オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

徳川十六神将(その1)。

2008年03月04日 20時06分51秒 |   神君家康

 

『歴史街道』誌の今月号の特集が本多忠勝でした。
中に諏訪原氏による本多平八の絵があって、それがあまりにもかっこ良かったので買っちゃった。だいぶ前に買った諏訪原氏の画集にも、別の忠勝の絵が収録されてたんですけどね。

さて、猛者ぞろいの徳川家中の中にあって、武勇第一といったらまず挙げられるのが本多忠勝。本を読んでると、その無敵ぶりにクラクラしてきてしまいます。
例えるならば、趙雲と関羽と張遼と許猪とホウ統を足して2で割ったような人。無敵すぎ。
ゲーム等でも頻繁に登場しますので、一番おなじみの人なんでしょうね。
しかし!
私には、一般に膾炙している忠勝像はあまりにもかっこよすぎる。絵としての話ですよ。私は、何度も言ってますが武者は必要以上に麗しく書かれるのを見ると熱が出て寝込んでしまう、難儀な性格なのです。

まず、信長の野望の本多忠勝。
  
蒼天録           革新

やべー、なんだかハンサムすぎて寒気がしてきましたぞ。
続きまして、戦国無双の忠勝。

  (※参考;ココを見て

なんだか脾臓が膨れてきました。
私、戦国無双はどうも性に合わなくて、ただ見ていた覚えがあります。

そして、『戦国BASARA』です。
これはj.kさんに教えてもらったんですが、ここまでやってると、ちょっと面白いですね。

これだけいる中からどれが忠勝なのかを見分けられたら、アナタはすっかり戦国ツウですよね。
正解はコレ。(↓) …わからないか。赤い若造は真田幸村ですか? 孫一?

が、ここまできてしまうと腸捻転で痙攣を起こしてしまいます。

なんとかかっこいい忠勝を見ないで過ごす方法は無いものか。
無いものかって、「史実の」本多忠勝を描いた絵としては残っているものはただひとつしかなくて、これさえあれば(私には)百人力です。

ホッ。
やっぱり忠勝は、この絵が一番くつろぐわい。
表情の細かい部分や色づかい、構図から見て、「三方ヶ原の家康のしかみ像」を描いたのと同じ作者? …と思ったのですが、こちらの絵は忠勝の晩年に描かれたものだそうですね。残念。千葉県の大多喜城の近くにある良玄寺に納められた絵だそうです。
つくづく異相ですよね。
ただ、忠勝はこの絵を描かせるとき、その出来上がりに満足できなくて、8回も描き直させたといいます。その分、最終的に完成したこの絵が忠勝の表情を良くとらえているとも言えましょうが、視点を変えてみれば、最初に描かれた方が画家が存分に腕を奮った「忠勝の本当の顔」に近いもので、でも忠勝は後世のために「怖くて迫力のある絵」を望んでいたので、両者の認識のズレが「8回」という描き直しの数字に表れていると考えることもできます。だって、いくらなんでもそんなへたっぴの画家さんを呼んだはずないでしょうから、いくらなんでも8回は多すぎます。要は、この絵はかなりフィクションの可能性もあると。
その9枚の絵が全部残っていて、画家に対する忠勝の要求を克明に追うことができたら、面白かったのに。
肩のうしろの「ヘンな毛」はなんだろう? もしかして唐の頭?

