飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

自分は授業ではやらないこと

2024年09月20日 05時34分37秒 | 授業論
学級の中には学習ルールというものが存在する。
これは授業を効率的に進めて行く上で必要なことだ。
もし、まったくルールがないとすると、基本的なマナーは守ることを前提として、ひとつひとつの教育的行為に関して趣旨説明をする必要がある。
初見の学級の飛び込み授業の場合は止む得ないことだが、年間通して授業をする担任なら、効率性を求めることは当然のことだ。


ある先生の話を伺っていて私も全く同感だったことがある。
1つ目、子供が発表をしたあとに「いいです」と全員に答えさせること。
誰かの発言に対して、賛成なのか反対なのかの意思表示をすることはある。
しかし、その場合は、通常教師が「今の意見に反対の人はいますか?」と問う。
そして、反対意見のある子供は挙手をして意思表示をする。
また、場合によっては、誰かが意見を述べたあと、「賛成意見のある人は、続けて発表します。」と言って、意見を続けさせることが普通だろう。
みんなが声を合わせて「いいです」と言ったあとに、「自分は、ちょっと違うのに」と言える子はそうはいない。
個を大切にすると教師は言うが、このことが方針と事実が整合しているか点検して見る必要がある。

2つ目は、ハンドサイン。
意見はパー、付け足しはチョキ、反対はグーというように決めていることが多い。
効率性を求めるならいいのかもしれないが違和感をもつ。
このハンドサインは、小学校の教室以外では見たことがない。
ただし、三択で1か2か3というような場合には、人の意見によって自分の意見を変えないように、一斉に指で出させる場合はある。

3つ目は、過剰な子どもたちの反応。
もちろん自然な形で子どもたちが、「そうなんだ。」「へー。」「そうだね。」と口に出すことはある。
しかし、過剰に頷いたり、「そういう考えもあるね。」「うんうん。」という相槌を強制的させることは必要ないと考えている。

4つ目は、待たせること。
空白禁止の原則を意識していれば、子どもたちが何をしていいかわからない状態は極力つくらないようにする。
さらにその待っている時に、手を椅子の後ろで組ませたり、頭の上の挙げさせたりする姿をみることがある。
それも自分の感覚すると違和感をもつ。
させている教師は、効果的だと思ってやっていると思うが、もし、自分が何かの研修会に参加した時に、同じように指示させたら素直に従うのだろうか。
一般的にやらないことは教室でも避けたほうがいい。
さすがに、最近は教室の中で色帽子を被らせたり、ホイッスルをふく先生はいなくなった。

五つ目は、発表の時に、その度に椅子をしまわせる行為。
とくに低学年に多いが、挙手する、指名される、椅子をひく、立ち上がる、発表する、腰掛ける、椅子をひくという一連の動作をする。
このとき、いちいち椅子はしまう必要があるのかということ。
椅子を引いたら、そのまま発表して、腰掛けれればいい。
音の少なくなるし、効率的になる。
変な間もあかなくなる。
自分の場合はたくさん発表させたり、連続で発表させるときにはあえて「椅子をひいたままにしておきなさい」という指示もする。

教室は密室だと言われる。
隣の教室でどんな授業や教育活動が行われているのかは意外と知らない。
場合によっては、隣の学級が学級崩壊が始まっていても、そうとう酷くなるまで気が付かない。
だから、つねに授業公開が必要なのだ。
自分が当たり前とおもってやっている教育的行為も非常識であったり、子どもたちの可能性を邪魔している行為であったりする。
自戒も念もこめて、今一度点検してみることが必要だ。

satani


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