オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

葛木坐(かつらぎにいます)。

2014年02月03日 10時23分12秒 | 今週の気になる人


1月13日に行った奈良旅行の記録の続き、第5回。最終回。
やれやれ、やっと書き終わります。こんなにヒマな毎日なのに書くのに20日もかかるなんて思っていませんでした。




葛城山へはロープウェイで登れます。(伊豆の葛城山と一緒です)
伊豆ではロープウェイ文化は廃れかけているのに、京都・奈良・大阪では各所で栄えていてとても羨ましい。
伊豆は登ると絶景の富士山がみえますけど、奈良の葛城山はどうなのでしょう、と思いましたが、地理的に伊豆以上に雄大な右と左の景色を眺められることは間違いない。
ロープウェイ乗り場への登り道は、わかりづらい場所にありました。

料金は往復で1220円。
でも、麓の駐車場は料金が1000円でした。高ぇよ、と思ったけどここに停める他はなく、ところが、そこに停まって下界を眺めていたらおっちゃんが寄ってきて景色の解説をしてくださった。あれとあれとあれが畝傍山と天香具山と耳成山だよ、って。確かにここから見る大和三山はきれい。でも眼下にはもっと大事な「葛城盆地」(=失われた欠史八代の時代に日本の首都だった場所)が広がっているのですから、そんな遠くでなく、こっちをアピールすればよいのに、とそのときは可笑しく思いました。でもこれはやっぱり私は浅はかで、葛城の神・建角身(=八咫烏)が晩年葛城に棲んだのは、神武帝のいる畝傍山がよく見えたからなんですよね。(と、愛読書『神武』(安彦良和)に書いてある。もっとも漫画では建角身(主人公)は神武よりも先に死んでしまいますが、史実(・・・)では角身は綏靖天皇を補佐しています)。ここからもっと畝傍山と三輪山を眺めておくんだった。さらにおっちゃんは、「資料をあげるから待ってて」と言って、パンフレットを何部も持ってきてくださいました。おぉ、なんと親切な。これがとっても役立つ物で、実はきのう「役ノ行者の生家の跡(茅原)」をネットで一生懸命調べたけど分からなかったのが一発で載っており(結局行かなかったけど)、後で助かりました。おっちゃん、ありがとう!



びっくりしたことに、伊豆の葛城山と大和の葛城山は、本当に雰囲気が似ているのです。
もちろん伊豆は標高452m、奈良の本物は標高959mですから規模が違うのですが、それにしても雰囲気がとても良い。(伊豆の葛城山には「役ノ行者が伊豆大島に流されて、あまりに閑すぎて伊豆の各所や富士山を遊び回っていたとき、故郷の葛城によく似た場所を見付けたので“葛城山”と名付けた」という伝説がある)。これは驚いた。前に「伊豆長岡は伊豆に流されてきた藤原基経が、故郷の長岡京に似ていたから“長岡”と名付けた」という伝説を検証する為に長岡京市を訪れたら、「どこが似てるねん」と驚いたことがありますので、それと比べると感慨は一更。



残念ながら景色は昨日よりも更にけぶってしまっておりますが、これまた下界の葛城の盆地は伊豆の国の盆地と似てる。登った所には天神社と小さな不動明王がおわしますが、ここまでは伊豆っぽい。(←なんて言い草)





が、その先は違っておりました。こんな景色は伊豆には無いっ。(・・・そんなことないか)









寒い。とはいえ一昨日の比叡山とは比べものになりません。やっぱ温かいわ。
先客にひとりのお父さんとひとりの娘さんがいて、「お父さんはやくー」と言ってました。
「この人たち何してるの?」と私は思いました。
それから、単独でザクザクと雪を踏み分けて、リュックを担いで北から南に歩いて行く人を2人ほど見ました。
おぉ、行者の末裔はまだいるのねー(←単なる山歩きの人ですって)
しばらく歩いていると、ロープウェイからプラスチックのそりを持った家族連れが2組ほど。
「あら、人がいないと思ったら雪が全く無いじゃない」
「下の掲示板にそう書いてあったろ」
とかいう会話。なんとっ、冬はあのロープウェイはファミリーの雪遊び専用になっていたのか。
今日は寒くない日だったのね。(私などロープウェイ乗り場には「山頂気温-4℃」と書いてあっておののいたのに)
行者の、、、、 行者の修験の聖蹟が今では雪遊び会場、、、(泣)



