12月1日・2日に行った松崎旅行の日記の続きです。 まつざき荘は元・国民宿舎でして、また宿泊料金も安かったのです。
そして、公式サイトおよび館内案内はやたらと追加料理推しなので、「こりゃ夕食の量が少ないんだな」と思いました。
ま、わたしはもともと胃のコスト性能がA級な方です。だから「その方が夜中に飲みに行けるからいいやな」と思ったのですけど、念のために調べてみたら松崎って飲み屋ってあるの?と心配してしまうくらい居酒屋情報が少ない。隣町の仁科にまで歩いて行けば、懐かしい串特急があるんですけどねえ。
「こりゃ、夕食時間をできるだけ早くして、夜の早い松崎の町のどこかで一人二次会をしよう」と思ったのですけど、16時前ぐらいに宿に着いてチェックインしてみたらば、この宿の夕食時間は18時一択で所要時間は約2時間なんですって。終わっちまう、そんなに時間を掛けていたら松崎の夜は終わってしまう。
・・・というわけで、夕食の前に一人二次会を試みることにしました(笑)
行きましたのは「西伊豆唯一の回転寿司屋」だというこちら。珍しい地魚の握りがたくさんあるという。わたくし魚好きなんですけど、マグロが比較的好きではなく、あんなに好きだった鰺も最近あんまり食べなくなっている。
5時開店(それまで懐かしい松崎の聖地エル・ピーノで時間を潰していました)。本日のメニューはこんな感じでした。
オシャレなメニュー
このお店の素敵な所は、ほとんどのメニューが1貫ずつ出てくること。空腹状態でこれだったらムッとするかもしれませんけど(値段はそこそこだし)、でも今日の私はこのあと宿での夕食を控えてますので、大歓迎でした。
でも記録を取ってなかったのでどれをどの順番で頼んだかさっぱり覚えていません。カメラの中の写真を見てもどれがどの魚なのかちっとも分からぬ。
通風なのであんきもとかしらことかうにとか食べられず、生の貝は好きではない。アレルギー持ちなのでウチワ海老も避けたのですけど、昆布〆ホウボウが食べられなかったのは残念でしたな。
写真に撮らなかったのもあったみたいなのでもうよく分かりません。
今の私から推理するに、このホワイトボードを見て私が注文したであろう順番は、
「端金目(ごそ)」「「沖鰖(おきたかべ)」「活〆鮃(ヒラメ)」「縞鰺」→「煮床節」→「金時鯛」「金目鯛」「太刀魚」→「本鰆」「ヤリイカ」「蛸」→「端金目」「縞鰺」→「縞鰺」って感じかな。
写真はカメラに入っていた順番で並べますけど、ほんと写真だけ見ても何の魚なのか浅学すぎてよく分からない。
伊豆から浜松に越してきて一番痛恨なのは、サザエとかトコブシとかが食べられなくなったこと。トコブシ、、、、トコブシ、、、 懐かしいよう。(560円でした)。小さい物から順番に大きい物まで揃えられていて5個。この写真は遠近法の魔術を使いましたけど、手前の物が一番小さく、一番奥のはそれなりに大きかった。トコブシは大きさによって食感が違う。
この魚はシマアジで、
この魚もシマアジですな。
どの魚を見ても美しい。写真以上に魚の味は魚ごとに違いが際立っていた気がしますよ。(今となってはもう覚えてませんけど・・・ ※この文章を書いているのは23日後です)
店の奥の席に店主らしい横柄な感じの人が座っていてパソコンでぱちぱちやっていて(←けどサイトを見ると、こだわりを持って毎日の魚の選定をしているのはこの人だという)、握ってくれたのは優しい感じの若い人で、その人がショーケースの中から魚を理出して斬って握っていく様を見ているのは楽しかった。とりわけ縞鰺が美味しかったので3回ぐらい注文したら、とても楽しそうに縞鰺の美味しさの秘密を語ってくださったのが楽しかった。実は縞鰺の旬は今ではなく、真夏の頃の縞鰺はこれよりもさらに、溶け出すくらいの上品な脂が美味なんですって。
