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オセンタルカの太陽帝国

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源義朝公十三歳の時のサレコウベ。

2006年07月06日 04時56分53秒 |   源頼朝

以前に、「源義朝の14歳の時の髑髏を葬った寺が、伊豆のどこかにあるという話を聞いた事がある」という、うろ覚えの誤った情報を書いた事があって、直後にその話は、とある落語に出てくる頼朝の頭の骨の笑い話だということが判明しまして、訂正をしたことがありましたが、でもしかし、私はその後もずーっとその話のことが気になっていました。
どこかでその話を聞いた事があるんだよなー、って。

で、ふと、新人物往来社の『英雄不死伝説』という本を読んでいたら、見つけました。「河津町の小鍋というところにある神社に、文覚上人が義朝公の頭骨を埋めた。この骨は鎌倉の勝長寿院に葬られた骨とは別の物である」って。

河津町の小鍋。
そこは頼朝も訪れたこともある、頼朝伝説の場所です。
・・・・・でもまた、文覚上人はどうしてそんな遠い所に埋めたんだろう。(伊豆の伝説っていうのは、どれもそんな疑問を抱かせる所ばかりです。困っちゃう)

車を走らせて河津に向かい、湯ヶ野の観光駐車場に車を停めて、徒歩で小鍋に向かいます。すると、以前は無かった観光案内板が。それは「下田街道・小鍋街道」についての解説板なのですが、その中にはきちんと小鍋神社と文覚と義朝の髑髏の由来についても書いてある。ここには以前にも何度も来た事があったので、前からこの板があれば義朝のドクロについて悩む事は無かったのになあ。

案内板の示す小鍋神社の方角へ行ってみます。小鍋という集落は河津川の谷間に沿った高台にある集落で、道路が細く入り組んでいて車で行くのは無理そうです。いくつかのお宅の先の小高い所に神社はあった。民家に隣接しています。
ちっちゃい所ですが、とてもよく手入れ・お掃除がされているようなのが印象的でした。

境内にあった由来書き。
「昔、文覚上人が伊豆の源頼朝に父義朝の髑髏を見せ、「疾く、疾く、謀反を起こし、平家を討ち亡ぼして、父の恥をぞ清め、又、国の主とぞなりたまへ」と激励したと「源平盛衰記」に見え、またのちにこの地に義朝の髑髏を埋め弔ったと伝えられている。
文覚が髑髏を葬った場所は、神社の南側にある四抱ばかりの樫の巨木の根本であると伝えられ、この木を髑髏樹と呼んでいる。
現在遺存している最も古い棟札に、「次第天王○頼朝門学聖人山之御神三社之御宮御沙汰法楽敬白、干時慶長十七年、壬子九月吉日」(1612)とあることから、埋葬の事実は別にして、既に慶長年間にはこの伝承があった。笹竜胆の紋章を胸に示した江戸初期に遡り得る衣冠姿の木像が安置されているところから仄聞するので笹竜胆(源氏の家紋)が源氏に関係あるか否かは別として、当地域では室町末より江戸初期にかけて文覚と義朝の出会いの話が伝承されていたことが推測される。後に頼朝は父義朝の霊を弔うため、二十人ほどの家来を連れてこの地を訪れたのである。当時ではこんな大勢の人の料理を作る大きな鍋が無く、探し求めた結果、漸く大小の鍋を入手した。この時差し出された鍋の大小によって、現在の大鍋・小鍋の名が誕生したという。また、泊まった農家がいつまでも栄えるように千萬歳と命名したと言われ、この農家は現在もそのままの屋号で残っている。
小鍋神社は梵天宮で、明治以前には梵天祠の西に義朝山神宮寺があり、当社の別当寺として栄えていたといわれ、その後その建物を田中来の宮神社に移し、現在はその籠もり堂として残っている」。
だそうです。