山頂から大阪方面の雄大な景色を見て、私は心慰めるしかありませんでした。
もちろん伊豆にはこんな大都市はありませんが、葛城の山頂からの(大阪湾の)海の景色も、沼津湾の風景にとても良く似ている。(と私は思いました)。ていうかモヤっててあんま良く見えないな。

さて、葛城山と役ノ行者についてです。
超魔人・役ノ行者の伝説は出生関係だけでも膨大すぎて今の私の手には負えませんので、天狗っぽいものに関係する物だけ触れることにしておきましょう。私が参照している本は、志村有弘・著『鬼人 役行者小角』(角川ソフィア文庫、2001年)です。この本はとても便利です。

・13歳のときから毎晩葛城の峯に登るようになり、夜明けに家に帰ることが日常になった。17歳の時に出家して、藤の皮で作った衣を着て、松の葉を食料とするようになった。どのように苦しく困難な修行であっても、決して怠けることは無かった。(『役行者本記』)

・天智天皇4年、32歳のとき母に別れを告げ金剛山に入った行者が樹々を踏み分け岩を這い上り山の八合目まで来ると、突然山が崩れるように鳴動した。だが何も目に見えない。行者は驚いて山の祟りか、あるいは天狗の仕業かと手にした錫杖を岩に突き立てると、遙かな峯に立っている人影が見えた。その背丈はおよそ3m。顔は赤く両目は鏡のようで短い髭が顔を覆い、髪は乱れ獣の皮をまとい、履を履き、手には鉾を持っていた。その者が「不浄千万の身でこの山へ登るな。帰れ」と叫ぶので、行者はムッときて「儂は幼少から五辛穀物肉類を断ち、常に孔雀明王の呪を持誦し、欲望を持たぬ精進潔斎の身である。神ならば知っているはずだ。知らないのならばお前は神では無い」。そこから行者と悪鬼は戦いが数刻に及んだが、やがて悪鬼は逃げだし、行者がそれを追うとおびただしい数の悪鬼の援軍があらわれ、行者を襲った。行者が手にした独鈷を投げると、悪鬼たちは消えてしまった。(『役行者御伝記図会』)

・持統天皇9年、行者が葛城山から吉野の大峯に石の橋を架けようとしたとき、前鬼と後鬼に「鬼神と天狗を駆使しろ」と命じた。二鬼が畏まってこの命を諸国の霊場に伝えると、鞍馬の僧正房・愛宕の太郎房・比良の二郎房・伊豆奈の三郎・富士太郎・厳島の三鬼神・上野の妙義房・筑波法印・彦山の豊前房・大山の伯耆房・比叡山の法性房・肥後の阿闍梨・高雄の内供奉・白峯の相狭房・秋葉の三尺房・高野山の法性房・堺の浦の太郎房・大峯の金平六・葛城の高間房等、百千万人の天狗眷属が集まった。(『役行者御伝記図会』)・・・法性坊、、、高雄内供奉、、、 いつの時代の人だ。

・行者が生駒山の般若霊窟で修行をしていたとき、遠くから大石を投げたり暗がりで襲ってきたり、いやがらせをする者がいた。行者が錫杖を使ってその者を捕らえると、2人の鬼であった。鬼は地元の人間が、里との関わりを断って自由に山を駆け巡っているうちに力が高まって鬼となったと語り、行者の神通自在には到底敵わないため心を改め、自分に従う眷族・悪鬼・天狗たちと共に行者に仕えたいと願った。行者はここに鬼取山鶴林寺を建て、2人の鬼は義覚・義玄と名乗った。(『役行者御伝記図会』)

・遠州原田村長福寺の門前にひとりの山伏がいた。とても貧しかったので、長福寺の住職が憐れんで毎年山伏の峯入りの費用を用立ててやっていた。代が変わると新しい住職は山伏に金をやることを惜しみ、「この寺にはこの釣り鐘以外に金がない」と嘘を言った。ところがその言葉がおわらぬうちに見慣れぬ大柄な僧が来て、その鐘をかついで飛び去ってしまった。やがて大峯の釈迦ヶ岳の絶壁に鐘がかけられ、鐘懸岩と呼ばれるようになった。この大力の僧は行者の変化したものか、または前鬼・後鬼のたぐいか。(『役行者霊験記』)

