オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

『玩具修理者』。

2006年05月19日 21時54分33秒 | 小説・漫画

ホラー小説です。
でも、読んでいる印象は絵本のようで、微笑ましい感じしか受けませんでした。素敵な掌編でした。私の頭の中では、勝手に諸星大二郎の絵による絵本として、勝手に物語が展開されていってしまうほどです。小林泰三の第一単行本であるこの本には2つの作品が収められているのですが、もう一編の『酔歩する男』が170ページなのに、表題作であるこっちの方は40ページ弱。読みやすいし、文の仕掛けもないし、あっという間に読み終わります。

物語は、おもちゃなら何でも直してしまう修理屋さんの物語。その正体は結局最後までナゾですが、やさしいし、お金は取らないし、失敗はしないし、(大事なおもちゃを壊してしまって両親に怒られそうだと)困った子供たちが真剣に頼めば、どんなおもちゃでも直してくれる、とても陽気ないい人です。何を言っているのか分からないのだけど。

「クトゥルー神話」の短編として取られることが多いそうで、解説でもバリバリその位置づけで語られています。その根拠は、おもちゃやさんがときおり叫ぶ変なセリフなのですが、以下がそのセリフの一覧。

「ようぐそうとほうとふ」
「くとひゅーるひゅー」
「ぬわいえいるれいとほうてぃーぷ」
「りーたいとびー、ぎーとべいくく、……」
「すひーろうびーようゆーいぃーえいえいぃーえいえいぃーえいふ、あいめいがいにーどりーみーる、……」

…これだけだと日本語が話せない人のようですが、ちゃんとこの間に「まだなのか?」「もうなのか?」とかいうセリフも言ってますので安心して下さい。(それでセリフが全部なのですが)
で、彼のセリフのしまいの2つは別にして、彼の名前(所属する団体名)は「ようぐそうとほうとふ(ヨグ=ソトホート)」なのか「くとひゅーるひゅー(クトゥルフ)」なのか「ぬわいえいるれいとほうてぃーぷ(ナイアルラトホテップ)」なのか、ファンとしては気になる所ですよね? ヒントは、おもちゃ修理屋さんが住んでいるお宅の形にありそうです。「玩具修理者は、二軒の空き家の塀の間の小さな小屋に住んでいた。その小屋はいろいろな大きさ、様々な色形の無数の石が寄せ集まってできているようだった。小さいものは、米粒ぐらい、大きなものなら大人の頭ぐらいあった。そんな石が、まるで、よせ木細工のようにきれいにぴったりと組み合わされていた。遠くから見ると、じゃりの小山のように見えたけど、近づくと、どうやら家の形らしきものであるということがわかった……」  これは、一般に言うようぐそうとほうとふの容姿の描写そのものですよね。
でももっと良く考えてみると、このおっさんは他の人には「ようぐそうとほうとふ」とか「くとひゅーるひゅー」とか名乗ってて、どうやら一番一般的な通称は「ようぐそうとほうとふ」らしいのに、主人公にだけは「ぬわいえいるれいとほうてぃーぷ」と名乗って(?)いるのです。こういうイタズラって、ぬわいえいるれいとほうてぃーぷのやりたがりそうなことかも知れない。

結局、おもちゃ修理屋さんは、絶望的な状態に壊れた主人公の大事なおもちゃを無事修理してあげて、めでたしめでたしで終わります。
で、主人公はそのそばで修理の様子をずーーっと眺めているのですが、一番凄いことは、そのおもちゃ屋さんの修理のやり方です。それは、子供たちが持ち寄ったおもちゃの数がある程度たまった時点で彼は修理に取りかかるのですが、その際に、目の前のすべてのおもちゃを一度にすべてバラバラにしてしまうのです。なんせ壊れたおもちゃを修理するのですから、部品が破損してどうしようもなくなってしまった部分も当然あるはずです。そうした場合、おもちゃ屋さんは、別の子のおもちゃの余った部品を流用して、おもちゃを修理します。そして全部作業を終了した時に、「修理が失敗したおもちゃはない」のです。「完璧に元通りになったのに、部品がいくつか余っている」とも書かれています。これって、元の状態より少ない部品数で、問題なく動く元通りの見た目(?)の新たなおもちゃを作り直してるってことですよね? すごいやっ。

