当時20代前半だった私は、今でも鮮明に覚えています。
1991年12月25日、世界に衝撃が走りました。
69年続いた共産主義の超大国、ソビエト連邦共和国が消滅したのです。
ソビエト連邦(以下ソ連)は、表向きは、「共産主義」という理念で結びついた国家群でしたが、その実態は、共産党の独裁による軍事恐怖政治を、周辺諸国に押し付けていました。
日本ではあまり語られることがないのですが、共産主義の本質は「無神論」です。
無神論・唯物論を基軸とした経済思想が、共産主義の本質そのものです。
かつては、東ヨーロッパから中国・ベトナムに至るまでの、世界の約半分の世界が、このような状況下にあり、共産主義国体制は今、中華人民共和国と北朝鮮残すのみとなっています。
長年に渡り、銃と暴力と血の粛清という「恐怖」で人々を支配していたソ連でしたが、東西に分断していたドイツのベルリンの壁が崩れたり、ソ連の崩壊の瞬間は、実にあっけなく、そして平和裏に行われ、そしてその後も、平和な文明社会が継続されたのが意外でした。
今日ご紹介するLibety webの記事の、「世界規模での無血革命の背景には、宗教的な思想があった。」というのは、私もビックリですけれども、同時に「なるほどぉ。」と唸りました。
日本の明治維新革命の背景には、吉田松陰先生の思想がありましたし、ソ連崩壊には、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の信仰の思想があったのなら、「無血革命を導く思想」というものがあるということですよね。
そう言えば、ヨハネ・パウロ2世は、当時共産主義国だったポーランド出身の教皇でした。
ヨハネ・パウロ2世がポーランド出身でなければ、ソ連崩壊の無血革命はなかったかもですね。
共産主義体制に、最初に反旗を翻したのは、ソ連と東ドイツという大国に挟まれた弱小国ポーランドの労働者たちでした。
これからも、歴史は繰り返すのでしょうか?
さて今その、思想による無血革命を世界規模で導いているのが、大川隆法幸福の科学グループ総裁。
1990年代には北朝鮮のミサイルへの警戒を訴えると共に、北朝鮮には無血開城を勧めつつ、国際的な包囲網への戦略を同時展開してきたのは、古い信者の多くが知る事実です。
そして今後は、「最後の共産主義国、中華人民共和国の民主化」という、今を生きる誰もが、「そんなの無理じゃわぁ!」と言うであろう歴史の難問に、世界は挑戦していくこととなるでしょうね。
それは同時に、前世界規模での「人類共通の価値」とも言える「思想」を広げ、なおかつ定着させていくことと、セットでなければ不可能なことです。
「恐怖」に打ち勝つのは、「信じること」です。
否、「信じること以外で、打ち勝つことは不可能」なのです。
ともあれ本日は、Libety web記事2本立てでご紹介します。
Libety webの論客、長華子の「革命の根底に、”思想”あり」という、キレッキレの近代歴史論説をどうぞ!
(ばく)
“地獄”ではなく“天国”に還ろう (大川隆法著『あなたの知らない地獄の話。』発刊記念 スペシャル・アーカイブ)
【特報】映画『宇宙の法ー黎明編ー』
劉暁波とポーランド革命をつなぐもの
2018.07.18 https://the-liberty.com/article.php?item_id=14666
写真:giulio napolitano / Shutterstock.com
《本記事のポイント》
- ポーランドの民主化革命の中心人物ヨハネ・パウロ2世が語る自由とは?
