オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

ヴォーン・ウィリアムズ作曲 『富める人とラザロ』と五つの異版。

2007年06月29日 19時30分43秒 | わたしの好きな曲


これまた「ひどく美しいから」という理由で好きなんです。
本などによると、「スコットランドやアイルランドの民謡は、どうしたわけか日本人の心にしっくりくるような作りなものが多い」んだそうなんです。
グリーンスリーヴスや蛍の光やアニーローリーなどを思い浮かべてみると、そうなんですかね。演歌みたいな胸に迫るメロディがいい雰囲気なのかしら。音楽以外でもアングロサクソンはよく日本の歴史や文化や民族的性格が対比されることが多いですよね。島国根性。意味が分からないながらも共感してしまえる部分は大きいです。スコットランドやアイルランドはアングロサクソンじゃないんですけど。
で、英国で名の知られている作曲家(ってあんまり数はいませんけど)は、民謡採集を一生懸命している人が多くまたそれを自らの作品に組み入れているので、名前は知らなくてもなかなか耳に馴染む音楽が多いんですよ。20世紀前半の偉大なレイフ・ヴォーン=ウィリアムズはその最大巨人。
ヴォーン=ウィリアムズはまだ学生だった頃、師匠のセシル・シャープの影響を受けて、友人のホルストやグレインジャーたちとともに国中を歩き回って、民謡を採集したそうなんです。(民謡の採集っていったいどういう作業をするの?) 
で、その民謡をもとに作品をこしらえるんですが、「民謡から作った曲」という土的・朴訥的なイメージに反して、私の耳で判断するかぎりは、ヴォーン=ウィリアムズの作品は「美しく」、「迫力満点で」、「澄み切った厚い響き」になっているところが凄い。まるで「ターナーやコンスタブルの絵画のよう」と評されるのもうなづけます。そして次第に「民謡とはなんなのか」ということもわかんなくなってきます。だってこれ、氷川きよしがズンドコ節やソーラン節や黒田節を歌うよりもかなりえぐいですよ。原型がわけわかんなくなっちゃってるんですから。
一応、ヴォーン=ウィリアムズは、民謡について、次のように定義しているのだそうです。
「民謡とはメロディ(旋律)だけである。それ以外は自由」。
これだけで私たちが民謡に対して持っているイメージを完全に破壊してくれますね。でもうなづける。

※私が誤解しているのかもしれないので、ヴォーンウィリアムズが上について書いた文章を引用しておきます。(ネットで拾ってきたものですけど)私の要約能力には難があるかもしれない。
民謡を縦に規定するものと言えそうな面については、それが純粋に旋律的であるという事実がある。われわれは近代音楽によってあまりに和声に慣らされているから、和声を考慮しない純粋な旋律がありうることさえ考える事ができにくくなっている」「民謡の歌い手は、リズム形式に関して全く自由にふるまう。彼はあわれな民謡採集家の当惑など考えもしない。彼の歌をきいた採集家は後であらためて彼を問いただし、彼が熱中のあまり不注意に歌った箇所を、正しく修正しようと試みるかもしれない。しかしわれわれは不規則な長さをもった小節が現代作曲家だけの特権であるかのように考えがちだが、むしろ現代作曲家たちの方が先人の享受していた自由に復帰したのである」「芸術音楽は個人による作品で、民族音楽に比べて比較的短期間に作られ、紙に記されて一定の変更を許さない形で永久に固定される。民族音楽は民族の産物で、個人的なものより共同体的な感性と趣味を反映している。それは常に流動的である。その作品は決して完成せず、その歴史の中のあらゆる瞬間において、ただひとつの形態だけでなく多数の形態をもって生きている」(『民族音楽論』(塚谷晃弘訳、雄山閣)



難しいことは良く分からないので流しちゃいますが、要はヴォーン=ウィリアムズは民謡や古い旋律に材を取った作品を数多く作っている事、それらはとても充実した一級大作になってしまっていること、美しくて音が厚い事、理論にちゃんと乗っ取っていて聴き応えがあるということ、です。で、数ある作品でも『グリーンスリーヴズ幻想曲』や『トーマス・タリスの幻想曲』や『揚げひばり』や『ノーフォーク狂詩曲』などは名曲中の名曲として知られているのですが、私の関心としては次点として置かれているこのラザロ(←もちろんこれだって愛好家の間では存分に評価の高い作品ですが)が一番聴き応えがあって好きだと言う事です。 この作品は、1939年のニューヨーク万博の為に作曲された作品であるそうです。ハープと弦楽合奏のための作品です。 でも「万博のため」というのは単なる理由で、ヴォーン=ウィリアムズが民謡採集をしていく過程で、「聖書の中にあるラザロのエピソード」をテーマにした民謡が、スコットランドアイルランドで5つも見つかったので、面白く思ってひとつの作品にしてみることを思いついたのだとか。そりゃ面白かったでしょう。(イングランドにはそれが無かったのかどうかは、手持ちの資料ではわかりません)
みなさま、ルカ伝16章にある「富める人とラザロの逸話」を読んだ事ありますか? キリスト教にちょっと偏見のある私(←熱心な真言宗徒ですので)から見たらかなりアレなお話なのですが、こんなのにもとづいた民謡が、連合王国全土に5つもあるのがまず面白く思いますし、ヴォーン=ウィリアムズがまとめたそれが、まったく違う旋律の寄せ集めになっている(ように聞こえる)のが面白い。変奏曲じゃないんですよ。これはもしかして、「岡山県にある結末の異なる桃太郎伝説を全部集めて組み合わせてみた」、「文部省唱歌の中にある4つのこいのぼりの童謡を全部漏らさず合わせてみた」、「滝廉太郎の「花」と中島みゆきの「花」と森山直太郎の「さくら」とシューベルトの「ひまわり」を組み合わせてみた」と同レベルなのではありますまいか。その上で、この音楽が2度も最高の盛り上がりを見せる重厚で美しい作品に仕上がっていることが素晴らしい。