ま、ともあれ忠勝の絵は(数ある十六将図や写実性に欠ける合戦錦絵を除いては)これしかないわけですから、私のこのブログでは忠勝のイメージは御意のママでいきたいと思います。この肖像と甲冑を見るだけでも、この方はシャレッ気とケレン味を存分に持ち合わせたお方でしたよ。

が、やっぱりアレですねー。
「十六神将」のトップバッターに取り上げといて言うのもなんですが、いくらこんな顔でも、本多忠勝はどうしてもどうしても立派すぎて苦手です。どうにかして彼には触れずに済ませたいところですが、浜松時代の家康は忠勝抜きで語ることは不可能なので、、、、、、 つらいです。

とりあえず、数多くある逸話の中から、とりわけ私が大好きな忠勝のエピソードを2つ。

まず、『名将言行録』の第一話に掲げられている話です。(多分、忠勝14歳前後)

あるとき、家康は忠勝を連れてかまり(=偵察)に出た。家康の前を歩いていた忠勝が、突然立ち止まって言った。「殿! ここより先は進むことは無用です!」 家康が何があったのかいぶかしげにしていると、忠勝はすかさず言った。「私は今、うんちを踏みました。どう見ても人の糞です。とても柔らかいので捻り出されて間も無いです。おまけにひどく臭いです。きっとまだ近くにいます」。するとその声を聞いて、近くに座っていた敵兵が起き上がって襲いかかってきた。家康は間一髪で逃げた。

これはダメな例なのですが、忠勝の一番の能力は「とっさの判断が素晴らしく早く、反射行動はさらに早い」ということが挙げられると思います。きっと、このように実地で鍛えていったものなのでしょうね。

続きまして、明良洪範から。

豊臣太閤があるとき言った。「東国の本多忠勝、西国の立花宗茂。この2人が当代無双の勇者であり、天下の干城(=国を守る軍人)である」。そういって、ふたりを引き合わせた。ふたりは互いに言い交して、何度も語り合いの機会を持った。
宗茂は、忠勝が年長で軍事にも老練だったので、いつも忠勝に乞うて武辺の物語を聞かせてもらっていた。ある日、忠勝は宗茂に言った。「わが殿は、若いころからどんなことでもハッキリとしたことは言わなかった。だから私は心もとなく感じることもたびたびあったのだが、今頃になって分かってきたことがある。上から物を見るようになると、下のことはとても明瞭に見えてくる。だからついつい下の者にあれこれ指図してしまうのだが、そうすると、下の者はただ命令に従うばかりで頭を働かせなくなる。だからわが殿は、そこを汲み図って出来るだけ下の者を寛容に扱っていたのだな、と。忠勝もそのことをよく思い出して、江戸の黄門さまに(←家光?)語り聞かせ、若年の主の教訓としているのだ」。宗茂は、なんとも賢いことを聞いたと言って、いたく感嘆したという。

いいな~~。このシーンは志木沢郁氏の『立花宗茂』にも描かれていましたが、本多忠勝と宗茂の取り合わせって、意外と(私にとって)光景がイメージしずらいペアです。でもいいな~~。

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浜松市の徳川家康について。

2008年03月03日 18時46分50秒 |   神君家康

私自身は徳川家康(とくに浜松時代の!)について書かれてある本をあまり持っていないため、非常に困って本屋さん巡りをいっしょうけんめいしていたのですが、このあいだ浜松市の中央図書館に行ってみたら、すごいたくさんの本が並べてありました。
残念ながらほとんどの本が館内閲覧のみ可で、指を加えて見るしか無かったのですが。
でも、展示コーナーに、過去、この図書館の2階でおこなわれたという企画展の資料が並べてあって、その内容が、浜松城に関するものが多くてなんとも魅力的なこと。そこのところに「残部があるので職員に言ってください」とあったので、念のために聞いてみたら、なんと無料でとても充実した作りの冊子を5冊ももらっちゃいました。
すげーー!! 浜松市すげーーっ!!!。