・一言主神は前鬼・後鬼に「昼間ではなく夜に出て橋を作るようにしたい」と言った。二鬼は畏まってもろもろの天狗に命を出した。橋造りがなかなか進まぬので行者は前鬼・後鬼を急かした。二鬼は「頑張っているけど、一言主神が昼に働くことを禁じているのが遅延の原因」と弁明した。行者が一言主のもとを訪れただすと神は「働くことを嫌っているわけではない。わが容貌が醜いことを恥じているゆえだ。行者よ、恨みめさるな」と言った。(『役行者御伝記図会』)

・韓国広足は行者の教え通り勤行を始めた。ところが300日勤めても何の験も顕れず、師も秘術を教えてくれない。広足は行者に頭を下げ、術を教えてくれるよう頼んだ。行者は広足を諭した。「確かにお前は肉食を断ち女を退け不浄には近寄らず、形は優婆塞をなしている。だが心の中に戒がない。衆生を救う心が無く自らの立身出世ばかり願っている。お前が験を顕すことは難しい。心の中に強い決意を持って優婆塞の行をするべきである」。広足は行者を強く恨み、朝廷へ行者を訴えた。「彼は深い山や魔所の幽谷に篭り、不思議な邪法を修練し、通力自在で飛行することが出来る身となり、鬼神を駆使して、諸国の天狗を集めて葛城の峯に篭もり、天位を傾け、神国を魔界にしようと企てております。すみやかに征伐しなければ天下の乱れとなりましょう」。諸卿は驚いて「行者が悪いことをするなどと聞いたことはないが、とりあえず彼を朝廷につれてくるように」と広足に命じた。広足は50人の兵で葛城山に赴いた。行者はすでに前鬼・後鬼や鬼神・天狗たちを連れ、箕面山に飛び去っていた。彼らは幽冥の者なので人の目に触れることはなかった。広足と50の兵士は三日三晩葛城山を探し回ったけれど、道に迷ってしまった。とうとう食糧が尽き、餓死寸前になったので兵士達は広足に訴えた。「行者を攻めることは仏の御心ではない。神仏に詫びれば、帰る道は見つかると思います」。広足は怒ってきかなかった。やがて山中が鳴動して空がかき曇り、天空から声が聞こえた。「広足よ、汝が舌を振るって讒言し、天朝の使いとして来たとしても行者は神通自在だから飛び去ってしまうのだ。夫の及ぶどころではない」。広足は言い返した。「役小角が謀反の企てをしていることは既に天子の耳に入っている。その罪を糾明する為の勅使である。悪鬼外道の知ったところではない」。すると数千の悪鬼の姿が空中に現れ、広足と50の兵士は山麓の谷に吹き飛ばされ、息も絶え絶えに里へ帰った。これらのふしぎはみな天狗のなせるわざか。(『役行者御伝記図会』)

・行者と顔見知りの紀州の商人が、摂津で行者と行き会って挨拶をして別れた。紀州に戻ると、人々が行者が亡くなったと言って嘆いている。商人が「そんなわけがない。私は7日前に摂津で行者と会った」と言うと、「嘘を言うな、行者が亡くなったのは14日前だ」と言う。そこで皆で一緒に大峯に行って行者の亡骸を確かめることにした。墓所に行って棺を開けると、衲衣・錫杖・鉄の下駄は入っているが遺体は無い。また竹の杖と冠も消えていた。みなが驚いていると、突然空が黒くなり、雷鳴が轟いて豪雨となった。天地が鳴動して岩の間から無数の天狗・魍魎・悪鬼・悪神・獅子・狐が湧き出てきて、人々は慌てて逃げ帰ったという。(『役行者顛末秘蔵記』)

・大宝元年、行者は知人の泰澄とともに愛宕山に登り清滝に行った。そのとき風雨雷電がおこった。異変を感じた二人が念誦すると、地蔵・龍樹・富樓那・毘沙門が光を放ちながら出てきた。さらに、日羅・善界・栄術の三神がおのおのの眷族をつれて現れ、大杉の樹上に立った。「われらはかつて霊山会上で仏の付属となり、大魔王となった。願わくはこの山を領し、群生を利益しよう」そう言って消えた。行者は杉の木を封じて四所明神とし、清滝祠と称することにした。滝の上には千手大士を安置した。(『役君徴業録』)