『富める人とラザロ』の逸話について。
検索すると、このラザロについて「イエスの友人で、キリストによって甦らされ聖者となった人」と書かれている事が多くありますが、実はそれはヨハネ伝に出てくる別人のラザロさんです。まぎらわしいですね。『X-ファイル』に素材として出てくるラザロさんもヨハネ伝の方の「復活した」ラザロさんでしたね。
ルカ伝に出てくるラザロのエピソードは以下の如く。
「ある金持ちがいました(この金持ちは名前すら示されない)。近所にラザロという名前の貧者がおりました。貧者ラザロは金持ちの家から出る残飯で生をつないでおりました。
この金持ちがとうとう天に召されたとき、あの世の聖者アブラハムの足下に、かつて自分が慈悲を示した貧者ラザロがいるのが見えました。彼はアブラハムに願いました。
地獄は苦しいです。私を救ってください。あなたの足元にいるラザロはかつてわたくしが施しをして救ってやったやつです。今度は私を救って下さい、と。
すると聖アブラハムは言いました。お前は生きている間、いい目を見たじゃないか。我慢しなさい。ラザロは生きている間不幸せだったのだからいまは救われるべきなのです。
それならば、と死んだ金持ちは言いました。
是非そのラザロを私の家族に使わして警告してください。豪奢をやめよと。こんな苦しみを、私は愛する家族には味合わせたくない。
すると聖者は言いました。
「それは貧者ラザロじゃなくてモーゼと救世主の役割りです」

・・・・・・・・悲しすぎる。
私はどちらかといえば境涯が貧者の方なので、この金持ちに同情する必要はないのですが、それにしてもこの逸話には腹が立つ。この文章の中には少なくとも金持ちの生前の落ち度は示されていないし(敢えて言うとすれば金持ちがあの世に行ったときにハデスにいて彼もそれに異を唱えないところでしょうか)、言動には必要悪は悪と知っていつつも敢然とそれを受け入れて最善をおこなったという、芯の強さが感じられるじゃないですか。なのに、聖者はそれを悪とし、貧にまみれたラザロを善と断ずるのです。そりゃ貧乏は苦しいですけど、因果がはっきりしていないためにこのエピソードは私は嫌いなのです。仏教の「蜘蛛の糸」を見ろ。金儲けをすることは悪い事ですか? しかしこんな身も蓋も無いようなものが、アイルランドとスコットランドでは5つもの異版で民謡として歌われているんですね。それもこんな美しい旋律で。


元の民謡がどんなものかは知りませんが、少なくともヴォーン=ウィリアムズによる音楽では地獄での責め苦や勧善懲悪の様子は微塵もうかがえません。それよりもむしろ「何かを成し遂げた英雄の人生」や「壮大な国土と歴史に対する讃歌」のようなものを感じます。少なくとも主人公は貧者ラザロじゃなくて壮麗でドラマチックな生涯を遂げた金持ちの方です(たぶん)。それが面白く感じましたし、題材と壮麗さのミスマッチが私の心を惹き付ける最大の要因なようです。英国万歳。そんなことをつらつら考えていたら、うっかり聖書まで読み込む事になってしまいましたよ。…はっ、これが孔明の罠か。

ヴォーン=ウィリアムズには私にとって魅力的な題材の作品が多々あります。
一時期、彼の交響曲全集が相次いで発売された時期もありましたよね。「じっと待っていれば、彼ほどの大家なのだから、その傑作はやがて漏らさず目に出来る」と信じて待っておりました。なのにその後CD不況になってしまい、それが果たせなかった事がちょっと悔しいです。










ネヴィル・マリナー


ヴォーン=ウィリアムズのさわやかな世界
1.トーマス・タリスの主題による幻想曲
2.グリーンスリーヴスの主題による幻想曲
3.揚げひばり
4.富める人とラザロの5つの異版

指揮;サー・ネヴィル・マリナー
アカデミー室内管弦楽団
(1972年、ロンドン(キングレコード)、¥1,800)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 吉松隆作曲 ピアノ協奏曲『... | トップ | 一匹の鯨の新しい豚骨醤油。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

わたしの好きな曲」カテゴリの最新記事