- 教皇の1979年のポーランド訪問がもたらした2つのもの
- 人々の心に教会を建てた教皇
ノーベル平和賞を受賞した劉暁波氏の1周忌を前にして、中国政府は、妻・劉霞氏を解放しました。中国の共産党機関紙、人民日報系の環球時報は、欧米諸国は劉霞氏が「人権闘志」となるよう迫ってはならないと釘を刺しています。
劉暁波氏が昨年7月13日に肝臓がんで亡くなった後、その遺体は「家族の希望」により、人々が死を悼む間もなく火葬され、遺灰も海にまかれたことになっています。このため、人々は劉氏に哀悼の意をささげる際、海に向かって祈るようになりました。
なぜ巨大な軍や警察組織を持つ中国政府が、何の権力もない、それも既に亡くなっている劉氏の痕跡を消すことに躍起になっているのでしょうか。それは、「思想による革命」が、時に武力をも超える力を持つことを歴史が示しているからです。
冷戦を終わらせ、ソ連を崩壊させた要因は様々にありますが、最も大きなものの一つは、東欧における相次ぐ民主化革命です。その発火点となったのが1989年に起きたポーランド革命です。そして、その仕掛け人とも言える人物が、第264代ローマ教皇であるヨハネ・パウロ2世でした。
革命の中心人物となったヨハネ・パウロ2世の思想とは
ポーランド革命の灯は、1979年の教皇のポーランド巡錫によって点火されたのです。
ヨハネ・パウロ2世は、1920年にポーランドに生を受けます。本名はカロル・ヴォイティワ。青年期を過ごした母国ポーランドはナチスに占領されます。
ナチス占領下のポーランドでは、約半数の神父が強制収容所に送られ、5人に1人が殺害されるほどの宗教弾圧が行われています。有名なアウシュビッツもポーランドにあり、ドイツ国内より多くのユダヤ人が虐殺されました。
このナチスの支配下を生き延びた経験から、ヴォイティワ氏は「ポーランドの解放はキリストの門(信仰)のみにある」と確信し、1942年に聖職を召命として受け入れ、神学校に入学します。
その後ポーランドは、第二次大戦中のヤルタ会談によってソ連に割譲され、共産圏に入ります。親ソ政権下でも宗教弾圧は続き、現代の中国と同様に、教会から十字架が撤去され、教会・修道院も爆破されるなど、信仰心を根絶やしにする試みが行われました。
2つの全体主義の経験を通して、ヴォイティワ氏の良心の自由・信教の自由についての考えは形づくられていきます。
そしてヴォイティワ氏は1978年、教皇に選出されます。イタリア以外から教皇が選ばれるのは、実に455年ぶりで、「鉄のカーテン」の向こう側からの選出は大いに話題になりました。
教皇に就任する前の1976年、ヴォイティワ氏は、こう述べています。
「人間の飢えとは、本物の自由への飢えに他なりません」
「それは人間の本質的な特徴であり、人間の尊厳の源にあるものです」
それゆえ、「すべての人間が神の賜物であり、機械のようにあつかわれてはならない」という信念を持っていました。
また、信仰は人間にとって最も高貴な表現だと信じていました。「自分たちが誰であるか」を教えてくれるのが信仰であり、信教の自由がなければ、人は、自分が誰であるかをついぞ知ることができないからです。
1979年6月のポーランド訪問がもたらしたもの
(1) ポーランド国民が「神は我の側にある」と気づいた
ヴォイティワ、改めヨハネ・パウロ2世は1979年6月、母国ポーランドを訪問。数百万の人々が公開ミサの演説を聞くために集まりました。全9日間で、人口の約3分の1にあたる1200万の人々が教皇を直接目にしたといいます。
この凱旋訪問を警戒し、6万7千人の警察と2万人の秘密警察が巡錫を監視しました。コード・ネームは、サマー1979年。
しかし、彼らの監視は無力でした。
Let your Spirit descend.
Let your Spirit descend
and renew the face of the earth,
the face of this land.
Amen.
「聖霊のもたらせんことを。
聖霊がもたらされんことを。
この地を新たにしてください」
教皇がこう説教すると、人々は「私たちは神を欲しています(We want God)」という3語のシンプルな祈りを唱え始め、その声が広場を埋め尽くしました。
イギリスの歴史家のティモシー・ガートン・アッシュ氏は、この時の様子をこう伝えています。
「テレビ報道の検閲を行う監査官を除いて、9日間にわたり、ポーランドは実質上、存在をやめていた。誰もが、ポーランドは共産主義の国ではなく、共産党が支配する国家にすぎないと知ったのである」
要するに、ポーランド国民は、共産党に支配されているだけで、自分たちは共産主義者であったことは一度もなかったと"我に返った"のです。
ポーランド革命の中心となった労働組合「連帯」のリーダーも、当時を回想し、こう述べています。
「この日、私たちは強くなり、神に守られ安全であると感じました」
「神は自分たちの側にいる」という感覚が、ポーランドの人々に与えられた巡錫となりました。
(2) 信仰心が知識人と労働者を一つにした