・・・こんなものでしょうか。
めぼしいものが無いですね。
が、行者の伝説には上に掲げたもの以外に、鬼は良く出てくるのです。とくに前鬼後鬼は10人ずついたんじゃないかと思うぐらい、いろんなところに出身伝説がある。というのも日本の天狗史で初めてまとまって天狗が登場する作品が『今昔物語集』で、一方鬼は記紀や風土記のころから盛んに語られているのですから、既に天狗が登場する前にある程度形の定まってしまった行者伝説には、天狗の加わる余地はあまりなかったようなのです。中世・近世を通じてつくられた行者伝説は、今昔物語より少し前の『日本霊異記』に出てくる行者伝をベースに拡がっていきますが、その『日本霊異記』に出てくるのは「鬼神」だけで「天狗」がいない。(が、天狗という語句は出ずとも『日本霊異記』では行者その人が天狗そのものです)。で、前鬼・後鬼がのちに「鬼でもあり天狗でもある」とされたように、天狗という言葉を使われずとも、「鬼であり天狗でもある」鬼は他にもたくさんいたんじゃないかと思うのですけど、そのあたりはなかなか微妙なものであります。(実際のところ、その例は前鬼(善鬼坊)に限るみたいですね)
なお、行者伝に頻繁に出てくる『役行者御伝記図会』という本は江戸末期の嘉永3年に出版された本。すでに天狗ブームが盛り上がって諸国の天狗の設定ができあがった後の物です。
行者伝で一番古いのは『役行者本記』。行者の直弟子である役ノ義元が724年に書いたという触れ込みの本ですが、(諸説ありますが)南北朝の頃に伊豆で成立のようです。これには天狗は出てきません。これらを踏まえた上で。





葛城山の山頂から南を見ると険しい崖の山が見えます。それが「金剛山」(1125m)。
金剛山には「赤坂城」と「千早城」がありまして、元弘元年(1331年)に楠木正成と共に大塔宮護良親王が幕府軍と激しい戦いをした場所です。天狗界的には、のちに大塔宮が天狗化したとしたらこの赤坂城と千早城に篭もった4ヶ月間は重要な契機になったと思われますから、とても興味深い場所であります。でも、葛城山から見る金剛山はとても険しく、その金剛山にも山頂へ行くロープウェイがあるんですがその乗り場は反対側の大阪側で、行くのも大変なので、「まぁ今回は良いとしよう」「今日の目的は葛城山で、その目的は果たしたからな」と思いました。
・・・でも実は、私の登った葛城山は、役ノ行者が登った葛城山とは違う物で、
ここから見える金剛山が、役ノ行者的に言う本当の葛城山だったんですって。
なんだそりゃー。
一体この葛城山は何を持って葛城山というのでしょう?
と思ったんですが、こちらも「行者の修行場」としての地位はちゃんとあるらしい。
要は、「行者が幼い頃から歩き回って慣れ親しんでいた葛城山」というのがこの葛城山で、
「32歳の時に母に別れを告げて入った葛城山」というのが金剛山なんですね。
わかりづらいわ。
伊豆でも、葛城山の隣りにある大仁町の城山は、頼朝伝説で言う城山とは別の山(でも隣り合っている小峰)、という話を思い出してしまいました。
(※ついでに言いますと、65歳ぐらいのときに一言主神に命じて「葛城山と吉野の金峰山の頂上を石の橋で結べ」と命じた葛城山は、本当は現在の葛城山のとなりにある岩橋山)

葛城山と金剛山の間には水越峠という峠道がありまして、山塊を分断しております。
さきほど私の前をザックザックと歩いて行った人たちは、当然あの金剛山(本物の葛城山)を目指しているんだなあと、凄いと思いました。