もうちょっと夢想を膨らませると、彼ほどの腕のおもちゃ修理屋さんが子供たちから全くの無報酬でそんな作業をしているはずもなく、その余った部品を何か別の用途に横流ししてしまっているのだろう、と思うのですが、その先にさらにホラーな想像を広げていく余地があるところが、この小品の読後感の一番すばらしいところだと思います。楽しかったです。

玩具修理者
作者;小林泰三、1995年
角川ホラー文庫(同時収録;「酔歩する男」)

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『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』。

2006年05月19日 16時45分55秒 | 小説・漫画

『蓬莱学園』の新城カズマが去年出したステキな青春小説『サマー/タイム/トラベラー』で、この小説が参考資料として挙げられ、ことあるごとにその内容に触れられていたので、それで興味を持ちました。とてもいい題名ですよね。そしてこの題名が、内容のステキさを印象づけています。

※注意; 私はいつもネタバレなんか全然気にしないんですが、この作品だけはネタバレするとすべてが台無しだし、もったいないです!

 

 

 

 

 

 

 

素晴らしいアイデアの作品でした。話も仕掛けも物語のコンパクトさも。冒頭から、主人公がおかれた状況がとても絶望的なのに、主人公がとても状況を楽しんでいて、この不思議な人生を何十年も経験し、隅々までコツをつかんでいることに、びっくりします。考えてみれば、タイムトラベラーとしての能力を(幸運にも)持っちゃった人って、こういう状態になっちゃっても不思議ではないんですよね。簡単に言えば、彼の持つ時間跳躍の能力は、身体だけはそのままの状態で、精神だけが過去や未来の自分の中へ行ったり来たりする。でもそのタイミングや行き先を自分で決定することはできない。それはいつも突発的に起こる。
彼はその能力を小さい頃から持っていて、まだ何も知らない子供の時に大人の自分の生活を味わったり、人生をうしろから前の方に向かって遡って体験したり、最初はわけがわからなかったので、「他の人もみんなおんなじなんだろう」と子供心に思ってたんだそうです。(コワいことだ)

すでにその状態を何十回も経験して、生まれたばかりの状態から、青年期、壮年期、老年期を何度も行き来して経験しているし、なんとこれまでに死ぬ瞬間までも体験したことがあるので、自分の寿命は何歳で、どんな結婚をして、どんなふうに仕事を成功させて、そしてそれらがどう失われていくかを、残りの人生はあとどれぐらい残っているのかを、もう知っているのです。
自分がそんな人生だったらどうなんだろう。きっと絶望して生きることをやめてしまうと思うね。でも、主人公は、その状態を楽しみ、緻密に計算しながら日々を送っている。不思議なことは、一度経験した瞬間は、二度と経験しないということです。学生時代を十回ぐらいは経験しているのに、厳密には同じ瞬間は絶対に訪れない。主人公はとても記憶力がいいのです。「いまがこの時代だとすると、自分がまだ経験していない時間はこれくらいだなー」ということを、終始計算している。すごいです。

しかし、話はとても面白いのに、しかも話はハッピーエンドで終わるのに、私にとっては物語のその後味は、よいものではありませんでした。それは、主人公が味わうロマンスについてでした。主人公は、二度結婚をするのです。ところが一度目の結婚は失敗でした。最初は幸せだったんですが、幸せに溢れていた妻は年月とともに次第に夫を信じられなくなり、ストレスを貯め、お酒を浴びるように飲んでぶくぶくと太り、ボロボロの状態でついに離婚をするのです。そんな(別れる事になる)妻を前に主人公は時間を行ったり来たりするのですが、以前にもっと年寄りの自分の中に行ったときに、自分の結婚生活がどういう過程でどうなってしまうのか、すでに知ってしまっています。知っていて、凄く太って病んだ状態の妻のあとに、時間を遡って若くピチピチして幸せな妻の時代を訪れたりするのです。、そして、楽しそうにぷりぷりもちもちした若い妻を前にしながら「このあと太って不幸になっちゃうんだよなー、ゴメンね」とか思ったりするのです。しかも、思うだけで何もしないのです。浮気もするし。後味が悪くなかろうはずがありません。この後主人公が事件を起こして、二人が運命とは違う生涯を歩むようになることに成功し、ふたり別々の幸せな相手を見つけてハッピーエンドなのですが、私の感想は「主人公のばかやろー!!」でした。