写真だととても薄い冊子に見えるかと思いますが、内容は非常に充実しています。おそらく、現時点で浜松城と家康の遠江侵攻と三方原合戦について私の知りたいことはすべて、この5冊で網羅されているじゃないでしょうか。これを編纂したのはこの図書館の元職員の方だそうです。多分、浜松の歴史のことをすべて知り尽くしていないとこうは書けないでしょう。少し憧れを感じてしまいました。
微に入り細に入り書かれているので、この冊子の内容の紹介だけで、このブログも1年はイケると思います。前に書いた年表は間違いが多すぎるので書き直さないといけないでしょう。一番素晴らしい点は、「浜松時代の家康については、資料の数は多いものの、決定的に信頼のおけるものは存在しない」としたうえで、数々の説を並列して紹介していることで、その各々の説の論拠となる記述に加えてその問題点まで丁寧に解説してくれてあります。こりゃ便利だ。
浜松の徳川家康に興味のある人は、まず中央図書館に行くべきだと思います。
しかし、ここまですばらしいものをタダでもらえちゃうとなると、こまっちゃうなー。私は何をすればいいんでしょう? …という惑いは最初だけのもので、この5冊を読みこなせば、新たな視点はいくらでも湧き出てくるんでしょうね。伊豆でもそうでしたから。(…と、自分を慰めることにする)
しばらくはこの資料に基づいて、浜松での様々な攻城戦と三方ヶ原合戦に絞って語っていきたいと思います。

そうそう、
図書館では家康と幕末のことばかりで、私のもうひとつの執着の種である南北朝時代の宗良親王についての冊子はなかったのですが、浜松市の元引佐郡(=北の方)にある井伊谷宮(ここは祭神が宗良親王なのです)で、私が兼ねてから欲しいと言っていた『李花集』(=宗良親王の個人的な歌集)を売っていました。ばんじゃーい。2000円ぐらいしましたけども。
さすがに私は和歌はさっぱり解しませんので、これを読んでもさっぱり意味がわかんないんですけども、それでも十分魅力的な資料です。これ一冊で、やっぱり半年は遊べると思います。

いまの私は、宗良親王がすごーく愛おしいです。
宗良親王は各地を流浪した人ですが、中核となった場所が、浜松の井伊谷と、長野の大河原と、新潟と、それから吉野。全部きちんと系統だてて巡ってみたい。

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築山御前。

2008年02月25日 02時40分08秒 |   神君家康

昨日うっかり「浜松での最強の敵・築山御前」と書いてしまったんですが、築山殿ってずっと浜松でなくて岡崎に住んでいたんでした。また、無残に彼女が殺された地である浜松では、地元の歴史を愛好する方々を中心に、「築山殿は決して我儘意地悪陰険な女性ではなく、心の優しい清らかな美人だった。彼女を悪女としたのは神君を祭りあげようとする後世のでっちあげである」と主張する声もたくさんあります。ご当地ならではですね。「浜松の家康にとって最大の脅威だった築山御前」と訂正させてください。
かつて山岡荘八が『徳川家康』を執筆していて取材のために浜松を訪れたとき、築山殿の墓所のある西来院の御住職が、「築山殿は被害者である。現在は築山殿を悪者とする小説しか無いが、浜松にはそうではないとする伝説もたくさん伝わっている。ぜひ新たな視点で無実の築山殿を描くということをやってもらいたい」と申し入れたら、山岡荘八は「お気持ちは分かりますが、小説としてはおもしろさを重視しないといけませんから」と言って断った、といいます。いや、お気持ちはわかりますが(双方とも)。
かくいう私も、築山御前が大好きです。エヘヘ。

築山御前は桶狭間の戦いのあと独立した家康に、2年も経ってから人質交換で岡崎に引き取られたのですが、その頃の岡崎での反今川感情はものすごく、岡崎城へ入ることが許されなくて城外の屋敷に住まわされたといいます。その屋敷に人工の山があったので「築山御前」というんですって。つまり、結婚して5年間は(まさか瀬名姫と呼んでいたことは無いでしょうから)別の通称だった可能性もあったわけですね。ウィキペディアによると、築山御前を一番嫌って城に入れることを許さなかったのは、家康の生母の於大の方だったそうです。…ううう、不憫。彼女が幽閉されていたのは惣持尼寺だとか。…ただし、これまで「築山殿は家康とは10歳も年の離れた姉さん女房で、だから高飛車で尊大で誇り高くて年下の夫をバカにした」と言われてたような気がするのですが、ウィキペディアでは家康と同じ年の生まれということになっています。最近の研究ではそうなってしまっているのかしら?