ポーランドにおける1970年代の反乱は、労働者階級と知識人階級とが分裂して鎮圧されています。しかしヨハネ・パウロ2世の巡錫はこの分断を統合しました。
1980年8月ポーランドのグダニスク造船所における労働者のストライキをきっかけに、カトリック教会を基盤とした労働組合「連帯」(ソリダルノスチ)が結成されました。
ヨハネ・パウロ2世の研究に詳しい政治評論家のジョージ・ウァイジェル氏は、「人間は、自由のために創られたのだ」という確信が2つの階級を統合し、国家から完全に独立した自主管理組合の設立につながったと述べています。
現代史家は、「連帯」は単に労働者の運動だとみなしがちです。しかし、レーニン造船所のストの参加者は、教皇の肖像をかかげ、毎日礼拝に参加していました。讃美歌と抵抗歌とを一緒に歌っていたのです。連帯が合法的であった16カ月間に1000万人がストやデモに参加しています。
そして彼らは、「私たちは、(教育や政治など)生活のあらゆる面で神を欲している!」と叫ぶようになっていきました。
実は、ヨハネ・パウロ2世は、教皇に就任する前に、ノバフタの町に、10年かけて教会を建てるというプロジェクトを主導しています。教皇就任後、ポーランドを始めとして、東欧の人々の心に教会を建てることに成功しました。
これが東欧革命、ひいてはソ連の崩壊につながったのです。
歴史家のティモシー・ガートン・アッシュ氏は、「ポーランド出身の教皇がいなかったら1980年代のポーランド独立自主管理労働組合連帯の革命はなかっただろう。彼らがいなければ、ゴルバチョフの東ヨーロッパ政策に劇的な変化は見られなかっただろうし、そのような変化がなければ、1989年のビロード革命(チェコスロバキアで共産主義を倒した民主化革命)もなかっただろう」と述べています。
こうした革命の波と前後して、1977年チェコで、民主活動家によって、「77憲章」が起草されました。劉暁波氏が、信教、言論、結社、集会の自由、私有財産の保護などを謳った「08憲章」は、まさにそれが基になっています。
武力を持たぬ思想家が革命につながる──。その可能性が今、中国にも存在するのです。
(長華子)
「思想によって現実を変えられる」 あるローマ教皇の思想戦
2018.07.31 https://the-liberty.com/article.php?item_id=14726
RPBaiao / Shutterstock.com
《本記事のポイント》
- ヨハネ・パウロ2世は「思想でソ連を倒せる」と信じていた
- 信仰が共産主義を倒す武器になる
- 「思想の力」はスターリンの理解を超えていた
思想の力は、時に、軍事力や政治力を凌ぐ──。
その代表的な例として、7月18日付本欄「劉暁波とポーランド革命をつなぐもの」では、ローマ教皇であったヨハネ・パウロ2世の巡錫が東欧革命、ひいてはソ連の崩壊につながったという歴史を紹介しました( https://the-liberty.com/article.php?item_id=14666 )。
本欄では、なぜ教皇は「思想」で歴史を変えることができたのか、その理由を探っていきます。
ソ連の計画を変更させたヨハネ・パウロ2世
最も大きなことは何よりも、教皇自身が「思想によって現実を変えられる」と信じていたことがあるでしょう。
ヨハネ・パウロ2世は、どの教皇とも違っているところがありました。バチカンの外交は国務長官まかせにするのが通例ですが、ヨハネ・パウロ2世は外交に直接コミットしました。「空飛ぶ聖座」と言われるほどで、訪問した国は100カ国を超えています。
さらにヨハネ・パウロ2世は、共産主義へのスタンスにおいても従来の教皇と大きく異なっています。
それまでバチカンは、「共産主義と民主主義との分裂は今後も永続する」という諦めの前提の下で、その中で宣教活動を維持するには、共産主義国家・ソ連と協調路線を取るしかないと考えていました。
確かに、当時、第2次世界大戦後の世界秩序であるヤルタ体制が崩壊すると考えていた人は、世界でもほとんどいませんでした。それは今、北朝鮮や中国が民主化すると信じている人がほとんどいないのと同様。ソ連と共存するには、妥協するしかないという考えが大勢を占めていたのです。
しかし教皇はその立場に就く以前から、「共産主義政府は約束を守ると考えるのはナイーブな発想で、敵の監獄に入るだけだ」と考えていました。譲歩をするのではなく、敵の計画を変更させる側に立ったのです。
その行為は、「英米とドイツとで世界を二分しよう」というヒトラーの提案に対して、「ノー」を突き付けた政治家・チャーチル英首相の行為に匹敵すると言えるでしょう。ヨハネ・パウロ2世の「アイデアリズム(理想主義)」が民主化に向かって歴史を加速させました。
西洋文明を護る気概
一個師団も持たない教皇が歴史を変えた2番目の理由は、敵を攻撃するという作戦よりも、「カトリックの価値を護る」ことが、抵抗の武器になると知っていたことです。
政治評論家のジョージ・ウァイジェル氏は、こう述べています。