さらに、こちらの葛城山にはその水越峠の辺りに「天狗谷」という地名があるそうです。
でも、知切光歳の本を読んでも天狗的なエピソードは特にないみたいなので、行くのは止めました。
それから、反対側の岩橋山の方には、一言主と天狗たちが途中まで作ったという岩の橋の残骸が、今でも残っているそうです。
『圖聚天狗列伝』に説明が詳しく載っていますし、そこへ行った人の記録もたくさん見ることができるのですが、でも、こんな日にこんな軽装備で山歩きをする自信も無かったのでこちらも今日は諦めました。
意気地無し。
『圖聚天狗列伝』より。
「例の石橋の下に、三個の有名な岩窟がある。「胎内くぐり」「鉾立石」「鍋釜石」である。昔、土ぐもと呼ばれる山鬼(あるいは山賊)が出没して住民を悩ますので、神武帝のとき追捕を出した。が、土ぐもはかなたの岩窟、こなたの岩窟を抜けくぐりつつして容易に捕らえられないので、葛で網を作って岩窟を覆って捕らえた。そこから葛城という地名がついたという。この山塊には、むかし天孫降臨の時乗ってこられた、天の磐船と呼ぶ石の刳り船に似た岩が、五十余個も散在している。その岩舟で籠居修練していた修法者の一人が、業成って大天狗天岩舟檀特坊とにり、河内岩船山に止住しているといわれているが、これも葛城の裾に当たる」

役ノ行者が山の中に棲んでいたとしたら、一体どのような暮らしをしていたのだろう。
まさか家みたいなものを作るはずが無いし、庵なども無かっただろうからきっと洞窟ですよね。本当に野営かもしれませんけど。葛城は土蜘蛛伝説の土地でもあります。山の中に住むのにちょうど良い岩窟があるのかどうか。あるいは知切師の言う磐船の残骸もみられるのかどうか、そんなことを考えながら適当にぷらぷらしましたけれど、見つかりませんでした。



ロープウェイ乗り場の横にあるお寺。

さて、ロープウェイを下りながらさっき頂いたパンフレットを読んでますとこんな記述が。
「くじらの滝(櫛羅の滝)
葛城山の中腹にあり、弘法大師によって名付けられたと言われています。この滝は別名、“不動の滝”または“尼ヶ滝”と呼ばれ、滝に打たれると不動明王の功徳によって脳病によく効くと言われています」

脳病・・・
これがきっと行者が修行したという滝だな。きっとこの近くに行者が住んだ(と思われる)穴居もあるに違いない、と早合点して、そこに向かう事にしました。山頂とは違ってここには雪が全く無かったからです。(※家に帰ってから調べてみたら、「クジラの滝」と「行者の滝」は別物でした)

ロープウェイから歩いて15分ぐらい。
山歩きをしている人が何人もいました。ロープウェイを使わずに葛城山の山頂を目指すルートは何通りもあって、でも実はそのうちこの滝を通っていく「櫛羅の滝コース」は昨年の台風で道が崩れ、通れなくなっているそうです。その旨が登山道入口に掲示されているので、皆さんは別のルートへ入ってしまいます。私は登山が目的ではなく、見たいのは滝なので「行けるところまで行ってみよう」と思って行きますと、滝まで何の苦も無くたどり着けました。(御所市役所のサイトを見ると、行者の滝(二の滝)も頑張れば行けるみたい。なんてこったい)







おお、あの下で行者さまが水に打たれて修行したんですなと、(このときの私は更にこの上にもう一つ滝があるなんて知らないから… パンフにも載ってないし)満足しました。わざわざ行者が選んだ場所ですから、この場所がこの山で最も禍々しい魔所のひとつであることは間違いありませんね。天狗や悪鬼も夜な夜な幼い行者に悪さを仕掛けに通っていたハズ。どれどれ行者様が居住した岩窟でも無いのかな~とあたりを見回したけど見つからず、とよた時さんは「滝のすぐそばにお籠もり堂がある」と書いておられるんですけど、それも見なかった気が。無くなっちゃったのかな。