「信康自害事件」については現在でもいろいろな説が飛び交っているそうですが、「築山殿を殺したこと」については、地元浜松では「家康は本当に妻を殺すつもりはなく、野中某によって打ち落された妻の首が運ばれてきたとき、家康は「なんてことを」とつぶやいた」といいます。私はあまり本をまだ読んでいないのですが、新田次郎の『武田勝頼』でもそういう描写でしたね。

河村恵利のマンガ『五徳春秋』でも、やたらと優しくて気がつく築山御前が出てきましたっけ。ここまで「いい人」だと調子が狂いますけど。


こんな感じだった。

でも、人がいいところを信長に付け込まれて徳川家はひっかきまわされて、最後に築山殿は織田家と五徳姫を激しく呪いながら死んでいきます。

でもこのマンガでは、家康(25歳ぐらい)も(↓)このような感じなので、注意が必要(笑)です。ダレやねん。

   

静岡市出身の作家・諸田玲子も築山殿の真実の姿に迫る小説を発表しているようです。これは見つけてこなければ。調べてみると、他にもたくさん築山殿は小説等になっているようです。私はちっとも読んだことないや。

一方で、実は、個人的には、家康に激しく厳しく誇り高く激烈に激昂して迫る築山殿の姿にも惹かれるところがあります。志木沢郁氏の『結城秀康』に、決して出番が多くはないもののやたらと存在感がある築山御前が描かれ、一度だけ家康に罵詈雑言を浴びせるシーンが出てきます。あそこで私は痺れた。私は別にマゾヒストでは無いんですが、どうしてかと考えたら、なんか千代姫に似ているんですよね。立花山城を持っていない千代。家康が宗茂と同じぐらいマゾ人間だったら、結構幸せにやっていけたのかもしれない。←適当な憶測。

浜松の伝説では、築山殿は死ぬとき「未来永劫祟ってやる」と叫んで(別の伝説では静かに合掌しながら)死んでいったといいます。築山殿の首を落とした野中三五郎重政の家には以後さまざまな怪異が起こり、また家康のもとにも夜な夜な小さな蛇の姿となった築山殿の霊が訪れて、呪いをささやき続けたといいます。

が、ちょっと解せないのは、現在築山殿の墓所は浜松城の近くにある「西来院」にあるのですが、「築山殿の首塚」というのが、「信康の首塚」のすぐ近くの岡崎市の「八柱神社」にあることです。
当時家康は浜松城にいて、息子の信康も二俣城に監禁されていました。築山殿の首は、誰に見せるために岡崎に運ばれたのでしょうか? 信長? それとも築山殿を憎んでいた岡崎の人たち? むしろ岡崎の人たちは築山殿を慕っていて有志の人たちによって奪われ葬られた?(その可能性はなさそう。岡崎の人たちの築山感情ってどんなものだろう?)

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名将言行録の徳川家康(その2)。

2008年02月24日 06時34分31秒 |   神君家康


強かったけど人望の無かった人。
あの活躍で人望が得られなかったというのは、つまり迫力が足りなかったということだろうか。

(20).織田信長は武田氏を滅亡させると、その残党をすべて殺すように命じた。家康はこれを残念に思い、信長に内緒で甲州の武士を多く遠州に引き入れて養った。これが後に三河譜代の者と同じように役立つこととなった。

(21).家康がむかし晴信と戦っていた頃、廣瀬郷左衛門景房が家康の陣近くまで馳せて来て、一直線に突っ込んできた。近くの者たちは「あれこそ武田でも有名な廣瀬郷左衛門、いい機会だ、鉄砲で撃ち取ってしまえ」と色めき立った。ところが家康がこれを聞き、「いや、あのような豪勇の士をむざと撃つものではない。もし甲州が滅んだら我が家中へ来る者なのだから」と言ってやめさせた。武田が滅亡したのち、果たして景房は徳川家へ加わった。

