飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

学校参観1

2005年10月28日 22時23分00秒 | 授業論
ある学校の研修会に出かけた。
研修テーマは、主体的な活動と表現力の育成だった。
単学級の学校規模で、こぢんまりとしているなあと言うのが第一印象だった。
算数の授業を参観した。
内容は、教科書を扱わず、トピック的な教材を単発で扱うものだった。

よく研究会で見かける内容である。
ここでひとつ疑問である。
なぜ、単元の一場面を見せずに練習問題的な課題を選択するのだろう。
それはその授業の前後の進度や指導内容が問われることが少ないからなのか。
もっと教材と真摯に向き合うべきだと思う。
ふだんの授業の中で子どもたちがどのように鍛えられ、どのような力がついているのか。
また、その力をつかってどの程度の討論ができるのか。
子どもの事実によって示すべきである。
それが教師の良心であると思う。

授業展開自体は、問題解決学習であるため、一般的に言う「練り上げ」と称する場面がメインとなる。
しかし、その内容は練り上げとはほど遠いものだった。
クラスの中で発言する児童は4名程度。
習熟度でなないため、能力の差が大きい普通学級である。
残りの子たちは授業中一言も話をしなかった。
指示された計算はノートに行うものの、自分の考えやひらめきを書く場面ではほとんどお手上げ状態である。
使っているノートもまちまちで統一されていないのも気になった。
教師が次々とヒントを出し、それに能力の高い子だけが反応していた。

TTで授業が行われていたが、子どもたち同士のやりとりはほとんどは教師を介して行われ、活発な意見発表とはいえない内容だった。
多くの参観者の前での発表になれていない普通の公立学校の子どもたちであったので、ちょっと可哀想だが、これまでの教師の鍛え方や育て方がほとんど見えてこない授業だった。
展開的にはかろうじて優秀な子が、教師の意図する答えを最後に導き出すことができたが、その説明がわかっているのはクラスの半分もいないだろう。

研修に対するコンセプトはよくわかるが、具体的な手だてが明確でないので、子どもたちが育ってこないのである。

全員を分からせるという教育実習生でも学ぶべき授業の基本を考えると、多くの疑問が残る授業であった。

SCENE112(saitani)
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