なんと!
ここにクジラがいたから「鯨の滝」じゃなかったのか。
弘法大師も意外と役ノ行者マニアでして、いろんな場所で行者巡りの逸話を残しておられます。
「天竺のクジラの滝によく似ているからクジラの滝と名付けた」って、まるで大師様がインドでその滝を実際に見たことがあるかのような口ぶりですが、もちろん大師様はインドに行ったことがあるのです、伝説では。(「渡天見佛」「渡天拝釈尊」…13世紀頃に初めて加わったエピソードだそうです)
インドに「クジラの滝」なんて名前の滝、あるのか?
大師伝説では大師が訪れたのは、マガダ国の首都(王舎城)にある霊鷲山なので、その付近にある滝なのかなと思って探してみたんですけど、見つかりません。弘法大師のことなので、何かのお経に出てくる地名なのかもね、と思って法華経や般若経の中を探そうとしたんですけど、、、、 見つかるかぁ! そもそもインドの内陸でクジラ地名が出てくるのがおかしい。
で、地元の人が書いているらしいこのサイトを見ますと、

「8.倶尸羅(櫛羅)村
一に「倶尸羅」とも書いた。永井氏が櫛羅と改字したと伝える。暦応乃安養寺大般若経には「倶尸羅郷」と墨書されている。郡誌によると、「天神ノ森より一連の松並木曲屈たる列をなし、麓倶尸羅に達す。之れ登山の坂道の両側にあるものにして、松の列は平カナの「くしら」の字形をなせりといふ云々。」とあり。
 また、櫛羅の瀧上方に寺屋敷と呼ばれている安位寺跡がある。ここの地形がインドの仏蹟クチラ城の地形に似ているために起こったともいわれている。」

む…?
クチラ城…?

検索してみますと「クチラ城」でヒットするのは一件だけ。「仏陀が荼毘にふされた場所」のことだとある。それって「クシナラ(クシナガラ)城」の事ですよね。漢字で書くと(涅槃経では)「拘尸那羅」だったはず。そもそも末羅国の主邑であるクシナーラーは平原のただ中にあって、葛城山とは全く景色が似ていない。
結局のところ、「天竺にあるというクジラの滝」はナゾでした。ただ、「尸羅」という文字は、仏教ではいろんな場所で使われる言葉であります。7世紀インドの英雄王ハルシャ=ヴァルダナも漢語で書くと「尸羅逸多」ですよ。

また、
「不動寺
なお、境内西南に小さな池があるが、この池はその昔、役行者が櫛羅の瀧で修行していたときに結んだ庵の跡で、後世になっても建物等を建てないために池(兼・防火用水池)にしたという口伝が残っている」

という記述と、「櫛羅の滝」が別名「尼の滝」と呼ばれる理由について、

「役行者がはじめ下の瀧で修行していたが、母が行者を慕って一緒に修行しようと同行したので、行者は女と一緒では修行できないと言って、この瀧を母に譲り、自分は上の瀧で修行することにしたということから、これらの名が付けられた」

と書いてあるのが面白いですね。

もっとおもしろいのは、「供尸羅」の地名を「櫛羅」に改めたという「永井信濃守」のこと。
この「永井氏」はわれらが神君・徳川家康公の配下で、勇猛で知られた「永井直勝」の御子孫ですよ。
永井直勝は知多半島の出身で、三河軍の中では若手だったのですが、顔が美形でまた太鼓が巧かったので岡崎三郎信康(直勝より4歳年長)に気に入られたという人物。おもしろいのは、美顔で知られた井伊直政も直勝の2歳年長だったのですが、直政と直勝はどちらも「万千代」という名前で、そりが合ったのか合わなかったのか、関ヶ原後に死ぬ寸前の直政と大喧嘩してその後仲直りして、「真の友」扱いされたこと。その喧嘩の原因が、関ヶ原で功績を挙げたのにほとんど領地を増やせてもらえなくて激怒していた井伊直政と本多忠勝を、永井直勝が「領地なんて少なくてもいいじゃん」「ご主君あってのことですよ」と窘めたこと。その直勝も遡ること16年前の小牧・長久手の戦いで、池田恒興を討ち取ったのに5000石しか貰えず、のちに仲良くなった池田輝政(東三河15万2千石)に「俺の父の首がそれだけしか価値が無かったなんて」と嘆かれたというエピソードがある。そもそもその恒興の首も、万千代直勝が勘違いして万千代直政から横取りしてしまったものだとするエピソードもある。
とにかく永井直勝は家康家臣団の中でも稀に見る好人物だったようです。