(22).武田が滅ぶと、家康はその遺臣を積極的に召し抱えるようになった。彼らに対して家康が言うには、「勝頼は信玄の子であったが、信玄にとっては敵の子であるようなものだった。私は信玄とは血縁は無いが、信玄の軍法を我が家の法とするつもりであるので、信玄の子であるも同然である。みなみな私を信玄の子と思い仕えてやってくだされ。私もあなた方を大事にしますから」。その後も、武田の衆と会うたびに信玄を褒め讃えるのだった。
家康は甲斐を領すると、勝頼父子の遺体を埋めた場所に寺を建立して景徳院と名付け、田地を寄進し、小宮山内膳友信の弟が僧だったのでそれを住持とした。また、信長が焼いた恵林寺も再建した。

(23).羽柴秀吉が主君の仇の明智光秀を討ち武名を天下にとどろかせるようになると、秀吉は織田信雄に対し、主家として表だっては立てる態度を見せながら、密かに策を弄して信雄の配下の津川玄蕃ら3人の老臣を対立させた。信雄がこれを誅殺すると、秀吉が姦臣を信じて良臣を殺したことを咎めに尾張に兵を進めるという噂が立ったので、信雄はあわてて故・右府(=信長)に旧恩のある人々に助援を求めた。しかし皆秀吉の威勢を恐れて、誰一人味方をしない。信雄は再び家康に使いを送って言った。「どうか織田家との旧交を思い出し、我らの危機を救い給え。もう進退窮まって困っちゃってます」。家康は哀れに思い、「秀吉は今は勢いが凄いとは言っても、もとは松下加兵衛の奴隷であった。それを右府に取り立てられてあそこまでなったのだ。その恩を忘れ正しい主君の子を倒そうとするとは、恩に背き義に違うものである。また織田の旧臣たちが信雄を見捨て秀吉に靡くのにも呆れ果てる。我は右府が存命の頃堅く将来を言い交わした仲である。その子の窮困を見捨ててはおけない。お任せあれ、秀吉が来たらすぐに兵を連れてお味方に参る。私さえ味方となれば、秀吉がいくら大軍だろうが恐れることはない。もうご心配なさるな」と返した。この言葉に信雄だけでなくその家子郎党まで奮い立った。

(24).長湫(ながくて)の戦いのとき、池田信輝が犬山城を攻め取ったと聞いて家康は騎馬で急行したが、信輝はすでにそこを去りただ各所に放火された跡が残っていただけだった。付近の里の里長を呼んで聞くと、今朝方に信輝父子が2、3万の兵で来襲して火を放って回り、すぐに引き上げたという。まもなく織田信雄も来て、「少し遅かった、信輝を討ち取るいい機会だったのに」と残念がって言った。しかし家康は言った。「信輝が犬山城を攻めたというところに注意だ。ここはそもそも彼の旧領である。多分付近の農民は信輝と内通していて、里長は嘘を言っていると思う。大体2、3万の兵というのがおかしい。急に攻める時、せいぜい多くても5、6千騎で、普通は4、5千騎でもやっとだ。これは我々を騙す策だと思う。一般人に敵に味方をされると忍びによって付近の動静がつつぬけにされて大変不便だ。この際、こちらも犬山と小牧周辺の庄屋の家族を人質に取って、敵と郷民との内応を断とう」。信雄が大いに感心してその通りにすると、信輝は打つ手を失った。

