとも長いツノがまず目につきますが、実は黒田長政の兜も「一ノ谷」と呼ばれてまして、要するに「黒い大まないた」が一ノ谷なんですね。なんでかは知りません。でもこの一ノ谷兜、家康がいつの時期に使っていたものなのかは私にはわからないのです。上のサイトさんには「武田信玄が~」とか書いてありますから、信玄との抗争に少しは関わりあるのか?とも思いますが、多分それは気のせいです。

浜松城に立っている銅像では、家康は手にシダの葉の兜飾りを持っています。「家康と言えばシダ!」というほど立派なものですが、実はこれは関ヶ原と大坂の陣に着用していたものです。なんでも、「夢の中にこの形が出てきて、縁起がいい!」と使用することに決めたものだそうで、でもだからこそ「関ヶ原と大坂に」という記録が残っているのでしょう。それ以前から使用されていたなら、その記録も残っているはずです。しかし、「関ヶ原の戦いで家康が着用した甲冑」は種類が多くてヘンです。大阪の陣はともかく、関ヶ原で家康は何度も何度もお色直しをしたのかしら。

若いころの家康が着用したもので有名なのは、桶狭間の戦いのときの「金陀美具足」です。これは金キラキンですごくハデで、とても目立ちます。しかし、他の人ならともかく、家康は19歳の時に着ていたものは30歳になったら着れなくなってると思うね。

極めて重大なヒントだと思われますのは、一言坂の戦いの時に武田軍がさかんに言ったといわれるワルクチ、「家康には過ぎたるものがふたつあり。唐の頭に本多の平八」です。この「唐の頭」というのが、中国から渡来したヤクの毛をあしらった兜で、当時最先端のオシャレで、とても珍しいものとされていたんですって。なんでヤクが唐なのかわかりませんし、パンダの毛だったら私なんかでも「おおっ! すげー奴が現われた」と思うと思うんですが、ともかく、これには「家康がその兜を被っていた」という説と、「浜松周辺でそれが流行っていた」というふたつの説があるそうです。
しかし、甲冑本をいくら見てみても、家康が所要したというヤクの毛の甲冑は見つかりません。残念。

一応近いものとして、家康所用の「クマの毛の甲冑」というものは存在します。

これはすごく珍しいんだそうです。ただし、これは重量が普通の鎧の倍近くあるんだそうで、「飾っておくだけで戦闘には使わなかった」とされているのだそうです。重すぎる甲冑は戦場では命取りだ。

ではヤクの毛というのはどういうのかというと、

これは家康ではなく、細川忠興の家中のだれかの甲冑なのですが、これなんですって、ヤクの毛。「なんだか貧相だ~」と思うのは現代的感覚に冒されているからで、戦場ではこの毛が風を切ってキラキラとなびき、とてつもなく目立ち、敵味方の目を奪う、んでしょう     …きっと。

結局、わかんないんです。
戦国武将の場合、愛用していた鎧(特にカブトの形)がイメージを形成するとても大事な要素であるのに。


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