三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

デジタル時代の疲労感

2007年12月08日 08時06分59秒 | こちら発行人です

ある温泉街で古い写真に出会った。
セピア色に彩られた写真で、昭和の初期ころなんだろうか、
その温泉街の佇まいが写し取られている。
ふしぎに味があって、目から離れられなくなった。

って、べつにこの写真に既視体験のようなものを感ずる、
とかいうわけではありません。
デジカメとかが一般的になって、
大量の画像データが日々、飛び交って情報の総量は
昔と比べると驚異的に増えてきているのだけれど、
昔のこういう写真表現の陰影感には
言葉にできにくい奥行きを感じざるを得ません。
まだ、舗装もされていない道路の質感が
思い起こされたり、並木道は人の歩くスピードで
やすらぎをもたらせてくれていたんだ、とか、
その木陰で待ちざまにしている人影にも、
時間がゆったりと流れている感覚がある。

ようするに、時間の感覚が現代はあまりにも急ぎすぎ。
デジタル時代になって、それが極限まで加速している気がします。
わたしの仕事はDTPで雑誌を造っていく仕事なので、
仕事はすべてパソコン上のデータとして扱う。
確かに便利だし、これがなければ仕事にはならないのだけれど、
たとえば最近の「迷惑メール」の増加ぶりはすごいですね。
IT関係の人に聞いたら、いまや飛び交っているメールのうち、
9割近くは迷惑メールなんだそうです。
しかし、一方で役所関係なんかも届け出が
メールで可能になったりする流れは強まっていく。
こんなのでいいのだろうか、破綻しないのか?
たぶん、みなさん、メールについてはフィルタリングを使っているでしょうが、
それを突破する方法も、この手の手合いは一生懸命やるだろうし。
まぁ、いたちごっこ。

この写真のような牧歌的な時代に戻れるわけもないけれど、
どうも、ルネッサンスのように、人間性の復権とかが今後あるとすれば、
デジタル機器に対する人間社会のルールが決まることなのかも知れませんね。
そして、無法に対する的確な処罰が可能になる必要もある。
そのようなことが起こらなければ、
現代人の疲労感は、なかなかレベル低下することはないのではないでしょうか。
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