そういうところを含めて、とても楽しい作品だったです(^-^)。

 

ここがウィネトカなら、きみはジュディ
作者;F.M.バズビイ、1974年
短編集『タイム・トラベラー』(13編収録)所収、新潮文庫、
古本屋で350円

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『タイム・マシン』。

2006年05月19日 14時32分33秒 | 小説・漫画

  

中学生だった頃に読んだホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』に「エロイとモーロック」という項があって、それがこのH.G.ウェルズの古典的で有名な『タイム・マシン』について知ったはじめです。

ひ弱なエロイと野蛮なモーロック。この幻獣辞典には他にもさまざま、邪悪で大きい化け物がたくさん載っているので、勝手に私もこの『タイム・マシン』にもそんな化け物が他にもたくさん出てくるんだろうなぁ、と思いました。

大学生になって、ウェルズの文庫本を買ってきて読んでみました。
『タイム・マシン』という題名から読む前に予想していたこと。ドラ○もんのタイムマッシーンみたいに、机の引き出しの中に装置があって、いつでも好きな時に気ままに乗って、過去にも未来にも行ったり来たりしまくって、場合によっては『戦○自衛隊』や『時の旅人』みたいに自分が織田信長になり代わることも可能だなぁ~、と。

実際、冒頭で主人公が友人たちに完成間近のタイムマシンを披露するとき、そんな会話になります。「過去に戻って、ヘイスチングの戦いの実際を確かめてみることができるぞ」「ホメロスやプラトンの口からじかにギリシア語を聞けるかもしれませんよ」「しかしそんなことをしたら大学の学位予備試験で落第してしまうぞ。ドイツの学者たちがギリシャ語をうんと変えてしまったんだから」「よし、それなら未来へ行くのがいい。ありったけの金を投資して利殖する。そして未来へいって、そのあがりをたんまりいただくんだ」「しかし、未来が完全な共産主義社会になっていたら皮肉なことだね」。

でも、こんな会話をしているくせに、機械を完成した主人公が向かった先。それが80万816年後の世界だった。行き過ぎだって、主人公! 何考えているんだ。
どうやら、主人公には歴史に関する興味は無かったようです。しかし、行った先で主人公は文化的な観察は熱心にしている。現在の社会(19世紀)から80万年後の社会の状態に至った、原因に関する考察を。私、この主人公のことがよく分からん。「私たちの子孫はかなり知恵が増してるに違いない」と期待を高めて行ったのに、行った先の住民が獰猛だったからといって「どうも好きになれない」と言って平気で殴り殺したりできるんだから。この世界に住んでいたのが、エロイとモーロックだったのです。

物語は、このエロイとモーロックの場面で大半が過ぎます。主人公が不注意でタイムマシンを紛失してしまうのでこの時代から動けなくなってしまうのですが、いろんな時代へ行き来して、多彩な歴史のいろんな出来事を堪能するのだろう、という私の期待は置き去りにされてしまいました。彼が行き着いた80万年後のその場所はロンドンのテムズ川のほとりで、上層には綺麗な庭園のような世界に平和なエロイが、一つだけの心配ごとだけを胸に抱えて無邪気に遊び暮らし、地下の世界ではモーロックが過去の遺産の機械を意味無く動かし続け、肉を喰らって暮らしている。モーロックが働いてエロイに衣服を提供し、エロイたちはモーロックに食べられる、というのはウェルズの19世紀イギリスに対する文明批判なのでしょうか。主人公はエロイの世界の狭い範囲を歩き回り、新たな事実に行き着くたびに、真剣にエロイ社会の真実について考察します。その部分がこの小説の一番楽しいところです。で、「とても落胆する世界」と結論づけるんですが、どうしてもっともっとこの世界を探索してくれなかったんだろう! 無くしたタイムマシンが気になるのは分かりますが、さすがに世界全体に地下世界が広げられている分けでもないでしょうし、例えばフランスやアイルランドまでエロイとモーロックしかいないわけがありますまい。ウェルズの考察が正しいのなら、違う社会構造の国には別の未来種族が誕生していたはずなのです。せめて、北のスコットランドぐらいには行って欲しかった。しかし、主人公はテムズ川流域の別の地域には行ってみようなどとチラとも思わず、ただ地下世界のモーロックから、タイムマシンを取り返すことにのみ勇気と冒険心を引き起こすのでした。

