私がもっとも気にするのは、北条早雲がどのようにして伊豆半島を攻め、どのようにして伊豆全体を手中に収めていっのたか、ということなのですが、一応、いろんな本を読んで北条早雲の伊豆征服の過程を年表にしてみました。ただ、いろいろ食い違う資料が多いらしくて、ここに挙げた年表通り早雲が動いたとしたら、とても忙しくいろいろと駆けずり回らなければならなかったことになってしまいます。でもまぁ、「全部ほんとう」としていろいろと妄想することも楽しいことで。
◎1483年(文明15年) 、「都鄙和睦」 (関東管領・両上杉氏と古河公方・足利成氏が和睦)に早雲が一枚噛む? 都鄙和睦によって、堀越公方・政知は苦境に立った。
◎1487年(文明19)、政知の二男・清晃が上京する。
◎1487年(長享1)、伊勢新九郎(早雲)、興国寺城の主となる。山内上杉と扇谷上杉との間に抗争勃発(~1489)
◎1488年(延徳1)、新九郎、足利政知より韮山城を与えられる?(@北条五代記)
◎1489年(延徳1)、衰退していた修禅寺を再興させる。(←ホントにこの年かなぁ?)
◎1491年(延徳3)、4月3日、堀越公方・足利政知死去。(病死?殺害?二説あり)。
5月、早雲は京都に行く。7月1日、政知の長子・茶々丸が継母・円満院と継弟・潤童子を殺害して鎌倉公方を僭称。伊豆守護・山内上杉顕定は茶々丸の行動を黙認。
8月、早雲が駿河に帰る。
早雲に属する(南伊豆の)朝比奈六郎が下田から南海探検に出発し、八丈島を発見。早雲はこのニュースを喜び、朝比奈に下田の地を与えた(@北条五代記、八丈実記)
☆この年、北条早雲が伊豆に攻め込む。(@鎌倉大日記、北条五代記)
◎1491~93年の間に、伊勢新九郎出家し「早雲庵宗瑞」と名乗る。
◎1493年(明応2)、正月、早雲が三島大社に参拝し、変な夢を見る。
「明応2年の政変」。細川政元が清晃を擁し足利10代将軍・義稙を廃位。 足利政知の息子・清晃が11代将軍として即位し、義澄と名乗る。義澄の後援は、細川政元・正親町三条実望・伊勢貞宗(と今川氏親?)
☆この年、北条早雲が伊豆に攻め込む。(@妙法寺記)
早雲、河津の蔭山勘解由を攻め、河津城山下から火を放ち、山を丸焼けにする。
◎1494年(明応3)、小田原城主・大森氏頼死去。藤頼が跡を継ぐ。7月、扇谷上杉定正かせ相模の各地で一斉に山内上杉を攻める。早雲、今川氏親の命で遠江を攻める。
◎1495年(明応4)、御所(足利茶々丸)、伊豆諸島へ逃れる。(@常在寺衆年代記)
2月、東伊豆の伊東伊賀入道が早雲の狩野道一攻めに助力。
早雲、奇策を用いて小田原城を奪取。(@北条記)
足利茶々丸、戦勝祈願のため富士山へ登る。(@常在寺衆年代記) 茶々丸はそのまま甲斐まで旅行して、守護・武田信縄に助勢を仰いだ。
松崎雲見の高橋氏が早雲に帰属。
7月、早雲の弟・弥次郎が、足柄で扇谷上杉と三浦道寸と共同で山内上杉を駆逐。(北条勢が大森氏と一緒に行動していたという記述がある @越佐資料)←まだ小田原を攻めていない?
8月、早雲、兵を率いて甲斐に侵攻。結果、武田信縄と和睦する。
◎1496年(明応5)、大見三人衆が早雲に帰属。4~12月、狩野城の狩野道一が激しく柏久保城を攻める。7月、小田原城が山内上杉顕定に攻められ、この城にいた早雲の弟の弥次郎が死亡。(ただし、弥次郎は少なくとも翌年12月まで生存していたとする資料もあり、真偽不明) 12月以前、天城湯ヶ島で“柿木合戦”(?)(雲見の高橋氏に早雲の感状)
◎1497年(明応6)、8月13~25日の間、北条早雲が伊豆諸島を襲撃。(それまで伊豆諸島は上杉氏の管轄だったが、このときは三浦水軍は北条方に付いた)(@八丈嶋年代記)
8月25日、「明応の大地震」。駿河、伊豆地方の海岸部壊滅。
8月28~29日、極めて強い台風襲来。
8月、茶々丸が自害する(@普賢寺王代記)
9月、古河公方・足利成氏、没。
◎1498年(明応7)、八丈島紛争(三浦vs奥山vs早雲)決着し、早雲が代官として長戸路七郎右衛門を派遣。
◎1499年(明応8)、後南朝の最後の皇胤・小倉宮が伊豆に流れ着き、三島にやってくるが、早雲は文句を言ってから、相模に放り出した。(@妙法寺記)
◎1500年(明応9)、早雲、韮山城内に熊野権現を勧請。
◎1504年(永正1)、北条早雲・今川氏親・扇谷上杉定正と山内上杉顕定が立河原で決戦。
問題となる点は「早雲が一体何年に伊豆攻め入りをしたのか」ということで、それには「延徳3年」と「明応2年」の2説がある。それから、明応7年の出来事(地震と大津波と台風)についてどう説明するのか、それも問題です。
それ以上に私が一番知りたいのは、早雲がどのルートを通って堀越御所に押し寄せたかということ。
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