(25).この戦いで、織田と徳川の連合軍が二重堀に攻め寄せようとしたので、秀吉軍がざわめきたった。使者が秀吉に報告に行くとそのとき彼は碁を打っていたが、「二重堀が打ち破られたら我らも兵を出そう。その時にまた教えよ」と言ってそのまま碁を打ち続けた。家康の本陣にも前線から使者が行ったが、「敵が後詰めに出てきた所を攻撃する。敵が出てこなければ戦うな」と命じた。結局両軍が出なかったので日中になって双方引き上げた。のちに筑紫の陣の時、家康の前で秀吉はこの時のことを取り上げた。家康が「皆が攻めかかろうと言いましたが、私は小牧へ十分引きつけてから撃ちまくろうと思ったのです。だからこちらからは出なかったのです」と言うと、秀吉は手を叩いて感嘆し、「わしも二重堀が破れたところで小松から大軍を繰り出し、揉み潰して必ず勝つつもりでおったよ」と言った。まことに双方が名将だと互いに勝ち所を存分に考え尽くすからこそ、期せずして両陣の行動がかちあってしまったのだと、森右近太夫忠政はのちに人に語ったという。

(26).秀吉は家康に打ち破られたことを聞き、すぐに軍勢を差し向けたが家康はすでに小幡城へ入ってしまっていた。秀吉は非常に残念がった。その夜は竜泉寺に陣を張ったが、そこへ秀次と堀秀政が来て昼の合戦の様子を説明した。秀吉は聞きながら「勝入武蔵守(=戦死した森長可)がわしの言うことを聞かずに敵を侮ったからしくじったのだ」と怒りだし、夜明けに小幡城の家康を囲んで仕返しすることに決めた。朝になって物見を出すと、すでに夜の間に家康は本多忠勝を殿にして小牧まで移動してしまったという。これを聞いて秀吉は「なんと花も実もある大将だろうか。トリモチでも網でも取れぬ家康だ。わしも家康を相手にしていたらだいぶ戦さが巧くなってしまったわい」と笑って、軍を楽田まで引き上げた。

(27).秀吉は諸将に向かい、「長湫の家康の働きを見るに、あれほどの大将は日本には他にいない。今回は勝ちは譲ってやるかもしれないが、海道一の家康を近いうちに長袴姿で上洛させるようにするから見とけ」と言った。家康も城に帰ると、「秀吉のような大将は今は唐土にもおらぬだろう」と誉めたという。

(28).小田原の役の直前、家康は老臣たちを集めて聞いた。「長湫の一戦のとき、夜に竜泉寺の河原に陣を張っている秀吉の軍を、皆が夜討ちしようと言ったのにわしは無視して小牧の陣所に帰ってしまった。お前たちはあのとき攻めていれば勝ったと思うか?」。本多忠勝は「井伊と榊原はともかく、私は小牧で留守をしていて秀吉に逢えなかったので、ぜひ夜軍をしてみたく思いました。しかし秀吉を仕留められたかどうかは分かりません」と答えた。直政・康正も同様に言った。家康は「そうだな。夜戦さをすれば必ず勝ったと思う。しかしわしは、もし秀吉を討ち漏らしたらと考えたのだ。秀吉は天下一統の志を掲げて長湫の兵10万、それに対する我らは信雄の兵を合わせても3万だった。その数の差で戦うのも名誉なことなのに、昼の一戦で勝った。それで十分だ。この上夜討ちにも勝って、しかし秀吉を漏らしなどすれば、秀吉は大変怒り狂い、天下などよりも徳川をまず潰せと言い出すだろう。そういう心入れの人だからこそ秀吉はこの度北条を押し倒し、さらに奥州まで手にいれ、天下一統の功を立てようと考えることのできる心懸けの人なのだ」と言った。皆感服した。

