『歴史街道』誌の今月号の特集が本多忠勝でした。
中に諏訪原氏による本多平八の絵があって、それがあまりにもかっこ良かったので買っちゃった。だいぶ前に買った諏訪原氏の画集にも、別の忠勝の絵が収録されてたんですけどね。
さて、猛者ぞろいの徳川家中の中にあって、武勇第一といったらまず挙げられるのが本多忠勝。本を読んでると、その無敵ぶりにクラクラしてきてしまいます。
例えるならば、趙雲と関羽と張遼と許猪とホウ統を足して2で割ったような人。無敵すぎ。
ゲーム等でも頻繁に登場しますので、一番おなじみの人なんでしょうね。
しかし!
私には、一般に膾炙している忠勝像はあまりにもかっこよすぎる。絵としての話ですよ。私は、何度も言ってますが武者は必要以上に麗しく書かれるのを見ると熱が出て寝込んでしまう、難儀な性格なのです。
まず、信長の野望の本多忠勝。
蒼天録 革新
やべー、なんだかハンサムすぎて寒気がしてきましたぞ。
続きまして、戦国無双の忠勝。
(※参考;ココを見て)
なんだか脾臓が膨れてきました。
私、戦国無双はどうも性に合わなくて、ただ見ていた覚えがあります。
そして、『戦国BASARA』です。
これはj.kさんに教えてもらったんですが、ここまでやってると、ちょっと面白いですね。
これだけいる中からどれが忠勝なのかを見分けられたら、アナタはすっかり戦国ツウですよね。
正解はコレ。(↓) …わからないか。赤い若造は真田幸村ですか? 孫一?
が、ここまできてしまうと腸捻転で痙攣を起こしてしまいます。
なんとかかっこいい忠勝を見ないで過ごす方法は無いものか。
無いものかって、「史実の」本多忠勝を描いた絵としては残っているものはただひとつしかなくて、これさえあれば(私には)百人力です。
ホッ。
やっぱり忠勝は、この絵が一番くつろぐわい。
表情の細かい部分や色づかい、構図から見て、「三方ヶ原の家康のしかみ像」を描いたのと同じ作者? …と思ったのですが、こちらの絵は忠勝の晩年に描かれたものだそうですね。残念。千葉県の大多喜城の近くにある良玄寺に納められた絵だそうです。
つくづく異相ですよね。
ただ、忠勝はこの絵を描かせるとき、その出来上がりに満足できなくて、8回も描き直させたといいます。その分、最終的に完成したこの絵が忠勝の表情を良くとらえているとも言えましょうが、視点を変えてみれば、最初に描かれた方が画家が存分に腕を奮った「忠勝の本当の顔」に近いもので、でも忠勝は後世のために「怖くて迫力のある絵」を望んでいたので、両者の認識のズレが「8回」という描き直しの数字に表れていると考えることもできます。だって、いくらなんでもそんなへたっぴの画家さんを呼んだはずないでしょうから、いくらなんでも8回は多すぎます。要は、この絵はかなりフィクションの可能性もあると。
その9枚の絵が全部残っていて、画家に対する忠勝の要求を克明に追うことができたら、面白かったのに。
肩のうしろの「ヘンな毛」はなんだろう? もしかして唐の頭?
ま、ともあれ忠勝の絵は(数ある十六将図や写実性に欠ける合戦錦絵を除いては)これしかないわけですから、私のこのブログでは忠勝のイメージは御意のママでいきたいと思います。この肖像と甲冑を見るだけでも、この方はシャレッ気とケレン味を存分に持ち合わせたお方でしたよ。
が、やっぱりアレですねー。
「十六神将」のトップバッターに取り上げといて言うのもなんですが、いくらこんな顔でも、本多忠勝はどうしてもどうしても立派すぎて苦手です。どうにかして彼には触れずに済ませたいところですが、浜松時代の家康は忠勝抜きで語ることは不可能なので、、、、、、 つらいです。
とりあえず、数多くある逸話の中から、とりわけ私が大好きな忠勝のエピソードを2つ。
まず、『名将言行録』の第一話に掲げられている話です。(多分、忠勝14歳前後)
あるとき、家康は忠勝を連れてかまり(=偵察)に出た。家康の前を歩いていた忠勝が、突然立ち止まって言った。「殿! ここより先は進むことは無用です!」 家康が何があったのかいぶかしげにしていると、忠勝はすかさず言った。「私は今、うんちを踏みました。どう見ても人の糞です。とても柔らかいので捻り出されて間も無いです。おまけにひどく臭いです。きっとまだ近くにいます」。するとその声を聞いて、近くに座っていた敵兵が起き上がって襲いかかってきた。家康は間一髪で逃げた。
これはダメな例なのですが、忠勝の一番の能力は「とっさの判断が素晴らしく早く、反射行動はさらに早い」ということが挙げられると思います。きっと、このように実地で鍛えていったものなのでしょうね。
続きまして、明良洪範から。
豊臣太閤があるとき言った。「東国の本多忠勝、西国の立花宗茂。この2人が当代無双の勇者であり、天下の干城(=国を守る軍人)である」。そういって、ふたりを引き合わせた。ふたりは互いに言い交して、何度も語り合いの機会を持った。
宗茂は、忠勝が年長で軍事にも老練だったので、いつも忠勝に乞うて武辺の物語を聞かせてもらっていた。ある日、忠勝は宗茂に言った。「わが殿は、若いころからどんなことでもハッキリとしたことは言わなかった。だから私は心もとなく感じることもたびたびあったのだが、今頃になって分かってきたことがある。上から物を見るようになると、下のことはとても明瞭に見えてくる。だからついつい下の者にあれこれ指図してしまうのだが、そうすると、下の者はただ命令に従うばかりで頭を働かせなくなる。だからわが殿は、そこを汲み図って出来るだけ下の者を寛容に扱っていたのだな、と。忠勝もそのことをよく思い出して、江戸の黄門さまに(←家光?)語り聞かせ、若年の主の教訓としているのだ」。宗茂は、なんとも賢いことを聞いたと言って、いたく感嘆したという。
いいな~~。このシーンは志木沢郁氏の『立花宗茂』にも描かれていましたが、本多忠勝と宗茂の取り合わせって、意外と(私にとって)光景がイメージしずらいペアです。でもいいな~~。