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太平記に出てくる畠山国清(その2)。

2006年09月12日 00時31分02秒 | 伊豆の歴史


≪畠山国清、道誓入道(想像図)≫

順不同にいきまーーす。
まずは畠山国清の末路から。これって本当に残酷な物語だなぁ。

 

これまでのあらすじのよてい(これから充実させます)
34-2.畠山道誓、上洛のこと
35-1.新将軍の帰洛のこと、付けたり仁木義長を討つこと
36-7.頓宮こころがわりの事、付けたり畠山道誓の事
37-8.畠山入道道誓謀叛の事、付けたり楊国忠が事

 

(太平記巻第三十八−5)
 畠山兄弟、修禅寺の城にたてこもる事、付けたり遊佐入道の事

(※原文はコチラからお借りしています)

筑後でまた宮方(=懐良親王征西府)が蜂起したが、東国はしばらく静かになっていた。
去年(康安元年、正平16年、1361)から畠山入道道誓(=畠山国清)とその弟尾張守義深(よしふか)は伊豆の修禅寺に立て籠もり、東国の八ヵ国の軍勢と戦っていたが、兵粮が尽きたのに落ち延びる先も無かったので、皆、城中で討死にをする決意をしていた。
左馬頭殿(鎌倉公方足利基氏)は道誓に使者を送り、先非を悔いて子孫を思うのならば、首をさしのべて降参してくるようにと言った。(道誓は基氏が投降を許すつもりがあるという言い方を)誠かと信じ、自分は禅僧となるので弟の尾張守を伊豆国の守護職にして欲しいと求め、それを認める御教書が得られたので、9月10日に降参をした。道誓は伊豆の府(=三島政庁?)まで行き、まず弟の尾張守を、鎌倉左馬頭(足利基氏)の陣していた箱根へ参らせた。
(道誓はすっかり万事無事に片づいた気分で)旧好ある者を招いて、万死を経てふたたび関東殿に見参できるとはなんと嬉しいことだろう、と酒を勧めまくったので、近ごろ道誓に敵対する態度を見せていた者どもも、いつしか媚びへつらって、ことばを尽くし礼を厚くして、しきりに追従してくるようになった。道誓の門の前には鞍を置いた馬がさかんに往来し、座上に酒肴が並ばぬこともなくなった。しかし、3、4日経った9月18日の夜、稲生平次がひそかに道誓のもとに来て囁いた。「降参すれば罪を免ずるという鎌倉殿の言葉は、もともと殿をだしぬくために言ったことで、明日、討手が殿を討ちに参るでしょう。そういえば豊島因幡守の勢が突然移動し、道を塞ぐ形で陣を張っているようにも見えます。今夜のうちに急いでどこか落ちた方が良いと思われます」。道誓は弟の式部大輔(義煕)にそっとめくばせし、ちょっとだけ外に出る風を装って、中間一人に太刀を持たせ、兄弟二人で徒歩で藤沢の道場(清浄光寺)まで逃げていった。そこの上人が甲斐がいしく馬を二疋、時衆二人をつけてくれた。そこから夜昼関係なく、馬に鞭をあてて京を目指したが、そのことを知る人はまったくいなかった。
弟の尾張守義深は箱根の陣にいたが、翌日の夜にある時衆の者がそのことを告げに来たので驚き、自分もどこにか落ちようかと思ったが、東西南北がみな道が塞っていて、どちらの方角にも抜けられなかったので、結城中務大輔の陣屋に行って、保護してくれと申し出た。彼を隠す事は難しかったが、弓矢取る身としての人に頼られて守れなくてどうするかと思って、長唐櫃の底に穴をあけて空気を通せるようにし、その中に彼を臥させて、数十個も重ねた鎧唐櫃の中に紛れ入れ、わざと鎌倉殿の御馬の近くに置いて、やがて隙を見て尾張守を夜の闇にまぎれて、藤沢の道場へと送った。
命は惜しむべきものである。この人(=義深)はのちに幕府の赦しを得て越前の守護に任ぜられた。彼は国を平和に統治し、土民も安らかに暮らせたので、鰐は淵からいなくなり蝗(いなご)は国境から出て行った。(…←国がとても平和になったってことかな?)。