(29).高井助次郎はもとは今川の臣だった。この戦役で皆が手柄功名を挙げたのに、助次郎一人だけが何の機会も得ることができず、家康の所に来て「面目ないです」と言って泣いた。家康はそれに対し「その方が面目無いと思う気持ちはとても良く分かる。しかしその方のことは手柄と逢った者よりも秘蔵に思っているぞ。お前は古い主君(=今川氏真)のことを今でも何でもわしに詳しく知らせてくれる。そのような者は今の世の中他に少ない。それは首をどれほど獲るよりも殊勝なことだ」と言ったので、助次郎はそれによって面目を施し、皆も高井助次郎のことを「志の深い者」と言うようになった。

(30).蟹江の戦いのとき、家康は滝川一益が蟹江城の近くにいると聞いてすぐに出馬した。この時、執筆(=命令書担当)の尊通は各陣への触れ状に「可出馬由(=出馬すべし)」と書いた。家康はこの文面を見て咎めた。「こういうときはたった一文字でも人は惑うものだ。「可」(=してもよい)などというのんきな字では皆ぐすぐずする。「出馬する者也(=出馬すること)」と決定的に書け」と命じて、そのまま井伊直政と成瀬正成とたった3騎で駆けていってしまった。

(31).家康は、敵の加勢が船でどんどん入ってくるのを見て、「構わん。いくらでも入れさせろ」と言った。酒井忠次が来て「なぜ敵の増援をお止めにならないのか」と聞いた。家康は「お前はどう思う?」と尋ねた。忠次は「もともとあの城は堅城であるのに、さらに守備兵が入ったら益々攻めにくくなってしまうと思うのですが、どうしてですか?」と聞いた。家康は「ふふふ、大将ははかりごとは言わぬ。今はおしえてやんなーい」と言って忠次にいじわるをした。その後、船を追い払って城の糧道を絶つと、兵糧が尽きて包囲戦に兵は疲れ、とうとう前田與十郎を斬って降伏を願い出、城は落ちた。

(32).家康が長湫で大捷を得たので、「また近いうちに秀吉が大合戦を考えるに違いない」と人々は噂し、徳川の家臣もすべてその覚悟を固めていた。そんな折りに老臣の石川伯耆守数正が出奔して秀吉に走った。家中は驚いた。数正は酒井忠次と並んで常に先陣をつとめ、武功に勝れた徳川家の第一人者だった。それが敵方へ降参したとなるとこちらの軍立てはことごとく敵に知られてしまう。このままもし秀吉と戦うことになったら勝つことは六ヶ敷(むつかしい)。しかしそんな家臣の焦りとはうらはらに、家康は全然気にしているようには見えず、むしろ一段と機嫌が良くなった。皆はなぜかと不思議がったが、まもなく甲斐の郡代・鳥井元忠に命じて集めさせた信玄時代の軍法の書き付け・武器・兵具が浜松へ送られてきた。新しい軍奉行に成瀬吉右衛門正一・岡部次郎右衛門正綱が任命され、その二人の元締めとして井伊直政・榊原康正・本多忠勝の三人が陣立てを吟味することとなった。さらに直政に預けられた武田衆に「信玄時代の事をなんでも詳しく教えてくれ」と言って、やがて徳川家の軍法を完全に信玄流にしてしまった。霜月上旬、正式にその旨を下々にまで触れた。

…信玄大好きですね。
(28)の後半と(29)の意味がよく分らないので、適当に潤色しちゃいましたが、それでもよく分かりません。


ある意味浜松での最強の敵・築山殿。

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家康と信玄。

2008年02月23日 00時14分00秒 |   神君家康


<「敵にうなぎパイを送る」の故事>
敵からいろいろなものを贈られる信玄。

気を抜くと、家康をかっこよく描きたくなってしまう自分に困ってしまいます。
このブログは家康を褒め称えるブログですが、決してカッコ良くは描かないことに決めましたんだよーだ。
このぐらいの寸詰まりがちょうどいいでしょう。(偉人に対して失礼なワタシ)
浜松時代の頃のの家康は、かっこ悪くてなんぼです。
若い頃にかっこよくなくて、家康はいつか格好良かったんだって話ですが。志木沢氏の『結城秀康』を読んでると決意がグラグラ揺るぎそうになりますが。