縞鰺を日常的に食べられるお店を近所で欲しいな~。大好物の真鰺とは全然違う味です。そういえばこのお店の真鰺は食べなかった。(高かったからかな。逆に食べてみるべきだったのに)
お会計ももう覚えてませんけど、生ビールも3杯ぐらい飲んで4千~5千円ぐらいだったと思います。この後の夕食分の胃の余地の計算をした上で、このお店を後にしました。
おいしくて楽しかったです。また来よう。
そして宿に戻って夕飯です。
おお、理想的な見た目。
今日のおっちゃんはこのくらいでいいのですよ。
白身魚のソテー。なんの白身魚なのかは聞き忘れました。
右端の淡泊な色の魚が何なのか気になるところですが、聞き忘れました。
生の甘海老も普通に食べちゃいました。最近の私には海老の禁忌が無くなってしまってる気もします。(まだよく分からない)
この宿、なんか異様にキビナゴ押しなんですね。松崎の名物なんでしょうか。追加メニューにも安価なキビナゴ料理が並んでいたのですけど、すでに今日の私の腹にはそれを迎え入れられる余地はもう無さそうだったので、断念しました。キビナゴって西海にすむ魚で私には九州のイメージがあるんだよな。実は伊豆のあたりが北限だという。
寄せ鍋。金目鯛と渡り蟹が入っています。
揚げ物。カボチャの向こう側には桜海老の小さなかき揚げがあって、美味でした。
総じてこんな感じだろうな、という感じ。
最後にオマケで西伊豆名物トコロテンが出てきたのですけど、あまりに腹の中の余地が無くて、とても苦心をしました。若い頃の私はなぜかトコロテンが嫌いだったのですけど、今の私は空腹だったらおいしいと思うでしょう。
源頼朝にまつわる本を何冊か持ってきていたので、それを適当に読んで適当に寝たら即座に朝。
朝食です。
まつざき荘の朝食はノルマン式です。
写真だけだと何の変哲もなさげに見えましょうけど、実はわたくし的には夕食よりもこの朝食の方がより感銘が大きかった。すげーほどよさ。種類が多すぎるわけではないけど少ないとは到底言えない。ああ、空腹だったらもっと食べるのになあ。連泊したい。ベーコンとかスクランブルエッグとかはありきたりですけど、魚類が充実している。干物・揚げ魚数種・煮魚・お薩摩がありましたよ。
下の写真で赤いのはマグロのすき身ですよ。山葵漬けも岩のりも蒲鉾も伊豆じゃなかったらわざわざ買って食べないですものね。
朝9時ぐらいに出発しました。
まず向かったのは宮内村にある「伊那上神社」。むかしは町の中心部の最重要地だったろうと思われる場所にある古社です。
この神社、どこかで「源頼朝と関係がある」という記述を目にしたので。
なんの変哲も無い地味な見た目なのですけど、立派に式内社のひとつです。(※伊豆は式内社が不自然に多い地)
扁額には変な字が使われています。「上」の字に注目ね。
『伊豆の頼朝』より。
「この神社は天正18年、豊臣の伊豆攻略軍のため焼打作戦に遭い社宝記録を一時に失ったといわれているが、幸いにも宮司金指靖夫家には治承5年(1181)以降、正中・文和・応永・宝徳の古文書を蔵しており、更に同家系図の中に次のような注目すべき記事もある。
「号伊豫守承安3年源頼朝公御参詣大明神
時義 法名善義居士」
また、『豆州志稿』の伊那上神社記事の中にも、「往昔源頼朝社田を附し、爾来将軍の崇敬浅からずと云」と述べている。『南豆風土誌』には、「源頼朝の社田を寄進するや、爾来将軍の尊信浅からず、神地5百石を領し、宮殿宏壮、末社80有余を有して西伊豆第一の宮居たりき」と記されている。
社頭の案内板より。
「祭神・・・積羽八重事代主神