遊佐入道性阿(ゆさにゅうどうせいあ)は主人(道誓)が館からいなくなったことを知ったが、しばらく人をあざむき主をどこかへ落ち延びさせる間を作るため、少しも騒ぐ様子を見せず、碁や双六で遊び十服茶などを呑みながら、変わりなく笑ったり遊んだりしていたので、郎従も客人もまさかそんな大事が起こっているとは気付かなかった。しかしやがて隠し切れなくなり、畠山兄弟が落ちたという噂は広まった。
討手が向かってくると聞き、遊佐入道は禅僧の衣を着て一人で京を目指して落ちていった。なんとか湯本まで来たが、行き合う人々に口の脇に付いている疵を見られたら気付かれてしまうと思い、袖で口を覆って歩いていたため、逆に過ぎ行く人たちがあやしみ始め、(あるむこうみずのものが)むりやり彼の帽子を脱がせて袖を払いのけてみると、口の脇の疵があらわになった。もう逃げられぬと観念した彼は宿屋の中門に走り上がってみずから喉ぶえを掻き切り、返す刀で腹を切って、袈裟を引きかぶって死んでしまった。

江戸修理亮は竜口(たつのくち)で生捕られて斬られた。その他、隠れたり落ちて行く郎従は60人ほどいたが、ある者は探し出されて斬られ、ある者は追腹をみずから切った。それは目も当てられぬありさまだった。
畠山入道の兄弟はなんとか京の七条の道場(金光寺)へ夜半に辿り着くことができたが、そこの聖は彼を2,3日いたわって養生させてから、案内者を数人つけ、金や食糧をたくさん持たせて南朝へ送った。道誓はしばらく宇知郡の在家に身を寄せ、「楠(正儀)に降参の綸旨をいただけるように頼みたい」という使いを送ったが、過去に彼と激しく戦い合ったことのある楠正儀は彼を受け入れず、やがて、宇知郡にも隠れていられなくなった。都へ行くにもどこかへ帰ろうにも、どうしようもなくなった。そうして、南都(奈良)の山城脇辺の付近で、禅院や律院を頼り、さらに山賎(やまがつ)の柴の庵、さらにはやがて袂の露も拭う夜を越す宿もなくなって、道路に着物を拡げて寝るしかなくなってしまった。朝三暮四の様子で食糧をやりくりしながら貧窮するさまは、聞くにもすさまじく、見るも無惨な有様になった。
まもなく兄弟共にはかなく哀れになった(=のたれ死んだ)
人間の栄耀は風の前の塵であると白居易が詩で詠み、富貴は草頭の露であると杜甫が言ったのも理のあることである。彼らは去々年の春は、30万騎の大軍勢の大将として、南朝と華々しく戦ったものであった。徳の風が遠くで扇がれても、靡かぬ草木も無いというのに、三年を過たずして、生き恥をさらし敵陣の前までさまよい行くしかなかったということは、まったくただごととは思われぬことである。
かつて畠山入道に討たれた新田左兵衛佐義興が、怨霊となって吉野の御廟に出てきたときに「畠山を義興の手に懸けて、軍門に恥を曝してやるぞ」と奏し申したということを、前に夢に見た人があるという噂が流れたのも、誤ったことではなかったと思った者も多くいたのだった。
 
 

 

・・・・ちょっと疑問に思う事があるんですけど、畠山入道が「京に逃げる」と決意したときに、最初は三島にいたはずなんですが、まず相模の国の藤沢に向かい、それから京に行っている。それから遊佐入道も、三島から箱根湯本を通って京に向かっている。これはヘンですよね。この時代の「京」とは、三島よりも東にある「鎌倉の都」だったんですかいね?(まさかね) それか、「伊豆の府」が熱海(伊豆山)あたりにあると想定されているのなら、納得がつきます。・・・・ただ、包囲網の裏をかくためにそうしただけなのかもしれませんけど。

それから、畠山国清は時宗を信仰していたのですか? 時宗の人たちは(なんとなく)情報に長じていて結束力が固そう。でも伊豆は昔から伊豆山を中心にして真言宗系の修験道が盛んであり、西海岸では大瀬を中心とした熊野信仰、南海岸には日蓮宗の蠢動、それから北伊豆は太平記で一世を風靡したエロ宗教・真言立川流の聖地だったんですよね。この時代の宗教間ネットワークには格別のパワーがあったばずなので、伊豆守護である国清が時宗徒であったことにも、伊豆の歴史的に何かの意味があったはずなのです。


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