文覚上人は埋めた上に神社を作ったんじゃなくて、神社の前の適当な木の下に髑髏を埋めたのね~。
その髑髏樹とはどれだろう。この樹かしら~、それともこっちかな?
と、その樹を特定しようとしたんですけど、私にはカシの樹がどれなのか見分けが付かないのでした。付近で一番太い木はどうみても樫の木じゃないし、一本だけ細い縄を巻いて祀ってある樹があったのでこれかな?とも思ったんですけど、なんかこれも違う気が。また別に樫の木っぽい樹があったんですけど、細くて若い気もするし。結局どれがその木なのかさっぱり分からなかったのでした~。由来書きの看板にはその髑髏木が現存するかのように書かれているのですが、大体800年も経ってるのならかなりな大木のはずで、一目で分かるはず。(もう無いのかも知れない)。四抱の木? うーーん、見たかったな~髑髏木。

 
≪これかな?≫                    ≪それともこれかな?≫

それから、神社内にあるという「頼朝と思われる木像」ですが、「どこかに中を覗ける隙間でも無いかな~」と周辺を巡ったんですけど無理でした。「扉をこじあけて見ちゃおうかしら」とも思ったけどさすがにそれは出来ないし、何人かのおっちゃんが畑仕事をしながらこっちを見ているので(←私は見た目が思いっ切り不審人物なので)、頼んで中を見せて貰えないかどうか聞いてみようかとも思ったけど、やっぱりやめた。「千萬歳さん」のお宅もどれか分かりませんでしたが、まぁそれは別にいいや。

この話でちょっと不思議に思うのは、上の案内板を見る限り、「文覚が持ってきた義朝の髑髏」と「大鍋・小鍋の地名の由来」のエピソードは一連の物語であると言うことです。ところが、私の持っている数冊の伊豆のむかしばなし本では、「大鍋・小鍋」の地名の由来は載っているのに、髑髏のことは載っていないのです。だから私はここに来るまでにちょっと難儀してしまった。
地元の人たちはこの髑髏の話は有名なのかな? 少なくとも河津を出るとこの話は誰も知らないし、そもそも文覚上人がどうしてこんな遠くまで来て髑髏を埋めたのかは結局分からないままなのです。(本物が見つかったので、適当に拾ってきたニセモノは用済みになり、誰にも分からないところに埋めて処分した、というのが本当のところだと思いますが) ・・・・・だとすると「ハッタリ坊主にたまたま拾われて、ひょんな展開で頼朝に旗揚げを決意させ、日本史を古代から中世へと転換させた、名も知れぬ髑髏の持ち主」が、どんな持ち主だったのかが興味が湧いてきますね。彼(彼女?)も奈古谷に流されてきた流人だったのだろうか?
少なくとも、この伝説はくだんの「頼朝公5歳のみぎりのシャレコウベ」の笑い話の元ネタになったのは間違いのないところですね。「○○の○○歳の時のしゃれこうべ」の話はナポレオンやアレクサンドロス大王やヒトラーなどにも存在しているそうですが、頼朝の場合は唯一、モデルとなるこの実話(?)があるということで、別格です。

 

さてさて。
「大鍋と小鍋」のエピソードです。
頼朝がここまで来てご馳走を所望した時、大鍋の住人は大きな鍋を、小鍋の住人は小さな鍋を貸し出したのでこの地名になったとのことですが、このエピソードからすると、「小鍋の住人はとてもケチ」との印象を抱かせかねませんね。
しかし実は私、2年程前に仕事でこの地域を巡回していまして、小鍋と大鍋の奥さん方は大切なお客さんだったのですが、小鍋も大鍋もとても元気でいろいろ無茶な商品も買ってくれる、優しい奥さんばかりでした(^-^)。だから、こんな伝説をわざわざ作った頼朝の人間性の方をどうかと思うのです(笑)
 どちらかというと小鍋の方が家が多く、明るい雰囲気で開放的だったかな。一方の大鍋は、なんだか変な地形で川に沿って奥へ奥へと入り込んでいく感じで、どうも感じがうまく掴めない地域でした。
小鍋の写真は簡単に撮れますが、大鍋は細長く人家もまばらなので上手く撮れません。(その分落ち着いた雰囲気です)


≪小鍋の集落≫

どっちにせよ、小鍋も大鍋も、現在は街道から離れた隔絶した集落、という印象があるのですが、明治以前には下田街道は現在の国道・海沿いのルートではなく、小鍋街道という山中のルートを通っていたので、ここが街道沿いの主要地域だったんですね。現在の景色からは想像もつきませんね。


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