社傳に依れば當社は第五拾貮代嵯峨天皇弘仁8年(817)伊豫國越智郡三島より遷座したと傳えられ、また伊豆國國府三島より遷座したと傳られる。
文治元年(1186)の文書に仁科荘那賀郷三島宮、正中貮年(1346)の文書に三島大明神、慶長拾参年(1608)時の金山奉行兼伊豆代官大久保石見守が寄進した金燈籠には仲神社とほりこんである。昔は三島大明神、三島宮または仲神社といわれたのである。
承安参年(1173)源頼朝當社に参詣され社田を寄進したので其の後は将軍家の尊嵩が厚く、神領五百石を領し宮殿廣大荘厳末社八拾有餘を有し西伊豆第一の大社であったが、天正年間の大火に遭い時の社司金差義長四拾餘社を再建して従来の大社の面目を保ったが、續いて間もなく慶長年間に再び火災に遭ひ、壮麗の新宮殿、本社、拝殿、社寶、舊記、等一宇も餘さず全焼したがなお貮拾石の御朱印地を賜わって大社の面影を今も傳えている。
上宮とは慶長五年(1600)の神領附の古文書が最初である。
次に現在の伊那上宮という名の現存しているものでは 正徳貮年(1712)の棟札が最初で唯一神道祭官・従五位下金指伊賀守義治が署名して豆州那賀郷大鎮守也といって従来の伊豆の五大社の面目を傳えている。
當社所蔵文化財
一、 神像
二、 神鏡 経塚から出土した鎌倉時代中期の和鏡
三、 古文書
四、 金燈籠 大久保石見守が寄進したとの金燈籠は我國の當代工藝美術の標本となっている貴重な文化財である
昭和参拾壹年拾月拾七日縣指定文化財」
おもしろいことがたくさん書いてある。
別の式内社である「仲神社」は別の所にあることになっている。(長安が知らなくても仕方が無いが)
私の仮説では三嶋大社が現在地に移ったのは平安最後期としてるんですけど、この地域と三宅島・下田白浜との関係はどうなってるんでしょうか。
ちなみに「伊豆の五大社」といったら一般には「三嶋大社」(三島市)、「伊古奈比命神社(白浜神社)」(下田市)、「物忌奈命神社」(神津島)、「阿波神社」(神津島)、「楊原神社」(沼津市)。
伊那上神社の「伊那」の字はどこから来たのでしょうか。(※一説には猪名部氏に由来していると言われる)。もしかしたら「那賀」も「伊那」に由来があるのかもしれませんけど、宮司の一族が「金指氏」というのは何か意味ありげですよね。
「経塚から出土した鎌倉時代中期の和鏡」というのは、「源頼朝が寄進した国宝の鏡」なのかな。(そんなのが地中から出てくるのはおかしいかな)
さかんに書かれている「承安3年に頼朝公が社田を寄進した」という記述ですけど、承安3年というのはまだ頼朝が人質生活を送っていた頃(=伊豆に流されてきて13年後、山木館襲撃まであと7年)ですから、本当にそんなことが出来たとは思われない。ただし、伊豆の伝説の中で「文覚上人が後白河法皇の怒りを買って伊豆に流された年」というのが「承安3年(1173年)」とされています。
と、せっかくの頼朝遺跡なのに来てみてもほとんど頼朝公の香りは嗅ぎ取れない場所でしたが、まぁいいんです。
そんなことより、境内はよく見てみるとすこしずつおかしい点があります。
拝殿の後ろに本殿があるのですけど、拝殿と本殿はつながっておらず、その本殿の前に(隠すようにして)新しめの狛犬が置いてある。ふつう狛犬は拝殿の前にある物だと思うが(でも狛犬にはルールがあるわけではない。)踏まれている仔イヌがかわいいですね。
で、問題はこいつらです。
こういうのが目立たぬようにして何ヶ所かに分けておいてある。
なんだこれ。どうしてウサギなんだろう?
大久保長安の金燈籠はどこにあるのかわかりませんでした。
そこを去って、次に向かったのは「相生堂」です。
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