で、物語では首尾よくタイムマシンを取り返し、荒れ狂うモーロックの暴威からその機械で逃げ出すのですが、逃げた先がさらなる未来。慌ててたんですね。ここで主人公の未来に対する興味が復活し、「地球が滅びる瞬間を見てやろう」と思います。なんでそんな場面が見たいのか、主人公。世界が滅びる瞬間、太陽は燃え尽くして赤く弱々しく大きくなり、地球上にいる生物は白くて大きなちょうちょ(モスラか)と、大きくて頑丈な蟹の群れ。シュールだ。

それから物語の結末がどうなるのか、一応伏せておきます。
ウェルズにはタイム・パラドックスについて語ろうという気は無いらしくて、ただ「人騒がせなことにはなりませんかね。われわれの祖先は時間錯誤にはあまり寛大じゃあないからね」という一文があるだけでした。
それから、“ヒロイン”のかわいいエロイのウィーナちゃんは、実際の所、どうなっちゃったんだろう? 映像化するんなら小倉優子さんを望みます。

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『毎度!』の「海の恵み」。

2006年05月19日 00時55分11秒 | ラーメン

きのう卓郎商店の柚子の香り塩の記事を書いていたら、なんだか無化調ラーメンの塩ラーメンに興味が出てきてしまったので、三嶋大社の横にある『毎度!』に行ってきました。二度目の訪問です。

毎度!は三島大社沿いの細い街並みの角地の不等辺三角形の敷地に立っているのですが、駐車場の位置がすごく分かりにくい。それで、わたし、以前に2回ぐらい場所が分からなくて車が止めれなくて腹が立って帰ってしまったことがありました。そして前回は、三嶋大社の有料の駐車場に停めたな。今日は4度目の正直、ようやく場所が分かったんですが、駐車場自体は広いのに、入り口が狭くて大通りから切り返しをしなくては入れなかった。なんとかしてくれ、あれ。

さて。
店に入ってみると、席がいっぱいです。ちょうど、12時だったのでした。席が空いても、次から次へと人が入ってきます。さすが、人気店。前回来た時は14時過ぎだったので、私の他に1人しかいなくて「こんなものなの?」と思ったんですよね。

注文したのは、『海の恵みの潮味』(750円)にトッピングでチャーシュー1枚(100円)。ここの店はチャーシューメンにするとき、1枚単位で注文するんです。(一枚が大きくてビラビラしているので、追加一枚で充分ですけどね)  前回来た時に食べた鶏と魚介の醤油味は私には全然薄すぎて味が分からなかったので、塩はどうだろうと、とてもワクワクとしていたのでした。

ラーメンが来てみて一口すすってみてびっくりしました! 私が想像していた「塩ラーメン」とは全然違う感じの塩味です。なんだこれ! 喩えてみたら、「海の味」かなー。それも、海岸からじゃぶじゃぶ入って20mぐらいの距離の、海面から20cmぐらいの深さの海の水の味です。だから「海の恵み」の「潮」味なのかー。店長さんはサーファーさんなんですよね? どうやってこんな味を思いついたんだろう? とても美味しい感じだったです。

しかし、先日食べた卓郎商店のとは、同じ無化調なのに全然様子が違います。卓郎商店のは「ゆず、胡麻、塩、水菜だった」と述べましたが、毎度!のは海の水の味一本やりです。(海苔とか白髪ネギとかメンマとかが入っているのにね) チャーシューもビラビラしていて不思議な感じでいいんですが、何の味も付いていません。スープをたっぷりからませて、ようやく味がする程度です。柔らかかったけど。
麺は以前述べたように、そうめんのように細いけど、何かの殻が混ぜ込んであることも噛みごたえのある強くて美味しい麺。醤油ラーメンと塩ラーメンは同じ麺ですね。
なんだかんだいって、久し振りにラーメンのスープを全部飲み干しました。

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