そんな永井直勝も関ヶ原後は順調に出世を重ね、亡くなる寛永3年には下総古河で8万9千石。
その息子2人は英才だったそうで、淀藩と高槻藩で合わせて10万石。この兄弟2人を淀と高槻に置いたことを「永井体制」というのだそうです。
が、その後の永井家の歴史はちょっと悲しくて、弟藩の高槻永井藩(3万6千石)は幕末までそのまま存続するのですが、本家の永井家は丹後宮津藩(7万3千石)に移封された後に、延宝7年当主の直長(27歳)が突然鳥羽藩主の内藤忠勝に刺し殺され、子供が無かったため、領地取り上げとなってしまったのでした。直勝の死去から54年後のこと。
(※岩槻藩→美濃加納藩の永井家(3万2千石)もあります)

ところが永井家は譜代の名家とされていたのか、「ちょっと惜しい」ということで弟・直円に大和国新庄藩(1万石)を与えて復活させる。ここは先祖の永井直勝と井伊直政の逸話が活きたと嬉しくなるところですね。ていうか、継げる弟がいたのに7万3千石は取り上げか。なお、この時期は近畿では大名の殺害事件・変死が頻発していて(忠臣蔵の事件も20年後)、でも大概の場合は「病死した」と偽って届けて乗り切ることがよくあったのですが、永井直長の場合はお江戸の増上寺で公的行事(将軍家綱の死亡直後の法要)の中での殺害だったため、隠せなかったんですね。厳しい。
弟と別家がそれぞれ3万石超なのに、本家はずっと1万石だったという悲しかったという話です。
それは、もう、鯨に憧れたっていいじゃないか。

さて、話はここからです。
葛城の「供羅」→「櫛羅」の改名についてです。
これをした「永井信濃守」というのが誰で、それがいつの話なのかということです。
答えを言いますと、それは新庄永井藩8代目、永井信濃守直壮(なおさか)(なおたか、とも)。
文久3年(1863年)の事です。幕末ですよ、幕末! 当主の直壮は家督継ぎたてで、17歳でした。

「せっかく弘法大師が命名し、住人が1000年も守ってきた有り難い地名を勝手に改名(改字)しちゃうなんて!」
と言いたくなるところですが、
実は祖先の永井直勝も、元々の名前は「長田直勝」だったのですが、神君・家康から直々に「長田という姓は縁起が悪いから変えろ」と言われて(←長田庄司忠致の故事から)、「永井」と変えたところ家運が隆盛したという話があるので、「字」にはひときわこだわりたい家系だったと思います。

その改名のきっかけは、当主・直壮がそれまで藩名の由来だった大和国新庄(現・葛城市)から葛城山のふもと(現・御所市)に引越し、ついでに藩名も「新庄藩」から「くじら藩」へと変えてしまったからです。ただ藩主が約2km離れたところに新しい家を建てたというだけで、藩名まで変わってしまうのはすごいですね。永井直壮は新藩を創設し、櫛羅藩の初代藩主となったのに、支配地は一切変わってないのです。日本はそれから5年後に明治維新を迎えます。

彼はなぜわざわざ藩名を変えたのか。
それは17歳の新藩主は鯨が好きで好きでどうしても「くじら藩主」と名乗ってみたかったから!
…ではありませんで、
ウィキペディアには変なことが書いてあります。

「幕府による文久の改革の一端である参勤交代制度改革の余波を受けて、陣屋を櫛羅に新設した」
「櫛羅は藩領の中でも特に栄えていたところで、要害の地でもあったことが理由だったとされている」
「直壮は領民の移住や集住を奨励し、藩名も正式に櫛羅藩と改めた」

なんで「参勤交代制度が改定」されたと言う理由が櫛羅藩成立の原因となるんだ?
「櫛羅が要害だったから」って、17歳の若藩主は戦争でもするつもりだったのか?