「1979年6月の訪問の9日間に、教皇は『あなたがたの文化の中心にあるものは、カトリックです。もしあなたがたが、そのアイデンティティを取り戻したら、あなたがたは抵抗のための道具を見つけるでしょう。全体主義は、あなたがたの信仰に抗うことはできません』。そういうメッセージを送ったのです。それこそが現実に起きたことです」
キリスト教的なアイデンティティとは何でしょうか。それは「人間は神の子」であり、「人間は、自由のために創られた」という人間観です。
なぜ、キリスト教において自由が重視されたのでしょうか。
かつて、自由と愛との関係について、教皇はこう説いたことがあります。
「最も偉大な戒律は、愛であり、愛とは自由が最大限行使されるときに現れるものです」「自由とは、人々を愛するために、そして真に善いことを愛するために、人に与えられたものなのです」
自由が政府ではなく神から与えられたものならば、その自由を人々から奪う共産主義体制は、許されるものではありません。こうした考えを人々が再確認することで、革命が起きたのです。
実は、ヨハネ・パウロ2世の意図をもっともよく理解しているのは、トランプ米大統領です。昨年7月にポーランドのワルシャワを訪問した際のスピーチで、トランプ氏はこう述べています。
「私たちの時代における根本的な問いは、西洋が生き延びる意志を持っているか、いかなる犠牲を払っても、我々の価値を守るという自信があるのか、敵が私たちの文明を転覆し、破壊しようとするときに、私たちは、自分たちの文明を守るという強い意志と勇気を持っているかということです」
「決定的に重要なこうした価値について、もし忘れてしまうような人がいたとしたら、彼らはポーランドを訪問すべきです」
習近平やスターリンの理解を超えた「思想による革命」
「バチカンだって? 教皇が何個師団持っているっていうんだい?」
これは、1945年2月のヤルタ会談で、チャーチル首相がポーランドの共産化に関連してカトリック教会の影響力について触れた後の、スターリンの言葉です。
現時点からこの言葉を振り返ると、スターリンは、思想の持つ力を正しく見積もることができなかったと言えるでしょう。ヨハネ・パウロ2世の巡錫から10年後の1989年に、誰も予測しなかった「東欧の無血革命」が起きたのですから。
現在中国では、共産党員を超える1億以上のキリスト教徒が存在し、共産党員の85%が信仰心を持っているという調査結果もあります(パデュー大学の楊鳳崗教授による)。あのゴルバチョフ大統領も、スターリン像の壁画の後ろに聖母マリアの肖像画を隠していたのですから、隠れキリシタンの共産党員も多く存在することでしょう。
冷戦当時、アメリカとの軍拡競争で、ソ連経済が弱体化するのをきっかけに、ローマ教皇とカトリックを母体とする「連帯」が勢力を拡大しました。
現在もアメリカは、昨年末の国家安全保障戦略において、中国を明確に戦略的な競争相手と位置づけ、中国の経済的覇権を止める方向で動いています。中国経済が減速すれば、ポーランドで活動家が台頭した時と同様の動きも国内で出てくる可能性があります。
国防強化や経済成長を目指すかどうかの議論も、根っこにあるものは、自由・民主・信仰といった西洋文明の価値観を守り通す気概があるかという問題です。また同時に、現代の鉄のカーテンの向こう側で囚われている人たちへの慈悲心や、神に対する責任といった感覚を持つかどうかの問題でもあります。
愛とは自由が最大限行使されるときに現れるもの──。自由文明を享受する私たちは、まず、その自由を最大限行使したときに現れる愛の実践をすべきではないでしょうか。その流れの中では、故・劉暁波氏の妻、劉霞氏などの民主活動家を支援し、「劉暁波の死を無駄にしてはならない」という国際世論を盛り上げる活動は重要になってくるでしょう。
人々の心の中に教会を建て、神への愛と自由の尊さを訴え続けたヨハネ・パウロ2世の遺産から現代の私たちが学ぶべき教訓は数多くあります。
(長華子)
を見ました。
二十歳になるかどうかの時
長崎球場に現れた、
雪が降っていた、、足が凍えた
パーパは防弾スクリン有る車の上で
このポーズをして居た・・・
長崎カトリックの婆ちゃんに連れられて
彼を見た、
当時、ゴルバチョフさん
レーガンさん
中曽根さん
が頑張っていた・・・
この同窓会的霊言が・・・聴きたい。
中国には一億人以上の
隠れキリシタンが居るとのこと・・・
私わリアル隠れキリシタン
世界遺産の本籍地の人間です。
私わ今、幸福の科学を応援する
が、、
パウロⅡ、レーガン、中曽根、
他の同窓会的
霊言を聴きたい・・・
彼らが居なかったら・・・
日本・・・消滅してたんでしょ??
世界遺産に成ったのね。。
江夏さんは今何も言わんケドも・・
「信仰」を守ったと
「神様に永遠の命を捧げたと」
雲仙地獄で
沸騰する硫黄の池に先生・・・
「私わ、エルカンターレオールマイティーGODDOを、、信じる!!」
「天の天使、イエスキリストを信じる」
「酌量子天使を信じる」
って
死んで行ったんですよ・・・
長崎佐世保、世界遺産になったがですか!
それは知らんかった。
勉強不足でした。すみません。
私も、デーグーさんの後に続き、エルカンターレオールマイティーGODDOを信じます!