えーーと、頭についているのはなんなのかといいますと、これは「元帥像」です。
家康が「唐(カラ)の頭(かしら)」をかぶっていたと仮定して、「唐の頭」→「ヤクの毛」→「ヤク」→「薬(ヤク)」→「戦場で役に立ちそうな仁丹」→「森下製薬」、ということで。征露丸のラッパかメンソレータムのナースかヒOポンの注射器にしようかとも思ったんですけど、「腹下し・毒消し」が一番戦場で役に立ちそうだと思ったんですもん。…えーーーと、…分かりましたよ描きますよそのうち全部のバージョン。

それにしても私の描く家康はまだ不自然感が漂いますね。早く手になじむといいんですけど。努めていっぱい数を撃ちまーす。

年表を書いていて思ったこと。

武田信玄ってスゴイですね。
武田信玄って武将は、個人的にはあんまり好きな戦国武将じゃないんですが。
信玄が兵を連れて遠州に侵入してくるたびに、その都度周辺がメチャクチャになる。見事なものです。三方ヶ原の西上戦以外は、信玄はそれほど本気を入れているように見えないのにな。信玄が本気を出したところを見てみたかったです。三方ヶ原を最後に、死んでしまったことが惜しい。……はっ、私いま何てことをっ。
家康はその度に必死な形相をして、でもすべてが後手にまわっていたような気がします。

恐るべきことは、信玄が相手にしていたのは遠州の家康だけじゃなかったんですよね。
さすがに順繰りに片付けていますが、川中島で上杉謙信、上州と伊豆で北条氏政。このブログで伊豆のことを書いていたときも、「信玄ってこえー」って書いていた気がしますよ。さらに次には織田信長まで相手する気になってアレですからね。すげー、ほんとにすげー。

しかしながら、後になってからの視点でのみ言えることですが、このときの激戦は家康にとってもいい経験になっています。信玄は四方を相手にしなければいけませんが、家康は信玄だけに対処すればいいので、長ーい時間をかけてじっくり信玄流を研究することができたのです。戦うたびに負けましたが、家康は自分が運がとてもいいことを知りましたし、「律儀者」という評価も手にすることができましたし、逃げることも上手になりましたし(笑)、「若気の至り」な「無謀な作戦」も幾たびか試してみることができました。
何かの本で、「鈍重な家康が初めて天下のことを考えたのは、秀吉に会ってその晩年以降だ」と書いてあるのを読んで、「何てことを言う失敬な奴だ」と思ったことがありましたが、でも冷静に見てみればその通りです。信玄に攻められていたころは薄氷を踏むような毎日でしたからね、そんな夢想をしているヒマは無かったでしょう。でも一方で、信玄に間近に接することで若い家康が感ずることは、多大なものでもあったはずです。後年、家康が「自分は信玄の息子」と言っていたのもうなづけます。

で、信玄没して勝頼や秀吉を相手にするようになった頃、かつて信玄相手には負けたことしかなかった自分が、信玄とその亡霊相手以外には決して負けなくなっていたことに気づいたのでした。

どっとはらい。

 

 

ついでながら、家康の年表を書いていてもうひとつ気づいたこと。
苦難の人生です。
6歳のときに初めて人質になっていらい、信長と共に武田氏を滅ぼす41歳まで苦難の連続。…しかし、よくよく見ると、家康は12月26日生まれです。この年表では「数え」で年齢を書いてあるので、つまり家康は誕生した5日後に「2歳」になっている。
今の年齢でイメージさせるには、-2歳してちょうどなんですよね。
「6歳」になってればもう物心がありますから「大変なことになった」ということがかすかに分かったかと思いますが、4歳9か月ではほんとに何もわかんなかったんでは? 苦難のイメージが倍増。
そして本能寺の変では39歳。今の私とおんなじぐらいじゃん(笑)
エラいな家康は。

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