「文久の改革」(1862年)ていうのは薩摩国父・島津久光と朝廷のやつらによって幕府が無理矢理させられた一連の変革のことですね。大作幕末漫画『風雲児たち』がそろそろここに差し掛かりますから(※最新刊(第23巻)が万延元年(1860年)までようやく来た)どう描かれるか非常に楽しみなところですが、若き永井直壮が時代の何かを感じ取って、新庄を引き払って要害の葛城山に要塞を作ろうとしたって事ですよね。
そもそもここは大和の国のどんづまりなので、新庄だろうが櫛羅だろうが何が違うのか良く分からないところであります。
そもそも櫛羅藩は小藩過ぎて、検索してみても永井直壮がどんな人物だったのか、そういう記述が一切ありません。
幕末の動乱において、「佐幕」だったのか「朝廷派」だったのかも分かんない。
でも、その行動から見て、充分「徳川家思い」の人だった気がしますね。

こちらのサイトさんにまた興味深いことが書いてありました。

「歴代の新庄藩主は定府大名で新庄には住まず、陣屋を構えた形跡も無い」
定府大名というのは「ずっと江戸に住んでいた大名」ってことです。永井氏の場合は大阪や二条城に勤めていることも多かったそうです。
もっとも直壮は旗本永井家(7000石←領地はどこか不明)から養子に入った人で、藩主になる前はどこに住んでいたのか、何歳で養子になったのかもよく分かりません。




…若藩主・直壮が何を考えて「櫛羅藩」を作ったのか、
考えてみようと思ったのですが、
あきらかに「文久3年8月に天誅組の変が起こったから」でした。
(※新庄藩主・永井若狭守直幹が隠居して、養子・直壮が新藩主となったのは文久3年12月。)
8月16日に約60名の恐ろしい恐ろしい天誅組が隣藩の狭山藩にやってきて「仲間に加われ」と脅しをかけてきたとき、狭山藩(北条氏)はゲベール銃10丁他と食料を差し出すしか無かったといいますから、もしこれがまかりまちがってこちらにやってきてたらと考えると、本当に怖いことだったでしょう。北条氏は外様で永井氏は譜代大名でしたから、天誅組がこちらに「なかまになれ」などと言うはずはありません。五條代官の運命は彼(←というのは9月時点の藩主・若狭守直幹)の物だったのかもしれないのです。(前年におこなわれた文久の改革のせいで彼はすぐ近くにいたと推察される。これを島津の鬼の陰謀だったと考えてもおかしくない)。永井氏は1万石で、幕末ですから動員力はおそらく100人弱ですよね。(狭山藩も同じぐらいの条件だった)

天誅組は8月17日に五條代官所を襲撃。
それから8月25日に兵力1200(←十津川郷士が加わったから)ぐらいで高取城に攻め寄せる。
そのあと(8月28日)幕府の命で討伐隊(総勢約1万5千)が編成されるのですが、櫛羅藩は命令の中に入っていませんので当事者扱いされてたんだと思います。高取城攻防戦のとき、天誅組の主導者・吉村虎太郎は別働隊を率いて御所市内をうろつき回っていたという。討伐隊は紀州藩・津藩・彦根藩・膳所藩・郡山藩・岸和田藩・柳本藩・小泉藩・柳生藩・芝村藩・狭山藩・高取藩・尼崎藩。
天誅組が壊滅したのは9月27日。

こんな恐ろしい事件が起こったら、要害の場所に陣をかまえたくなりますて。
(…でもよく考えたら、彼が今後も同様なこと(=西方からの敵を迎え撃つような事態)が起こると予想したとすると、櫛羅はむしろ前線に近くなる気がしますけど。水越峠からの敵は自分が引き受ける。千早口からの敵は自分と高取藩で。穴虫峠・竹内峠からの敵は郡山藩・自分・丹南藩・小泉藩・田原本藩の合同で迎え撃てばいいんですよね。この配置図から見ると、狭山藩の場所からしか抜ける方向が無いのです。高取城を獲ったらこっちのものだ。)
ともかく、「櫛羅藩が成立」したのは、藩主が決して役ノ行者や弘法大師に憧れたからからではなく、だから「俱屍羅という字はとても縁起が悪い」と考えたとしても仕方が無かったことだったのです。もっとも、「グルメだった若殿がどうしても“くじら藩主”と名乗りたかった」という可能性は捨てきれません。

その後の動乱で彼がどうふるまったか知りたいところでもありますが、
慶応元年に若死にし、後を継いだ養子の直哉(15歳)は動乱に際して何もせず(先々代は存命だったからその人が舵を取っていたのだろう)、そのまま明治を迎え、無事に待望の「くじら県」の成立を見たのでした。
めでたしめでたし。

(つづく)
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